カテゴリー「● 人物(卑弥呼、神武天皇、聖徳太子、土御門上皇、義仲、武蔵、島津斉彬、五百羅漢、法然、仁清、世阿弥、富樫、弁吉、秋声、犀星)」の17件の記事

2016年1月21日 (木)

からくり師弁吉、大野弁吉(加賀、石川)、平賀源内(讃岐、香川)、からくり儀右衛門(久留米、福岡)の技術にも匹敵、からくり人形ムービー、大野からくり記念館、とは(2016.1.21)

 平和な江戸時代には、武士も庶民も、我々が考える以上に遊び、生活を楽しんでいたという。その中から、からくりも生まれました!

 その頃、加賀(石川)では、からくり人形師、大野弁吉(おおのべんきち、1801~1870)が有名です。羽子細工師(京都)の生まれ、20才のころ長崎に出て、オランダ人から理化学、医学、天文、暦数、鉱山、写真、航海学を修得、30才のころ石川郡大野村(金沢市大野町)に移住しています。

 大野弁吉は、加賀の平賀源内(ひらがげんない、1729?~1779、讃岐、香川)とも呼ばれ、その技術は東芝の創業者で「からくり儀右衛門」と呼ばれた(初代)田中久重(たなかひさしげ、1799~1881,久留米、福岡)にも匹敵すると言われています。
 
 一東、鶴寿軒と号し、木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などのほか、からくり人形には優れた名作を多く残しました。それらの作品と諸資料は、石川県金沢港大野からくり記念館に展示されています。

 私は、からくり記念館(大野、金沢)には、これまで何度かマイカー(ファミリア1500)で訪れ、からくりの実演を見て、体験もし、その仕掛けの巧妙なことに驚いたことがあります。その時、からくり人形を動かすゼンマイに、クジラ(鯨)のヒゲが使われていたのが、強く印象に残っています。

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             茶運び人形 (PIXTA)

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からくり人形ムービー (石川県金沢港大野からくり記念館収蔵) 

(Link)
 〇 大野弁吉(幕末の科学技術者、加賀、石川)、からくり師弁吉、平賀源内(讃岐、香川)、からくり儀右衛門(久留米、福岡)の技術にも匹敵、大野お台場公園のお台場、とは: 
(2011.8.27):
http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/201.html

2015年5月30日 (土)

室生犀星(5月26日)、ふるさとは(小景異情)の詩と文豪が眠る野田山墓地(金沢市)、とは(2015.5.30)

 先日(5月26日)、野田山のふもと、南部丘陵風致地区を散策中、近くの野田山墓地に眠る文豪、室生犀星を訪ねました。 

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犀星の墓地にある九輪塔(中央)と五輪塔(右)は、古代インドで、万物が地、水、風、火の四元素と万物の根源である空の五元素とからなる思想を形で表したものです。これらが集まって自然現象の世界、色(しき)を構成し、これらは万物のもとである空(くう)から生じ空に帰るとされています。

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室生犀星の墓地

 有名な、ふるさとは遠きにありて思ふもので始まる詩は、1918年(大正7年)、金沢出身の作家、室生犀星の詩集、抒情小曲集中に小景異情として詠われています。

 その詩について、私は、ふるさとは遠きにありて思ふもの、一行だけしか知らず、ふるさと(故郷)を離れて生活し、何か苦しくて辛いとき、ふと、ふるさとはいいなあ、ありがたいなあ、と懐かしむ心(望郷の念、郷愁の思い)を詩に託しているものと思っていました。

  のち、その続きの詩文を知るにつれ、犀星が東京での作家生活に夢破れて、ふるさとの金沢に帰ってきたものの、どうにもならなくて、再びみやこ(東京)に帰って、作家として再起しようとする思いを、この詩に託しているようような感じがして、ホロッとしました。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや

 これらの詩を含む抒情小曲集の序文には、素直な心で読み味わってもらえばうれしい。人間にはきっと、この美しい抒情詩を愛する時代があるように、だれしも通る道であるように、と述べています。

  犀星は、1941年(昭和16年)、52才の頃 菊池寛賞を取り、同年3月に帰郷し、尾山娯楽部で、文学者と郷土、と題して講演しています。それ以後は、金沢の土を踏むことなく、1962年(昭和37年)3月、73才、東京で死去しました。翌年10月には、ふるさと、金沢の野田山墓地に、家族と共に、永遠の眠りについています。

(Link)

 〇 室生犀星(金沢出身の作家)にまつわる歴史実話、ふるさとは(小景異情)、山のあなたの(カール・ブッセ、上田敏訳、海潮音)、桃源郷(陶淵明、宏村、中国)、とは(2009.7.6): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/muro.html

〇 仏塔のお話(古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など): http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/buttou.htm

2012年9月15日 (土)

富樫氏(とがしし、加賀守護家、野市、のち野々市)、安宅の関跡(勧進帳、小松)、一向一揆(高尾城陥落、百姓の持ちたる国、金沢御堂の設置、のち金沢城へ)、とは(2012.9.15)

   富樫氏(とがしし)は、鎌倉末期、南北朝(1332~1392)・室町時代(1338~1573)の加賀守護家です。鎮守府将軍・藤原利仁流家国(生没年未詳)を始祖としています。 加賀守護職一覧冨樫氏一族): http://www.geocities.jp/yuujirou8/siro/Gallery-10-37-1-siyugo.html

 富樫荘(とがししょう、金沢市富樫町)を本拠に在庁官人として活躍し、代々富樫介を称しました。 鎌倉末期は有力在京御家人となり、1335年(建武2年)、冨樫高家(とがしたかいえ、生没年未詳)の代に守護職を得ますが、1574年(天正2年)、冨樫泰俊(とがしやすとし、?~1574)が一向一揆(いっこういっき、浄土真宗(一向宗)門徒が起こした一揆)に討たれて滅亡しました。

 安宅の関跡と勧進帳

 住吉神社(小松市安宅町)の背後の松林の砂丘には、安宅の関跡の石碑が立ち、江戸時代、歌舞伎劇、勧進帳(かんじんちょう)で有名な源義経、弁慶と冨樫左右衛門(冨樫泰家?)の銅像があります。 

 歌舞伎作者3世並木五甁(なみきごへい)作、1840年(天保11年)3月5日より江戸河原崎座で初演、追われる身の義経が、冨樫にとがめられるが、家来の弁慶らとともに東大寺勧進の山伏と称し、安宅の関を通過する苦心談を描いています。

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安宅の関跡(あたかのせきあと、勧進帳(かんじんちょう、銅像 左より 義経、弁慶、冨樫、安宅、小松、google画像) 安宅の関(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E3%81%AE%E9%96%A2

(解説) 1187年(文治3年)、源頼朝(1147~1199)の追求を逃れて、奥州平泉の藤原秀衡(?~1187)を頼って落ちのびる途中、山伏姿に身をやつした源義経(1159~1189)主従が、ここで冨樫左右衛門(冨樫泰家?)に見とがめられます。このとき、弁慶(?~1189)が勧進帳を読み上げた機転で危機を脱したという話はあまりにも有名です。義経紀素材にした謡曲安宅」や江戸時代末の歌舞伎勧進帳」の舞台です。

 加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親(12代、室町後期)の先祖は、鎌倉時代の加賀守護、富樫泰家ですが、江戸時代勧進帳(歌舞伎)の安宅の関守として、富樫左右衛門の名で登場しています。

 最近、清水郁夫氏(地方史家、安宅町、小松)によれば、源義経一行が安宅(小松、加賀)を通ったのは、1187年(文治3年)と言われているが、「如意宝珠御修法日記」の裏に記された鎌倉幕府の古文書中の「関東御教書安」には、幕府が、京都の治安維持を担う役職「篝屋守護人」だった富樫泰家から息子への所領(甲賀市、滋賀)の支配相続を認めたと言うことが記されているそうです。

 この御教書案には、正応3年との記載があり、西暦では1290年であり、史料に100年の開きがあり関守、富樫泰家は存在せず、別人ではないかと問題を提起されています。(2009年(平成21年)4月2日(木)、北陸中日新聞、朝刊より  勧進帳(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&sa=1&q=%E5%8B%A7%E9%80%B2%E5%B8%B3&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2

 一向一揆と冨樫氏の滅亡

 富樫館跡(本町、野々市)から北と西へとのびる野々市町(のち野々市市)は、中世には、野市(ののいち)と書きました。加賀の守護大名富樫氏の守護所に近く流通の中心地として栄え、藩政期には城下町金沢に隣接する在郷町となりました。

 富樫氏が加賀の武士団の棟梁として頭角をあらわすのは鎌倉中期、加賀の守護となるのは南北朝の初期です。15世紀にはその権力が確固たるものになり、館もその頃に構えられたという。

 高尾城跡(のち北陸自動車道の土取場から石川県教育センターへ、高尾、金沢)は、室町期、冨樫氏が館から南東に4kmばかり離れた、標高約170mの「ジョウヤマ」と呼ばれた山頂に築いた山城でした。1467年(応仁元年)、応仁の乱によって深刻化した冨樫氏の内紛、そこにつけこむ加賀の武士団の抗争、生活を圧迫された農民の不満、それを巧みに利用した本願寺派の蓮如による土豪以下の農民の組織化、それらがあいまって、1488年(長享2年)6月、一向宗浄土真宗門徒武力蜂起となりました。

 無力の守護大名冨樫政親(とがしまさちか、1455~1488)は、「南無阿弥陀仏」のむしろの旗のもとに結集した数万人の一揆軍に高尾城攻め滅ぼされ、それから約1世紀(90余年)の間、加賀一国を支配した「百姓ノ持タル国」という日本史上に例をみない「加賀一揆国」の体制が続きました。のち、加賀支配の中心は次第に、北隣の寺内町(じないちょう)の尾山(おやま、のち金沢)に移っていきました。

 加賀一向一揆は、1546年(天文15年)の金沢御堂(かなざわみどう、のち尾山城、金沢城へ)の設置を契機に大坂本願寺の支配に服し、加賀の門徒たちは本願寺の直参であることを誇りにしました。 

 加賀の門徒は、1570~80(元亀元年~天正8年)、石山本願寺(浄土真宗本山、蓮如開創、石山御堂、大坂御坊、大坂本願寺とも、のち大坂城、大阪城へ)の織田信長(1534~1582)との合戦での奮戦ぶりも、そこが原点でした。石山合戦以後も北陸では真宗浄土真宗、一向宗とも)門徒がふえ、東・西両本願寺と近世の寺檀制度(じだんせいど)のもと真宗王国と呼ばれるほど信徒数が増加し、現在に至っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991);石川県の歴史散歩研究会編(代表奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 石川県の歴史散歩編集委員会編(代表木越隆三): 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(追加説明、話題)

