カテゴリー「● ふるさと(阿讃山麓、和三盆糖、阿波藍、撫養塩田、阿波踊り、上板町、板野郡、徳島県)」の6件の記事

2013年3月 1日 (金)

阿讃山麓(阿波、徳島)の原始、古代遺跡、銅鐸(弥生後期)、古墳と墳墓(豪族の墓)、安楽寺(氏寺、菩提寺)、高速道路(サービス、遺跡)、ふるさとの歴史(2010.5.7)

  上板町(かみいたちょう)のを見上げると、高さ600mほどの山並みが続いています。手前は阿波(あわ、德島)、背後は讃岐(さぬき、香川)なので、地元では阿讃山脈(あさんさんみゃく)と呼ばれ親しまれています。

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阿讃山脈(あさんさんみゃく、山の斜面は比較的穏やかで30度前後の角度で高さ600mの山頂まで続いています、上板町、わがまち再発見読本、上板町、板野郡、德島県)  上板町(ホームページ):    http://www.townkamiita.jp/.

 弥生時代前期は、刃物として石器が使われ、中期になると朝鮮半島(百済、くだら)からがもたらされ、鉄器の生産が始まりました。後期には鉄器が全国的に普及し、石器のほとんどが姿を消しています。鉄器は工具から農具という展開を見せ、農耕に飛躍的な発展をもたらす一方、武器としても用いられました。

 青銅器も、鉄とほぼ同時期に日本に伝えられ、朝鮮半島(百済)から渡来した工人たちによって、国内での青銅器鋳造(ちゅうぞう)も始められました。しかし弥生時代後期になると、鉄製の武器が普及し柔弱な青銅は実用性を離れ、祭器や権力の象徴として発達しました。

 そして、青銅は稲作と共に渡来した新しい形の儀礼、宗教目的に用いられるようになり、平たく大きくなった銅剣(どうけん)や銅矛(どうほこ)、巨大化した銅鐸(どうたく)などの祭器が製造されるようになりました。

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銅鐸(どうたく、上板町立歴史民俗資料館の「むかし展」、上板、徳島、google画像)

(解説) 出土する銅鐸は、弥生時代の信仰として、稲作の豊穣を願った祭器であろうと解釈されてきました。生活圏を邪悪なものから守り、貴重な聖域を守護する役割を広く付託された祭器とも考えられています。

 水銀朱(すいぎんしゅ、辰砂、赤色の硫化水銀)は、首長層と呼ばれる集団内部の上位階層者たちの埋葬祭、墳墓祭祀に用いられたと考えられています。四国八十八ヶ所霊場21番札所、大龍寺(真言宗、徳島)の山裾谷あいを北側から昇る参道沿いの斜面の若杉山遺跡は、水銀朱の採掘遺跡としては全国唯一の事例です。若杉山遺跡での水銀朱の採掘は弥生時代終末に終わっていたようです。(若杉山遺跡、徳島県立埋蔵文化財総合センター、オフィシャルサイト、阿南、徳島):http://www.awakouko.info/modules/xpwiki/287.html.) 

 また、銅鐸に朱を塗布する事例が見られ、朝鮮半島からの影響を受けて導入された可能性があります。弥生時代の終わりには、朱は塗布されておらず、弥生時代の銅鐸を用いた祭祀(土器棺墓)から古墳時代の埋葬祭(円墳、前方後円墳)へ急速に移行したと考えられています。

 四国八十八ヶ所霊場6番札所、安楽寺(あんらくじ、真言宗、上板町、徳島)の西方約200mの県道139号線沿いには、古墳時代、5世紀中葉から末期にかけて築造された、徳島県唯一の周濠をもつ円墳(えんふん)、丸山古墳(まるやまこふん、土成町、のち阿波市、徳島)があります。その直径は約30m、高さは約6mで、周濠の幅は約15mです。被葬者は阿波国造、粟凡直(あわのおおしのあたい)の直系ではないかと考えられています。(阿波市観光スポット(丸山古墳含む): http://shikoku-net.co.jp/tokushima/kankou/awashi/awashikankou.htm.)

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丸山古墳(まるやまこふん、円墳の周濠、、土成、阿波市、徳島、google画像)

 安楽寺谷墳墓群(あんらくじだにふんぼぐん)は、1991年(平成3年)、高速道路(徳島自動車道)の建設に伴う発掘調査により、阿波三盆糖の里の地域(引野、上板、徳島)で発見されました。そして、これらが3世紀頃の弥生時代末期の埋葬形態である土器棺墓、古墳時代前期の円墳(えんふん)、古墳時代後期の横穴式(よこあなしき)及び竪穴式(たてあなしき)の石室墓であることが確認されました。

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横穴式(よこあなしき)の石室墓(墳丘の上面にある竪穴式石室と違い、墳丘の側面から入る構造になっている埋葬施設、google画像)

(解説) 石室墓は、棺を納める玄室(げんしつ)、玄室までの通路となる羡道(せんどう)があり、埋葬後には羡道の入口部分を礫(れき)で閉じます。竪穴式石室と異なり、追葬ができます。徳島県では、古墳時代、6世紀前半頃に導入され、7世紀中頃まで用いられています。

 安楽寺谷墳墓群の1号墳は、墳丘約11mの円墳です。横穴式石室墓では、主体部として石室が2基確認され、石室内には刳抜式(くりぬきしき)木棺が納められていたと考えられています。副葬品として、1号室からは鉄剣(てっけん)、鉄鏃(てつやじり)が、2号室からは壺(つぼ)が出土しています。竪穴式石室墓では、墳丘、副葬品等は確認できなかったのですが、石室の東部からは壺が出土しています。 

 古墳は、当時の支配者であった豪族(首長)の墓ですが、3世紀(弥生時代)から8世紀の初め(飛鳥、白鳳時代)にかけて築造されています。これらは、朝鮮半島の百済(くだら)からの仏教伝来の影響によるものと考えられます。

 587年(用明天皇2年)、崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏(そがのうじ)が実権を握ると、仏教は朝廷に公認されることになり、以降7世紀前半にかけて、日本初の仏教文化である飛鳥文化が花開きました。聖徳太子(しょうとくたいし)、574年(敏達天皇3年)~622年(推古天皇30年)は、四天王寺、法隆寺の寺院を建立し、604年(推古天皇12年)、憲法第1条には仏教の精神が盛り込まれています。

 飛鳥(あすか)の語源については、朝鮮半島から飛んできた鳥、すなわち渡来人を意味しているとの説もあります。663年(天智天皇2年)、白村江(はくそんこう、はくすきのえとも)で唐(とう、中国)・新羅(しらぎ、朝鮮)軍と日本・百済(くだら、朝鮮)軍が戦い、百済を救援した日本軍は敗れ、百済は滅亡、その時、多数の百済人が日本に渡来(亡命)しました。 白村江の戦い(錦江近郊、韓国): http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm; 飛鳥京(奈良): http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukakyo2.htm.)

  一般に、古墳は、気候が温和で水に恵まれ米作に適した土地や平野や海を見下ろす景勝の台地に築造されています。こうした場所は、人が集まり集落の出来やすく、富と権力を握った豪族の発生も容易でした。

  豪族の多くは、現世利益的な動機で仏教に帰依し、古墳に代わる権威のシンボルとして、寺院(氏寺)を建立しました。仏像や仏画は主に渡来人によって制作されました。

 というわけで、讃岐山脈(引野、上板、徳島)の南麓には、古代の多くの古墳群(安楽寺谷、明神池など)、遺跡(天神山、出口、青谷、柿谷など)、柿谷窯跡、寺院跡(安楽寺、西光寺など)が分布していることから、3~8世紀の古墳時代、この地域には豪族など、有力な支配者が治めた農耕を営む古代集落があったと思われます。また、寺院は、この地域の集落を治めていた豪族の氏寺であったと考えられます。

 また、泉谷(上板町)には、795年(延歴14年)開基の和泉寺(経塚、阿波西国26番、真言宗)、大山(上板町)には、525年(古墳時代?)開基(西範僧都)の大山寺(番外霊場1番、真言宗)の寺院があります。(四国番外霊場(1~20番札所): http://lcymeeke.nobody.jp/bekkaku/1.html.) 

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安楽寺(あんらくじ、 安楽寺本堂、  本堂北側の安楽寺方丈は400年の歴史ある国登録有形文化財、上板、徳島、google画像) 

四国霊場 六番安楽寺真言宗、公式ホームページ、上板、德島): http://www.shikoku6.or.jp/index2.html. 

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畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主: http://koosyoji.sakura.ne.jp/hatakeda.jpg人生は遍路なり: http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html; 徳島県遍路体験: http://ihcsacafe.ihcsa.or.jp/news/culture/henro/. 

