カテゴリー「学問・資格」の9件の記事

2015年10月 9日 (金)

ノーベル賞、ダイナマイト発明の遺産を基に、ノーベルの遺言により、人類の福祉に最も貢献した人々に授与するため、1896年(明治29年)設けられた国際的な賞(6部門)、とは(2015.10.9)

 ノーベル賞は、ダイナマイトの発明などの遺産を基に、ノーベルの遺言により、人類の福祉に最も具体的に貢献した人々に授与(confer the greatest benefit to mankind)するため1896年(明治29年)設けられた、国際的な賞(6部門)です。

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○ ノーベル財団(スウェーデン): http://nobelprize.org/

  今年(2015年)のノーベル賞は、日本人では、自然科学の部門で、医学生理学賞大村智、北里大特別栄誉教授に、物理学賞梶田隆章、東京大学宇宙線研究所長らに決まりました。大村さんは医薬品イベルメクチンの開発で、梶田さんは素粒子ニュートリノの質量の発見で、人類に貢献しました。

 大村さんは、微生物の代謝物から寄生虫病に効く医薬品、イベルメクチンを米製薬大手メルクと共同開発し、無償提供で、アフリカや中南米で主要な原因となっていた河川盲目症という寄生虫病の治療と予防に年3億人が飲み、年4万人もの失明を防いでいます。

〇 大村さん(ノーベル財団、受賞通知、インタビュー) 

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Satoshi Omura     Humbly Accept It

〇 http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/2015/omura-interview.html

 また、梶田さんは、大気中からまんべんなく降り注いでいるニュートリノが、地球を通り抜けて足元から来るものは、頭上から来るものより少ないことを、スーパーカミオカンデでのニュートリノ振動の観測データから確かめ、それは、ニュートリノに質量があるからこそ起きる現象であることを発見し、質量ゼロを前提にしていた物理学の常識を覆(くつがえ)しました。

〇 梶田さん(ノーベル財団、受賞通知、インタビュー

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Takaaki Kajita    Kind of Unbelievable

〇 http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2015/kajita-interview.html

○ ノーベル

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A. B. Nobel (1833~1896、 google画像)

(解説) アルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel、1833~1896)は、スウェーデンの化学技術者です。ストックホルム生れ、ペテルブルグで教育を受け、爆薬・魚雷を製造していた父の家業を助けました。ノーベルは発明狂だった父がロシアで機雷の製造に成功し、それを手伝うことになって、火薬に興味を持ちました。

 のち米国で機械工学を学び、1866年(慶応2年)ダイナマイトを、次いで無煙火薬を発明しました。 世界各地に爆薬工場を経営し、1886年(明治19年)ノーベル・ダイナマイト・トラストを創立し、40才にして世界的な企業家になりました。

 ダイナマイトは、ニトログリセリン等の液状硝酸エステル(主剤)を6%以上含有する爆破薬です。1866年ノーベルが鋭敏なニトログリセリンをケイ藻土に吸収させて安全に使用できるようにしたケイ藻土ダイナマイト)に始まります。次いでノーベルは、ケイ藻土の代わりにニトロセルロースを用いてゲル化することを発見しました。その後、ニトログリセリンゲルに可燃物、酸化剤等を適当な割合に混合したものを使用しています。  

 この間、2人の兄とともにバクー油田の開発にも成功し、ノーベル家はヨーロッパ最大級の富豪となりました。ノーベルの遺志によりスウエーデン王立科学アカデミーに寄附された遺産を基金としてノーベル賞設立されました。

 基金168万ポンドで、毎年その利息をもって物理学、化学、生理・医学、文学、平和5部門に最も功績のあった人々に贈ります。  1901年(明治34年)第1回の授賞が行われ、1969年(昭和44年)経済学賞新設、以後毎年、ノーベル財団が、国籍、人種、宗教を問わず授与してきました。  

 受賞者の選定には、物理学賞、化学賞、経済学賞はスウェーデン王立科学アカデミー、生理・医学賞はストックホルムのカロリン医学研究所、文学賞はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルーウェー国会が選んだ5人委員会などが当たっています。受賞式は毎年12月10日(ノーベルの忌日)で、受賞者にはノーベルの遺産の利子による賞金(経済学賞はスウェーデン銀行の創設した基金による)、金メダル、賞状が贈られます。 

 私は、金沢大学理学部(化学科)に在職中、過去に2回(1995年度、2001年度)ほど、ノーベル財団からの依頼で、ノーベル化学賞の候補者を推薦したことがあります。その時の選考基準は、化学の分野における新しい発見(discovery)及び新しい分野への改良、発展など(improvemennt)が重要なポイントであったと記憶しています。 

(参考資料) 

〇 文学賞(世界、日本)にまつわる歴史実話、ノーベル賞(文学賞含む6部門、アルフレッド・ノーベル創設)、菊池寛(文芸春秋社長)が創設した芥川賞(芥川龍之介)、直木賞(直木三十五)、とは(2011.9.1): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/203.html 

〇 ペダーセン博士(日系2世、韓・日・米、数奇な運命)、クラウンエーテルの発見、1987年度ノーベル化学賞、特定の物質を取り込む化合物の発見、ホストーゲストの化学、超分子の化学、とは(2013.5.24): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-045f.html

 

 

2014年5月17日 (土)

昔の庶民の教育機関、平安時代、空海が設立した綜芸種智院、江戸時代、第八代将軍・徳川吉宗が奨励した寺子屋、寺子屋を中心とする庶民教育の発展が、明治の初等教育の重要な基盤となりました、とは(2014.5.17)

 昔の庶民の教育機関として、平安時代綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)、また、鎌倉・室町時代の僧侶(そうりょ)による寺院教育を起源とする、江戸時代寺子屋(てらごや)などがよく知られています。

 日本では、庶民の教育水準は、昔から、それなりに高かったと言われています。そこで、日本の庶民の教育水準を高めた起源と思われる、これらの教育機関について、改めて調べてみました。

○ 綜芸種智院 

 綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、828年(天長5年)、空海(774~835)が京都に開設した私立学校です。 綜芸(しゅげい)は、三教(顕教・密教および儒教)、種智(しゅち)は、菩提心(ぼだいしん、密教で、悟りの根源的な心)をいう。

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空海弘法大師、774~835、真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

 この学校は、空海が、身分上、大学・国学に入れなかった庶民の子弟のため、京都九条の藤原三守(785~840、公卿)の旧宅を買い受けて建てた、わが国最初の普通教育機関です。 そこでは、人々に仏教と儒教を教授しました。また、内外典も講じましたが、空海の死後まもなく廃校となりました。

○ 寺子屋

 寺子屋(てらこや、寺小屋とも)は、江戸時代から明治初年の学制公布までに設けられた、庶民の子弟のための初級教育機関です。

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徳川吉宗(徳川記念財団蔵、1684~1751、Google画像) 

徳川吉宗(とくがわよしむね、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

(解説) 江戸時代の庶民の教育機関は寺子屋でした。都市と農村の商品経済の発展によって、庶民の間に学問に対する要求が高まったことにもよりますが、こうした社会の動きを敏感にとらえた第八代将軍徳川吉宗(1684~1751)の功績も大きいという。

 吉宗は、庶民教化のために学問の奨励を行ない、そのために寺小屋は、急速に普及しました。寺子屋は、おもに、庶民の子弟を収容しましたが、武家の子弟向きのものもありました。その起源は、鎌倉・室町時代の寺院教育です。

 教室は、寺院や神社、民間などの一室を借り、教師は武士・僧侶・神官・医師などが当たりました。生徒も10~13人程度の小規模なものでした。

 教育内容は、手習いを通して、読み・書き・習字などを教えるものが多く、のちには算術(そろばん)も加えた基礎的なものでした。その後、寺小屋の普及にともなって、地理・歴史・教訓書などの教科書も多数出版されるようになりました。

 寺子屋の教師は、ほとんどが男でしたが、まれに女の先生もいました。また、女生徒も少なくなく、女子教育も行われていました。

 幕末の頃になると、寺子屋の数が急速に増加し、明治初年までの開設数は15000ほどになりました。庶民教育が庶民の手でなされるようになり、日常生活と生産活動に結びつくものとなりました。

 というわけで、寺子屋を中心とする庶民教育の発展が、明治の初等教育の重要な基盤となりました明治初期に生まれた人たちに、文字の読み書きの出来る人が多いのも、この寺子屋の伝統があったことに由来する、と考えられます。 

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、p.197 寺子屋の歴史、三宝出版(1994). 

(参考資料) 空海(弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html

 

2013年7月17日 (水)

数と科学のストーリー(桜井進)、素数の数とエラトステネスの篩、クレジット暗号番号への応用、円周率πの数とアルキメデスの円周率の求め方、惑星探査機「はやぶさ」にプログラムされた円周率は16桁、とは(2013.7.17)

 最近、サイエンスナビゲーター、桜井進(1964~)さんによる、素数の数と円周率πの数の探査に関する興味ある記事が、数と科学のストーリーとして、朝日新聞に紹介されていました。そこで、その記事について、改めて勉強させていただき、説明を加えました。

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桜井進(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E9%80%B2

○ 素数の数の探査

 素数とは、1およびその数自身のほかに約数を持たない正の整数のことです。普通は、1を除いた、100以下の素数は、2、3、5、7、11、13、15、17、19、23、29、31、37、41、43、47、53、59、61、67、71、73、79、83、89、97など、計25個あります。 

  紀元前200年頃、ギリシャの数学者、エラトステネス( 紀元前275年~ 紀元前194年)が、「エラトステネスの篩(ふるい)」を考案して素数を発見し、素数は無限にあることを証明しました。

 エラトステネスの篩(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%AF%A9

(解説) 自然数を1、2、3、4、5、・・・と並べ、1を消し、素数2を残してその倍数4,6,8、10・・・を消し、次の素数3を残してその倍数9,12、15・・・を消します。こうして素数pの倍数を消したとき、pの次の素数がqなら、qの2乗より小さい数で残ったものはすべて素数となります。

 2013年(平成25年)1月25日、約1700万桁というその時点で最大の素数がアメリカで確認されたそうですが、素数が大きくなるにつれ、素数の出現はまばらになる性質があり、巨大な数ほど探査は困難になるという。

 現在、RSA(桁数が大きい素数を掛け合わせてつくった合成素数)暗号が、ネットショッピングにおけるクレジット暗号番号として、送信に利用されています。

○ 円周率πの数の探査

 円周率πとは、円周の長さとその直径との比、または円の面積と半径の平方との比のことです。近似値3.14159で、ギリシャ文字π(ぱい)で表します。円周の長さとその直径との比を数で表そうとすると、小数点以下は無限に数が続くことになります。

○ アルキメデスの円周率の求め方(pdf、数泉編集部):http://www.chikyo.co.jp/maths/pdf/free02.pdf. 