〇 野々市市ふるさと歴史館

 商業施設が立ち並ぶ野々市市中心部の国道8号のすぐ横に、縄文時代の遺跡がたたずむ。63年前に地元の中学生が発見し、約1万点の土器や石器が出土した御経塚遺跡だ。隣接する野々市市ふるさと歴史館ではこのうち約300点が展示され、当時の生活や儀礼を現代に伝えている。

野々市ふるさと歴史館(ホームページ): http://www.city.nonoichi.lg.jp/bunka/furusatorekishikan.html

(朝日新聞:野々市市ふるさと歴史館、御経塚遺跡の出土品300点展示、館長中3時の大発見、2017年(平成29年)4月19日(水)より)

〇 勧進帳 歴史伝える本物

 勧進帳とは、仏教の僧侶が寄付を集める際に持ち歩き、寄付の趣旨や寄付をした人の名前、金額などを書いたもの。

 中でも東大寺が奈良時代、平安時代末期、江戸時代初期に大仏や大仏殿の復興のために寄付を募った際に作られた勧進帳は有名です。 また、歌舞伎の演目では弁慶が義経に忠義を尽くし、関所を突破するため白紙の勧進帳を読み上げるシーンが広く知られている。

 歌舞伎の名作「勧進帳」に登場する東大寺(奈良県)の勧進帳の実物が2017年6月7日、作品の舞台「安宅の関」がある安宅住吉神社(小松市安宅町)と、源義経が立ち寄ったとされる白山比咩神社(白山市三宮町)に奉納された。小松市高堂町の」九谷焼作家、北村隆さん(70)が保管していたもので、北村さんは「物語の世界だけでなく、本物があったんだという、歴史を伝える史料として大切に残っていってほしい」と願いを込めた。

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上 奉納した勧進帳について説明する北村隆さん(右から2人目)と森本公誠さん(右)、江戸時代初期の元禄期に大仏殿の復興のために使われたもののうち、表紙と巻末の部分。10数年前に奈良市の美術商から2セット買い、自宅で保管してきたもの。東大寺での鑑定と修復を経て贈られた。

下 奉納された江戸時代初期の勧進帳。右側には復興する大仏などの説明が、左側には東大寺のいわれが書かれている、いずれも小松市安宅町の安宅住吉神社で

(北陸中日新聞(太田博泰): 勧進帳 歴史伝える本物、義経ゆかりの2神社に奉納、九谷作家 北村さん、2017年(平成29年)6月8日(木)より)

2012年3月 5日 (月)

神武天皇(じんむてんのう、初代)、神武東征(古事記・日本書紀)、日向(宮崎)から瀬戸内を経て熊野(和歌山・三重の南部)に上陸、大和(奈良)へ、熊野の神の毒気、とは(2012.3.5)

  神武天皇(じんむてんのう)は、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)で初代天皇とされる伝説上の人物で、天下を治めるべき地を求めて、日向(ひゅうが、ひむかとも、宮崎)から大和(やまと、奈良)に東征(とうせい)し、橿原(かしはら)にを定めて即位したという。

 古事記・日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。 古事記は、奈良時代(710~794)、太安万侶(おおのやすまろ、?~723)編纂(へんさん)、現存する日本最古の歴史書ですが、神話、伝説、多数の歌謡を含み、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語っています。 日本書記は、奈良時代、舎人親王(とねりしんのう、676~735)らの撰、現存する日本最古の勅撰の正史ですが、神話、伝説、記録などを修飾の多い漢文で記述した歴史書です。

 古事記・日本書紀に記されている有名な「神武東征(じんむとうせい)の話をはじめ天皇の事績についても、史実というよりは伝説、あるいは文学として読まれることが多いようです。なかでも神武天皇は、高天原(たかまがはら)の神々をはじめ八百万(やおよろず)の神々が織りなすロマン溢れる日本神話と、実在の天皇が登場する日本の歴史の間に立つ重要な存在として記されています。

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神武天皇の東征経路(とうせいけいろ、古事記神武東征、google画像) 神武東征(じんむとうせい、江古田原・沼袋合戦、ホームページ、伊藤): http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/jinmu.htm

(解説) 神武天皇は九州の日向(ひゅうが、ひむかとも、宮崎)に生まれ、3人の兄とともに育ちました。生まれながらにして賢く、気性もしっかりとしていて、15才で皇太子になったという。そして、45才のときに、天下に君臨するにふさわしい東方の「美き地(よきくに)」である大和(やまと、奈良)に都をかまえるために、大軍を率いて日向を発ちました。これが天武東征(てんむとうせい)の始まりでした。

 皇軍は速吸之門(はやすいなと、豊予海峡)で会った椎根津彦(しいねつひこ)を水先案内人として、海路、宇佐(うさ、大分)や安芸(あき、広島)、吉備(きび、岡山)などに立ち寄り滞在したあと、難波(なにわ、大阪)に到着しました。そこから生駒山(いこまやま)を越えて大和(やまと、奈良)に入ろうとしたのですが、土豪の長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあい、大和入りを果たすことはできませんでした。

 また、この戦いで兄の五瀬命(いつせのみこと)が重傷を負いました。そこで皇軍は再び海に出て、紀伊半島を南へ迂回(うかい)し、ようやく熊野(くまの、和歌山・三重の南部)から上陸しました。しかし、その間に傷ついた五瀬命をはじめ3人の兄が相次いでなくなりました。熊野に上陸を果たした神日本盤余彦(かむやまといわれびこ、神武天皇)の軍勢も、熊野の神の攻撃で、毒気(あしきいき)に当たり、全軍が倒れてしまいました。

 古事記によれば、大熊が見え隠れした直後に倒れたという。熊野の神国つ神、つまりその土地の豪族や首領だったと考えられています。大熊とあるのは、熊野だから、大熊は強力な勢力という意味ではないかという。

 日本書紀によれば、神武の軍勢が紀国(きのくに)で名草戸畔(なくさとべ)を、また熊野の荒坂津(あらさかのつ)で丹敷戸畔(にしきとべ)を倒したと記しています。トベのトは戸、ベはメの音転、女のことで、熊野灘沿岸を抑えていた勢力の長が女族長だったのかも知れないという。

 また、丹敷戸畔(にしきとべ)といふ者を誅(ころ)す。時に、毒気(あしきいき)を吐(は)きて、と書いているので、丹敷戸畔(にしきとべ)との戦いで毒気(あしきいき)に当てられたとも読めます。

 熊野の神の毒気(あしきいき)正体については、水銀中毒か鉱山の排ガス(硫化水素?)ではないか、という説があります。熊野の研究家、酒井聡郎(さかいとしお)氏は、神武軍がわざわざ熊野に回った理由は、金、銀、銅、水銀などの金属資源にあったのではないか、といった指摘をしています。

  1400万年前に紀南地方で繰り広げられた火山活動の結果、那智(和歌山)から熊野(三重)にかけての沿岸部一帯は、銅、硫化鉄、金、銀などの鉱床に恵まれる地帯となりました。そして、紀南地方には、妙法鉱山、鉛山鉱山(かなやまこうざん)、南海鉱山、道湯川鉱山、三陽鉱山など鉱山がたくさんありました。

 紀和町(熊野、三重)にあった紀州鉱山と勝浦町(那智、和歌山)にあった妙法鉱山は、「北の紀州、南の妙法」と名高く、銅を中心に硫化鉄や少量の金銀を産出してきたという。紀州鉱山の銅は、東大寺の大仏鋳造にも用いられたそうです。紀州鉱山は、1978年(昭和53年)、妙法鉱山は1972年(昭和47年)にそれぞれ閉山されました。 

紀州鉱山(気ままに鉱山・炭坑めぐり、妙法鉱山含む): http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/kisyuu01.html

  また、日本地質学会の会員であった、後誠介(うしろせいすけ)氏によれば、毒気(あしきいき)は鉱毒ではないかという説は興味深いという。金属資源の確保は古代の豪族にとって重要事項だったので、それをめぐる争いも当然あったでしょうと語っています。神武軍は資源をめぐって地元部族と戦い、毒ガス攻撃を受けたとすると、神武がわざわざ熊野をめざしたわけも説明できるという 

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八咫烏(やたがらす、神武東征、那智大社、和歌山、google画像)  八咫烏(やたがらす、google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F&hl=ja&rlz=1T4GGLG_jaJP443JP443&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=7QdCT8zbMKvImAXvv9HHBw&ved=0CEwQsAQ&biw=1366&bih=586. 

(解説) 熊野(三重)での天皇の危難を救ったのが霊剣韴霊(ふつのみたま)と八咫烏(やたがらす)でした。韴霊(ふつのみたま)は地元の高倉下(たかくらした)という人物が霊夢で天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられた剣であり、高倉下が神武天皇に奉じました。すると、倒れていた全軍は突然目を覚まし敵を倒したという。

 韴霊(ふつのみたま)は天理(奈良)の石上神宮(いそのかみじんぐう)の祭神となりました。実際は、高倉下(たかくらじ)率いる物部(もののべ)の軍勢が駆けつけ、形勢を逆転させ、その戦いの後に、高倉下が物部氏の刀剣を神武天皇に献上したことではないかという。 

 ところが、大和(奈良)を目指そうにも険しい山のなかには道もなく、一行は進むことも退くこともできず迷ってしまいました。すると、その夜、今度は天皇が霊夢を見て、天照大神(あまてらすおおみかみ)から道案内のための八咫烏(やたがらす)を与えられました。

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神武天皇一羽の金色の鵄(とび)、(神武東征月岡芳利(つきおかよしとし、1839~1892)、google画像) 神武東征(じんむとうせい、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81

(解説) 皇軍は、八咫烏(やたがらす)の導きで無事大和(奈良)の宇陀(うだ)に出ることができ、その後、大和の土豪を平定し、最後に強敵の長髄彦と激戦を交わしました。皇軍が苦戦していると、一羽の金色の(とび)が飛来し、天皇の矢の先に止まりました。鵄(とび)は光り輝き、その威力によって皇軍は長髄彦の軍勢を打ち破ることができたという。

 こうして神武天皇は、いくつもの危難を乗り越えてついに大和(やまと、奈良)を平定しました。そして畝傍山(うねびやま)の麓(ふもと)の橿原(かしはら)に宮殿(橿原宮)を建て、初代天皇として即位しました。「日本書紀」によると、天皇が即位した年は辛酉(かのとのとり)の年の1月1日で、紀元前660年とされています。

 日本書紀の紀年に従って、明治以降、この年を紀元元年としました。畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)はその陵墓としています。

 私は、1980年(昭和45年)8月11日(月)、マイカー(マツダ・サバンナ、4ドアセダン、オートマティック)で、家内(尊子)とはじめて熊野那智大社、那智の滝を訪れたあと新宮で宿泊、翌日、十津川に沿った国道168号線の山越えの途中、谷瀬の吊橋に立ち寄り、奈良まで縦走、奈良公園、猿沢の池を散策、興福寺を参拝したことがあります。道路が狭くて起伏に富み、山また山の中を走ったことが強く印象に残っています。

(参考文献) 永原慶二監修: 日本史事典(第1刷)、岩波書店(1999); 高森明勅監修: 歴代天皇事典、PHP文庫(2006); 朝日新聞: 熊野・大和 幻現行、 「海(あま)」から「天(あま)へ、熊野の神、「毒気(あしきいき)」の陰に資源争奪戦、2008年(平成20年)10月21日(火)、朝刊、より; 瓜生中: 知っておきたい日本の神話(第6版)、角川学芸出版(2009).