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空海弘法大師774~835真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

○ 空海弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15); http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html

○ 空海(弘法大師)と書(風信帖、飛白書、雑体書)、五筆和尚、筆の誤り、筆を選ばず、とは(2009.11.13): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/41.html

(解説) 私の家の菩提寺安楽寺(温泉山、瑠璃光院、真言宗)は、6番さんと呼ばれ、現在の位置から北西2kmの引野の安楽寺谷の山腹に寺院跡がありました。古記録には、安楽寺谷の周辺一帯は鉄サビ色の熱湯が湧き出していて、湯は諸病に特効あり、と記されていたという。戦国時代、土佐の長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)、1544年(天文13年)~1599年(慶長4年)の阿波侵攻の戦乱で、その兵火にかかり、堂宇、宝物、寺歴など全て焼失しました。 

 安楽寺は、江戸万治年期(1658~1660年)に現在の境内(もと駅路寺瑞雲寺)に移転合併されました。瑞雲寺(ずいうんじ)は、1598年(慶長3年)、徳島藩主蜂須賀家政が阿波国内を旅行する諸人の宿泊便宜のために、交通の要路に八ヶ寺を指定した駅路寺の1つでした。現在の安楽寺の本堂は、1957年(昭和32年)火事で焼失、1963年(昭和38年)鉄筋コンクリート造りに再建されました。

 現在では、安楽寺には立派な宿泊施設が完備されて、四季を問わず、四国八十八ヶ所巡拝者のために便宜が計られています。また、安楽寺谷の温泉については、1978年(昭和53年)、上板町が温泉開発のためボーリング調査を実施しましたが、温泉の湧出は見られなかったようです。今は、名残の直径1m余りの釜跡の北裏、安楽寺谷の上の山一帯はゴルフ場として開発され、人々の憩いの場となっています。そこには、かって私の家の山もあり、小学校の冬休みには父と下刈りに出かけたことがあり、時代の流れを痛感します。(御所カントリークラブ(安楽寺谷、上板、徳島)http://gosho-cc.com/.)

 江戸時代の仏教統制政策は、1615年(元和元年)の寺院法度ですが、1637年(寛永14年)のキリシタンによる島原の乱がもとで、1638年(寛永15年)に檀家制度ができました。 これは、民衆の一人一人がキリシタンではなく、仏教徒(檀家)であることを寺院の住職に証明させ(請負証文)、宗旨人別改張の提出を義務づけました。宗門改帳の作業は、寛文年間(1661~1672年)に始まっています。

 当時はどの村にもお寺がなく、お寺を5倍に増やす必要があり、阿弥陀堂、地蔵庵もお寺に昇格させ、半僧半俗の聖がそのまま僧侶となり、住職になりました。そして、檀家制度の定着により、日本人全体の家々の宗旨が固定することになりました。 

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上板サービスエリア徳島自動車道、上り線、上板→徳島、上板、徳島、google画像)

 徳島自動車道は、徳島IC(徳島市、徳島)を起点とし、川之江東JCT(四国中央市、愛媛)に至る全長95.3kmの高速道路で、1994年(平成6年)に開通しました。1991年(平成3年)、高速道の建設に伴う遺跡調査により、安楽寺谷墳墓群をはじめ多くの古墳、遺跡が発見されました。現在、阿讃山脈の南麓、阿波三盆糖の里、明神山の糖源公園の北側(裏山)には、徳島自動車道の上板パーキングエリアが設置され、さらに、北方、裏山にはゴルフ場(御所カントリークラブ)まで開発され、昔の面影はほとんど見られなくなっています。

 また、高松自動車道は、鳴門IC(鳴門市、徳島)から坂出IC(坂出市、香川)を経由し川之江JCT(四国中央市、愛媛)に至る全長124.2kmの高速道路で、1987年(昭和62年)~2003年(平成15年)に開通しました。

大代古墳トンネル高松自動車道、鳴門、徳島、google画像)

(解説) 高松高速道の建設に伴う遺跡調査で、鳴門IC西側で、全長が約54mの前方後円墳、大代古墳(おおしろこふん)が発見されました。そして、この史跡価値の高い古墳を現地保存するため、道路構造を切り土構造からトンネル構造へ変更し、小さな土かぶり地山(12~14m)に3車線大断面めがねトンネルを貫く大代古墳トンネル(77m)としました。

 この高松自動車道が鳴門(小鳴門橋、大鳴門橋)、神戸淡路(明石海峡大橋)の自動車道と直結し、京阪神方面への交通が便利となり、徳島はじめ、四国の経済、社会の発展が期待されています。

(参考文献) 森甚一郎、石川重平、河野幸夫: 上板町の石造文化について、郷土研究会発表紀要、第27号(1981); 徳島県立埋蔵文化センター: 徳島県埋蔵文化センター調査報告第13集「安楽寺谷墳墓群」ほか(1995); 野島博之(監修)、成美堂出版部編: 図解日本史、成美堂出版(2009).

(参考資料) 遺跡調査(遺跡ウオーカーβ、引野、上板町、徳島): http://www.isekiwalker.com/pref/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C/19

安楽寺谷墳墓群(引野、上板町、徳島): http://awakouko.info/modules/xpwiki/186.html

上板町歴史民俗資料館(引野、上板町、徳島): http://www.townkamiita.jp/docs/2011020200040/

すえドンのフォト日記(上板町立歴史民俗資料館の「むかし展」): http://sueyasumas.exblog.jp/10141214/

土成丸山古墳(徳島県立埋蔵文化センター、阿波市、徳島): http://awakouko.info/modules/xpwiki/274.html

徳島自動車道(起点 徳島県徳島市~ 終点 愛媛県四国中央市、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

上板サービスエリア(下り、上板町、徳島): http://www.w-holdings.co.jp/sapa/index.php?institution_id=2494

徳島県埋蔵文化財センター(ホームページ、大代古墳含む、板野、徳島):http://www.tokushima-maibun.net/toppage/top.htm

 四国ネット(SHIKOKU-NET、四国政経塾): http://shikoku-net.co.jp/

(追加説明) 時の流れ

○ 弥生、古墳時代、古代人は天災を受けやすい谷口扇状地(たにぐちせんじょうち)には絶対住みませんでした。この危険な土地にどうしても集落を作らねばならなかった時には、私たちの祖先は、まず集落の周りに掘(濠、ほり)を掘りました。もし、鉄砲水が出ても山崩れが起きても、その掘にエネルギーを吸収させ、周りに分散させてしまおうと考えました。

 つまり、谷口扇状地に住まなければならない要請が、集落の周りに池をめぐらせた、環濠集落(かんごうしゅうらく)を生みました。これが防衛手段となることが分かり、日本独自の周囲に掘をめぐらす城郭築城法へと発展していったと考えられます。(樋口清之、梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005)より)

○ 奈良時代、聖武天皇(在位724~749年)は、741年(天平13年)、天下の泰平、国家の安穏、五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上、万民の豊楽を祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建しました。そして、奈良の東大寺は総国分寺としました。

○ 平安時代、真言宗の開祖、空海(くうかい、弘法大師)、774年(宝亀5年)~835年(承和2年)には、十大弟子がいますが、その五人が四国の出身です。四国に詳しいお弟子さん達が空海のアドバイスを受けながら、四国の路を踏まれました。これがお大師さまと同行二人の四国遍路の最初であると考えられ、空海42才、四国霊場の開創説がそれを今に伝えています。 

 しかし、空海が42才の頃は、京都で密教の布教に務めており、42才の厄年の時に四国八十八ヶ所が開創されたという説は俗説とも言われています。この頃は、京都で勧縁疎の著述、密教経論の書写依頼、真言宗がまだ一般に知られず確立されていない状態のため、お弟子さんによる地方への普及などに力を入れていました。

 空海は43才の時、高野山を修禅の地として乞い、嵯峨天皇(さがてんのう)、786年(延暦5年)~842年(承和9年)から開創が勅許され、45才の時、高野山に登り、禅院を経営しています。

 五輪塔墓は、平安時代の中期頃から造られはじめ、各時代を貫いて現在まで生き続けています。日本独自の墓で、下方から四角(地)、円(水)、三角(火)、半円(風)、団(如意宝珠形、空)の五輪を積み上げた形で、インドで発達した密教の教え、宇宙を象徴する五大要素をかたどったものです。

○ 江戸時代四国遍路(八十八ヶ所)の1番の霊山寺から始まる札所の番号付けの根拠として、1687年(貞享4年)、真念(しんねん、生没不明、頭陀聖、ずだひじり、遍路門付)が四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)を執筆し、はじめて札所に番号を打ち、、四国遍路の霊験や功徳にまつわる伝承をまとめて出版、また遍路の便を図るために、遍礼屋、善根宿の開設と普及、標石の設置などを行いました。

 八十八ヶ寺の中には、真言宗系以外のお寺が八ヶ寺(11、15、33、43、76、78、82、87番など)ほどあり、そこにも大師堂があり、不思議な感じがしますが、お寺の改宗もあったと伝えられています。1番霊山寺の開祖は行基(ぎょうき、法相宗)、668年(天智天皇7年)~749年(天平21年)ですが、本尊は釈迦如来、宗派は高野山真言宗となっています。

 この霊山寺は大麻山(おおあさやま、海抜536m)から下りてきたと推定されています。というのは、その山の中腹に大麻比古神社(阿波一宮)があって、ここを奥の院とすることは、江戸時代の初期は神仏習合が残っており、もと霊山寺が大麻比古神社の境内にあった寺であり、そこから1km下って現在地に移ったのだろうということです。また、ここが第1番となったのは、信仰上の問題より、本土より四国に渡るには、鳴門市の撫養(むや)が最も便利だったからです。また、御詠歌は、霊山の釈迦の御前に巡り来て、万の罪も消え失せにけりと、四国遍路は、罪を消すため、減罪のための遍路であることを、歌っています。(五来重、四国遍路の寺、下、角川ソフィア文庫(2009)より)  