(解説) 2000年前、古代ギリシャのアルキメデスは、直径1の円周の長さをうまく求める、「円の内側に接する多角形の周りの長さを計算する」方法を考え出しました。すなわち、アルキメデスは、正6角形から12角形、24角形・・・・と倍々に角数を増やし、正96角形まで考え、円周率が薬3.14であることを突き止めました。

 2011年(平成23年)、日本人が円周率を小数点以下10兆桁まで計算した記録を打ち立てましたが、10兆目の数は5だったそうです。

 惑星探査機はやぶさ」にプログラムされた円周率は、「3.141592653589793」という、16桁の円周率でした。3億キロ宇宙の旅から帰還するために使う円周率の桁数を、JAXAは、3.14だけでは、15万キロも軌道に誤差が出るので、16桁にしたそうです。

 その他、指輪製作工房では3.14の3桁でしたが、砲丸工場では10桁陸上競技場の円周率は3.1416の5桁とルールブックに決められています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 朝日新聞: 桜井進の数と科学のストーリー、素数・円周率・・・数を探査しよう、2013年(平成25年)4月14日(日)朝刊; 朝日新聞: 桜井進の数と科学のストーリー、円周率 アルキメデスはこう考えた、2013年(平成25年)4月28日(日)朝刊.

2013年5月24日 (金)

ペダーセン博士(日系2世、韓・日・米、数奇な運命)、クラウンエーテルの発見、1987年度ノーベル化学賞、特定の物質を取り込む化合物の発見、ホストーゲストの化学、超分子の化学、とは(2013.5.24)

  1987年(昭和62年)、C.J.ペダーセン(アメリカ)、D.J.クラム(アメリカ)、J.M.レーン(フランス)は、特定の物質だけを選択的に取り込む酵素などの生体物質を模倣(もほう)した大環状化合物の発見と合成ノーベル化学賞を受賞しました。

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C.J.ペダーセン(1904~1989、日系2世、韓・日・米、数奇な運命、大環状化合物クラウンエーテルの発見、83歳でノーベル化学賞受賞

(解説) C.J.ペダーセン(1904~1989)は、日系アメリカ人です。母親は北九州市八幡西区田町出身の安井タキノさんで、明治中ごろ、父親の事業失敗で家族と韓国(釜山)に渡りました。鉱山技師として米国系の会社で働いていたノルウェー人に見初められて結婚し、長男のペダーセンさんが生まれました。

 ペダーセンさんは8歳のころ、一人で両親のいる韓国を離れ、在日外国人の子らが学ぶ長崎、横浜の学校で計9年間学びましたが、成績は抜群でした。ペダーセンさんは18歳のとき単身渡米、デントン大(オハイオ州)やマサチューセッツ工科大(MIT、マサチューセッツ州)に留学、以後母と子の対面は一度もありませんでした。

 ペダーセンさんはMITで修士号を取得後、デュポン社(デラウェア州)に入社し、1962年(昭和37年)、デュポン研究所で、ビス[2-(o-ヒドロキシフェノン)エチル]エーテルの合成を目的として研究中、思いもかけない副生生物、大環状ポリエーテル、ジベンゾー18-クラウンー6(DB18C&)を発見しました。

クラウンエーテル(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB

 クラウン化合物命名は、それらの化学構造式の形と、それらがあたかも陽イオンに冠(かんむり)をかぶせるように錯体を形成することから名付けられたものです。

 クラウン化合物それらのアルカリ・アルカリ土類陽イオンとの錯形成の異常な性質についての学会での世界で初めての口頭発表は、1967年(昭和42年)9月15日、日本の日光での第10回国際配位化学会で行なわれました。

 そのとき暗闇の中でライトを浴びて行った演示実験において、ペダーセン博士は過マンガン酸カリウムクラウンエーテルを用いてベンゼンに溶解させ、参加者を驚きと感動に浸らせました。これはパープルベンゼンと呼ばれているものです。

パープルベンゼン(相間移動触媒、酸化反応、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%96%93%E7%A7%BB%E5%8B%95%E8%A7%A6%E5%AA%92

 その後、各国の化学者がこれらの化合物の特異性に注目し、さらに各種の有機合成、金属イオンの捕捉・分離、イオン選択性電極や分析への応用、光学異性体の分割、酵素モデルへのアプローチ、医・農薬への応用など極めて幅広い分野へと研究が展開され、実用に供されています。

 これらの功績が認められ、ペダーセン博士(デュポン社化学研究員)は1987年(昭和62年)に、光学活性クラウンエーテル研究を開拓したクラム博士(カリフォルニア大学、ロサンゼルス校教授)及び双環状クラウンエーテルであるクリプタンドの合成と諸性質の研究を展開したレーン博士(コレージュ・ド・フランス教授)と共に、ノーベル化学賞を受賞しました。

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超分子(ちょうぶんし、クラウンエーテルの分子トング、分子を変形させてトングの形を作る、朝日新聞、2013年(平成25年)2月11日(月)朝刊)

(解説) 弱い結合を利用して、特定の物質をつかんだり離したりする分子トングなど、人工的に操れる超分子が考案され、応用研究(自己修復性ゲル、ドラッグ・デリバーリー・システムなど)は、その後急速に広がりました。

 超分子は、分子同士が緩やかな力で組み合わさってできる、より大きく、複雑な構造をもつ分子集団のことで、変わった分子構造の、新しい性質を持ったさまざまな物質(オリンピアダン、ポリロタキサンの分子ネックレスなど)が開発されています。

 このように、クラウン化合物については、ホストーゲスト化学(酵素と基質、抗体と抗原、ホルモンや薬物とレセプター、生体膜でのイオンや分子の輸送のモデルの化学!)、

 また、超分子化学(分子間のゆるやかな結合相互作用によって結びつけられ、組織化され、個々の分子を超えた複雑な化学的・物理的・生物学的な性質をカバーする高度に学際的な科学分野!)と呼ばれる、原子と原子の共有結合に基礎をおいた分子化学の分子の概念を超えた化学、という大きな学問分野に発展しています。

(参考文献) 熊本日日新聞: ノーベル化学賞 ペダーセン博士、母親 安井タキノ 明治の女性、国際結婚の子、韓・日・米 数奇な運命 白血病 ペ博士、墓前報告もかなわず、 1987年(昭和62年)10月16日(金)朝刊; 本浄高治: 進歩総説、溶媒抽出ークラウンエーテルー、p.127~136、ぶんせき(1997); 朝日新聞: 科学、超分子化学の世界、分子+分子⁼夢素材、しなやかに変形 新たな性質へ期待、2013年(平成25年)2月11日(月)、朝刊.

(追加説明) ○ 放射性のセシウムを吸着除去するクラウン化合物の開発と実用への応用研究も行なわれています。水溶性セシウム高選択性吸着剤の開発. -新しい化学結合特性を利用したクラウンエーテルの分子設計-(日本原子力開発機構): http://jolisfukyu.tokai-sc.jaea.go.jp/fukyu/mirai/2012/1_15.html.

2011年12月22日 (木)

出島(でじま、長崎)、鎖国中のオランダ人居住地、幕府認可の唯一の貿易地、西洋文化流入の窓口、諸藩からの長崎留学(加賀藩、高峰譲吉)、はじめての化学書(舎密開宗)、とは(2011.12.22)

   出島(でじま)は、江戸時代、長崎のオランダ人居住地。最初はポルトガル人を置くために、1634年(寛永11年)、幕府が長崎の町人25名に出資させ、1636年(寛政13年)、長崎港内を埋め立てた約4000坪(3924坪余)の扇形人工島で、カピタン部屋通詞(つうじ)部屋などがありました。が、1639年(寛永16年)、キリシタン(布教)禁制により、ポルトガル人を追放し、1641年(寛永18年)、空屋となった出島に、平戸にいたオランダ人を移住させました。

 鎖国中の長崎のオランダ人居住地、出島

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出島(でじま、扇形人工島、オランダ商館(1636~1859)、長崎、google画像) (よみがえ)る出島、(長崎市、ホームページ): http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima/.

 1609年(慶長14年)、肥前平戸(長崎県北部)に置かれていたオランダ商館(オランダ東インド会社の日本商館)は、出島移転して、カピタン以下のオランダ人が生活し、毎年家賃銀55貫目を支払いました。役人を除き遊女以外の出入りは禁止され、オランダ人も無断で外に出ることは許されませんでした。

 以後、1855年(安政2年)の日蘭和親条約までオランダの対日貿易の一切を扱いました。オランダ商館(のちオランダ領事館)の館長は、甲比丹(カピタン)と呼び、在任期間は短く、1609年(慶長14年)~1856年(安政3年)の間に162代で2度以上再任した者もいました。オランダ風説書(ふうせつがき、海外のニュースなど、オランダ通詞翻訳したもの)を長崎奉行を通じて幕府差し出し、年1回江戸参府を行うなどを任務としました。1859年(安政6年)、オランダ商館閉鎖、1863年(文久3年)、長崎の外国人居留地に編入されました。

 出島は当時、小橋で長崎と連絡、鎖国中の幕府認可の唯一の貿易地であり、長崎は幕府の直轄地であり、鎖国中はオランダ、中国船が長崎に来港し、貿易が行われていました。江戸時代のはじめ、輸入していた主なものは、ベンガルやトンキン産の生糸輸出していた主な品はでした。江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆(うるし)製品などが輸出されていました。 

 また、ここ出島西洋文化流入の唯一の窓口でした。 オランダ通詞(つうじ)は、江戸時代、オランダとの交易などの交渉に当たったオランダ語を話す日本側役人のことです。数は幕末で140人程、旧家を含め30数家の世襲(せしゅう)ではじめは日常会話を主としたが、次第に語学力をつけ、辞書を解し、諸科学に通じたり、商館の医師から医術を学ぶ者も出てきました。