(参考資料) 高天原遙拝所(たかまがはらようはいしょ、宮崎観光写真、高千穂、宮崎): http://www.pmiyazaki.com/takachiho/takamagahara.htm

橿原神宮(かしはらじんぐう、橿原、奈良): http://www.naranet.co.jp/kashiharajingu/

(追加説明) ○ 神武天皇(じんむてんおう、生没年未詳)は、記紀伝承によれば、初代(第一代)皇で、名は神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と呼ばれています。高天原(たかまがはら)から降臨(こうりん)した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫で、祖父、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は海幸・山幸神話の山幸彦といわれ、その父は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、天岩屋神話で知られる皇祖神、天照大神(あまてらすおおみかみ、天照大御神とも)の孫にあたります。父、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第4子で、母は玉依り姫命(たまよりひめのみこと、海神の娘)です。

2012年1月11日 (水)

聖徳太子(しょうとくたいし、飛鳥時代)、日本書紀に記された推古天皇(女帝)の皇太子、聖徳太子(摂政)は、実在した人物、それとも創作された人物(実証的歴史学)なのか(2012.1.11)

   近年、飛鳥時代(あすかじだい)、日本書紀(にほんしょき)に記されていた、深く仏教に帰依(きえ)し、律令制国を治めたとされる聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)について、近代の実証的歴史学の積み重ねから、「聖徳太子はいなかった」との説が発表されています。 日本書紀(にほんしょき)は、日本最古の正史(六国史の第一)、舎人親王(とねりしんのう、676~735)らの撰で、奈良時代、720 年(養老4年)に完成しました。

 そこで、中学、高校の教科書でも学んだ、飛鳥時代の中心的な政治家、思想家、推古天皇の皇太子、摂政、聖徳太子(しょうとくたいし)について、改めて調べてみました。

○ 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)の伝承

聖徳太子及び二皇子肖像画(奈良時代、御物、宮内庁、google画像)  

聖徳太子の肖像画(聖徳太子のこと、奈良観光ホームページ、藤原敞(本文・写真)、浦野英孝(管理)、奈良): http://urano.org/kankou/topics/taishi/index.html. 日本最古の肖像画で、中央が太子、向ってが嫡子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、が弟の殖栗王(えぐりのおう)。推古天皇の時に来日した百済(くだら)の阿佐太子(あさたいし、生没年未詳)のと云われています。

 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)は、父が第31代、用明天皇(ようめいてんのう、?~587)、母が穴穂部間人(あなほべのはしひと、?~621)皇后の間に生まれた7世紀の有力王族で、いずれも蘇我氏の血が濃く、蘇我・物部の争いでは、蘇我馬子(そがのうまこ)の陣営に第30代、敏達天皇(びだつてんおう、?~585)系王族と共に加わりました。聖徳太子(しょうとくたいし、飛鳥の扉): http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/shotokutaishi.htm.

 厩戸皇子(うまやどおうじ、厩戸王とも)の名前の由来は、厩(うまや)の前で生まれたとされることによるものです。幼いころから聡明(そうめい)で、7才の時に百済(くだら)から献上された経綸数百巻を読破したという。長じては、10人の人々の訴えを同時に聞いて、それぞれに正しい答えを返したというので、尊敬をこめて豊聡耳王子(とよとみみおうじ)とも呼びました。また、仏教の立場から徳を称える聖王・法王・法大王・法王大王・上宮太子などの称号がありました。のち、高句麗(こうくり)や百済(くだら)の知識人から帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになりました。

 592年、有力豪族の蘇我馬子(そがのうまこ、?~626)の謀(はかりごと)によって第32代、崇峻天皇(すしゅんてんのう、?~592)が暗殺されると、馬子は姪(めい)の第33代、推古天皇(すいこてんのう、554~628、39才)を皇位につけました。

 593年(推古1年)、蘇我氏の血筋を引く聖徳太子(しょうとくたいし、20才)は、皇太子、摂政(せっしょう)となり、大臣(おおおみ)に就任した蘇我馬子(そがのうまこ))と共に、飛鳥(あすか)の豊浦宮(とゆらのみや)で史上初の女帝の政治を助けることになりました。 

 601年(推古9年)、飛鳥(あすか)から20kmほど離れた斑鳩宮(いかるがのみや)の造営に着手し、605年には斑鳩に遷居し、以後上宮王家一族の安定した基盤の地となりました。これは、蘇我馬子(そがのうまこ)との対立に疲れたためと考えられています。

 603年(推古11年)、聖徳太子は、蘇我氏を牽制(けんせい)し、天皇の権威を高める政策として、冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定め、翌年には憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)を制定しました。

 607年(推古15年)、朝鮮問題の打開などを企画して、小野妹子(おののいもこ、生没年不詳)を第1回の遣隋使として中国に派遣しました。そして隋との対等の国交を開き、留学生・留学僧を送って大陸文化の導入に努めました。朝鮮半島では、伽耶(かや)諸国を滅ぼした新羅(しらぎ)に対し、第1回の遠征軍を派遣しました。

 620年(推古28年)、聖徳太子は蘇我馬子とともに天皇記(てんのうき)、国記(こっき)などを編纂、622年(推古30年)に死去しました。628年、第33代、推古天皇(すいこてんのう)が死去し、第34代、舒明天皇(じょめいてんのう、?~641)が即位しました。

 聖徳太子は、日本の伝統精神、仏教や儒教など、内外の学問に通じ、特に仏教に対しては深い理解と信仰を示し、その著作とされる、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」には独自の解釈がうかがわれ、法隆寺(ほうりゅうじ、斑鳩町、奈良)、中宮寺(ちゅうぐうじ、斑鳩町、奈良)、発起寺(ほっきじ、斑鳩町、奈良)、橘寺(たちばなでら、明日香村、奈良)、葛木寺(かつらぎでら、所在不明、奈良?)、広隆寺(こうりゅうじ、京都)、四天王寺(してんのうじ、大阪など7寺建立したといわれています。

 「和を以て貴しと為す」との教えや貧しい者への優しい眼差(まなざ)し、太子の言葉とされる世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)の無常観など、今も人の心を打つものがあります。

 聖徳太子に対する後世の強い信仰を示すものとして多くの太子伝絵伝、太子像などがあります。聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)は、聖徳太子の伝記を絵画化したもので、神話化された要素が多い。

 現存最古の作例は、平安時代、1069年(延久1年)、秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだとも、生没年未詳)が描いた旧法隆寺絵殿の障子絵(東京国立博物館蔵屏風)で、鎌倉時代以降、太子信仰や祖師絵伝絵巻制作の流行に伴って絵巻や掛幅が多く作られ、絵解きに使用されました。 

聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん、国宝・重要文化財、秦致貞東京国立博物館蔵): http://www.emuseum.jp/detail/100205?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=12&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=9&mode=detail&century=.

○ 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)の非実在

 「聖徳太子はいなかった」との戦後歴史学の決定的な結論は、大山誠一(1944~ )中部大学教授の1996年(平成8年)からの「長屋王家木簡と金石分」「聖徳太子の誕生」「聖徳太子と日本人」などの一連の著書と論文、それに同教授グループの2003年(平成15年)の研究書「聖徳太子と真実」でした。 聖徳太子の非実在聖徳太子とは誰のことかシステムアーカイブ): http://www.systemicsarchive.com/ja/a/shotoku.html.

 それらによると、数多くの伝承や資料のうち、太子の偉大さを示す業績は、日本書紀が太子作として内容を記す「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」「三経義疎(さんぎょうのぎしょ)」の二つに限られるそうです。 

 このうち「十七条憲法」については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、戦前に津田左右吉(つだそうきち、1873~1961)博士が内容、文体、使用言語から書記編集者たちの創作などと結論、早大を追われたのは有名とのことです。

 また、「三経義疎」については、仏教の注釈書で太子自筆とされる「法華義疎」も現存しますが、これらも敦煌学(とんこうがく)権威の藤枝晃(ふじえだあきら、1911~1998)京大教授によって、6世紀の中国製であることが論証されてしまったとのことです。

 法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の碑文には、623年、厩戸王(うまやとおう、聖徳太子、しょうとくたいし、とも)の冥福(めいふく)を祈って一族・諸臣らが発願(ほつがん)し、鞍作鳥(くらつくりのとり、止利仏師、とりぶっし、とも、生没年未詳)につくらせたとあります。北魏(ほくぎ)様式の代表的な仏像(金銅像)です。

 その結果、法隆寺金堂釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)や薬師如来像(やくしにょらいぞう)、中宮寺天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)も、その光背の銘文研究や使用されている暦の検証から太子の時代より後世の作であることが明らかになってきました。

 国語・国文学、美術・建築史、宗教史からも聖徳太子の実在は次々と否定され史実として認められるのは、第31代、用明天皇の実子または親族に厩戸王が実在し、斑鳩寺(法隆寺)を建てたことぐらいとのことです。

 ということで聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢になりました。 大山誠一教授の説くところ、そのいずれもに重大な役割を果たしたのが、女帝の第41代、持統天皇(じとうてんのう、645~702)の側近の藤原不比等(ふじわらのふひと、659~720)で、また、長屋王(ながやのおおきみ、?~729)や唐留学帰りの僧・道慈(どうじ、?~744)が関与、多くの渡来人が動員されたとのことです。

 日本書紀は、720年(養老4年)完成の最古の正史で、その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の中央集権国家が形成されました。隋・唐の統一と東アジアの太動乱、それによる大化の改新(たいかのかいしん、645年、大化1年)や壬申の乱(じんしんのらん、672年)を経て、古代社会の「倭の大王」は「日本の天皇」へ変わったとされています。

 このような大変革の時代の日本書紀の任務は、誕生した天皇の歴史的正統性と権威の構築でした。それが、高天原ー天孫降臨ー初代、神武天皇(じんむてんのう、生没年未詳)ー現天皇と連なる万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる聖天子、聖徳太子の権威の創作など、日本書記は政治的意図が込められた歴史書とのことです。

 日本書紀で展開された思想と論理は、1300年後の現代にまで引き継がれ、戦後の1946年(昭和21年)とその翌年に制定された現行の日本国憲法と皇室典範は、皇位は世襲で、皇統に属する男系の男子がこれを継承する、と定めています。

 私には、聖徳太子は、中学、高校の教科書の中の知識しかなく、「聖徳太子は創作された人物で、実在しなかった」との近代の実証的歴史学の結論には、お札の中の肖像画の姿が印象深く、少なからず驚きました。

 (参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 福井県立若狭歴史民俗資料館編: 福井県立若狭歴史民俗資料館 常設展示図録(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 北陸中日新聞社説: 書き換わる聖徳太子像、週のはじめに考える、2008年(平成20年)2月10日(日)朝刊; 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 山川 詳説日本史図録(第藩)、山川出版社(2009).