 封建時代後期、江戸時代には、石柱墓が盛んに造られるようになりました。単純な形式と輪部に基づく角石柱形の墓標は、五輪塔墓を単純化ししたものとも考えらています。

 駅路寺(えきろじ)は、德島藩祖、蜂須賀家政が1598年(慶長3年)6月12日、阿波の主要な4街道をゆく旅人(遍路、出家、侍、百姓など)の便を図るために、その街道沿いにある8寺院(真言宗)を宿泊施設として指定したもので、阿波独特の制度です。伊予街道の福生寺、長善寺、青色寺、土佐街道の梅谷寺、打越寺、円頓寺、川北街道の瑞雲寺(のち安楽寺が安楽寺谷から移転合併)、淡路街道の長谷寺の各寺ですが、いずれも1日行程のところにあります。これらの寺には、堪忍分として10石が与えられ、訪れた旅人の接待、悪事を企てる者の宿泊の禁止、不穏な動きをする者があれば庄屋に報告することを命じられていました。この制度の目的は、その報告による藩内の一揆、徒党の取り締まり、また、戦時には陣屋として使用されるなど、重要な役割を担っていました。 長谷寺(駅路寺、歴史、鳴門、德島):http://www2u.biglobe.ne.jp/~chokuma/history/historytop.htm

○ 明治時代、1868年(慶応4年)3月、維新政府は、祭政一致の方針に基づき、神仏習合(奈良時代に始まる神社に付属して置かれた寺院、神宮寺、平安時代に始まる神仏同体とする本地垂迹説など、神の信仰と仏教の信仰とを折衷して融合調和すること)を廃止する神仏分離(しんぶつぶんり)を発令しました。そして、神社の別当(寺の長官)、社僧(仏事を修した僧)に還俗(げんぞく、再び俗人にかえること)を命じ、権現などの仏語を神号に用いることや、神社での仏像、仏具の使用を禁止しました。

 神仏分離令は、奈良時代以来の神仏習合、神仏混淆を禁止し、神社からの仏教色の排除を命じたものです。この法令は、近世の儒学、国学の復古思想や廃仏思想の高まりを背景とするため、神職、国学者、地方官の間で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教排斥運動)の行動が激化し、多くの寺院が破壊されました。

○ ふるさとの歴史

 松島村(のち松島町、上板町、徳島)の鉄道の交通機関としては、1923年(大正12年)2月15日、阿波軌道が池の谷から分岐して、鍛冶屋原(かじやばら)まで汽車が往復するようになりました。この頃、吉野川には鉄橋がなく、吉成駅の次には、堤防のすぐ下に中原という駅があって、ここから吉野川を横断して、南の堤防の水門をくぐり、新町橋まで巡航船の連絡がありました。

 1928年(昭和3年)12月18日、現在の吉野川鉄橋が完成し、出水時にも、徳島への道は安全に確保されました。阿波軌道鍛冶屋原線は、1933年(昭和8年)7月に国鉄が買収し、1935年(昭和10年)3月20日には高徳線(徳島ー高松)が開通し、吉野川は、汽車に乗り鉄橋で渡れるようになりました。

 ところが、1941年(昭和16年)12月、第二次世界大戦に突入した時、鍛冶屋原線は、軍需用鉄鋼材料として、その線路を供出することになり、1943年(昭和18年)10月末に運転を休止しました。そして、代替輸送機関として、同年11月1日、国鉄鍛冶屋原自動車区が開設され、鍛冶屋原ー板西(のち板野)に国鉄バスが運行されるようになりました。

 戦後、地元民の強い願望で、1947年(昭和22年)7月15日、鍛冶屋原線が復活しました。1953年(昭和28年)7月には松島タクシーが開業、さらに1955年(昭和30年)代になると、自家用車が次第に普及し始めました。それに従い、鍛冶屋原線の利用客はがた減りの状態となり、お客を運んで100円の収入を得るのに、488円の経費を必要とする全国的にも代表的な赤字路線となり、廃止も止むを得ない状態にまで追い込まれました。

 そして、1972年(昭和47年)1月15日を最後に、開設以来50年間、地域の人々に親しまれてきた鍛冶屋原線は淋しくその姿を消しました。(児島光一著、上板昔読本、教育出版センター(1979)より、すえドンのフォト日記(1972年廃線、国鉄鍛冶屋原線):http://sueyasumas.exblog.jp/10145402/.)

○ 1964年(昭和39年)頃、鍛冶屋原線は、鍛冶屋原発でしたが、徳島に行く時は直接、または、高松発の高徳線に板野で乗り換え、また、高松(香川)に行く時は、徳島発の高德線に板野で乗り換えました。ここから松山(愛媛)に行く時は、予讃線に乗り換え、また京都に行く時は、宇高連絡船に乗り、岡山を経由して京都に行きました。また、貨物列車は梅小路(京都)終着でした。

 私の小学校の修学旅行は、高松方面で、鍛冶屋原発、板野で乗り換え、高徳線で高松に行きました。中学校の修学旅行は、大阪、京都、奈良の方面で、また、高等学校の修学旅行は、鎌倉、東京、長野の方面で、鍛冶屋原発、徳島経由で小松島へ、小松島港から船泊で天保山港へ、そこから列車で目的地に行きました。

○ 「阿波の国」という徳島県の呼び名は、粟(あわ)がこの地で豊富に育てられていたことに由来するとされる。稲作に不適な土地でも収穫することのできた雑穀が、古代から人々の食を支えていた。

 徳島市からバスで1時間ほど山あいに入った温泉街・神山(かみやま)町。その小高い山にある上一宮大粟(かみいちのみやおおあわ)神社に、オオゲツヒメという神様が祀(まつ)られている。日本最古の歴史書「古事記」に登場し、「穀物起源神」として知られる大地母神だ。(2012年(平成24年)1月4日(水)、北陸中日新聞、夕刊より)

阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22)

  阿波和三盆糖(あわわさんぼんとう)の栽培の起源については、江戸時代中期、阿讃山脈の南麓、引野村(ひきのむら、のち松島、上板、徳島)を通った日向(ひゅうが、宮崎)から来た遍路が、この村の修験者(山伏)、丸山徳弥(まるやまとくや)、1753年(宝暦3年)~1821年(文政10年)に、ここの土壌は砂糖黍(サトウキビ)がよく育つと教えたことに始まるという伝承があります。 

 現在では、阿波三盆塘は、日向産の砂糖(黒糖)とは違うので、阿讃山脈を越えた北麓、讃岐(さぬき、三本松、白鳥、津田、香川)の品種(竹塘)と製法(讃岐和三盆糖)が伝わってきたというのが、史実に近いと考えられています。 

和三盆(わさんぼん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86.

 阿讃山麓の阿波(上板、土成など)、讃岐(三本松、白鳥、津田など)が甘蔗の適地として、またその適種についても薩摩(鹿児島)からのお遍路さんで、阿波の丸山徳弥はある修行僧、讃岐の向山周慶は関良介という薩摩人で四国遍路の途中急病になり助けてあげた人らにより教えられ、入手したとも言われています。

 阿波と讃岐の三盆糖、その原料の白下糖(糖蜜少なく結晶化)の作り方も、非常によく似ています。讃岐和三盆創案(糖蜜と色素の除去操作で、押し船は酒の糟絞りの工夫、研ぎ船は手水で米を研ぐ要領)は、第5代高松藩主松平頼恭(まつだいらよりたか、1711~1771)の命による、池田玄丈、平賀源内、向山周慶(さきやましゅうけい)の調査、研究の継承により、第8代藩主松平頼儀(1775~1829)の時、1790年(寛政2年)頃、1803年(享和3年)?、阿波和三盆より早く製法を完成と言われています。その頃、阿波の徳島藩は、第11代藩主蜂須賀治昭(1758~1814)の時代となっています。  松平頼恭(1711~1771、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E6%81%AD

 その頃、阿波の徳島藩は、第11代藩主 蜂須賀治昭(1758~1814)の時代となっています。

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蜂須賀治昭(1758~1814、第11代徳島藩主、阿波、徳島)

 また、江戸の中、後期(1800年代)の頃は、阿波と讃岐は、四国遍路や借耕牛(かりこうし、讃岐の呼び名)、米取り牛(こめとりうし、阿波の呼び名)、砂糖締牛(さとうしめうし、讃岐、阿波の呼び名)の利用など、また婚姻関係(讃岐男に阿波女! とか)も多く、阿讃山脈の近くの街道、峠を通じての交流、往来が盛んに行われていました。  

阿波街道詳説(三水会、琴平、香川):http://space.geocities.jp/mt9882axel/awakaidou.html

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丸山徳弥の功績碑三木武夫(代議士)書、、糖源公園、引野、上板、徳島) 

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三木武夫(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB

(解説) 阿波三盆糖のふるさと、阿讃山脈の南麓の引野村の地域は、地質学的には、和泉砂岩(和泉層群)上の扇状地形で、礫質土壌からなる不毛地帯でした。そして、この地域には、甘薯(サツマイモ)、粟(あわ)、稗(ひえ)、コキビ、麦、大豆、綿など以外に適当な作物がなく、小規模な扇状地形の斜面の段々畑を耕作する零細農業が多く、貧しい暮らしをしていました。

 各々の農家には、飲み水の井戸、また、作物に水をやるため、畑や水田ごとに1~2個の野井戸(上総堀り、かずさぼり?)がありました。昔は、畑作、水田に必要な水を井戸から供給していた名残だと思います。

 現在でも、落ちると危険なので、コンクリのフタをかぶせた野井戸が目につきます。私が小学生の頃、近所の小さな子供(本浄清家)が知らぬ間に野井戸に落ちて亡くなり、浮き上がって見つかったという痛ましい事故を覚えています。

 江戸時代の中頃、この地域の土地が、甘蔗(サトウキビ)を作るのに適していること、すなわち、砂礫土は甘蔗の糖度を高めること、扇状地は排水によく、谷水、井戸水による潅漑にも恵まれていることなどから、製糖産業が急速に広がりました。 