 そして、オランダ、中国船を通じて海外の文化、情報がいち早く伝来本木良永(もときりょうえい、1735~1794、オランダ通詞、蘭学者、長崎)、志紫忠雄(しづきただお、1760~1806、稽古通詞、蘭学者、長崎)、西川如見(にしかわじょけん、1648~1724、天文・地理学者、長崎)ら多数の学者が輩出し、日本の学術、文化の各分野で先駆的役割を果たしました。

○ 開国後の諸藩からの長崎留学(加賀藩、高峰譲吉) 

 1853年(嘉永6年)、アメリカ海軍軍人、ペリー(1794~1858)が軍艦4隻で浦賀に入港してから5年後の1858年(安政5年)、軍艦7隻で江戸湾の内海に再来、また諸外国も通商貿易を求めて相次いで来航、幕府は、アメリカ(米国)、オランダ(蘭国)、ロシア(露国)、イギリス(英国)、フランス(仏国)など、5ヵ国修好通商条約を締結し開国しました。そして、翌年、1854年(安政元年)、長崎下田(1854年、伊豆)、函館(1854年、北海道)と共に、のち横浜(1859年、神奈川)、神戸(1867年、兵庫)、新潟(1868年)等が開港され、外国との自由貿易時代へ突入しました。

 長崎では、外国の商人の住む家や活動拠点となる場所を確保するため、幕府は急いで埋め立てや造成をはじめ、東山手、南山手、大浦、小曽根、梅ヶ崎、新地、出島地区一帯に外国人居留地が形成されていきました。そして居留地が廃止され、外国人が日本中に雑居できるようになるまでの約40年間、長崎は新しい時代の自由貿易港として繁栄していきました。 グラバー園(英国商人グラバー居宅跡、南山手町、長崎): http://www.glover-garden.jp/shiru.html. 長崎・グラバー園周辺旅行(オランダ坂からグラバー園さるく(ぶらぶら歩く!)、クチコミガイド、英国商人オルト居宅含む):http://4travel.jp/domestic/area/kyushu/nagasaki/nagasaki/nagasakieki/travelogue/10470501/.

 開国後、諸藩は人材育成のため、西洋文化流入地の長崎留学を進めました。加賀藩第1回長崎留学生に選抜され、七尾を経て海路、長崎に赴いた人物に、高峰譲吉(1854~1922)がいます。

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高峰譲吉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89

 高峰譲吉(たかみねじょうきち、1854~1922)は、アドレナリン(牛の副腎から結晶として分離した副腎ホルモン)の発見、タカジアスターゼ(コウジ菌によってつくられる優れた消化酵素)を創製した化学者・企業家です。アドレナリンは血管収縮作用、止血作用をもち、また強心作用や喘息発作(ぜんそくほっさ)の治療効果など、人類に多くの恩恵をもたらしました。 譲吉は 高岡(富山)生まれで、2才のとき、加賀藩典医、高峰精一が住む金沢に移り、1862年(文久2年)9才で加賀の藩校明倫堂に入学、1865年(慶応元年)12才のとき、加賀藩より選抜され長崎に留学しています。

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長崎英語伝習所跡(ながさきえいごでんしゅうしょあと、幕末の英語通詞養成所、通詞や役人の子弟たちの英語教育を行いました、長崎、google画像) 英語伝習所(サンタクララ教会跡、のち立山奉行屋敷跡の一部に設立、県立美術館界隈、長崎): http://www.asahi-net.or.jp/~yj9m-nkmr/santa.htm.

(解説) 高峰譲吉が寄宿したのは、長崎在住の外国人家庭(ホームステイ!)、英国商人オルト(1840~1908)の居宅でした。 そこから宣教師フルベッキ(1830~1898,法学者、神学者、宣教師、オランダ)の洋学校(1858年(安政5年)長崎英語伝習所設立、のち英語所と改称、洋学校、語学所、済美館、広運館などと変遷し長崎英語学校となった、英語通詞養成学校)に通い英語を学びました。また、長崎では、西洋の文化、諸科学、医術などを見聞、その後の人生に大きな影響を受け、その後、京都、大阪と留学を重ね、高峰家代々続く医学ではなく、化学の道へ進む決心をしました。後半生30余年間のほとんどを米国で過ごした譲吉は常に「私は高岡で生まれ、金沢で育ち、七尾から長崎に出たから加越能三州わが故郷」と語っています。

高峰譲吉にみる日本人、金沢人(山野ゆきよしメルマガ、金沢):http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/e/eaaf38e60a628209b1d55b579c8cdd06.  高峰譲吉博士顕彰会(金沢市ホームページ): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/39019/contents/index.html.

 私は、1973年(昭和48年)11月、はじめて長崎を訪れ、市内の観光バスで英国商人、グラバー邸を見学、当時の西洋の生活水準の高さを実感、オペラ「蝶々婦人」を想い、また、ツアーの途中、色彩豊かな中国風の寺院が目につき、異国情緒に富む街との印象が強く残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 石川化学教育研究会編:科学風土記ー加賀・能登のサイエンスー、中本義章、p.180~181、高峰譲吉ータカジアスターゼの生みの親ー、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典、岩波書店(1999).

(参考資料) ○ 長崎の出島と外国人居留地、オランダと中国との貿易

長崎・出島(歴史と出会える御長崎、出島オランダ商館跡): http://isidatami.sakura.ne.jp/dezima_1.html.

長崎の外国人居留地と出島(幕末開港と長崎の古写真、長崎大学附属図書館): http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/kaso/chapt1.html.

長崎の外国人居留地(日本の古写真、1880年代、長崎):http://oldphotosjapan.com/ja/photos/380/gaigokujin_kyoryuchi.

長崎のおもしろい歴史(郷土史家、岩田祐作): http://www2.ocn.ne.jp/~oine/index.html.

長崎の中の中国散策(長崎新地中華街、長崎): http://www.nagasaki-chinatown.com/sansaku.html.

(追加説明) ○ 高峰譲吉(たかみねじょうきち、1854年(安政元年)~1922年(大正11年)、高岡、富山)は、加賀藩高岡町御馬出町(おんまだしまち)で、高峰精一・幸子の長子として生まれました。高峰家は代々医を業とし、譲吉出生の翌年、精一(28才)は加賀藩校・壯猶館(そうゆうかん)の館員に挙げられ、一家は金沢の安江町横町(やすえちょうよこちょう、現在武蔵町)に居を転じました。後に加賀藩典医ともなった精一とその家族の居宅は1872年(明治5年)までここにありました。そのことを示す「高峰譲吉博士住居跡」のパネルがスカイプラザビルの裏手の外壁に掲げられていますが、今その周辺は都市再開発で往時を偲ぶよすがもありません。譲吉は、1862年(文久2年)9才で加賀の藩校明倫堂に入学、1865年(慶応元年)12才のとき、加賀藩より選抜され長崎に留学しています。ーーー(中西孝、本浄高治: 高峰譲吉と桜井錠二の生い立ちの地めぐりー金沢年会の合間にどうぞー、日本化学会第51秋季年会プログラム、p.108~109(1985)より)

○ 長崎に遊学(留学とも、公費、自費)した人たち

 江戸時代、徳川幕府は鎖国政策を実施しましたが、例外として、オランダと中国に対し、日本で貿易することを許しました。ただし、中国との貿易は、中国が鎖国政策をとっていたため、中国の商人が貿易をするのを許すという変形的なものでした。 幕府は、貿易の窓口を長崎に限定したので、オランダや中国の文化や学問は長崎の窓口を通して日本全国へ伝えられました。キリスト教以外の書籍の輸入も認められましたが、書籍の知識に満足せず、蘭学・医学・兵学・本草学・科学・美術等の知識を習得するため、長崎へ赴く学究(遊学!)が跡を絶ちませんでした。

 平松勘治著「長崎遊学者事典」によれば、その数は1052人にのぼる。これらの遊学者たちは、長崎で習得した技術や知識を活かして自らの人生を切り開いて行きました。彼らの中には途中で挫折し、病に倒れる者もいましたが、全体的に見れば、彼らが日本の近代化を促進したと云っても過言ではありません。
長崎のおもしろい歴史郷土史家、岩田祐作): http://www2.ocn.ne.jp/~oine/yuugaku.html.より)

 四国から長崎に遊学した人物として、平賀源内(ひらがげんない、1728~1779、本草(薬物学)・物産家、戯作者、高松藩、香川)、青地林宗(あおちりんしゅう、1775~1883、蘭学者、医者、松山藩、愛媛)、美馬順三(みまじゅんぞう、1795~1825、蘭方医、シーボルトの鳴滝塾頭、阿波藩、德島)、高良斉(こうりょうさい、1799~1846、医者、蘭学者、シーボルト門弟、阿波藩、德島)、二宮敬作(にのみやけいさく、1804~1862、蘭学者、医者、シーボルト門弟、宇和島藩、愛媛)、長井長義(ながいながよし、1845~1929、薬学者、医学、化学を学び、のち薬学に進む、エフェドリン(喘息薬)発見、阿波藩、德島)らが活躍しています。(特集 科学風土記ー沖縄から北海道までー、本浄高治: 四国の偉人とサイエンス、化学教育、44巻1号、p.12~13(1996)より)

○ わが国最初の本格的な化学書舎密開宗(せいみかいそう)」は、ラボアジェの化学革命の報告書、Traite elementaire de Chemie(1789年)を骨格としたヘンリーの著書An Epitome of Chemistry(1801年)がもとになっています。これをトロムスドルフが注を加えてドイツ語訳し、さらにイペイがChemie voor Beginnende Liefhebbers(1803年)の題名でオランダ語訳したのを宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1846、日本)が日本語訳(1837~1847)したもので、原著出版から実に50年も後になっていました。

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宇田川榕菴(津山洋学資料館、岡山): http://www.tsuyama-yougaku.jp/udagawayouan.html

 宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1846)は、美濃大垣(岐阜)の藩医、江沢養樹の長男として江戸日本橋の呉服橋門外で生まれました。13才のとき宇田川榛斎(玄真)の養子となり、代々津山藩(岡山)江戸詰医師の名門、宇田川家の第3世を継ぎました。本草学、植物学を経て化学に入り、この分野における元祖となりました。 わが国最初の体系的化学書「舎密開宗」は代表的な翻訳大書で、内編18巻、外編3巻からなり、1837年(天保8年)から1847年(弘化4年)にかけて刊行されました。最終刊は津山藩(岡山)江戸鍛治橋邸での死去(1846年)後と推定されますが、医学、本草学、砲術などに大きな影響を及ぼしました。享年49才でしたが、徳川幕府の命による蘭書(オランダ書)の翻訳、著作に対するたゆまぬ努力は、等身大に積み上げられるほどの稿本からも想像できます。(伊佐、内田、関崎、本浄、増田、宮城共著:化学の目でみる物質の世界、p.6~7、化学の語源、内田老鶴圃(1995)より

○ 18世紀に西洋に生まれた物質を取り扱う新しい学問としての化学が日本に紹介されたのは、幕末の蘭学者、宇田川 榕菴により、1837年(天保8年)から刊行された「舎密開宗(せいみかいそう)」によってであった。舎密とはオランダ語の化学の意のchemieの音訳「せいみ」と読む。

 この書籍は、榕菴が少なくとも数十冊に及ぶ他の蘭書も参考にして化学の概念を理解し、多くの日本語の化学用語を造語(酸素、水素、窒素などの元素名、還元、吸着、結合、原料、試薬、常温、昇華、成分、測定、沈澱、醗酵、漂白、物性などの化学用語など)するなど、自らの見識も織りこんだ独自の系統的な化学入門書である。

 この日本の化学の出発点となった最重要な貴重な資料が、武田科学振興財団(大阪) 杏雨書屋に保管、所蔵されている。これら資料は、2010年(平成22年)に創設された日本化学会の化学遺産第1号として認定された。(芝哲夫: 認定化学遺産 第001号 杏雨書屋蔵 宇田川榕菴化学関係資料、化学と工業、63巻、7号、p.556~557(2010)、より) 杏雨書屋(武田科学振興財団、大阪): http://www.takeda-sci.or.jp/business/kyou.html. 化学遺産第1号杏雨書屋蔵 宇田川榕菴化学関係資料、日本化学会、東京): http://www.chemistry.or.jp/archives/isan001.html.

 また、化学という言葉を書名に使った日本初の本として、日本学士院(東京)」に所蔵されている、蘭学者、川本幸民(かわもとこうみん、1810~1871)が翻訳した「化学新書」も、2011年(平成23年)、日本化学会の化学遺産として認定されました。所蔵図書・資料(その他、川本幸民関係資料、日本学士院、東京):http://www.japan-acad.go.jp/japanese/about/material.html.

○ コメント 椿博雄(tsubaki_01@ray.ocn.ne.jp, 2012/03/31) : 長崎出島の坪数は長崎奉行高橋清相著崎陽群談によると3924坪。ここにメッセージがある。易の陰陽学からとり三千世界二十四節気九星は人の世の吉凶を表す。となる。陽は貿易の発展を願う末広。陰は尻すぼまりで伝染病(邪気)、阿片による治療法(邪法)をくいとめた。

Quarantineと欧州では言う。検疫居留地。その扇は貿易の発展を願う末広、伝染病(邪気)阿片による治療法(邪法)の進入を食い止めた。易の陰陽学から取った。長崎奉行高橋清相著崎陽群談によると3924坪とある。これは三千世界二十四節気九星は人の世の吉凶をあらわすとなる。

同上 (2012/04/03):  オランダ東イ出島インド株式会社の払ったお家賃は年銀55貫目。出島宿賃という。年一回カピタン江戸参府の折直接持参した。大奥お女中の豪華絢爛な着物のお金はここから出ていた。女性のご機嫌を取った利口なビジネスだった。

〇 ご教示ありがとうございました。 本浄高治

2011年9月 3日 (土)

木村栄(きむらひさし、天文学者、石川)、金沢ふるさと偉人館、極運動(地球の自転軸の変動)によらない緯度の変化(Z項)の発見、とは(2011.9.3)

   金沢ふるさと偉人館は、1993年(平成5年)に高峰譲吉(たかみねじょうきち、1854~1922、タカジアスターゼの創製、アドレナリンの発見、化学者、企業家、高岡(富山)生まれ)、三宅雪嶺(みやけせつれい、1860~1945、哲学者、評論家、金沢生まれ)、木村栄(きむらひさし、1870~1943、天文学者、Z項を発見、金沢生まれ)、藤岡作太郎(ふじおかさくたろう、1870~1910、国文学者、金沢生まれ)、鈴木大拙(すずきだいせつ、1870~1966、仏教学者、金沢生まれ)という5人の偉人を展示して開館しました。 

 現在は、金沢ゆかりの「近代日本を支えた偉人たち」として、さまざまな分野の国際的で国家的な業績をあげた人々を加え、20人の偉人の常設展示を行っています。金沢ふるさと偉人館(ホームページ、下本多町、金沢):http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/

 そこで、天文学において、Z項の発見で有名な、第1回文化勲章受章者、金沢ゆかりの偉人、木村栄(きむらひさし、1870~1943、天文学者、石川)について、改めて調べて見ました。

木村栄肖像写真

木村栄(きむらひさし、1870~1943,天文学者、金沢、石川、google画像) 木村栄(きむらひさし、金沢出身の天文学者、学者・医者、いわてゆかりの人々、みずさわ浪漫、奥州市、岩手): http://www.bing.com/images/search?q=%e6%9c%a8%e6%9d%91%e6%a0%84&view=detail&id=E8398FAE5E9BE91483010B25AE123D30468C9AEF&first=0&qpvt=%e6%9c%a8%e6%9d%91%e6%a0%84&FORM=IDFRIR

(解説) 木村栄(きむらひさし、1870~1943,天文学者、石川)は、金沢生まれ、東大星学科卒、理学博士(Z項論文)。国際共同緯度観測事業の一環として、1899年(明治32年)に新設された岩手県水沢の緯度観測所の所長を、1941年(昭和16年)まで42年間つとめました。 木村記念館(水沢、奥州市、岩手):http://www.iwatabi.net/morioka/ousyuu/kimura.html. 国立天文台水沢(Z項発見にまつわる動画): http://www.miz.nao.ac.jp/content/news/announce/20110805-182

 ところで、地球の緯度変化の大部分は、地球の自転軸の移動(地表で言えば極の移動)によって起こります。1889年(明治22年)、ドイツのキューストナーとアメリカのチャンドラーが、ほとんど同時に、それぞれ違った方法で、地球の自転軸が周期的に変動していることを証明しました。その動きは微小なもので、当時の天体観測器具ではとても実証できませんでした。

 そこで、世界の天文学会の大問題となり、同一緯度(北緯39度8分)に位置する6ヶ所、日本 、ソ連、イタリアでは1ヶ所、アメリカでは3ヶ所、同時に万国共同緯度観測をする事業が実施されました。が、世界の天文学者は緯度変化の理論値と観測値の誤差に大いに悩まされ、なかでも、木村栄の観測値が非常に精度(せいど)が悪いと指摘されました。

 その原因を調べた結果、1902年(明治35年)、木村は極運動(地球の自転軸の変動)に起因しない緯度変化(Z項)があることを発見しました。そして、1902年(明治35年)、緯度変化に関する、ポッダム共同観測所中央局の責任者、カール・アルブレント提出の緯度変化の計算式に、新しい項(Z項、木村項とも)を付加するすることを提唱し、世界的に認められました。 アルブレントは、観測データから地球の極の移動をはじき出すのに、X(エクス)とY(ワイ)の2つの未知数を使って方程式を作っていましが、木村はもう一つ、Z(ゼット)という未知数を方程式に加えなければならないことを指摘しました。

 木村は、Z項発見の時のことを次のように語っています。「何しろあの時は緯度観測といふ日本ではじめての国際事業を引き受けたものですから、私たちには大責任があるわけで、私もあれについては非常に心配しました。或る日、例によって、テニスをやって、そのまゝオフィスへ入ってテーブルの抽斗(ひきだし)をちょっと開けた。その瞬間にドイツの学界から来た書類が見えたのです。それをヒョッと見てゐると、すべての観測の平均の上に1年の週期のものがあるといふことがチラリと見つかった」(科学朝日、創刊第1号、1941年11月号、Z項とメートル法、より)

 ところで、地球の自転軸は、形状軸(南北軸)とは完全に一致せず、一定の周期で形状軸(南北軸)の周囲を移動します。その公式は Δφ = X cos λ + Y sin λ と表されていました。この時、平均北極の位置を原点とし、経度0°(0度、X軸)と西経90°(90度、Y軸)の方向に測った実際の北極の座標を(X, Y)とすれば、西経λ°(ラムダ度)の地点で実測される緯度変化の値、Δφ(デルタ ファイ)は、Δφ = X cos λ(X コサイン ラムダ) + Y sin λ(Y サイン ラムダ)で表されます。

 木村は この式にZを加え、Δφ = X cos λ + Y sin λ + Z と修正して認められました。 木村栄のZ項の書簡(測地学資料の紹介、測地学100年、国立科学博物館): http://research.kahaku.go.jp/rikou/geod100/siryou2.htm. 

 このZ項は、観測地点の気象変化や重力変化に起因する緯度変化の補正値として、各地の観測値の誤差などが正しく説明できるようになり、木村項と呼ばれるようになりました。が、実際の原因の詳細は不明で、Z項発見から70年後に、章動(しょうどう、月や太陽の引力のために地球の自転軸が周期的に動揺する現象)の半年周期項のずれに基づくもので、極運動(地球の自転軸の変動)によらない緯度の1年周期の変動成分であることが若生康二郎(緯度観測所)によって解明されました。もともと章動は地球を剛体と見なして導かれたが,実際の地球は流体核をもつ弾性体であるため,その違いが現れたことが分かりました。地震学によって地球内部の理解が進むまで、さらに歳月を待たねばなりませんでした。現在では、地球深部の謎(地球の中心部の核、その廻りのマントル、核とマントルの相互作用、太陽、月、他天体の影響など)を解明する研究も進められています。

 木村は、その後も25年間、1日も欠かさ緯度の観測を続け、1918年(大正7年)には国際天文学会の緯度変化委員会委員長に就任し、また、1922年(大正11年)~1936年(昭和11年)、岩手県の水沢に置かれた緯度変化の国際中央局の局長を勤めました。1937年(昭和12年)には第1回の文化勲章を受章しました。金沢ふるさと偉人館には、主な展示品として、天頂儀、自筆ノートなどがあります。

私は、金沢ふるさと偉人館が設立されて間もなく、高峰譲吉博士にまつわる講演会と展示会が開催されるということで、はじめてそこを訪れ、その後何回か足を運び、金沢ゆかりの偉人から多くのことを学びました。

(参考文献) 北陸人物誌: 明治編(52)、木村栄、天文学の金字塔、ソロバン片手に、木村「Z項」を発見、読売新聞(昭和39年、1964年、7月10日、朝刊より); 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991): 石川化学教育研究会編; 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、p.187~188、上乗秀雄、木村栄ー星を見つめてZ項を発見ー、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 金沢ふるさと偉人館パンフレット: 近代日本を支えた偉人たち(2010).