2011年12月 1日 (木)

魏志倭人伝(三国志、中国)に記された倭国の女王(卑弥呼)、邪馬台国は近畿地方なのか、九州地方なのか、カミ(神)、日本にゆかりの地名、とは(2011.12.1)

    原始から古代弥生時代の終わり頃、中国の魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記されていた倭国(わこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)、邪馬台国(やまたいこく)について、いろいろな文献や遺跡による解明が試みられています。が、現在でも、邪馬台国の位置については、近畿地方あるいは九州地方か、はっきり分かっていないという。そこで、倭国(わこく)の中の邪馬台国(やまたいこく)とその国の女王、卑弥呼(ひみこ)について、改めて調べてみました。

 ところで、弥生時代になると、農耕(稲作)が発達し、農作物(米)という財産(貯蔵)に基づく貧富の差が生じ、次第に人々を指導する有力者(豪族!)が現れ、階級社会と財産をめぐる戦争が始まりました。住居も、外敵に備え、周囲を濠(ほり)と柵(さく)で囲った、環濠集落(かんごうしゅうらく)が九州北部地方近畿地方に見られるようになりました。

 また、瀬戸内海を臨む高台には、情報を知らせる狼煙台(のろしだい)、けわしい山上に住居を構える高地性集落(こうちせいしゅうらく)も出現しています。その後、地域の諸勢力(豪族!)の戦争、政治的な統合により(くに)が生まれました。 

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)とは、3世紀に中国の西晋(せいしん)の陳寿(ちんじゅ)が編纂(へんさん)した三国志のうちの魏書東夷伝(ぎしょとういでん)倭人条の通称です。紀元後2世紀には大乱があり、邪馬台国卑弥呼が約30ヶ国に共立されたと記されています。卑弥呼は抗争していた狗奴国(くなこく、邪馬台国に敵対していた倭のもう一つの国、諸国の盟主)との戦いを有利に進めるため、(ぎ)が朝鮮半島に設置した帯方郡(たいほうぐん)との間に交渉をもち、239年(景初3年)には親魏倭王(しんぎわおう)の称号を得ました。

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魏志倭人伝(ぎしわじんでん、三国志、陳寿(ちんじゅ)編、西晋、中国、google画像) 魏志倭人伝(ぎしわじんでん、現代語訳、中野邦雄、弥生ミュージアム、国営吉野ヶ里歴史公園、佐賀): http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/index.html.

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)より古い、後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)には、紀元2世紀後半、原始から古代、弥生時代の終わり頃、「倭国大いに乱れ更相攻伐(こもごもあいこうばつ)して暦年主(れきねんぬし)なし」と記されています。

 さらに古い、日本の記述がある漢書地理誌(かんじょちりし)には、紀元前1世紀頃の日本が(わ)と呼ばれ、100国ほどの小国に分裂し、後漢、漢王朝の楽浪郡(らくろうぐん)に倭国王、帥升(すいしょう)らが朝貢し、奴隷160人を献上したと記されています。

○ 女王卑弥呼(ひみこ、ひめことも、?~247頃)と邪馬台国(やまたいこく)

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によれば、3世紀の前半期の倭国の中心的な国であった、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)は、太陽の霊威を身に着けた女性を意味する首長の称号で、「鬼道(きどう)に仕え、よく衆を惑わす」とあり、巫女(みこ)的性格をもつ女酋(じょしゅう)と考えられています。

 卑弥呼は、紀元後2世紀末頃、倭国の争乱の末に諸国の首長たちに共立されて王となりました。そして邪馬台国に都し、楼観・城柵を備えた宮室を居処とし、鬼道と呼ばれる呪術行為をもって統治に当たり、倭国の約30ヶ国が女王の統治下にあり、弟が政治を補佐し、結婚せず、人前に姿を見せることは少なかったという。 

 また、卑弥呼は抗争していた狗奴国(くなこく、男の王、卑弥弓呼、伊勢湾沿岸、諸国の盟主)との戦いを有利に進めるため、中国で後漢(ごかん)王朝が滅び、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)の三国時代になると、魏(ぎ)が朝鮮半島に設置した帯方郡(たいほうぐん)との間に交渉をもち、239年(景初3年)には、(ぎ)に使者、難升米(なしめ)を遣わして、帝より親魏倭王(しんぎわおう)の称号を与えられ、金印銅鏡100枚などを授かったという。

 紀元2世紀後半、弥生時代後期、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)より古い、後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)に記されている、光武帝(こうぶてい)から授かったという「金印」は、江戸時代、1784年(天明4年)、博多湾の志賀島(しかのしま)で農民によって偶然発見されました。

 ということで、三国志、魏志倭人伝(さんごくし、ぎしわじんでん)に記されている、卑弥呼(ひみこ)に授けられた「金印」が見つかれば、邪馬台国(やまたいこく)の位置が分かるのではないか、と期待されています。

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金印(きんいん、国宝、志賀島、福岡、google画像) 金印(きんいん、志賀島出土、福岡市博物館、福岡):http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr2.html. 金印つまみの部分はがかたどられ、押印の部分は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と刻まれています。 金印(きんいん、邪馬台国大研究ホームページ、東京国立博物館): http://inoues.net/tokyo_museum/heiseikan17.html.

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銅鏡、三角縁神獣鏡((さんかくぶちしんじゅうきょう、google画像) 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう、邪馬台国の会): http://yamatai.cside.com/tousennsetu/sinnzyuukyou.htm.

 邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)は、245年と247年、狗奴国(くなこく)との戦争に際し、魏から黄幢や檄を送られて支持されましたが、その最中に死没、径百余歩(約150m)もある墳墓に葬られ、100余人が殉死、のち、男王が立ったが治まらず、13才の娘、壱与(いよ、台与、とよ、とも)を王としてようやく国中が治まったという。

 邪馬台国(やまたいこく)の所在地について近畿か九州かの論争があるのは、中国の歴史書、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の一節にしかその位置の記述がなく、そこに書かれた邪馬台国にいたる行程は、記述どおりの距離と方向に進むと、日本列島をつき抜けて南洋上に出てしまうことに起因しています。 邪馬台国を行く(筑紫研):http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai00.htm. 

 近畿説については、日本書紀が卑弥呼を神功皇后(じんぐうこうごう)と見なしてから、鎌倉時代に邪馬台国は大和政権とする説が出され、大和(やまと、奈良県)にあったとされた。その後、魏志倭人伝の不弥国(ふみこく、福岡県宇美町、飯塚市付近か?)の南にあるとの記述を、東の誤りと解釈し、邪馬台と大和の音の一致、3世紀の大型墳丘墓や大規模集落遺跡の存在などを根拠としました。

 また、卑弥呼が魏の王から賜ったとする銅鏡、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が近畿の前方後円墳や円墳から多く出土していると考えています。

 一方、九州説については、江戸時代になって、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)らが九州説を主張しました。その後、魏志倭人伝の不弥国(ふみこく、福岡県宇美町、飯塚市付近?)の南にあるとの記述を、伊都国(いとこく、福岡県前原市付近?)の南にあると解釈しました。

 また、近年の考古学の発見によれば、3世紀の北九州は、吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)など繁栄していたとされ、近畿で出土する卑弥呼が賜ったとする銅鏡、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は国産であると考えています。吉野ヶ里歴史公園(よしのがりれきしこうえん、神埼市、佐賀): http://www.yoshinogari.jp/.

 最近、2011年(平成23年)1月20日(金)、桜井市教育委員会(奈良)は、邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)が見つかった桜井市(奈良)纒向遺跡(まきむくいせき)で、祭祀(さいし)の際に供えたと見られるタイなどの魚の骨、シカなどの動物や鳥の骨が見つかったと発表しました。(2011年(平成23年)1月22日(土)、北陸中日新聞、朝刊、より) 

 纒向遺跡(まきむくいせき、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=imvnsl&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=h8LMTpmXOen9mAXkgsjODQ

 また、鯖江市教育委員会(福井)は、鯖江市(福井)などにまたがる弁財天山(120m)の山頂に、弥生時代後期(1~2世紀初頭)の北陸最古の高地性環濠集落(こうちせいかんごうしゅうらく)とみられる遺構が見つかったと発表しました。弁財天山の尾根一帯は、30以上の墳墓や古墳が分布する市史跡「弁財天古墳群」の一角です。(2011年(平成23年)11月24日(木)、北陸中日新聞、朝刊、より)

弁財天古墳群(べんざいてんこふんぐん、鯖江市教育委員会、福井): http://www3.city.sabae.fukui.jp/vod/takara/6/bunkazai/87.html.

 ということで、邪馬台国の所在地については、近畿説、九州説の2説が後世へと引き継がれ、現在に至っています。

 私は、京都か東京の国立博物館で志賀島で発見された金印の展示を見たことがありますが、拡大鏡を通して見るほど意外に小さな金印であったことが強く印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 福井県立若狭歴史民俗資料館編: 福井県立若狭歴史民俗資料館 常設展示図録(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 山川 詳説日本史図録(第藩)、山川出版社(2009).