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和三盆の里(遠方の高い山が阿讃山脈、 手前の低い山は台山公園、その麓の白い建物は岡田製糖所、糖源公園のすぐ下の里芋とサトウキビ畑より、引野、上板、徳島)

(解説) 引野村の北方、阿讃山脈に源を発する泉谷川(いずみたにがわ)を水源とする用水には、古来、泉谷上井用水、引野用水、七条・鍛冶屋原用水、山田用水、西原(神宮寺)用水の五筋の用水がありました。引野用水の開削は、1759年(宝暦9年)よりずっと以前であることは引野用水訴訟文から推察されますが、正確な年代については記録がなく不明です。 引野村の開発は、泉谷村より早く進められ、現在、泉谷地区の中に引野の地番のついた飛び地が所々にあるのもそれを証明しています。

 引野村伝承によれば、1776年(安政5年)、丸山徳弥は、延岡(日向、宮崎)の鼻ヶ島より国禁を犯して3節(ふし)のサトウキビを引野(阿波、徳島)に持ち帰り試作に成功、1792年(寛成4年)に再び日向に渡り、製糖法を秘かに修得して帰国、白下糖(のち三盆糖)の製造に成功し、板野郡、阿波郡(のち阿波市)に広めたと言われています。

 その約30年後、1819年(文政2年)の史料によれば、甘蔗作付総反数は110町を越え、砂糖生産高は約40万斤となっています。なかでも、板野、阿波の両郡は、全生産高の9割以上を占め、一大生産地となっています。 

 ところが、このサトウキビ栽培も、幕末開国以降の外国の砂糖の流入によって大きな打撃を受け、1868年(明治元年)、明治維新以降では、さらに日清戦争後、1895年(明治28年)、台湾領有による台湾産の砂糖の移入の追い打ちを受けました。こうした甘蔗作(糖業)の危機の打開策として、阿波では和三盆糖の生産に特化、つまり高品質化を選択しましたが、そうした努力も実を結ばず、1897年(明治30年)頃には急速に衰退していきました。

 私の実家(生家)のすぐ隣の東の畑ではサトウキビを栽培し、製糖所(影山家)で褐色のねば砂糖(黒砂糖)を作ってもらい、四角の大きな金属缶に保存し、家で使っていました。

 太平洋戦争が始まり、砂糖(台湾産)の供給が絶たれ、砂糖は配給制となり、戦後は配給制も打ち切られ、砂糖が不足してきたので、昔のサトウキビ栽培が復活したのではないかと思います。

 自宅のすぐ東の畑の一角に大きな穴(サトアナ)を掘り、サトウキビを保存し、次年度の作付けに使いました。また、戦後まもなく、私の家の近く(川瀨家)では、シメ小屋があり、牛を使ってサトウキビをシメていた(サトウ汁の採取)のを覚えています。

 阿讃山脈の南麓、明神山(みょうじんやま)には、和三盆の里、糖源公園(とうげんこうえん)があり、そのすぐ西側(引野字宮ヶ谷)に、谷間を堰き止めて作ったと思われる、明神池(みょうじんいけ、下池)があります。

 上池には新池(しんけ)があり、両池共に明治初期に建設され、ゆりを備え、自然水を取水する明神池用水の水源となっています。これらの溜池(ためいけ)は、水田開発のために作られたと思われます。現在では、西光寺、出口ほか7地区の畑、果樹園に潅漑を行い、水稲栽培にも利用されています。

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高野池(こうやいけ、中央の鳥居形のものは池の水抜きのゆり、引野、上板、徳島)

(解説) 今でも多くの溜池高野池など)が山麓から平野にかけ、田畑の近くに残っています。これらは、水田開発が盛んであった江戸後期から明治初年にかけて作られたと伝えられています。

 私が小学生の頃は、そこで泳いだり、また、おじいさん(瀨尾のまごえはん)がゆりを抜いて池の水を下の田んぼに入れ終わった後、村の大人も子供も池の中の魚取り(フナ、鯉、ナマズ、ウナギなど)を楽しみました。田んぼにはタニシ、池にはカラスガイ(俗称ウマカイ)がたくさんいました。現在は手入れもされず、周りは草と木に覆われ自然のまま放置されています。

 一方、1877年(明治10年)頃から県外産の地藍やインド藍の進出におされ、阿波藍の先行きがにぶり始めると、水田化が必要となり、そのための吉野川治水と利水が当面の急務となりました。また、1897年(明治30年)代にドイツで開発された化学染料(インデイゴ・ピュア)が本格的に流入すると、藍作は急速な衰退を余儀なくされました。

 1897年(明治30年)後半から1912年(明治45年)の明治末期にかけ、藍作の中核地帯の吉野川下流域では、甘蔗(サトウキビ)の不振によって農村の疲弊は深刻化していきました。その結果、こうした事態の打開策として、特に水稲作への転換をはかることが緊急の課題となってきました。同時に、そのための農業用水開発が不可避となりました。

 まず、畑作(藍、甘蔗、煙草、豆類、陸稲、雑穀、いも類、綿など)を中心とした経営は水田(稲作)主体の経営へと転換していきました。また、残る畑作地でも、明治の終りには、製糸業の発展にうながされて、藍作から桑園(養蚕)へと転換が急速に進みました。

 1904年(明治37年)、旱魃(かんばつ)が引き金となり、吉野川から農業用水を引く計画が急速に具体化し始めました。また、1905年(明治38年)、日露戦争戦勝記念事業が行われることになり、吉野川の南岸(麻植郡森山村、牛島村、名西郡浦庄村、石井村、高原村の2郡5ヵ町村、13000町歩)には記念麻名(あさな)普通水利組合、北岸(板野郡一条村、松島、大山、松坂、栄、名西郡高志の2郡6村、1000町歩)には記念板名(いたな)普通水利組合が設立され、二大潅漑用水を建設されることが決定しました。

 日露戦勝を祝して、記念を冠した用水の工事は、1906年(明治39年)に着工されました。流路となる土地の地主や用水費の負担へ反発する反対者による妨害活動や取水のための築堤の難工事などを乗り越え、共に1908年(明治41年)に竣工、一部を除き受益地域への通水が開始され、1912年(大正元年)に完成しました。

 水源地は、柿島村(阿波郡、のち阿波市)に柿原堰(かきのはらぜき)を建築して取水しました。水路の長さは27.8km、総工費は23万5700円でした。この麻名用水、板名用水の完成に伴い水稲作付け面積が激増しました。一方、畑作物の藍、陸稲などは急速に姿を消しました。

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吉野川北岸用水記念誌(吉野川の南岸から阿讃山麓、北岸用水を遠望、1989年、平成元年、国営吉野川北岸農業水利事業完工式、吉野川北岸土地改良区、三好市、東みよし町、美馬市、つるぎ町、阿波市吉野川市、上板町、板野町、徳島) 吉野川北岸用水水土里ネット): http://yoshihoku.jp/

(解説) 明治以来の吉野川北岸農家の悲願であった北岸用水事業は、1939年(昭和14年)の大旱魃、四国の戦後復興事業の中核となった吉野川総合開発計画など、様々な紆余曲折を経て、1967年(昭和42年)10月、吉野川北岸用水の計画基本構想樹立となりました。そして、1972年(昭和47年)3月、北岸用水計画が決定、11月11日、国営吉野川北岸農業水利事業起工式が挙行され、池田ダムからの吉野川北岸用水取水口の着工が始まり、1989年(平成元年)、その事業の完工に至りました。

 現在、北岸用水は、水田用水改良、また、水源施設のない畑、果樹園(柿、桃、梅、、ミカン、ブドウなど)に潅漑を行い、畑地農業の振興を図り、さらに、阿讃山麓に農地開発を行い、八朔(はっさく)、桃園など造成し、地域農業の発展を支援しています。 

(参考文献) 立石恵嗣、小笠髪史、佐藤正志: 阿波三盆糖の歴史的研究、郷土研究発表会紀要第27号(1981); 三好昭一郎、松本博、佐藤正志: 徳島県の百年、山川出版社(1992); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999); 上板町北岸用水土地改良区編: 上板町北岸用水土地改良区20年史、渡部印刷所(2007).

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(財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999).

(参考資料) ○ 上板町ホームページ(上板、徳島): http://www.townkamiita.jp/

○ 岡田製糖所(和三盆、上板、徳島): http://www.wasanbon.co.jp/wasanbon/

○ 吉野川北岸用水(吉野川北岸土地改良区、三好市、東みよし町、美馬市、つるぎ町、阿波市吉野川市、上板町、板野町、徳島): http://yoshihoku.jp/; 

○ 吉野川ダム総合管理事務所(徳島、愛媛、高知、国土交通省):http://www.skr.mlit.go.jp/yoshino/dam/y_yoshinogawa.html .