(追加説明) ○ 現在、金沢ふるさと偉人館には、近代日本を支えた20人の偉人を選び、日本近代科学の創始者たちとして、高峰譲吉(1854~1922、化学者、企業家、タカジアスターゼ(コウジ菌のジアスターゼを使った消化不良や胃腸病に効く新薬で、タカは高峰の高からとったもの)、アドレナリン(血圧や止血作用のある副じん皮質ホルモン)の生みの親)、桜井錠二(1858~1939、化学者、日本人最初の化学の教授、桜井・池田沸点測定法の考案)、藤井健次郎(1866~1952、植物形態学、細胞遺伝学の研究に寄与、日本遺伝学の祖)、木村栄(1870~1943、天文学者、Z項を発見)、創造的技術に挑んだ人たちとして、八田與一(1886~1942、土木技師、台湾に東洋一のダムと長大な潅漑水路を完成)、飯盛里安(1886~1982、化学者、わが国の放射化学の育ての親)、

 日本の真と善を見つめた人びととして、小野太三郎(1840~1912、社会福祉活動家)、三宅雪嶺(1860~1945、思想家、評論家)、明治3年(1870年)の奇跡として、藤岡作太郎(1870~1910、国文学者)、西田幾多郎(1870~1945、哲学者)、鈴木大拙(1870~1966、仏教学者)、井上友一(1871~1919、国務官僚、東京府知事)、山本良吉(1871~1942、教育者)、安宅彌吉(1873~1949、総合商社安宅産業の創始者)、美と自然を愛した人びととして、北方心泉(1850~1905、真宗大谷派僧侶)、細野燕台(1872~1961、文人、茶人)、中西梧堂(1895~1934、自然保護者、詩人)、 近代美の巨匠たちとして、松田権六(1896~1986、近代漆芸と伝統工芸の巨匠)、谷口吉郎(1904~1979、日本近代建築の巨匠)、蓮田修吾郞(1915~2010、金属造型作家)という偉人の常設展示をしています。

○ 地球の自転軸が周期的に変動することは、18世紀の数学者オイラーによって理論的に示されていましたが、非常に微小であるために観測されるまでに100年以上かかりました。しかし、1891年(明治24年)チャンドラーが報告した周期はオイラーの予言の305日より長い427日で、理由は地球が剛体ではなく、弾性体であることでした。

 国際測地学協会の条約に基づく国際緯度観測事業(ILS)の観測所として水沢観測所(岩手)は創設されました。幾何学的配置の広がりの必要性から、同一緯度(北緯39度8分)に位置する水沢(日本)、カルロフォルテ(イタリア)、ゲサスバーグ、シンシナティ、ユカイア(米国)、チャルジュイ(ロシア)の6点で観測が開始されました。

 木村栄によるZ項の発見、極運動(地球の自転軸の変動)に起因しない緯度変化については、70年後、若生康二郎(緯度観測所)により、その主な原因は、半年周章動のずれ(地球の中心の流体核の共鳴効果!)であると証明して解決されました。Z項とは(コトバンク、法則の辞典): http://kotobank.jp/word/Z%E9%A0%85

 地球は、1日1回、10年1日のごとく自転しているように見えます。が、細かく見ると、自転速度と自転軸の向きの両方とも変動しています。しかも、その様相は、地球中心核から超高層大気まで、地球の各層の構造やその中での物質の運動を反映し、複雑きわまりないものでした。

 地球歳差(さいさ、月、太陽、惑星の引力の影響で、地球自転軸の方向がすりこぎのように変わる円錐運動)、章動(しょうどう、月や太陽の引力のために地球の自転軸が周期的に動揺する現象)、極運動(地球の自転軸の変動)、自転速度など、地球回転の変化は、地球上の気象や海洋、地震や地殻変動、大陸移動、地球内部の変動(地球の中心核とマントルの相互作用!)などに深くかかわっています。(真鍋盛二(国立天文台水沢観測センター長): 北緯39度8分の100年、Z項からVERA計画まで、科学朝日、p.104~108、1996、3月、より)

2011年9月 1日 (木)

文学賞(世界、日本)にまつわる歴史実話、ノーベル賞(文学賞含む6部門、アルフレッド・ノーベル創設)、菊池寛(文芸春秋社長)が創設した芥川賞(芥川龍之介)、直木賞(直木三十五)、とは(2011.9.1)

   近年、しばしば話題となる人の名のつく文学賞は、特に、世界ではノーベル文学賞、日本では、菊池寛(文芸春秋社長)が創設した芥川賞、直木賞などが有名です。そこで、これらの賞について、改めて調べて見ました。

○ ノーベル賞(文学賞含む6部門、1896~)

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A. B. Nobel (1833~1896、 google画像)

(解説) アルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel、1833~1896)は、スウェーデンの化学技術者です。ストックホルム生れ、ペテルブルグで教育を受け、爆薬・魚雷を製造していた父の家業を助けました。のち米国で機械工学を学び、1866年(慶応2年)ダイナマイトを、次いで無煙火薬を発明しました。世界各地に爆薬工場を経営し、1886年(明治19年)ノーベル・ダイナマイト・トラストを創立しました。この間2人の兄とともにバクー油田の開発にも成功し、ノーベル家はヨーロッパ最大級の富豪となりました。遺志によりスウエーデン王立科学アカデミーに寄附された遺産を基金としてノーベル賞が設立されました。

 ノーベル賞は、ノーベルの遺言により、人類の福祉に最も具体的に貢献した人々に授与(confer the greatest benefit on mankind)するため1896年(明治29年)設けられた国際的な賞です。基金168万ポンドで、毎年その利息をもって物理学、化学、生理・医学、文学、平和5部門に最も功績のあった人々に贈ります。  1901年(明治34年)第1回の授賞が行われ、1969年(昭和44年)経済学賞新設、以後毎年、ノーベル財団が、国籍、人種、宗教を問わず授与してきました。 ノーベル財団(スウェーデン): http://nobelprize.org/

 受賞者の選定には、物理学賞、化学賞、経済学賞はスウェーデン王立科学アカデミー、生理・医学賞はストックホルムのカロリン医学研究所、文学賞はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルーウェー国会が選んだ5人委員会などが当たっています。受賞式は毎年12月10日(ノーベルの忌日)で、受賞者にはノーベルの遺産の利子による賞金(経済学賞はスウェーデン銀行の創設した基金による)、金メダル、賞状が贈られます。 日本人ノーベル受賞者の軌跡(毎日新聞社):http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/

ノーベル文学賞は、日本については、1968年(昭和43年)、川端康成が、「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」などの作品で、日本人の心の本質を繊細に表現する卓越した叙述に対して(for his narrative mastership, which with sensisivity expresses the  essence of the Japanese mind)、 

 また、1994年(平成6年)、大江健三郎が、「万延元年のフットボール」などの作品で、詩的な言葉を用いて現世と神話の凝縮した世界を創造し、現代人の当惑する苦悩を描いたことに対して(poetic force creates an imagined world where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)、授賞しています。

 ノーベル賞の授賞記念講演では、川端康成は、「美しい日本の私」、大江健三郎は、「あいまいな日本の私」というタイトルで講演しています。

 私は、金沢大学理学部(化学科)に在職中、過去に2回(1995年度、2001年度)ほど、ノーベル財団からの依頼で、ノーベル化学賞の候補者を推薦したことがあります。その時の選考基準は、化学の分野における新しい発見(discovery)及び新しい分野への改良、発展など(improvemennt)が重要なポイントであったと記憶しています。 

○ 芥川賞(あくたがわしょう、1935~)

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芥川龍之介(1892-1927, google画像)

(解説) 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ、1892~1927)は、小説家、俳号は餓鬼、号は澄江堂主人、東京生れ、東大英文科卒です。東大在学中の1915年(大正4年)に帝国文学発表の「羅生門」は注目されず、1916年(大正5年)、第4次「新思潮」創刊号の「」が夏目漱石に称賛され、「芋粥」「手巾(ハンケチ)」で新進理知派の作家の地位を確立しました。その間、菊池寛、久米正雄らと第3次・第4次「新思潮」を刊行しました。

 以後、歴史小説「地獄変」「薮の中」「枯野抄」、切支丹もの「奉教人の死」、現代小説「秋」、明治もの「舞踏会」、童話「蜘蛛の糸」「杜子春」など様々な作品を発表しました。「戯作三昧(げさくざんまい)」で芸術至上に傾き、「一塊の土」など写実的作品もありますが、晩年は「玄鶴山房」「河童(かっぱ)」など沈鬱な作風に傾斜、神経衰弱と健康悪化、社会主義台頭への思想的動揺もあり、1927年(昭和2年)7月24日未明、ぼんやりした不安から田端の自宅で睡眠薬自殺をしました。遺稿に「歯車」「或阿呆の一生」など、全集、24巻があります。

 芥川賞(あくたがわしょう)は、芥川龍之介の名を記念して、1935年(昭和10年)、文芸春秋社長菊池寛の創設した純文学賞です。作品は、新潮、すばる、文学界、群像、文藝といった文藝雑誌に載った250~300作から選ばれます。

 1945~1948年の空白を挟んで継続中で、1938年(昭和13年)から日本文学振興会が継承、毎年春秋2回授賞しています。新聞・雑誌に掲載された無名または新進作家の純文学的創作、戯曲に授与する文学賞で、文壇への登竜門となっています。 日本文学振興会(文芸春秋社ビル内、東京): http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/index.html