(追加説明) ○ 人々は古代から、人知を越えたものを創案し、カミ神)と呼びました。そのカミ(神)が「古代国家の成立に関係している」と、広瀬和雄(ひろせかずお、1947~ )歴史民俗博物館教授が提唱しています。

 「自然神のカミ(神)は弥生時代に豊作を保障するものとして登場し、やがて亡き首長(王)がカミ(神)とされるようになった。そのカミ(神)の座所として、前方後円墳がつくられるようになった」と、近著「カミ(神)観念と古代国家」(角川学芸出版)で述べています。 

 大和政権が運営した、3世紀に完成する前方後円墳の後円部は、方形と円形の二つの区画から成っています。古来、中国で大地は人の住む世界方形で表しています。「亡き首長が眠っているのがその方形の区画の部分で、前首長がカミ(神)になった空間である円形で、ここでカミ(神)に昇華した」と考えています。(2011年(平成23年)1月23日(日)、遺跡にみる「カミと国家」、朝日新聞、朝刊、より

○ 日本の地名 わが国には2000年近く前の地名が今も生きています。「魏志倭人伝」に出てくる対馬、一支(壱岐)、末廬(松浦)、伊都(糸島)などの地名が今日、日常に使用されています。また「魏志倭人伝」には、対馬、奴(な)、不弥(うみ)の国の副長官を卑奴母離(ひなもり)と呼ぶことがあります。それは地名として後世に残っています。「和名抄」には越後国頸城(くびき)郡に夷守郷(ひなもり)郡があります。(谷川健一著、日本の地名(第9刷)、p.218、「いと小さき」地名、岩波新書(1998)より

 

2011年8月27日 (土)

大野弁吉(幕末の科学技術者、加賀、石川)、からくり師弁吉、平賀源内(讃岐、香川)、からくり儀右衛門(久留米、福岡)の技術にも匹敵、大野お台場公園のお台場、とは(2011.8.27)

  からくり(絡繰)とは、広辞苑によれば、「糸のしかけであやつって動かすこと。 また、その装置。転じて、一般に、しかけ。絡繰人形(からくりにんぎょう)と同じで、糸やゼンマイなどの仕掛け(しかけ)で、動くように造った人形」、とあります。

 江戸時代、加賀(石川)では、からくり人形の製作者、大野弁吉(おおのべんきち、1801~1870,中村屋弁吉とも)が有名で、北前船の豪商、銭屋五兵衛(ぜにやごへい、1773~1852)の有能なブレーン(助言者)でもありました。 

○ 大野弁吉中村屋弁吉とも、加賀、石川)

大野弁吉(おおのべんきち、中村屋弁吉とも、1801~1870、肖像写真、江戸後期、大野、金沢、石川)とからくり三番叟人形(さんばそうにんぎょう、座敷からくり、江戸後期  大野弁吉(写真、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%BC%81%E5%90%89+%E5%86%99%E7%9C%9F&hl=ja&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=EZBYTsf9G6TNmAWL15iQDA&ved=0CCUQsAQ&biw=1024&bih=591.

(解説) 大野弁吉(おおのべんきち、1801~1870,中村屋弁吉とも、加賀、石川)は、京都五条通り、羽子細工師の子として生まれ、幼少のころから非凡な才能をあらわすとともに、20才のころ長崎に出て、オランダ人から理化学、医学、天文、暦数、鉱山、写真、航海学を修得したという。その後、対馬から朝鮮に渡り、さらに紀伊の国などに赴(おもむ)いて、馬術や砲術、算術、暦学を究(きわ)めたという。やがて京都に帰り、中村屋八右衛門の長女うた(加賀国大野村生まれ)の婿(むこ)となり、1831年(天保2年)石川郡大野村(金沢市大野町)に移住し、1870年(明治3年)5月に没するまで、大野の地で居住しました。その墓は大野伝泉寺にあります。

 大野弁吉は、加賀の平賀源内(ひらがげんない、1729?~1779、讃岐、香川)とも呼ばれ、その技術は東芝の創業者で「からくり儀右衛門」と呼ばれた(初代)田中久重(たなかひさしげ、1799~1881,久留米、福岡)にも匹敵すると言われています、大野弁吉からくりの作品と諸資料は、金石(金沢)の北隣、大野お台場公園の北側にある石川県金沢港大野からくり記念館に展示されています。 一東、鶴寿軒と号し、木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などのほか、からくり人形には優れた名作を多く残しました。 石川県金沢港大野からくり記念館(大野、金沢): http://www.ohno-karakuri.jp/

○ 平賀源内(讃岐、香川)、からくり儀右衛門田中久重とも、久留米、福岡) 

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平賀源内(ひらがげんない、1729?~1779、讃岐、香川)

(解説) 平賀源内(ひらがげんない、1729?~1779,讃岐、香川)は、江戸中期の科学者、戯作者(げさくしゃ)、浄瑠璃(じょうるり)作者で、名は国倫、号は鳩渓、戯号は風来山人、福内鬼外などです。高松藩(讃岐、香川)の小吏(しょうり)の家に生まれ、1752年(宝暦2年)に長崎に留学、1754年(宝暦4年)江戸に出て本草学(ほんそうがく)を学びました。物産会を開いて物類品隲(ぶつるいひんしつ)を著(あらわ)し、エレキテル、寒暖計、火浣布(かんかふ、石綿布)などを製し、鉱山発掘を計画し、油絵の洋風画も描きました。その間、致仕浪人し、学問のかたわら談義本や浄瑠璃を執筆しました。多才にして世にいれられず、晩年生活が荒れ、口論から人を殺傷(さっしょう)して獄死(ごくし)しました。 平賀源内記念館(志度、さぬき市、香川): http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/

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からくり儀右衛門(からくりぎえもん)は、(初代)田中久重(たなかひさしげ、1799~1881、久留米、筑後、福岡)

(解説) からくり儀右衛門(からくりぎえもん)は、(初代)田中久重(たなかひさしげ、1799~1881、久留米、筑後、福岡)の異称(いしょう)で、(初代)幕末・明治初期の技術者です。久留米絣(くるめがすり)の織機を製作、また水仕掛けのからくり人形を作り、「からくり儀右衛門」と称しました。京都で蘭学を学び時計の製作などに従事、のち大砲や汽船の汽缶(きかん)を製作、維新後は東京新橋に田中工場を設立し、電信機械を製作しました。

 (2代)田中久重(たなかひさしげ、1846~1905)は、初代の養子で、幼名、金子大吉です。田中工場を東京芝浦に移し、民間最大の機械工場(のちの芝浦製作所、東芝)に発展させました。 田中久重東芝未来科学館、川崎市、神奈川県): http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/toshiba_history/roots/hisashige/index_j.htm

 からくりは、遊戯(ゆうぎ)の中で生まれたオモチャですが、その時代の先端(せんたん)の科学技術が利用されています。その仕組みには、日本の職人の創意、工夫、技術、美しさへのこだわりが生きています。それらは、からくりを楽しむ人々の遊び心や好奇心を満たし、現代の人々にも脈々と受け継がれています。

 私は、からくり記念館(大野、金沢)には、これまで何度かマイカー(ファミリア1500)で訪れ、からくりの実演を見て、体験もし、その仕掛けの巧妙なことに驚いたことがあります。その時、からくり人形を動かすゼンマイに、クジラ(鯨)のヒゲが使われていたのが、強く印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); からくり記念館(石川県金沢港大野)編: 展示図録、パンフレット、幕末の科学技術者、大野弁吉の世界(1996); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.210~212,米田茂、大野弁吉ーからくり人形の発明者ー、裳華房(1997).

○ 平安時代末、1157年(保元2年)、梁塵秘抄(りょうじんひしょう、今様歌謡集、後白河法皇編著)の中の言葉、「遊びやせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」(遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか、戯れをしようとして生まれてきたのだろうか、一心に遊んでいる子どもの声を聞くと、私の体まで自然に動き出してくることだよ。 植木朝子編、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)には、江戸時代に花開いた日本文化が端的に表されているという。

 平和な江戸時代には、武士も庶民も我々が考える以上に遊び、生活を楽しんでいたという。その中からからくりも生まれました。(からくり記念館パンフレットより) 梁塵秘抄童心の歌遊びやせんとや生まれけむ ---、 つれづれの文庫、趣味の文書室): http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_06.html

○ 大野お台場公園  公園のお台場名の由来として、幕末期に外国船の来航に対する防御策として、徳川幕府の海防令により、1850年(嘉永3年)5月から、加賀藩が領有地の加賀、越中、能登の三州に火矢筒、大砲を備える17箇所の台場の築造に着手し、その中に大野お台場がありました。

 加賀藩の三州のお台場として、加賀(本吉、大野、寺中、宮腰、畝田)、能登(今浜、福浦、黒島、輪島、狼煙、正院、宇出津、曽良)、越中(氷見、伏木、方生津、生津)など17箇所に築造されたという。現在、本吉(美川)、大野、寺中(金石)復元して園となっています。(板垣英治:加賀藩の火薬 Ⅷ. 三州海岸の台場築造に関する調査・研究、日本海域研究 第44号別冊、p.23~38(2013).)加賀藩の火薬 Ⅸ. 17箇所の台場の規模と砲備の研究、日本海域研究 第44号別冊、p.39~55(2013).)

 台場(だいば、お台場とも)、江戸末期に黒船襲来に備え、海防に備えた大砲の砲台、品川台場(江戸、東京)、大野お台場(加賀、石川)、のち大野お台場公園、とは(2014.10.30):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/
2014/10/20141030-d9dd-1.html

○ 台場(だいば) 江戸末期に江戸湾(東京湾)品川沖に築かれた砲台品川台場お台場とも。黒船来襲に備えて1853年嘉永6年)から7砲台が築かれました。(下中邦彦編:小百科事典(初版)、平凡社(1973).)