○ 阿波和三盆糖の里(徳島)の歴史伝承、熊野神社、丸山古墳、サトウキビと糖源公園(丸山徳弥彰徳碑、生田花世歌碑)、引野天神跡、共同墓地、本浄姓のルーツ、松島神社、土地制度、名字(苗字)、新制学校校歌、生田花世と瀬戸内寂聴、松岡康毅、中川虎之助(代議士)、砂糖の歴史、葬儀のしきたり、ふるさとの家、新制教育制度(2009.8.31): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c3cf.html

(追加説明) 時の流れで、明治の終りには、製糸業の発展にうながされて、藍作から桑園(養蚕)へと転換が急速に進みました。

○ 川瀨惣次郎

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川瀬惣次郎桑から紙、大阪毎日新聞): http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00211803&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 養蚕の研究については、引野(松島村、のち上板町)生まれの農学博士、川瀨惣次郎(かわせそうじろう)、1885年(明治18年)~1943年(昭和18年)が名高い人物です。

 専門は養蚕学で、蚕の生理状態桑の繊維化(桑の木から紙を作る)の研究が有名です。1931年(昭和6年)7月10日の大阪毎日新聞には、桑から紙、幹もそのままで見事に成功した、年産2億円は可能、川瀨惣次郎博士のお手柄、との大きな記事が掲載されています。

 川瀨惣次郎は、脇町中学(のち脇町高等学校)の途中から東京に転じ、第一高等学校を2番で入学、第一高等学校、東京帝国大学農学部農芸学部を首席で卒業したと伝えられています。その後、長野の上田高等蚕糸専門学校教授、その間フランスに留学、1919年(大正8年)農学博士、東京帝国大学農学部農芸化学教室の教授となりました。また、1932年(昭和7年)~1934年(昭和9年)、日本農芸化学会副会長を務めました。(徳島県立脇町高等学校、ホームページ: http://wakimachi-hs.tokushima-ec.ed.jp/、学校案内、沿革より) 

 川瀨博士の生家は、安楽寺の近く、東方の農家で、息子さんは父と板西農蚕学校の同級生で、家業の農業を継いでいました。川瀨のけんやんと呼んでいましたが、時たま私の家に来て父と甲高い声で談笑していたのを覚えています。

  明治時代の末期、1910年(明治43年)、養蚕業、製糸業の近代化のために、日本最初の蚕糸専門学校として、上田蚕糸専門学校(うえださんしせんもんがっこう、のち上田繊維専門学校、信州大学繊維学部)が設置されました。創立時は、本科(修業年限3年)、養蚕科、製糸科の2科でした。川瀬博士は上田高等蚕糸専門学校の教授を務めました。

○ 徳島県では、1906年(明治39年)、養蚕学校の設立が認可され、1913年(大正2年)、板野郡立養蚕学校、実科女学校付設、1923年(大正12年)徳島県立板西農蚕学校、同校付設実業女学校、2年後、徳島県立板西高等実業女学校(のち統合、徳島県立板野高等学校)が設置されています。(徳島県立板野高等学校、ホームページ: http://itano-hs.tokushima-ec.ed.jp/index.php?action=pages_view_main、学校紹介、沿革より)

 また、徳島県では、農業後継者や農村地域の指導者の養成、 また、新たに就農を希望する方や農業者等の研修を行い、徳島県の農業の振興に寄与することを目的として、1927年(昭和2年)に徳島県農業技術員養成所がはじめて農事試験場に併設されました。現在では、徳島県立農林水産総合技術支援センター農業大学校へと発展しています。(農業大学校(沿革、徳島):http://www.tonodai.ac.jp/、また徳島県農事試験場(沿革、徳島): http://www.pref.tokushima.jp/tafftsc/nouken/outline/徳島県農林水産総合技術支援センター(ホームページ、徳島): http://www.pref.tokushima.jp/tafftsc/より)

○ 私の父は、板西農蚕学校、農業技術員養成所で学び、農事試験場に農技手として勤務し、県下の農業指導を行い、単身赴任で木頭村にまで指導に出かけていたようです。その功績に対し、徳島新聞社から授与された感謝状が自宅に飾ってあったのを覚えています。また、自宅に多くの農業関係の分厚い専門書があったのが、強く印象に残っています。

 また、父の趣味のミノルタのカメラ、ハーモニカ、木刀(のち真剣)などが家にありました。また、父の趣味囲碁(田舎初段?)は農事試験場に勤務していた頃に覚えたのだと思います。板西農蚕学校の同窓生で、中学校の教師をしていた近くの友人(瀨尾貞雄、川城輝明の両氏)と3人で、川城家の庭にムシロを敷き、夏に一晩中碁を打ったことを聞いたことがあります。また1960年(昭和35年)の頃、最強のプロ棋士として、呉清原九段のこと、徳島新聞に打碁がよく載っていた佐藤五段(?、地方棋士)のことをよく口にしていました。

 私の生家(徳島)の壁掛けに、親父が横書きで墨書した、人自腹気心、の四文字が飾ってありました。人の字は非常に大きく、自の字は少し小さく、腹の字は普通の大きさで横に寝かせてあり、気の字は大きく、乙のところを右に伸ばし、心が小さめに配置されていました。

 人は大きく、自分は小さく、腹を立てずに、気を長く、心静かに、とのことでしたが、この言葉は、剣道一家(新開家、刑務官、利三郎、長男、清、あと武蔵、高志、のち上板、徳島)に生まれた親父(農業技手、利三郎、次男、利治、本浄家養子、あと高治、松島、のち上板、徳島)から教えてもらいました。そのルーツが鞍馬流の剣道の道歌であることは、インターネットで調べてはじめて知りました。父は身長が150cm台で低かったので、剣道では抜き胴とか小手が得意であったようです。家には木刀(のち真剣)がありました。武術道歌(五十雀俗謡集): http://sakusabe.exblog.jp/658434/; 道歌(剣道):http://www.ne.jp/asahi/y.yoda/walser/douka.htm

○ 私の母は、板西実業女学校、京都成安女子学院で学び、小学校教諭として、神宅小学校、東光小学校(神宅村、のち上板町)、松島小学校(松島町のち上板町)に、転勤もありましたが、自宅から自転車で勤務していました。自宅には、女学校の演習時間に作ったと思われる富士山と湖に浮かぶ帆掛け船のきれいな刺繍画が飾ってあったのを覚えています。また、家には、音楽の勉強か、趣味で購入したと思われるケース(袋)に母のネーム入りのバイオリンがありました。(京都成安学園: http://www.seian.ac.jp/other/seiangakuen/

 私の母(高子、小学校教諭)は、高島(撫養の対岸、のち鳴門)の製塩業者(中島家)の生まれですが、本浄家の養女として育てられました。毎年、お盆には里帰りしていました。私が小学校の頃、お盆に、母の実家に連れていって貰ったことがあります。その頃は、流下式塩田となっていて、竹の細枝で作った藁葺き状の屋根から海水がゆっくりと流れ落ちていたのを覚えています。太陽熱によって水分を蒸発させていたものと思います。

 また、高島は一つの島であり、昔は岡崎桟橋から高島渡舟場まで渡し船が出ていました。そこの小鳴門海峡には、小鳴門橋(441.4m、1961年、昭和36年7月、開通) 、それと平行して、徳島自動車の撫養橋(536m、1987年、昭和62年5月、暫定2車線、のち上り線、1998年4月、平成10年、下り線、開通)が架かっています。

 ○ 私の郷里(引野、上板、德島)のは、阿讃山麓の農村地域にあり、草葺屋根(麦ワラ屋根)の家の周囲は屋敷林で囲まれていました。その樹種は、おもに母屋の裏()は、ムク(椋、ニレ科)、ツバキ(椿、ツバキ科)、タケ(イネ科、タケ亜科、またはタケ科、真竹)が多く、にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、カシ(樫、ブナ科)、エノキ(榎、ニレ科)、ヤマモモ(山桃、ヤマモモ科)、西にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、柿(富有柿、カキノキ科)畑、南はミカン(夏蜜柑、ミカン科)、ビワ(田中枇杷、バラ科)などに囲まれていました。また、本宅の西には納屋、牛小屋、鶏小屋、表玄関のの方には広い庭があり、見晴らしがよかったことを覚えています。そして、庭のの端にはツルベ井戸、西の端には瓦屋根の外便所と風呂場を備えた建物がありました。

 家は草葺屋根(麦ワラ屋根、のち赤色トタンを被せる)で、家の周囲を囲む屋敷林は、おもに夏の台風(東南風)、冬の風(北西風)から家を守る防風林と思われます。

 昔は屋敷神(やしきがみ、地主神)が、家の守護神として、屋敷内や付属地にまつられました。地方により、内神、氏神、荒神とも。祖霊信仰に由来すると考えられるが、稲荷、八幡、熊野、明神(神明とも)、秋葉、祇園などの神が勧進され、それらが祭神とされるに至りました。

 屋敷林は、防風林だけが目的ではなく、カシ(樫)防火にも役立つとされ、竹林地震のときの駆け込み場であり、堤防土留め強化に植えられたこともあるという。

 ○ 2002年(平成14年)頃までは、私の実家の屋敷の周辺は、樹木、竹薮、果樹など屋敷林で囲まれていました。草葺屋根(麦ワラ屋根)の母屋の側(裏)は竹薮(真竹)、大きなエノキ(榎木)、ムクノキ(椋の木)、ツバキ(椿)、ウメ(梅)、小ビワ、ユスランベ、側は大きなカシノキ(樫の木)、ムクノキ(椋の木)、サクラ(桜、ソメイヨシノ)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、東南に大きなヤマモモ(山桃の木、老木となり台風で倒壊)、また、大きな渋柿の木(上部が台風で折れる)、一方、母屋の側(表)は大きな夏ミカン、大きなタナカビワ(老木となり台風で倒壊)、スダチ、キンカン、インドヤシ、南西に大きなクスノキ(楠木)、ウメバガシ(外トイレの背後)、西側にはモモ(桃)と柿(甘ガキ、フユウ)畑、その下はクサイチゴ、小ビワ、サクランボ(桜桃)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、西北に大きなクリ(栗)の木があり、自然豊かな姿でした。 