 第1回は石川達三が蒼氓(そうぼう)で授賞、その後、石川淳、井上靖、吉行淳之介、大江健三郎らが授賞しています。火野葦平の「糞尿譚」、1937年(昭和12年)上半期授賞が日中戦争に敏感に反応した授賞であったように、選考には時代状況が投影しています。石原慎太郎の「太陽の季節」の授賞、1955年(昭和30年)上半期は情報化の進展と連動し、文学の大衆化、文壇崩壊を促進。純文学概念が変質し、直木賞との境界が曖昧になってきているという。 芥川賞受賞者一覧(1935~2010、文芸春秋社): http://www.bunshun.co.jp/award/akutagawa/list1.htm

 2011年(平成23年)3月12日(土)、朝日新聞、朝刊、私が愛した芥川賞作家beランキングによれば、活字離れ、文学離れが言われる中、149人を数える歴代芥川賞作家を、朝日新聞の無料会員サイト「アスパラグラフ」2月にアンケイトを実施したところ、①松本清張、②遠藤周作、③村上龍、④井上靖、⑤北杜夫、⑥宮本輝、⑦大江健三郎、⑧田辺聖子、⑨安部公房、⑩石川達三、⑪庄司薫、⑫開高健、⑬石原慎太郎、⑭綿矢りさ、であったという。

○ 直木賞(なおきしょう、1935~)

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直木三十五(1891-1934, google画像)

 直木三十五(なおきさんじゅうご、1891~1934)は、小説家、脚本家、映画監督も、本名は植村宗一、初め三十一と称、大阪市生れ、早大を中退しています。雑誌、主潮、人間を経て、文芸春秋にゴシップ記事を執筆、週刊朝日に「由比根元大殺紀」を連載、大阪毎日、東京日日の両新聞に「南国太平記」を書いて作家的地位を固め、時代小説の可能性を追求、真実な描写に力点をおいた「荒木又右衛門」ほかを発表、大衆文学の内容と品位を高めました。全集21巻があります。

 直木三十五全集(p版)第12巻、黄門廻国記、改造社(1933)は、月形龍之介の主演映画、水戸黄門原作にもなりました。

 直木賞(なおきしょう)は、芥川賞と同時に、直木三十五の名を記念して、1935年(昭和10年)、文芸春秋社長菊池寛の創設した大衆文学賞です。作品は主に単行本が対象です。

 1945~1948年の空白を挟んで継続中で、1938年(昭和13年)から日本文学振興会が継承、毎年春秋2回授賞しています。新聞・雑誌に発表された無名あるいは新進作家の大衆文芸作品にに授与する文学賞で、芥川賞とともに作家の登竜門となっています

 第1回は川口松太郎が「鶴八鶴次郎」その他で授賞、その後、海音寺潮五郎、井伏鱒二、司馬遼太郎らが授賞しています。読者の拡大と文学の大衆化によって、有力な新人は芥川賞よりも本賞に吸収される傾向が生じているという。 直木賞受賞者一覧(1935~2010、文芸春秋社): http://www.bunshun.co.jp/award/naoki/list1.htm

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菊池寛(1888~1948, google画像)  菊池寛記念館(高松、香川):http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/646.html. 菊池寛賞(文藝春秋、千代田区、東京): http://www.bunshun.co.jp/award/kikuchi/

 芥川賞直木賞は、両者の名を記念して、文芸春秋社長菊池寛の創設した文学賞です。1910年(明治43年)、菊池寛(22才)が第一高等学校に入学したとき、同級生に芥川龍之介(18才)がいました。その後、1923年(大正12年)、菊池寛(35才)が文芸春秋を創刊したとき、芥川龍之介(31才)は「侏儒の言葉」を巻頭連載して協力しています。 

 また、直木三十五は、脚本家としてのデビュー作が、菊池寛の有名な小説「恩讐の彼方に」でした。これは、江戸時代の伝説、旅人が厳しい崖に難儀するのを見かねた禅海和尚が、30年かけて掘り進め、ついに開通させた隧道「青の洞門」(山国川沿い、中津市、大分県)の逸話です。(北陸中日新聞: 旅 中津市 大分県 洞門、黒田官兵衛 伝説息づく、2013年(平成25年)3月15日(金)夕刊)

 菊池寛は、芥川龍之介が、1927年(昭和2年)35才で自殺、また直木三十五は、1934年(昭和9年)43才、腹膜炎で死去、と親友の早世が続いたのを惜しみ、両者の名を記念した賞を作って、後に続く若い無名の作家の支援と育成に夢をかけたのだろうか? 菊池寛は、1948年(昭和23年)60才で狭心症のため急逝しています。

 私は、1963年(昭和38年)頃、伊藤整(1905~1969,北海道)、遠藤周作(1923~1996,東京)、大江健三郎(1935~ 、愛媛)という顔ぶれの有名な作家を迎えて、愛媛県県民文化会館(ひめぎんホール)で文化講演会が開かれるというので、聞きに行ったことがあります。

 講演の内容についてはよく覚えていないのですが、まず最初に伊藤整氏、次いで遠藤周作氏が講演、自分はぐうたらだが、大江健三郎氏は優秀な作家であるとほめていたこと、その後の大江健三郎氏は早口でとつとつと喋っておられたのが印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 大木、大沢、田中、千原編: 化学事典、東京化学同人(1994); B. S. SCHLESSINGER, J. H. SCHLESSINGER:  The Who's Who of Nobel Prize Winners 1901-1995, Third Edition, ORYX PRESS(1996); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); ダイソー文学シリーズ: 12、芥川龍之介Ⅲ、23、菊池寛、大創出版(2010).

(追加説明) ○ ノーベルと文学賞  ノーベルは、生まれつき病弱で、孤独と夢想を愛する少年だった。彼は早くから文学にあこがれ、18才のとき「謎」という自伝的な長詩を書いた。人生を悲観した暗い詩である。やがて外国に遊学、主にパリでイギリス文学を熱心に勉強した。

 そんな文学青年が、後年、火薬王になったのは、発明狂だった父がロシアで機雷の製造に成功し、それを手伝うことになって、火薬に興味をもったからである。そして、雷管とダイナマイトを発明して、世界各国に火薬工場を造り、40才にして世界的な企業家になった。

 だが、生涯、独身で社交ぎらいだった彼は、多忙な実務に疲れて、憂うつにになると、奇妙な著作にふけった。「明るいアフリカにて」「姉妹たち」などの小説、戯曲「ネメンス」など。こうした若いころの文学への愛着が捨てきれず、その思いがノーベル賞に文学部門を加えることになったのである。(樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、p.685、ノーベルと文学賞、三宝出版(1994).より)

○ ダイナマイトは、ニトログリセリン等の液状硝酸エステル(主剤)を6%以上含有する爆破薬です。1866年ノーベルが鋭敏なニトログリセリンをケイ藻土に吸収させて安全に使用できるようにしたケイ藻土ダイナマイト)に始まります。次いでノーベルは、ケイ藻土の代わりにニトロセルロースを用いてゲル化することを発見しました。その後、ニトログリセリンゲルに可燃物、酸化剤等を適当な割合に混合したものを使用しています。

 ニトログリセリン(硫酸ー硝酸混合物とグリセリンを冷却下に混合して製造、三硝化グリセリンとも、ダイナマイトの原料のほか、狭心症の特効薬!)は、強力な爆発力をもちますが、衝撃や摩擦に非常に敏感なため、ノーベルはこれをケイ藻土に吸収させ、比較的良好であったので、ノーベルの発明以来約100年間、産業爆薬の王者の位置を占めてきました。しかし、近年になって価格や安全の面で優れている硝安油剤爆薬(アンホ爆薬、ANFO)や含水爆薬(スラリー爆薬)にとって代わられつつあります。 

○ 菊池寛(きくちかん、1888~1948)は、小説家、劇作家、本名はひろし、香川県生れ、京大卒です。在学中に一高同級生の芥川龍之介、久米正雄らが創刊した第3・4次「新思潮」に参加、卒業後「忠直卿行状紀」「恩讐の彼方に」など、理知的な心理分析と主題の明快さを特徴とする小説を発表しました。「藤十郎の恋」「父帰る」上演も評判となり、新聞小説「真珠婦人」では多くの読者を獲得しました。

 1923年(大正12年)1月、菊池寛(35才)は、文芸春秋社開設し、雑誌「文芸春秋」を創刊しました。1928年(昭和3年、40才)5月、文芸春秋社が株式会社となり、取締役社長に就任しました。また、1936年(昭和11年、48才)、日本文芸家協会初代会長に就任しました。芥川賞直木賞は、両者の名を記念して、文芸春秋社長菊池寛の創設した文学賞です。東京市会議員、大映社長なども務めました。全集、24巻(1993~1995)が刊行されています。

2011年8月 1日 (月)

西田幾多郎(石川出身の哲学者)、善の研究(西田哲学のルーツ)、京都学派の哲学(禅の東洋思想「無」と西洋哲学を融合)、とは(2011.8.1)

   哲学(てつがく)とは、「生きること」そのものに根ざした、最も身近な「問い」として始まった思索であるという。私は、2006年(平成18年)7月、はじめて西田幾多郎記念哲学館(宇ノ気、河北郡、のちかほく市、石川県)を訪ね、そのような考え方もあるものか!と感じ入ったことがあります。たとえば、「」については、「そこにもの(物)が、ある(有)、といえども、それを意識(自覚)しなければ、ない(無)、と同じである!」という。

 哲学という名のついたミュージアムは、哲学先進国の欧米を含めて、西田哲学館(設計、安藤忠雄氏)だけという。そこで、改めて、西田哲学の世界について調べてみました。西田幾多郎記念哲学館(内日角井、かほく市、石川県): http://www.nishidatetsugakukan.org/index.htm

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西田幾多郎(にしだきたろう、近代日本最初の独創的哲学を樹立、京都学派、google画像) 

(解説) 西田幾多郎(にしだきたろう、1870~1945)は、、宇ノ気・金沢(石川)で学び、壮年期はおもに金沢・京都で教鞭をとり、晩年には鎌倉(神奈川)で思索と執筆に明け暮れ、生きることがそのまま思索でもあるような人生であったという。

 哲学者。石川県生れ。京大教授。禅の宗教性と生の哲学やドイツ観念論の論理を思弁的に統合し「」の哲学を開拓。著「善の研究」「働くものから見るものへ」「自覚に於ける直感と反省」「無の自覚的限定」など。文化勲章。思弁とは、経験によることなく、ただ純粋な思考によって真理の認識に到達しようとすること。知的直観の意味をもつ場合もある。(広辞苑より)