2011年6月26日 (日)

薩摩藩主(第11代)島津斉彬、お由羅騒動(跡継ぎ)、尚古集成事業(富国強兵、殖産興業)、明治維新への道(将軍継嗣問題、江戸城の無血開城)、薩摩言葉(鹿児島弁)、サツマイモ、サトウキビ、とは(2011.6.26)

   幕末、1842年(天保13年)、清(中国)はアヘン戦争に敗れ、イギリスと南京条約を結び、開国しました。徳川幕府は、オランダからアヘン戦争のことを知らされ、同年、異国船打払令を撤回、薪水給与令を発して、外国との衝突を回避しました。

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島津斉彬(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC

 島津斉彬(しまづなりあきら、1809~1858)は、幕末の薩摩藩主(鹿児島、第11代) 、父は薩摩藩主(第10代)島津斉興(しまづなりおき、1791~1859)の嫡子として江戸薩摩屋敷で誕生しました。母は因幡(鳥取、第6代)藩主池田治道の娘彌姫(いよひめ、賢章院、けんしょういん)です。幼名は邦丸(くにまる)、のち又三郎忠方、さらに16才の時、将軍(第11代)徳川家斉(とくがわいえなり、1773~1841)の1字をもらい斉彬と称しました。

○ お由羅騒動

 幕末の頃、薩摩藩の藩主交代をめぐり内紛が起こりました。薩摩藩主(第10代)島津斉興(62才)の第1子、斉彬(なりあきら、43才)は積極開明的でしたが、天保の藩政改革で自重策をもって成果をを挙げた家老調所広郷(ずしょひろさと、1776~1848)の流れをくむ調所派は、斉彬の継嗣に反対し、斉興の側室お由羅の子、第5子久光(ひさみつ、1817~1887、のち第12代藩主)、35才、を擁立しました。斉彬擁立派も、島津壱岐、高崎温恭以下が調所派を除く画策を進めたが露見し、1849年(嘉永2年)弾圧され、高崎らが自刃しました。その後、福岡藩主黒田斉溥、宇和島藩主伊達宗城(1818~1892)、老中阿部正弘(1819~1857)らの尽力と脱藩した斉彬派の運動により、斉興(62才)は隠居し、斉彬(43才)は1851年(嘉永4年)ようやく家督を継承しました。この世継ぎをめぐる内紛は、お由羅騒動(おゆらそうどう)と呼ばれています。

○ 尚古集成事業(富国強兵、殖産興業)

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尚古集成館(しょうこしゅうせいかん、島津、鹿児島、google画像)

(解説) 1851年(嘉永4年)2月、薩摩(第11代)藩主(島津家第28代当主)に就任した島津斉彬(43才)は、1853年(嘉永6年)6月3日夕方、浦賀(相模、神奈川)にアメリカのペリー来航直後から開国、通商派で、藩の軍事力の近代化、洋式産業の振興をはかるため、尚古集成館(旧集成館機械工場)を建設しました。そして、科学技術を積極的に取り入れ、軍事力を強化、商工業の活動も強く推進(富国強兵殖産興業!)しました。 尚古集成館(ホームページ、島津、鹿児島): http://www.shuseikan.jp/

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礒庭園(いそていえん、仙巌園とも、上 大砲と砲台、 下 反射炉跡、島津、鹿児島、google画像)

(解説) 集成館事業では、まず、鶴丸城内に製錬所をつくり、各種の基礎実験を行い、礒邸内で実用化していきました。集成館では、反射炉、熔鉱炉、鑽開台(さんかいだい、鋳造された砲身の刳りぬき工場)をつくって鉄製の武器(刀剣)、大砲鋳造、地雷や水雷などの起爆剤、雷汞(らいこう、雷酸第二水銀、Hg(ONC)2)の製造など軍事力の強化をはじめ、農具、ガラス、陶磁器などの製造、ガス灯や写真撮影、活字印刷などの事業も積極的に行っています。 また、造船事業にも強い関心をもち、洋式帆船いろは丸、洋式軍艦昇平丸を建造し、日の丸(日章旗)船印と定めました。

 尚古集成館のすぐ北にあるのが礒庭園(いそていえん)、島津氏の礒別邸です。この庭園は仙巌園(せんがんえん)とも呼ばれ、眼前には錦江湾(きんこうわん)と桜島が美しい。入り口を入るとすぐ左手に反射炉跡があります。斉彬が1853年(嘉永6年)、佐賀の反射炉をモデルにして苦心の末に完成させたものです。 礒庭園仙巌園とも、ホームページ、島津、鹿児島): http://www.senganen.jp/

 現在は、炉床の部分しか残っていませんが、かってはこの上に耐火レンガの炉が築かれ、さらに2本の長い煙突が立っていたという。この反射炉の完成で大量の鉄を生産できるようになり、この鉄でつくった大砲が祇園州(ぎおんのす)など各所の砲台に設置され、1863年(文久3年)7月、鹿児島湾での薩英戦争(さつえいせんそう)のとき使用されました。反射炉のすぐ裏側には熔鉱炉跡があり、また、鑽開台(さんかいだい)もすぐ隣の、鶴嶺神社のあるあたりにつくられていたという。

○ 明治維新への道(将軍継嗣問題、江戸城の無血開城)

 江戸幕府は ペリーが来航した1853年(嘉永6年)6月3日後、同月22日に将軍(12代)徳川家慶(とくがわいえよし、1793~1853)がこの世を去り、翌7月、家慶の4男、家祥(いえさち)が家定(いえさだ)と改名して将軍(13代)に就任しました。が、家定は極めて病弱で老中らに幕政を一任しました。家定は公家出身の正室2人を亡くし、3人目は阿部正弘の雄藩協議策により薩摩藩の篤姫(あつひめ、のち天璋院、てんしょういん)をめとりましたが、跡継ぎもいなかったため、将軍就任後まもなく、徳川将軍家の継嗣(けいし、跡継ぎ)の問題が浮上することになりました。 

 1856年(安政3年)、従兄である斉彬の養女となる島津家一門生まれの篤姫(のち天璋院、1836~1883)21才は、右大臣近衛忠熙(このえただひろ、1808~1898)の養女を経て、将軍(13代)徳川家定(とくがわいえさだ、1824~1858)33才の正室として大奥に入ったのは、将軍継嗣問題で、一橋慶喜擁立のためと言われています。

  薩摩藩主島津斉彬は、この将軍継嗣問題においては、安政の改革を行った老中阿部正弘(あべまさひろ、1819~1857、もと福山藩主)、水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき、1800~1860)、宇和島藩主伊達宗成(だてむねなり、1818~1892)らと結び、斉昭の第7子で一橋家養子、当主、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、1837~1913、のち江戸幕府最後の将軍(15代)徳川慶喜)派側に立ち、西郷隆盛(さいごうたかもり、1827~1877)18才らを使って運動しました。彼ら幕政改革派一橋派と呼ばれていました。

 が、1857年(安政4年)、阿部正弘が死去、 また、1858年(安政5年)、家定も死去、同年4月下旬、突如として大老に就任した藩政保守派、将軍家の血縁と幕府の権威回復を重視する南紀派の領袖、彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ、1815~1860)43才は、大老就任直後から強権を発動、御三卿・一橋家の慶喜を支持した薩摩藩島津斉彬、土佐藩山内豊信、越前藩松平慶永らの一橋派の意向に反し、同年5月上旬、将軍(14代)として御三家・紀伊藩主徳川慶福(とくがわよしとみ、1846~1866、のち家茂、いえもち)13才と定めたほか、同年6月、アメリカのハリスに押し切られ、勅許を得ないまま日米通商条約調印を強行し、一橋派や朝廷の強い反発を招くことになりました。

 島津斉彬もまた、1858年(安政5年)7月、藩地天保山で大規模な軍事訓練(富国強兵!)後、48才10ヶ月で急死、藩主の在任は7年半に過ぎなかったのですが、その志(こころざし)は、西郷隆盛(32才)、大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878)29才らに引き継がれました。

 その後、同年9月以降、安政の大獄、1860年(万延元年)3月3日、桜田門外の変、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動の激化、1864年(元治元年)6月、京都での禁門の変(きんもんのへん、蛤御門の変、はまぐりごもんのへん、とも)、1866年(慶応2年)1月、薩長同盟などを経て、最終的には、1867年(慶応3年)、幕府の大政奉還、1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)後、勝海舟(かつかいしゅう、1823~1899、旧幕府陸軍総裁)46才と西郷隆盛(新政府軍、東征大総督府参謀)42才との会談による江戸城の無血開城、明治維新へとつながりました。江戸城の無血開城には、篤姫(天璋院)が西郷隆盛に徳川の家名存続を求める書状を送り、その実現に一役かったと言われています。

○ 薩摩言葉(鹿児島弁)

 鹿児島の方言は、最も難解な方言の部類に属し、鹿児島弁のことを鹿児島語ともいっているほどです。方言は、県内一様に使われるのではなく、地域によって大きな違いがあり、大きく分けると、本土方言に属する薩摩方言(さつまほうげん)と琉球方言に属する奄美方言(あまみほうげん)の地域に2分されます。幕末に活躍した下級武士たちもよく方言を使ったといい、なかでも西郷隆盛の方言は有名ですが、西郷逸話に使われているのは、後人の言葉で、西郷の言葉ではないという。 京都大学大学院の学生の頃、鹿児島出身の後輩(宗像恵君)に鹿児島弁をしゃべってもらったことがありますが、早口で何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。 鹿児島弁(鹿児島の方言);http://www.h4.dion.ne.jp/~kjm/newpage5.html

 私は、1980年(昭和55年)10月13日、はじめて鹿児島を訪れ、鹿児島市内観光バスで尚古集成館を訪れたことがあります。眼前の美しい錦江湾と桜島には不似合いな礒庭園の中の反射炉跡、大砲鋳造など、異様な感じがしたのを覚えています。

(参考文献) 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999); 鹿児島県高等学校歴史部会編: 鹿児島券の歴史散歩、山川出版社(2000); 東京都歴史教育研究会(監修)、成美堂出版編集部編: 図解 幕末・維新、成美堂出版(2009).