 これらの樹木も、2003年(平成15年)、母屋を新築した時、ほとんど伐採したので、現在、昔の面影が少し残っている程度で、家の周辺は見違えるほど明るく、見通しも良くなっています。また、屋敷の周辺の畑の畦(あぜ)には、の木が植えてありましたが、現在もその名残の姿を見ることができます。 

 私が小学生の戦後まもなくの頃は、自宅(引野、松島、のち上板、德島)近くの東、西北の畑では陸稲、大麦、小麦、粟(あわ)、タカキビ、コキビ、トウモロコシ(ナンバ)のほか、サトウキビ、サツマイモ、サトイモ、ジャガイモ、タマネギ、ネブカ、ワケギ、ラッキョウ、大根、カブラ、菜の花(アブラナ、ナタネ)、ゴマ、フキ、ゴボウ、ニンジン、コンニャク玉、白菜、キャベツ(玉菜)、ホウレンソウ、春菊(シュンギク)、アカジソ、アオジソ、ニラ、ショウガ、ミュウガ、パセリ、落花生(ソコマメ)、カボチャ、大豆、ソラマメ、エンドウ、アズキ、ササゲ、インゲンマメ、枝豆(アゼマメ)、トウガラシ、ピーマン、トマト、キュウリ、スイカ、キンウリ、マクワウリ、カンピョウ、クサイチゴ(フウユウ柿の木の下の周辺)、ウド、タバコ、ワタ(綿花)、桑、茶、柿、桃などを栽培していました。

 また、近くの西の田畑では水稲と大麦の二毛作、遠くの南の田では湿地であり水稲のみを栽培していました。梅雨前の4~5月頃、水田で綱(つな)を張り、長方形の木枠(きわく)などを使い、手で苗を植えていました。が、しばしば水田のヒル(蛭)が足に吸いつき、取り除くと真っ赤に出血したことがありました。

 水田では、田の草を手で、あるいは手押しの草取り機、八反ずり(田すりとも)などで取り除き、水の管理(溜池と用水、野井戸、バケツつき鎖の滑車、のちポンプつき発動機など)、稲刈り、ハデかけ(乾燥)、リヤカーによる稲束の自宅の庭への運搬などの手伝いをしました。 

 麦の脱穀作業については、1929年(昭和4年)頃から石油発動機と脱穀機を泉谷の農家25人が講(発起人、かん医者、林久雄、吉田芳太郎氏)によって購入、泉谷地区のほか、引野、鍛治屋原、七条など各地域にも出張して脱穀(発動機講!)していました。(児島光一:上板昔読本、発動機講、資料、吉田武男、p.147~153、教育出版センター(1979)より) 

 また、戦後の麦と米の脱穀作業は、発動機講と同じように、順番に各家を回り、地域ごと(隣組)の協同作業で行われていました。私の家では、作業後、自宅の黄色に熟して甘い大きなタナカビワ、小ビワなどみんなで一緒に食べていたのを覚えています。

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郷里(天神前、引野、上板、德島)にマイカー(ファミリア1500CC)で帰省、2009年(平成21年)8月4日撮影)

○ 砂糖の歴史

 江戸時代、1600年代、日本のサトウキビ栽培は、1610年(慶長15年)、直川智(すなおかわち、奄美大島)、1623年(元和9年)、儀間真常(ぎましんじょう、沖縄)、により、中国福建省から相次いでシネンセ種(中国細茎種)のサトウキビが導入されました。

 製糖技術は、二本車と三つ鍋による二転子三鍋法、のち首里の真喜屋実清(まきやじっせい)が三つ車の三転子法に改良、また、圧搾機(あっさくき、砂糖車とも)は木製から石製、明治期から鉄製に改良し、これらを牛馬によって回しました。(民族探訪事典、山川出版社(2005)、p.324、砂糖づくり、より)

 徳川吉宗の奨励策に支援されて日本本土各地に普及し、高品質和糖の原料とされたのもこの種という。

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徳川吉宗像(徳川記念財団蔵、Google画像) 徳川吉宗(とくがわよしむね、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

 サトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。

 それは、外国産(オランダの金平糖(コンペイトウ)、中国の唐三盆など)の長崎での輸入の砂糖が高価だったためです

 琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。

 明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より)

 1869年(明治2年)、沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的多く、株の再生も中庸で、黒糖原料としての美味しさと栄養性、フラクトオリゴ糖が多いなどの長所を持ち、香川、德島では和三盆の原料として今も用いられています

 読谷村は、沖縄中部で、1945年(昭和20年)4月1日、太平洋戦争の沖縄戦で米軍が最初に上陸した沖縄本島の地です。森山良子「さとうきび畑」、作詞作曲、寺島尚彦(1930~2004)でもよく知られたところです。

 平和を祈る歌(沖縄・沖縄本島)、サトウキビ畑(米国占領下で生まれた平和を祈る歌、寺島尚彦、作詞作曲)、とは: http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-7d44.html

 黒糖(黒砂糖)は、純度75~86%。サトウキビのしぼり汁をあく抜きしながら濃縮して(130℃でひたすら煮詰める!)かためたものです。黒色をして糖蜜(ブドウ糖や果糖がたくさん含まれている)を含んでいて、これを分離すると白砂糖となるので、分蜜糖ともいう。砂糖の結晶は無色透明で、白く見えるのは光が乱反射するためです。

 黒糖には、カリウム、カルシウム、鉄などが5~6%含まれ、また、抗酸化作用が注目されるポリフェノールに、美白効果があるといわれるアルブチンなどもそのまま残っています。

 黒褐色の独自の色は、様々な成分が混じっているのと加熱による変色のせいだという。白い砂糖にはない香ばしさは加熱で生まれ、コクの元は豊富なアミノ酸です。

 沖縄県黒砂糖協同組合(那覇市)によると、沖縄本島産や石垣島産の黒糖はなく、沖縄で黒糖を作っているのは、波照間島、多良間島、西表島、伊平家島、栗国島、小浜島、与那国島の計7離島だけだという。他の島のサトウキビは主に粗糖にされ、精製して上白糖などの白い砂糖になるそうです。

 黒砂糖白砂糖栄養分については、ショ糖は黒砂糖では80%ほど、白砂糖(グラニュー糖)では100%で、両者の間に約20%の差があるが、黒砂糖にはショ糖のほにブドウ糖、果糖などが含まれているため、エネルギーには余り差がありません。黒砂糖にはほかにも、カルシウム、カリウム、マグネシウムなどのミネラル、さらに、ビタミンB群やナイアシンなどのビタミン類が含まれていて栄養豊富です。伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008)より)

 薩摩藩主島津氏は、奄美大島を支配、琉球をも半ば支配し、当時、砂糖は高価な食べ物で、大きな利益があがりました。薩摩藩は砂糖を藩の専売とし、砂糖を財源にすることで、幕府に対抗できるほどの財力を蓄え(富国!)ました。この藩が、明治維新中心になったのは、ここにも遠因があったという。砂糖は甘味料、調味料として重要ですが、その防腐効果を利用して、砂糖漬、練ようかん、お菓子の金平糖(こんぺいとう)などもつくられます。また、疲労回復の効果もありますが、過度に食べると胃腸を害し、骨格の成長を阻害するという。

○  1947年(昭和22年)3月31日 教育基本法、学校教育法公布(6・3・3・4制を規定)。4月1日 国民学校廃止、小・中学校の6・3制発足。5月3日 日本国憲法施行。(吉田内閣)

阿波和三盆糖の里(徳島)の歴史伝承、熊野神社、丸山古墳、サトウキビと糖源公園(丸山徳弥彰徳碑、生田花世歌碑)、引野天神跡、共同墓地、本浄姓のルーツ、松島神社、土地制度、名字(苗字)、新制学校校歌、生田花世と瀬戸内寂聴、松岡康毅、中川虎之助(代議士)、砂糖の歴史、葬儀のしきたり、ふるさとの家、新制教育制度(2009.8.31)

  中世、平安時代、律令体制がゆるみ、特に荘園(しょうえん、貴族、寺社の私的な領有地)の増加は律令体制を根底から揺るがし、その管理者武士が次第に力をつけてきました。

 阿波和三盆糖の里(引野、上板町、德島)を中心とする地域は、平安時代日置庄(ひのきしょう)と呼ばれた荘園で、1379年(天授5年)、紀州(和歌山)の熊野神宮(くまのじんぐう)に寄進され、その分霊を南海道(古代の道)を通って迎え、守護神とした、熊野神社(くまのじんじゃ)が、現地に建てられました。

 熊野信仰は、神道、仏教、民間信仰、修験道などを習合した、熊野三山(くまのさんざん、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への信仰です。中世後期には、山伏、比丘尼(びくに)、念仏聖(ねんぶつひじり)によって、熊野社(農林水産の神)が各地に勧進され、庶民信仰の裾野(すその)が拡大しました。

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熊野神社輪抜け(わぬけ)祭り、夏越の大祓(なごしのおおはらえ)、無病息災を祈り、茅の輪(ちのわ)をくぐる、引野、上板町、板野郡、徳島)

(解説) 中世、日置庄(南朝方、吉野の朝廷)は、南北朝時代にも、吉野方として勤王に尽くしたのですが、阿波に入ってきた足利氏の一族、細川氏(北朝方、京都の朝廷、室町幕府)の支配を受けるようになり、社領も縮小され、熊野庄(くまのしょう)と呼ぶようになり、日置庄の庄名も使われなくなり、ヒノキがいつの間にか、ヒキノ(引野)に変わったと言われています。

 ところで、熊野神社の南近くの畑中に、掘を周囲にめぐらした県下最大の円墳があります。これが丸山古墳で、未発掘ですが、その昔この地方に有力な豪族が住んでいたと考えられます。飛鳥時代、豪族の多くは、現世利益の動機で仏教に帰依し、古墳に代わる権力と権威の象徴として、寺院(氏寺)を建立しました。