 ○ 善の研究(西田哲学のルーツ)

 西田幾多郎、「禅の研究」の序文の中で、「私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない。いわゆる物質の世界というものは、これから考えられたものにすぎないという考えをもっていた。まだ高等学校の学生であったころ、金沢の街を歩きながら、夢みるごとく、このような考えにふけったことが思い出される。そのころの考えがこの書の基ともなったかと思う」、と書いています。これは、善の研究の根本思想である直感を自覚的に裏付けようとする「純粋経験」が金沢の第四高等学校の学生時代に芽生えていたことを示唆しています。 善の研究西田幾多郎、図書カード、青空文庫、電子図書館): http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html

 善の研究」は、西田幾多郎処女作。1911年(明治44年)刊。金沢の第四高等学校で教鞭をとるかたわら、金沢市卯辰山にあった洗心庵雪門和尚に師事し、打座参禅に務めつつ、学生に講義した草稿をまとめたものです。この書の根本的な立場「純粋経験」は、ウイリアム・ジェームズの西洋哲学を借りながら、坐禅の東洋的精神体験を含んだもので、そこから実在・善・宗教の諸問題を論じる哲学であるという。 雪門和尚(洗心庵、卯辰山、金沢)と西田幾多郎(年代記): http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site42/kitaro21.htm

 西田は、善の研究以後、もっぱら東洋のの伝統的な考え方「」と西洋の哲学を対決させました。そして、東洋思想と西洋哲学との間に通路を開いたといわれる西田哲学の壮大な体系をつくりあげ「絶対無の自己限定」「絶対矛盾の自己同一」などで表現される独自の哲学を確立しました。というわけで、彼の哲学は、東西の思想の総合の上に独創的な哲学大系を樹立したもので、「西田哲学」と呼ばれています。

○ 京都学派の哲学(禅の東洋思想「無」と西洋哲学の融合)

 東京大学の文学部哲学科と京都大学文学部哲学科では、その学風に大きな違いがあったという。東京大学の哲学科には博学な学者がそろっていたが、彼らは西洋の哲学者、たとえばデカルト、カントの学説を正確に学び、それを翻訳したり紹介したりして、そのような偉大な哲学者について精密な研究書を書くことが哲学であると考えているようであったという。

 しかし京都大学の哲学科は違っていたという。京都大学文学部の初代の人事を行ったのは、初代文科大学長の狩野貞吉という奇人大学者であった。狩野は、アカデミックな東京大学文学部に対して、京都大学文学部に学歴にこだわらずすぐれた学者を集め、京都大学文学部を独創的な学問の発祥地にしようとする抱負をもっていました。

 そして哲学の教授に、東京大学の本科に比べると一段低くみられていた選科出身の西田幾多郎、東洋史学の教授に師範学校卒業で新聞記者をしていた内藤湖南を起用しました。また、英文学の教授に夏目漱石を、美学の教授に高山樗牛を迎えようとしたが、その計画は漱石の京都嫌い及び樗牛の早世によって実現不可能になったという。

 狩野はこのような破天荒な人事を行った後、文部省と対立し、職を辞して東京に戻り、書画や刀剣の鑑定によって生計を立てました。そしてその博学きわまりない学識にもかかわらず、ほとんど著書らしい著書を書かずに市井の隠者として一生を終えたという。

 なお、その頃の教授陣は、哲学が西田幾多郎、哲学史朝永三十郎、美学深田康算、西洋史坂口昂、日本史内田銀藏、心理学波多野精一、倫理学田辺元というそうそうたるメンバーでした。

 梅原猛は、わが国初めての東西思想を融合した独創的な哲学と高く評価された「西田哲学」こそは、真の哲学であると考え、1945年(昭和20年)4月8日、西田の学風の残る京都大学文学部哲学科に入学したという。

 西田幾多郎は、事に於いても卓抜な才能を発揮したという。西田は、東京大学で数学と哲学を学び東北大学の講師であった田辺元を哲学の助教授に、「古寺巡礼」や「日本古代文化」を書き、母校東大から異端視されていた和辻哲郎を倫理学の助教授に迎えました。そしてカント哲学の研究者であるとともに、後に文部大臣を務めた厳格な道徳の理想を説く天野貞祐を近世哲学史の助教授にしました。

 また天野の友人で、長い間ヨーロッパに滞在して西洋の哲学と文学を身につけた遊蕩児(ゆうとうじ)でもあった九鬼周造が日本に帰るや、近世哲学史を九鬼に担当させ、天野を和辻が東大に転任した後の倫理学教授にしました。九鬼はハイデッガーの講義も聴き、ドイツ語を十分解さなかったサルトルにハイデッガー哲学を教えたという噂(うわさ)さえあり、のちに「いきの構造」というみごとな日本文化論を書きました。そして西田の高弟でありフッサール、ハイデッガーに学んだ現象学者である山内得立を古代・中世の研究者に転向させ、古代哲学の教示に据えました。

 こうしていわゆる京都学派が勢揃いしたわけですが、京都学派は、西田という強烈な光を放つ太陽の如き哲学者の周囲に田辺、和辻、天野、九鬼、山内という、西田とは異なる光を発する哲学者がきら星の如く輝いていたという。西田の門下生には、法政大学の総長の谷川哲三、東京学芸大学長高坂正顕、評論家林達夫らがおり、わが国の思想界にはかりしれない影響を与えました。

 西田幾多郎は、著書「続思索と体験」の中で、自分の人生、「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」と、書いています。  

 西田幾多郎が思索しながら散策した琵琶湖疎水沿いの道は、「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれています。哲学の道(ホーム、京都おもしろスポット): http://kyoto.gp1st.com/350/ent156.html

 私は、1964年(昭和39年)4月頃、京都大学理学部(追分町、北白川、左京区)から東に歩いて5分ほど、銀閣寺の近く(下別当町、北白川、左京区)で下宿(村井良治様方)していたことがあり、「哲学の道」もすぐ近くにありましたので、疎水沿いの桜並木の下を、これが哲学の道か! と物思いにふけりながら、散策したことがあります。

(参考文献) 北陸人物誌(昭和編③)、四高の三太郎、西田幾多郎、四高の講義、善の研究、思想界に大衝撃、1965年(昭和40年)1月7日、北国新聞朝刊、より; 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999): グルーヴイ編; 石川県西田幾多郎記念哲学館ガイドブック、石川県西田幾多郎記念館(2002); 梅原猛: 思うままに、人類哲学についての覚書(二) 奇人狩野と独創西田、2010年(平成22年)11月1日(月)、北陸中日新聞夕刊、及び人類哲学についての覚書(三) 独創的哲学の萌芽、2010年(平成22年)11月8日(月)、北陸中日新聞夕刊、より. 

(追加説明) ○ 西田幾多郎(にしだきたろう、1870~1945)は、宇ノ気(うのけ、石川県)生れの哲学者。1890年(明治23年)20才、第四高等中学校中退、入学したとき、二級上に鈴木大拙がいました。1891年(明治24年)21才、東京帝国大学文科大学哲学科選科に入り、その頃は、もっぱら鎌倉の円覚寺(臨済宗、鎌倉五山の第二位)、建長寺(臨済宗、鎌倉五山の第一位)などで参禅、1894年(明治27年)24才、同大学を修了、帰郷しました。

 1895年(明治28年)25才、石川県尋常中学校七尾分校教諭、1896年(明治29年)26才、第四高校講師、1897年(明治30年)27才、山口高校教務嘱託を経て、1899~1909年(明治32年~明治42年)29~39才、第四高等学校教授となり、この頃は、金沢市卯辰山にあった洗心庵雪門和尚に師事し、熱心に打座・参禅、禅道を深めました。「寸心」という雅号も、同和尚から与えられたものです。そして、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という「純粋経験」「直接経験」及び「絶対矛盾的自己同一」など、のちの彼の根本思想になるものについて思索を深めました。

 1909年(明治42年)39才、学習院大学教授、1910年(明治43年)40才、招かれて京都帝国大学文科大学助教授となり、京都に移住しました。1911年(明治44年)41才、「善の研究」を発表し、1913年(大正2年)43才京都帝国大学文科大学教授となり、文学博士の学位をうけました。東洋的精神性の自覚を基礎に、西洋哲学を積極的に摂取し、東西思想の内面的統一を求めて、独特の「西田哲学」を樹立し、後継者の田辺元らと京都学派を形成しました。

 1928年(昭和3年)58才、京大を停年退職後、1933年(昭和8年)63才、鎌倉に居を移し、夏と冬は鎌倉で、春と秋は京都で過ごすようになりました。生涯で30回住むところを変え、鎌倉でも17年間に4度引っ越しましたが、ついには七里ヶ濱に近い場所に居を落ち着け、最後までそこで思索と学究の日々を送りました。1940年(昭和15年)70才、文化勲章を受章し、1945年(昭和20年)6月7日、終戦の直前、鎌倉姥ヶ谷の山荘で病没しました。享年75才。著書には、「自覚に於ける直観と反省」「働くものから見るものへ」「哲学の根本問題」、全集18巻などあります。

○ 鈴木大拙

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鈴木大拙(すずきだいせつ、1870~1966、金沢ふるさと偉人館、金沢、石川): http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/11suzuki.html鈴木大拙館(金沢、石川):http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/

 鈴木大拙は、仏教学者・思想家。石川県の人。学習院・大谷大学教授。禅研究者として知られ、アメリカで活躍。著「禅と日本文化」「禅思想史研究」(武士道や絵画、茶道、能などの魅力ある日本文化創ったのは禅仏教である!)のほか英文の著作も多い。文化勲章。(広辞苑より) 

 西田幾多郎鈴木大拙無二の親友であり、西田自身も坐禅の体験をもち、処女作にして西田哲学の名を長く日本の社会に残した「善の研究」は、禅寺での坐禅体験を西洋哲学によって論理化したものであるとさえ云われています。

○ 禅の究極は「」になることという。「」は、膨れた風船の中にいる自分を創造してみると分かりやすい。執着しない、自由な心になることをいう。禅の世界では、人を「本来無一物」と定義しています。その心は、本来はすべてのものが「」であり、私たち人間も本来何も持っていないことを意味する。しかし、人はこの世にあふれる物に目や心を奪われ、執着するため、心が曇り、不満や悩みが生まれる。つまり、曇りのない晴れた心を持ち、執着心を捨てなさい、という教えだ。(禅の世界、「坐禅(ざぜん)とは」、2010年(平成22年)11月7日(日)、北陸中日新聞、朝刊より