(参考資料) 礒庭園砲台と大砲、反射炉跡、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A3%AF%E5%BA%AD%E5%9C%92%20%EF%BC%88%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E3%81%A8%E5%A4%A7%E7%A0%B2%E3%80%80%E5%8F%8D%E5%B0%84%E7%82%89%E8%B7%A1%EF%BC%89&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ サツマイモ(薩摩芋、飢餓食、芋焼酎) 江戸時代の中頃、日本列島はしばしば飢餓に見舞われました。その飢餓から農民を救ったのがサツマイモという。薩摩の国にサツマイモを伝えたのは、揖宿郡山川村の前田利右衛門という人です。1705年(宝永2年)、密貿易で中国に密航した折に利右衛門は、中国からサツマイモを持ち帰ったという。薩摩の人は、その徳をたたえ、利右衛門を「からいもおんじょ(甘藷翁)」と呼んでいます。

 サツマイモを全国的に普及させたことで有名な人は青木昆陽(あおきこんよう、1698~1769)です。昆陽は1734年(京保19年)、凶荒対策に甘藷をと説く「蕃薯考」を著し、将軍(第8代)徳川吉宗(とくがわよしむね、1684~1751)、に上申して、サツマイモが飢餓時にいかに役立つかを説きました。サツマイモは当時かなり普及していたといわれるが、彼の努力によって幕府の手でその栽培法が研究され、」これが普及に大きな貢献をしました。時の人は昆陽を「甘藷(かんしょ)先生」と呼び、千葉県幕張町に神社を建て、「いも神様」とその徳をたたえました。(樋口清之監修: 生活歳時記、p.103、サツマイモの話、三宝社(1994).より)

また、薩摩藩では、サツマイモと米麹(こめこうじ)から焼酎もつくりましたが、尚古集成事業における雷汞(らいこう、雷酸水銀、雷管などの発火具、起爆剤)は、水銀を硝酸に溶解し、これにサツマイモから焼酎をつくる時に蒸留して得られたエチルアルコールを加えて製造(強兵!)したという。

○ サトウキビ(砂糖黍、黒糖、精白糖の原料)

 江戸時代1600年代、日本のサトウキビ栽培は、1610年(慶長15年)、直川智(すなおかわち、奄美大島)、1623年(元和9年)、儀間真常(ぎましんじょう、沖縄)、により、中国福建省から相次いでシネンセ種(中国細茎種)のサトウキビの導入と製糖技術(二本車と三つ鍋による二転子三鍋法、のち首里の真喜屋実清(まきやじっせい)が三つ車の三転子法に改良、圧搾機(あっさくき、砂糖車とも)は木製から石製、明治期から鉄製に改良、牛馬によって回しました)は共に始められたと言う。(民族探訪事典、山川出版社(2005)、p.324、砂糖づくり、より)

 徳川吉宗の奨励策に支援されて日本本土各地に普及し、高品質和糖の原料とされたのもこの種という。1869年(明治2年)、沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的多く、株の再生も中庸で、黒糖原料としての美味しさと栄養性、フラクトオリゴ糖が多いなどの長所を持ち、香川、德島では和三盆の原料として今も用いられています。(伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008)より)

 薩摩藩主島津氏は、奄美大島を支配、琉球をも半ば支配し、当時、砂糖は高価な食べ物で、大きな利益があがりました。薩摩藩は砂糖を藩の専売とし、砂糖を財源にすることで、幕府に対抗できるほどの財力を蓄え(富国!)ました。この藩が、明治維新中心になったのは、ここにも遠因があったという。砂糖は甘味料、調味料として重要ですが、その防腐効果を利用して、砂糖漬、練ようかん、お菓子の金平糖(こんぺいとう)などもつくられます。また、疲労回復の効果もありますが、過度に食べると胃腸を害し、骨格の成長を阻害するという。

 サトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より) .

○ 世界一大きな桜島大根(さくらじまだいこん)は、江戸時代から作られていたという。 .

 薩摩島津家の家紋丸に十字の十は、キリスト教とは無関係、十全の威力を示す護符マーク であり、災厄を打ち払うということで家紋に選ばれたという。 薩摩島津家家紋の由来、鹿児島): http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_kamon.html. 

 また、島津製作所(京都)の社章薩摩島津家と同じであることについては、創業者島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、慶弔年間には播州姫路の城主黒田孝高の家臣として明石に住んでいました。関ヶ原の戦い(1600年)に敗れた薩摩の島津義弘は、一族を率いて海路国元に引きあげて参る途中、薩摩灘で海難に遭い、難じゅうをきわめたという。 これを見た井上惣兵衛尉は、多数の船を出して、島津一族を救い、その功によって義弘から島津の性と丸に十の字(くつわ)の家紋を用いることを許されたという。 島津製作所(ホームページ、京都): http://www.geocities.jp/web_royalblue/rika/shimadzu.html

○ 方言と郷土意識(県人会)については、日本人はひじょうに郷土に対する帰巣本能が強く、これを支えているのが、この方言である。これは、相対的に他の郷土を持つ者を疎外すると言った点で、マイナスに働く場合もあるが、やはり、郷土意識のつながりによって、個人が社会から脱落してゆくのを防ぐ役割のほうが強いように思う。東京には、全国の県人会があり、ないのは東京都人会だけである。県人会では、大体、その地方の方言が自由に話され、精神的な開放をもたらし、あるいは近況を報告しあって脱落者をはげまし、ときには就職の世話までして、救いあげていく。方言に象徴される同郷意識が、人間救済の役割を果たしているのである。ーーー (樋口清之、梅干と日本刀、より

2011年5月 1日 (日)

徳田秋声(金沢出身の作家)にまつわる歴史散歩、徳田秋声文学碑(日本の文学碑第1号、卯辰山、金沢)、書を読まざること三日(碑文)、あらくれ(通俗小説)、とは(2011.5.1)

  金沢城の真向かいにある卯辰山(うたつやま、141m)を、人々は向山(むかいやま、東山、臥竜山、夢香山、茶臼山とも)と呼びました。が、城を上から見下ろすのは不敬であるとして、江戸時代には町人の登山は禁止されていました。市民が登れるようになったのは、加賀金沢藩第14代藩主前田慶寧(まえだやすよし、1858~1900)が卯辰山開拓を始めた1867年(慶応3年)からです。

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望湖台(ぼうこだい、城下町金沢を眼下に、金石港を遠望、卯辰山、金沢、google画像) 望湖台(ぼうこだい、まっぷる、石川県): http://www.mapple.net/spots/G01700148001.htm

(解説) 卯辰山位置は、金沢城の鬼門の方角、丑寅(北東)で、卯辰(東南東)ではないが、中世から港町として栄えた宮腰津(みやこしのつ、犀川河口付近、金石港、金沢)から眺めると、卯辰の方向となるため、日本海を行き交う船乗りたちが名づけたものと考えられています。

 1947年(昭和22年)11月、卯辰山の中腹に日本の文学碑第1号、「徳田秋声文学碑」が建てられました。現在、卯辰山には60を超える記念碑が林立しており、日本一の碑林公園と呼ばれたこともあるという。

○ 徳田秋声文学碑(日本の文学碑第1号、卯辰山、金沢) 

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徳田秋声文学碑(とくだしゅうせいぶんがくひ、土塀と石柱から成る、卯辰山、金沢、google画像)

(解説) 金沢市の卯辰山(うたつやま)にある「徳田秋声文学碑」は、日本の文学碑第1号とされています。文学碑は戦後、1947年(昭和22年)11月に作られたもので、それまでの歌碑や句碑、詩碑などとは性格が異なるという。秋声文学碑の誕生に一役買った詩人の野田宇太郎(1909~1984)は、著書の中で「作家の文学運動の帰結として生まれるもの」と述べています。 卯辰山 徳田秋声文学碑(百万石ネット、金沢): http://www.hyakumangoku.net/guide/s-utatsu/shusei-hi.html

 徳田秋声(とくだしゅうせい、1872~1943)は、本名、末雄、金沢生れ、四高中退後、尾崎紅葉(おざきこうよう、1898~1964)の門に入りました。わが国自然主義文学の第一人者として、名を馳せ、晩年は私小説、心境小説に新生面を開きました。代表的な著作は、「足迹」、「黴(かび)」、「爛(ただれ)」、「あらくれ」などで、未完成の「縮図」が絶筆となりました。自然主義とは、文学で、理想化を行わず、醜悪、顛末なものを忌まず、現実をただあるがままに写しとることを本旨とする立場です。

 金沢では、泉鏡花(いずみきょうか、1873~1939)、室生犀星(むろおさいせい、1889~1962)と並び金沢三文豪と呼ばれています。夏目漱石(1867~1916)から「フィロソフィー(哲学)がない」と批判されました。が、徳田秋声記念館志賀紀雄(69才)前館長は、「人生は不可思議。そんな庶民の人生を、恥ずかしい部分も含めて、飾らずに描いたのが秋声なんです」、「人を導くようなフィロソフィーはいらない。ありのまま、それが秋声の小説。作られた読み物ではない、人生そのものが書いてあるから面白い」と話す。 

徳田秋声記念館(ホームページ、金沢、石川): http://www10.plala.or.jp/tokuda_shusei/kinenkan/top_index.htm

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徳田秋声(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%A7%8B%E5%A3%B0

 徳田秋声は、1871年(明治4年)、武家の4人目の妻の子として生まれました。明治維新で家は没落し、浅野川周辺で転居を繰り返しました。流れが穏やかで「女川」と呼ばれる浅野川、二つの茶屋街が広がるこの界隈(かいわい)で育った秋声が「女を書いたら神様」と言われる作家になったのは偶然ではないという。徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は、「武家の娘達が茶屋に売られる姿を見ていたからこそ、女性の悲哀を描けたんだと思う」と話す。

 病弱だった幼少期の秋声が通ったのが、徳田秋声記念館の裏手の卯辰山、別称「向山」で、秋声は「夢香山」という表記を使いました。「孤独になりたい時など、よく本を懐にして駈け登り、この山は自分の庭のように行きつけになっていた」(「光を追うて」より、一部略)。いま、金沢の街を一望できる標高約140mの展望台の近くには「徳田秋声文学碑」が建っています。 

 秋声は「呪わしくもある故郷」を20才で離れ、71才で死ぬまで東京で暮らしました。代表作の舞台も大半が東京で、鏡花や犀星に比べ金沢への思い入れは薄かったのでは」と 、徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は話す。が、晩年には講演で望郷の念を語り、死の前縁には「古里の雪」(未完)を書きました。

 秋声は、1943年(昭和18年)、太平洋戦争中に東京で死去しました。終戦直後に、地元金沢で文学碑を建てようという機運が高まり、有志が集まりました。当時の金沢市長(第16代)武谷甚太郎も建設会役員に名を連ね、卯辰山の市有地が敷地に選ばれました。

 1947年(昭和22年)に有志が上京、秋声の長男、徳田一穂(1903~1981)を介して野田と会い、野田が建築家谷口吉郎(1904~1979)を紹介しました。1904年(明治37年)金沢生まれの谷口は、四高、東京大建築科を経て、当時の東京工大教授でした。

 金沢市北部の浅野川のほとりにある徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は、「谷口は職人の街である金沢の町並みをイメージし、土塀をえらんだ。秋声の文章に職人の技巧を感じたようだ」と解説しています。

○ 書を読まざること三日(碑文)