 阿波三盆糖の創始者丸山徳弥(俗称和田徳弥)は山伏(玉泉)であり、丸山の名は、この古墳の名に因んでつけたと言われています。徳弥は、熊野庄で、熊野権現(熊野神社)に奉仕する家の生まれです。今でも、和田、梅田の名字の家は、神職とつながりが深いようです。

 修験道や回峰行者と呼ばれる山岳宗教の修行者(山伏)は、荒行(燃える火の上を素足で駆け抜け、極寒に滝を浴び、ワラジで山を駆けめぐるなど)をこなす直前に五穀断ちを行いますが、この時の栄養素は、糖質や植物性脂質が多く、蛋白質は少なく、塩分はほぼゼロだそうです。

 脂質が燃えると二酸化炭素と水が生まれます。一方、蛋白質は窒素も出るので、これは尿として体外に出さないと、尿毒症になってしまいます。尿を出す必要がある蛋白質を減らし、代わりに脂質を蓄えれば、分解時に自然に水が体内で作られる理屈です。

 また、塩断ちに慣れると、塩や汗を体外に出さない体になります。しばらくであれば、外から水をとらなくても平気な体質に変わるそうです。1000年の伝統の知恵だと言われています。

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丸山古墳(高尾、土成町、のち阿波市、徳島)

(解説) 江戸時代、幕末から明治にかけ、阿波和三盆糖(あわさんぼんとう)は、全国の有名な和菓子に必ず使われていました。この和三盆糖は、1789年(寛政元年)~1800年(寛政12年)頃、引野村(引野、松島村、松島町、上板町、徳島)の丸山徳弥(山伏、玉泉)、1753年(宝暦3年)~1821年(文政10年)、により、はじめて作られたと言われています。

 1715年(正徳5年)及び1808年(文化5年)の引野村棟付帳によれば、徳弥一家は、代々醍醐派三宝系(真言宗当山派)の山伏(修験者)でした。山伏や虚無僧は、国内外への往来手形が容易に下付されたので、1776年(安永5年)、四国遍路(九州出身)より伝え聞いた甘蔗(かんしょ、サトウキビ)を日向(ひゅうが、宮崎)より入手、その後、栽培法、貯蔵法、製糖法(黒糖)を密かに調べ、さらに独自技術で三盆糖(白砂糖)を18年かけて作ったと言われています。

 丸山徳弥の和三盆糖製造の話は、地元の製糖業者の間に古くから伝わる伝承であって、確かな史料は何一つ残されていないようです。しかし、岡田家では、1801年(享和元年)、先祖が丸山徳弥から製糖法を伝授されたと伝えています。また、徳弥一族の菩提寺、四国遍路札所、6番安楽寺(真言宗、引野、上板町)には、1805年(文化2年)10月、弥蔵ほか一名の者が、徳弥に宛てた、次のような秘密厳守の誓書(神文)が現存しています。 仕渡一礼之事 一、白黒砂糖秘法伝授之儀一子相伝ニ仕、余人ヘ他言仕間敷候依敷而一礼如件 文化二年丑十月三日 弥蔵  丸山徳弥殿

 1960年(承和35年)3月、岡田広一氏(糖業、泉谷、上板)は、引野明神山(県畜産試験場、松島千本桜、北西約1km)の山麓(近くに中央構造線)に、糖源公園(とうげんこうえん)を開き、同業の有志と共に、徳弥の彰徳碑(しょうとくひ)を建立しています。碑の表面には丸山徳弥翁彰徳碑(三木武夫代議士書)、裏面には、徳弥の功績が詳しく述べられています。

 岡田製糖所は、糖源公園の東近くにあり、熟練した職人が今も、200年前の和三盆の手作りの伝統を守っています。また、昔の作業所は、資料館として、製糖の道具類、当時の写真などを展示しています。

 松島の千本桜は、岡田製糖所のすぐ東にあり、しゅばしょ(種馬所)とも呼ばれている徳島県立の畜産試験場にあり、構内には染井吉野が約900本、他品種の桜が約100本植えられています。 

 昔から桜まつり(4月)には、屋台の出店もあり、桜見物によく出かけました。1947年(昭和22年)4月に松島小学校に入学した頃、遠足があり、どういうわけか馬が暴走し、一人の友達が頭を馬に蹴られ(同級生の原田君、今も頭に傷跡?)大けがしたことを、今でもはっきり覚えています。 

○ 松島小学校(ホームページ、上板、徳島):http://e-school.e-tokushima.or.jp/kamiita/es/matsushima/html/htdocs/

 小学校卒業のころ、スローテンポの校歌(1.松の緑の緑の色がーーー)を歌ったことを覚えています。

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丸山徳弥翁彰徳碑三木武夫(代議士)書糖源公園、引野、上板町) 

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三木武夫(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB

 また、すぐ近くには、松島村(泉谷、上板)出身の女流文学者(詩人、小説家)、生田花世(いくたはなよ)、1888年(明治21年)~1970年(昭和45年)、及び15才年下の早世(24才)した弟、満州郎の歌詩碑が建っています。花世の歌碑には、雲間ゆく 飛行機ゆ 我見下ろしぬ 父母生まれし 阿波の山河を、とふるさとの思いを詠っています。

 私が学んだ松島中学校歌花世作詞)は、

 その一東に鳴門西南に 高越山をのぞみ見る 阿北の台地その下に 大河吉野の流れゆく、とふるさとの風景を詠っています。

 その二ああ緑こき松島の 美しき名をもつ町の われら若人のぞみもち 学びの道にいそしまん、と若人が希望をもって学び、

 その三常磐ほこる若松の 幾千代かけて栄えんと われら学徒は諸共に この人の世につくすべし、と皆なと力を合わせ人の世に尽くし、緑の若松の永劫の繁栄に喩え(松は一年を通じて緑を保ち千年の齢を保つと言われています)、人の世がいつまでも栄えますように、との願いが込められているように感じました。

 1955年(昭和30年)、3ヵ町村(松島町、神宅村、高志村)合併により、松島町上板町となり、松島中学校は上板西中学校へ、また新校舎建築移転により上板中学校に統合されて現在に至っています。私は松島中学校の最後の卒業生となりました。(はじめ、卒業アルバムは上板西中学校、卒業証書も上板西中学校でしたが、のち卒業証書だけ松島中学校に取り替えられました。)

○ 上板中学校(ホームページ、上板、徳島): http://e-school.e-tokushima.or.jp/kamiita/jh/kamiita/html/htdocs/?page_id=69

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生田花世、弟、満州郎歌詩碑(糖源公園、引野、上板町)

 ところで、引野に天神前という地名がありますが、明治時代、松島村(松島町、上板町、板野郡)の神社が全部松島神社合祀されるまでは、この地に天神さん(引野天神)が祀られていました。

 その言い伝えによりますと、菅原道真(すがわらみちざね)が太宰府(だざいふ)に流される時、淡路から阿波に渡って、讃岐に出ようとして、道に迷って引野まで来て休んでいました。その時に、この土地の長老が道案内して、山越えで讃岐の三本松に出ることが出来たと言われています。後の人達は、菅公が休んだ時に腰を下ろした石跡に社を建て、天神さんをお祀りすることになったそうです。この話は、江戸時代の中頃、神社の由来を飾るために作られたものと考えられています。

 その天神さん跡には、昔の姿を彷彿させる手水鉢、灯籠などが現存しています。目の前に、ムク(椋の実の木)とエノミ(榎の実の木、エノキ)の大木があり、よじ登って熟した実を食べ、遊んだことが、懐かしく思い出されます。

 現在、天神(てんじん)信仰は、全国3953社(うち四国318社)、特に九州と沖縄(1658社)に多く、悲運のうちに没した道真公を慰霊し、雷雨の神、学問や和歌などの神様の性格を持っています。主な神社は、太宰府天満宮(太宰府、福岡)、北野天満宮(京都)です。

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引野天神跡(天神前、引野、上板町)

 また、この地域の特色として、天神さん(引野天神)の周辺には、名字(みょうじ、苗字)に本浄(ほんじょう)非常に多い(約20件)ことです。

 安楽寺(真言宗、菩提寺)の過去帳によれば、先祖が一番古い本浄家(天神前1番地の1)の元祖は、1676年(延宝4年)、私の家の元祖は、1770年(明和7年)に亡くなっています。

 ところで、1638年(寛永15年)、江戸幕府は、キリシタン禁制のため、仏教徒(檀家)であることを寺院の住職に証明させ(寺請証文)、宗旨人別改帖(しゅうしにんべつあらためちょう)の提出を義務づけ(檀家制度)、1671年(寛文11年)、その作成を制度化(戸籍制度の機能を持つ)しました。

 その頃は、神仏習合、ご先祖さまは、名字をつけるのに、檀家寺の住職、聖、神社の神主、修験者(山伏)から助言を受け、またご先祖さまの信仰の思いも込めて、本浄姓名字に決めたと考えられます。

 このことは、本浄家の墓地が、共同墓地(一番古い本浄家が土地を提供)に多いことからも、一族のつながり(分家、婚姻による親類縁者など)の強さが偲ばれます。最近は墓地が狭くなったので、各家代々の寄墓が目につきます。