○ 平安末期から鎌倉時代、日本に二つの禅宗の宗派、臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうどうしゅう)がありました。臨済宗(りんざいしゅう)は、栄西が宋で学び日本で広めました。生まれつき備わっている人間性(仏性)を座禅によって目覚めさせ、人生を豊かにすることを目的とする。政治の新興勢力である武士が禅宗に接近し、栄西亡き後、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が北条時頼の信頼を得て飛躍的な発展を遂げました。一方、曹洞宗(そうどうしゅう)を開いた道元は、栄西の系譜で臨済禅を学んだが、政治権力との接近を望まず、座禅に打ち込むため、1244年(寛元2年)に越前に永平寺を開きました。ひたすら座禅に生き、自分の中の仏性を見出し、この姿こそ仏だと信じることを目指します。(日本の仏教、2004年(平成16年)10月31日(日)、北陸中日新聞、朝刊より

2009年10月14日 (水)

二宮尊徳(小田原、神奈川出身の農政家)にまつわる歴史物語、背負う薪と手に取る本、富と貧、報徳仕法、とは(2009.10.14)

  私が郷里の松島小学校(上板、徳島)に入学した1947年(昭和22年)頃、学校の正面玄関横に、薪(たきぎ)を背中に背負い本を開いて読書しながら歩いている、二宮金次郎(のち尊徳)の銅像が建っていたのを、今でもはっきり覚えています。

 最近、衆議院選挙のあった、2009年(平成21年)8月30日、現住所(桜田、金沢)から徒歩15分ほどの戸板小学校(二口、金沢)へ投票に行った時、久しぶりに学校の入り口玄関横に立っていた、二宮金次郎銅像を見て、改めて二宮尊徳なる人物を思い起こしました。銅像の礎石に刻まれた寄贈者と年月から、最初の銅像は、戦前の1936年(昭和11年)6月、一人の寄贈者(中村長兵衛氏)によるものですが、太平洋戦争(1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)8月15日)中は、その銅像が兵器製造の金属として供出されたのか、現在の銅像は、1973年(昭和48年)3月、10名の寄贈者によりに再建されたものでした。

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二宮金次郎(のち二宮尊徳、銅像、戸板小学校、二口、金沢)

○ 戸板小学校は、2013年(平成25年)4月、二口町から戸板第二土地区画整理事業地移転しました。

 二宮金次郎(にのみやきんじろう)、1787年(天明7年)~1856年(安政3年、70才)は、相模国(さがみのくに、神奈川県)足柄上郡栢山(かやま)の農家の生まれ、本名金次郎、江戸末期の農村指導者(篤農家、とくのうか)で、晩年尊徳(そんとく)と称しました。

 二宮金次郎は、13才の時に父親が死去、その後24才までに没落した二宮家を立て直し、33才の頃、小田原藩に仕え、節約、勤労を奨める農政改革(桜町領)を成功させました。各地の農村の立て直しを求められ、関東、東海地方、600ヵ村の荒廃農村(福島県から滋賀県にわたる36地区)を復興させ、また56才の時、幕府にも召し抱えられました。

 二宮金次郎は苦学して儒学算学を修め、その勤勉さは、戦前には教科書で教材として取り上げられました。かっては、全国の小学校に、薪(たきぎ)を背負い本を読む金次郎(尊徳)の銅像があり、模範とされました

 修身(しゅうしん)の教科書には、孝行、勤勉、学問お手本として現れていました。 昼のしごとをすまして家にかえると夜おそくまでおきていてわらじをつくりました、のちにえらい人になりました、という物語が類型としてありました。小学唱歌の、二宮金次郎、については、

○ 一、柴刈り縄ない草履(ぞうり)をつくり 親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し 兄弟仲良く孝行つくす 手本は二宮金次郎  二、 骨身を惜しまず仕事をはげみ 夜なべ済まして手習い読書 せわしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ 手本は二宮金次郎  三、家業大事に費(ついえ)をはぶき 少しの物も粗末にせずに 遂には身を立て人をもすくう 手本は二宮金次郎 

 銅像では、歩きながら書物を開いています。二宮金次郎の弟子であり、金次郎の娘を嫁にもらった富田高慶(たかよし)の報徳記金次郎伝説のもとになっています。

○ 鶏鳴(けいめい)のころに起きて遠くの山に行って、柴を刈ったり薪をきったりしてこれを売り、夜は縄をない、わらじを作り、わずかの時間も惜しんで体を使い心を尽くし、母を安心させ二人の弟を養うことにひたすら苦労した。そして、柴刈りの行き帰りにも、大学(儒教の経典の一つ、四書五経の四書、漢字)の書物を懐にして、途中歩きながら声をあげて読み、少しも怠らなかった。(佐々井典比古、現代語訳より)

○ 金次郎は、柴や薪を村の共有財産である入会地(いりあいち)で入手し、燃料として燃やさずに、これを小田原宿で売りさばき、さらにその儲けた金を運用して増やす手法(みなで資金を出し合い、入れ札(くじ引き)で貸し付けする頼母子請、無尽請など、またこの時の約束事として五常(仁、義、礼、智、信)を指針とすること)を、小田原藩服部家で若党として働いた時、奉公人(中間、下男、女中)にも積小為大として教えています。(猪瀬直樹、二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?より)

 晩年、二宮金次郎(尊徳)は、豊富な農業知識を持ち、農政家として、次第に知られるようになりました。福住正兄の二宮翁夜話(にのみやおうやわ)によれば、富みと貧とは、については、

○ 富と貧とは、もと遠く隔(へだ)つ物にあらず。ただ少しの隔てあり。その本源はただ一つの心得(こころえ)にあり。貧者は昨日のために今日勤め、昨年のために今年務む。故に終身(しゅうしん)苦しんでその功なし。富者は明日のために今日勤め、来年のために今年勤む。安楽自在(じざい)にして成す事成就せずという事なし。

 然(しか)るに世の人、今日飲む酒なき時は借りて飲み、今日食う米なき時はまた借りて食う。これ貧窮(ひんきゅう)すべき原因なり。今日薪を取りて明朝飯をたき、今夜縄をないて明日マガキ(間垣)を結ばば安心して差し支えなし。然るを貧者の仕方は、明日取る薪にて今夕の飯をたかんとし、明朝なう縄をもって今日マガキを結ばんとするがごとし。

 故に我れ常に曰く。貧者草刈らんとする時鎌なし。これを隣に借りて草を刈る。常の事なり。これ貧窮をまぬがること能(あた)わざる原因なり。鎌なくば、まず日傭(にちよう)取りをなすべし。この賃銭(ちんせん)鎌を買い求め、しかる後に草を刈るべし。

 この道はすなわち開闢(かいびゃく)元始の大道に基くものなるが故に、卑怯(ひきょう)卑劣の心なし。これ神代(じんだい)の古(いにしえ)、豊芦原に天降りし時の神の御心(みこころ)なり。故にこの心なき者は富貴を得ること能(あた)わず。

○ 衣は寒さをしのぎ、食は飢(う)えをしのぐのみにて足れるものなり。そのほかは皆無用の事なり。飢えをしのぐための食、寒さをしのぐための衣は、智恵賢不肖(ふしょう)を分かたず、学者にても無学者にても、悟りても迷いても離(はな)るることはできぬものなり。これを備うる道こそ人道の大元(だいげん)、政道の根本なれ。

 ところで、江戸末期、徳川11代家斉(いえなり)、1773年(安永2年)~1841年(天保12年)、から12代家慶(いえよし)、1793年(寛政5年)~1853年(嘉永6年)、13代家定(いえさだ)、1824年(文政7年)~1858年(安政5年)の頃、飢饉や災害起こり、全国一揆(いっき)や打ち壊しが急増し、幕府の権威は揺らいでいました。1841年(天保12年)、老中水野忠邦による天保の改革の時、二宮金次郎(尊徳)は幕府勘定所から御普請役格にとして採用され、日光御神領、89ヵ村の復興計画(日光仕法雛形作成など)に携わりましたが、改革中途で倒れ、最晩年の2年間は床に伏して現場には足を運べませんでした。 

 二宮金次郎(尊徳)は、徹底した実践主義で、儒教仏教神道関連の学問を修め、自身の日常生活の体験から解釈した報徳思想(困窮を救い安全な生活を営ませる生活様式)を創始、自ら陰徳、積善、節約を力行し、殖産のことを説きました。

 そして、報徳仕法(ほうとくしほう、何事も小さなことの積み重ねである、分相応を見極め生活する、余った財産は他や先に譲る)という考えを確立しました。  

 後にその影響を受けた弟子たちが、困窮した農民を救う報徳社運動を展開することになりました。報徳とは、過去、現在、未来のの三世を一貫とする天地人三才の徳に報いる道であるとし、至誠、勤労、分度、推譲根本原理としました。その報徳運動は、明治期に遠州(静岡)地方を拠点に広がり、自発的な報徳社(二宮尊徳の思想を実践する目的で組織された結社、1843年(天保14年)小田原報徳社の結成に始まる)が結成され、後に全国的民衆運動として展開しました。

(参考文献) 樋口清之(監修): 暮らしのジャーナル、生活歳時記、三宝出版(1994); 永原慶二(監修)、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 猪瀬直樹: 二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?、人口減少社会の成長戦略、文春文庫(2007).

(参考資料) 二宮金次郎(尊徳)、(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1W1GGLD_ja&q=%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ; 報徳博物館: http://www.hotoku.or.jp/

松島小学校(ホームページ、上板、徳島):http://www.kci-net.ne.jp/~matsushima-f/

戸板小学校(ホームページ、二口、金沢):  http://www.kanazawa-city.ed.jp/toita-e/

(参考資料) 松下幸之助ら名経営者が再評価、「勤勉の象徴」二宮尊徳: http://j-net21.smrj.go.jp/watch/ippomae/entry/20090216.html

 松下幸之助や土光敏夫など、名経営者と呼ばれる人物たちが二宮尊徳を再評価し、事業経営に大きく活かしたと言われています。

松下幸之助(成功へのヒント): http://success.hoyu.net/matsushita.htm

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