 徳田秋声文学碑の完成は1947年(昭和22年)11月、山の中腹に、高さ約2m、横約6mの土塀が建ち、その前に一穂の字で「秋声文学碑」と書かれた高さ1mほどの石柱が据えられました。土塀には「現代日本文学全集18編」、1928年(昭和3年)に収められた秋声の巻頭文が碑文として刻まれました。

碑文(ひぶん、石柱の背後の土塀、卯辰山、金沢、google画像)

(解説) 石柱の背後の土塀碑文には「書を読まざること三日、面(つら、顔)に垢(あか)を生ずとか昔しの聖(ひじり)は言ったが、読めば読むほど垢(あか)のたまることもある」などとあります。創作活動の行き詰まりなど、当時の苦境から自分を奮い立たせようと書いた一文とみられています。他に室生犀星が寄せた文章が副碑として刻まれました。 書を読まざること三日(碑文): 日本文学全集第18節、徳田秋声、(改造社刊)(自筆序詞にこう書いた、「書を読まざること三日、面に垢を生ずとか、昔しの聖は言ったが、読めば読むほど垢のたまることもある。体験が人間に取って何よりの修養だと云ふことも言はれるが、これも当てにならない。むしろ書物や体験を絶えず片端から切払ひ切払ひするところに人の真実が研かれる」。  

 金沢では、文学碑の完成に合わせて記念講演が行われ、川端康成(1899~1972)が「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ」と、賛辞をを送りました。秋声が故郷金沢を書いた短編で絶筆となった「古里の雪」も記念出版されました。

 後に谷口吉郎は著書「記念碑散歩」で、秋声の碑は「文学碑の第一号」となるもので、設計に尽力し、機会に恵まれたことはこの上ない幸せ」と振り返っています。谷口は東工大名誉教授などを経て1979年(昭和昭和54年)に没しました。

○ あらくれ(徳田秋声、通俗小説)

 広辞苑によれば、あらくれ(荒くれ)とは、荒々しいこと、乱暴なこと、また、そういう人、のことです。通俗小説、 あらくれ」は、図書カード: No.119、著者: 徳田秋声、出版社: 新潮文庫、新潮社、 初版発行日:1949年(昭和24年)10月31日発行、1969年(昭和44年)6月20日21刷改版、 入力に使用: 1982年(昭和57年)9月15日38刷): http://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card199.html. 

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あらくれ(映画ポスター、成瀬巳喜男監督、水木洋子脚本、1957(昭和32年)、google画像) あらくれ(映画ポスター、市川市文学プラザ、千葉): http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/mizuki_05ten.html

(解説) あらくれ男勝りの主人公 お島の半生をいきいきと描いた作品です。主人公の生きた時代の庶民の暮らしが物語に織り込まれて展開されています。1915年(大正4年)から新聞の連載小説として掲載されました。そのため、本編は新聞の1連載毎に区切られた形式となっています。 あらくれ(徳田秋声、通俗小説): http://www.geocities.jp/web_hon/04/tokuda.htm

 私は、1970年(昭和45年)4月頃、金沢城内にキャンパス(本部、教養部、教育学部、法文学部、理学部)があった金沢大学の理学部(化学教室分析化学研究室)に勤務し1年経っていましたが、学生諸君とはじめて、満開の桜並木道を歩いて卯辰山に登り、徳田秋声文学碑の周辺を散策したことがあります。その後、何回となく徒歩で、あるいはマイカーで、一人で、あるいは知人と、卯辰山、少し離れた山沿いの健民公園など訪れ散策しました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 金沢ふるさと愛山会編: 石川/あるさと100山、椋鳥書房(2009); 石川県の歴史散歩編集委員会(代表木越隆三)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010); 日本の「文学碑」第1号、徳田秋声文学碑 誕生の経緯(金沢の記念館が企画展): 北陸中日新聞、2011年(平成23年)1月21日(金)朝刊、より; 週刊まちぶら第143号、ぐるっと ほくりく、 徳田秋声記念館かいわい 金沢市、「人生そのもの」に思い: 朝日新聞、2011年(平成23年)1月23日(日)朝刊、より.

2010年9月22日 (水)

室生犀星(金沢出身の詩人、作家)にまつわる歴史実話、犀川神社(御影大橋の近く)、雨宝院(犀川大橋の近く、幼少期を過ごした真言宗の古刹)、性に目覚める頃(自叙伝風の私小説)、とは(2010.9.23)

  犀川は、白山山脈(白山連峰の奈良岳)を源流にもち、金沢市内を東西に流れています。先日、9月21日(火)の午後、犀川右岸の歩道を歩いて、室生犀星ゆかりの犀川大橋のすぐ近く、雨宝院を訪れました。

 そこへ行くまでに、小さな橋が数多くあり、示野中橋、若宮大橋、小豆田大橋、JR北陸線の鉄道橋、御影大橋、御影新橋、新橋、犀川大橋など、それほど大きな橋でもないのですが、大の名がつく橋を多く見受けました。

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犀川神社(さいがわじんじゃ、左の背後に見えるのは御影大橋、中央通り町近く、金沢、石川) 御影大橋(みかげおおはし)の近くの道路沿い(犀川右岸)に犀川神社があります。 犀川神社(神社探訪、金沢、石川): http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/isikawa/kanazawa/saikawa/saikawa.html

 私は、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部、城内キャンパス)に勤務し始めてから10月まで、ここから歩いて数分、中央通り町で下宿(米沢美津子様方、木羽教授に依頼、事務の山田氏の紹介)したことがあります。

 そこから歩いて、金沢の中心街(長町、片町、香林坊)を横切り、金沢大学城内キャンパス(金沢城址)に通ずる宮守坂をのぼり、さらに城内を横切り、理学部化学教室(鉄筋4階建ての3階、黒門のすぐ前)に通いました。金沢は戦災にあわなかったので、街中は迷路(袋小路、七曲がり、甲州兵法!)となっており、時々道に迷いました。

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犀川大橋(さいがわおおはし) 金沢の繁華街の片町から広小路へ、犀川大橋の中程から下流に見えるのは新橋、手前の左岸に雨宝院の銅葺きの宝塔と本堂が見えます。 犀川大橋(土木遺産、金沢、石川):http://www.hrr.mlit.go.jp/kanazawa/mb2_jigyo/bunkazai/saigawa/index.html

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室生犀星(野町尋常小学校卒、金沢):http://www.kanazawa-city.ed.jp/nomachi-e/saisei/saisei.htm

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雨宝院(うほういん、高野山真言宗、千日町、金沢、石川) 犀川大橋を渡って、右に曲がると犀川交番所で、その隣りの道路右脇(犀川左岸)に雨宝院があります。 雨宝院(散歩道倶楽部、金沢): http://www.kanazawa1.com/data.php?s=omise&l=uhoin&d=uhoin&k=11&t=02

 雨宝院は、諸国行脚の僧が、安土桃山時代、1595年(文禄4年)、当地の廃寺を再興したことに始まるという。千日山雨宝院といい、高野山真言宗の古刹で、犀川のほとりに建っています。室生犀星(1889~1962)は、生後まもなくここに貰われ、幼少期を過ごしたことで知られています。現在、犀星の位牌をはじめ、自筆原稿や手紙などゆかりの品が展示されています。

 また、雨宝院の前の掲示板には、1919年(大正8年)10月、31才、はじめて中央公論に発表した自叙伝風の短編小説(私小説)、「性に目覚める頃」の作品の一節が紹介されていました。

 この作品は、1960年(昭和35年)頃(?)、映画化されたものを見たことがあります。若い女の人(参詣を装って賽銭を盗む少女!)が一人、お寺(雨宝院!)の本堂へお参りしていた時、その姿を、一人の少年(犀星!)が、お寺の境内の陰からそっと見つめていたのが印象に残っています。

 「性に目覚める頃」の作品の中で、「犀川」については、次のように紹介されています。 東京では、隅田川ほどあるこの犀川は、瀬に砥がれたきめのこまかな柔らかい質に富んでゐて、茶の日には必要缼くことのできないものであった。私は、そんなとき、手桶をもって、すぐ瀬へ出てゆくのであった。庭から瀬へ出られる石段があって、そこから川へ出られた。

 この犀川の上流は、大日山といふ白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透つて、瀬にはことに美しい音があるといわれてゐた。私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。上流の山山の峯のうしろに、どつしりと聳えてゐる飛騨の連峯を霧の中に眺めながら、新しい手桶の水を幾度となく汲み換へたりした。汲んでしまってからも、新しい見事な水がどんどん流れてゐるのを見ると、いま汲んだ分よりも最つと鮮やかな綺麗な水が流れてゐるやうに思って、私は神経質にいくたびも汲みかへたりした。

 また、「雨宝院」については、次のように紹介されています。  寺のことはたいがい父がしてゐた。本堂に八基の金燈籠、観音の四燈、そのほか客間、茶室、記帳場 総て十二室の各座敷の仏壇の仏画や仏像の前には、みな灯明がともされてゐた。それらは、よちよちと油壺と燈心草とをのせた三宝を持った父が、前と夕との二度に、しづかな足袋ずれを畳の上に立てながら點(とも)して歩くのであった。

 寺へ来る人人は、よく父の道楽が、御燈明を上げることだなどと言ってゐた。それほど父は高価な菜種油を惜しまなかった、父自身も、「お燈明は佛の御馳走だ。」と言ってゐた。

 1889年(明治22年)、旧加賀藩の足軽、小畠家の私生児として生まれた犀星は、貰い子となり雨宝院で育てられました。明治維新後の金沢の町は、士族の没落と著しい経済困窮の結果、多くの孤児や貰い子、身売りが横行しており、雨宝院のような所の人々が、孤児救済の一端をになっていました。この辺りの千日町という町名の由来は、雨宝院の山号によるものです。

 雨宝院から犀川沿いに街路をたどると、三差路の広見(ひろみ)に至り、ここで左手の広い道をしばらく進むと、室生犀星記念館があります。ここは、犀星の生家跡であり、一帯は裏千日町と呼ばれました。記念館では、室生犀星の生涯や作風などを知ることが出来ます。室生犀星記念館(ホームページ): http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/

(参考文献) 株式会社乃村工藝社株式会社博文堂編: 犀星ー室生犀星記念館ー、金沢市室生犀星記念館(2002); 石川県の歴史散歩編集委員会(代表、木越隆三)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(参考資料) ○ 室生犀星(金沢出身の作家)にまつわる歴史実話、ふるさとは(小景異情)、山のあなたの(カール・ブッセ、上田敏訳、海潮音)、桃源郷(陶淵明、宏村、中国)、とは(2009.7.6): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/muro.html

 

 

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