 また、私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の本浄家過去帳によれば、本浄源藏(5代目)の倅(せがれ)、浪太郎は、1904年(明治37年)9月3日(旧7月24日)、日露戦争で亡くなっています(渤海湾近く?)。享年22才。自宅の床の間には、勲章をつけ羽織袴の肖像画がかけられていました。また、本浄家の墓地では、浪太郎さんのお墓は、本浄家の先祖のお墓の中でも特別大きなお墓であったので、子供の頃から強く印象に残っています。

 日本で庶民が墓に墓石を立てるようになったのは江戸時代中期ごろからで、それ以前は土葬で遺体を土に埋め、小さな木を立てたり、河原の石を置くというものでした。

 現在のように墓石に家名を彫るようになったのは明治時代になってからです。これは火葬が普及し始めると共に、明治の民法が家を意識したことに関係しています。(北陸中日新聞朝刊:樹木葬、2012年10月21日(日)、サンデー版、大図解シリーズ、No.1066)

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共同墓地(天神前、引野、上板町)

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松島神社(引野天神合祀、鍛冶屋原、上板町、板野郡、徳島)

 松島の地名は、町村合併により、上板町が生まれる前の旧町名ですが、平安時代、吉野川の入江が山の近くまで入り、松の緑が水面に映る美しさが、日本三景の一つ、松島湾の景色と似ていたので、その名(もと松島郷、まつしまごう)がついたと伝えられています。

 松島神社は、1911年(明治44年)9月、明治新政府が村内各集落に散在する社を、一村一社に合祀するよう要請、1916年(大正5年)10月、社殿を新築し現在に至っています。 

 今年、2009年(平成21年)8月初旬、安楽寺畠田秀峰住職、裕峰副住職には、本浄家先祖の寄墓と供養のことでお世話になり、また秀峰住職とは、いつもながら2時間ほど歓談、四国遍路に関する資料もいただき、いろいろご教示いただきました。

(参考文献) 板野郡上板町教育会編: 郷土読本、上板町の姿、板野郡上板町第五区教育研究会(1958); 上板町誌資料調査会編: 上板町の伝説とわらべ歌、上板文化第一集、徳島県板野郡上板町教育委員会(1961); 児島光一: 上板昔読本、教育出版センター(1978)、 和三盆糖、藍ー歴史と製法の概要-、教育出版センター(1989); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 新版 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋(年表)、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2000)、同(冊子)Ⅱ(2008); be on Sunday、Wonder in life、日曜ナントカ学(荒行こなす直前の五穀断ち): 朝日新聞、2007年(平成19年)1月14日(日).  

(参考資料) ○ 岡田製糖所: http://www.wasanbon.co.jp/wasanbon/; 

○ 四国霊場 六番安楽寺真言宗、公式ホームページ、上板、德島): http://www.shikoku6.or.jp/index2.html.; 

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畠田秀峰(四国六番安楽寺貫主; http://koosyoji.sakura.ne.jp/hatakeda.jpg人生は遍路なり): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html徳島県遍路体験: http://ihcsacafe.ihcsa.or.jp/news/culture/henro/. 

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空海弘法大師774~835真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

○ 空海弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15); http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html

○ 空海(弘法大師)と書(風信帖、飛白書、雑体書)、五筆和尚、筆の誤り、筆を選ばず、とは(2009.11.13): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/41.html

○ 歴史民族資料館(上板、德島):http://www.townkamiita.jp/docs/2011020200040/

○ 阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c430.html

(追加説明) ○ 土地制度

 古墳時代、6世紀以前は、各々の豪族が土地と民衆を支配していました。飛鳥、白鳳時代、7世紀に入ると、官僚制度、地方制度、法令制度などの整備が徐々に進み、7世紀末から8世紀初頭には、律令制が成立しました。それに伴い、豪族の土地と民衆支配は否定され、班田収受や戸籍制度に基づき、中央政府(朝廷)による統一的な土地と民衆の支配が実現しました。これらの土地制度は、中国の唐の均田制を基に構築されました。

 日本荘園は、奈良時代、律令制のもと、農地の増加を図るため、墾田の私有を認めたことに始まります。平安時代、小規模な免税農地に基づく免田寄人型荘園が発達し、その後、摂関家、大寺社など権力者へ寄進する寄進地系荘園が主流を占めました。鎌倉時代、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始めました。室町時代、荘園は存続しましたが、中央貴族、寺社、武士、在地領主などの権利、義務が複雑に絡み、一方、村落(惣村)による自治が出現し、荘園は次第に解体への道を歩み始めました。戦国時代、戦国大名による一円支配が成立し、荘園の形骸化が益々進み、最終的に、豊臣秀吉の全国的な検地によって、荘園は解体しました。(Wikipedia、荘園より)

 江戸時代五人組(ごにんぐみ)制度は、領主(名主、庄屋など)の命令により組織化された隣保制度で、争議など相互監視、年貢納入など連帯責任、法令伝達の徹底化、相互扶助など、封建的な統制が血縁的、地縁的な共同体の中で行われ、明治維新以後も残存し、太平洋戦争戦時体制下では、法制的には消滅していましたが、その性格は、隣組制度に受け継がれていました。

○ 天神さん

 天神とは本来天変地異を支配する神が天神であり、雷電鳴動はその神威である。非業の死をとげた人の怨霊が天に響いて雷電を起こすと考えられ、この天神と御霊神が結びついたわけである。

 ところで、菅原道真は左大臣藤原時平のねたみを受け太宰権帥に左遷され九州でわびしく没したのだが、ところがまもなく京都で雷電そのほか天変地異がしきりに起こった。人々は道真公のたたりであるといって恐れ、朝廷も慰霊に力をつくした。以後、天神は道真に独占されて、道真が生前すぐれた学者であったところから、天神はいつしか文道の太祖として祭られるようになった。また道真の命日である2月25日を主として、毎月25日参詣が行われる。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、1994、より)

 菅原道真(57才)は、901年(昌泰4年、延喜元年)2月1日、藤原時平の策略により太宰府に左遷(流罪)され、2年後、悲運のうちに生涯を閉じています。道真が京の都から太宰府に流された時、立ち寄ったという伝説が各地にありますが、史実としては、京の都(平安京)から水上交通路(船、淀川)で河内(大坂)を通り、大坂(大阪)の玄関口、難波(大坂)の津へ、ここから瀬戸内海を西廻り海路(船)で明石(兵庫)、四国の坂出(香川)、今治(愛媛)に寄り、中国の周防(山口)を通り、九州の出入港地、博多(福岡)の津へ、そして太宰府(福岡)に陸路で着いたと考えられます。

○ 名字(苗字)

 名字名田(みょうでん)、つまり土地のこと、また、は、土地の小区分のことです。武士は、荘園管理者であり、平安時代の中頃、土着した土地の名、つまり名字を作るようになりました。そして、武士は一つの所領を、一所懸命、守りました。

 物事を真剣に行う、一生懸命(いっしょうけんめい)は、武士が主君から与えられた所領を命がけで守る、一所懸命、の誤用からできた言葉です。

 江戸時代に、名字苗字となり、苗字帯刀によって、武士と一部の庶民を除き、平民は苗字を名乗ることが(公式には)許されていませんでした。

 が、実際は、一般庶民でも苗字(檀家名、寺社への寄進者名、土地名など)を使っていたようです。平民苗字使用が許されたのは、1870年(明治3年)の平民苗字許可令、全ての国民が苗字を名乗るようになったのは、1875年(明治8年)の平民苗字必称義務令によるものです。

同姓同名事典(全国): http://www.douseidoumei.net/36/dou10.html. 同姓名分布、姓名ランキング(全国): http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/index.asp

 名字(みょうじ、苗字とも)、名字の由来(古代、平安時代)、士族と平民の苗字(江戸時代、明治時代)、日本に多い名字(佐藤、鈴木、高橋)、本浄姓のルーツ、とは(2012.6.4): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/252.html

 阿波高校(ホームページ、徳島): http://awa-hs.tokushima-ec.ed.jp/

 生田花世(1888(明治21年)~1970(昭和45年)、作家)は、松島中学校(松島町、のち上板町、板野郡)の校歌とよく似た思いの阿波高等学校(柿原村、のち吉野町、阿波郡、阿波市)の校歌の歌詞を作っています。両校は、私の思い出深い出身校です。

 阿波高等学校歌(花世作詞)、 

 その一、 南空高く 雲をつき 堂々雄姿 そそりたつ  四国の鎮め 剣山や 高越の峯を仰ぎ見む、と学舎から眺める遠くの雄大な風景を詠っています。 

 その二国改まる日の本の 希望に映えて洋々と 吉野の大河 流れゆく 水の力をおもいみむ、と 戦後の日本が、力強く、希望に満ちて復興している姿を、吉野川の大河の力強い水の流れに喩えています。

 その三、 男の命つよさなり 女の道はやさしさよ 力をあわし この郷(さと)に 文化の華(はな)を たたえなむ、と昔から人のよさ(美徳)となっていた、男の人の力強さ、女の人のやさしさを生かし、共に力を合わせて、ふるさとの文化の華(はな)を咲かせますように、との願いが込められているような感じがしました。

 このれら歌詞は、上述の松島中学校の校歌と構成がよく似ています。 

 ところで、1994年(平成6年)3月6日(日)の朝日新聞(朝刊)によれば、阿波高等学校(岡本武文校長)で、校歌の三番の歌詞が男女の役割を固定化する内容のため好ましくないので、1日にあった今年の卒業式から二番までしか歌わないとの記事が出ていました。

 また、同校体育館の掲示板からも三番が消え、4月の新学期から使う生徒手帳や学校要覧でも削除する。三番の歌詞は同窓会館の額に残るだけとなり、卒業生からは、三番が一番いい歌だったのに、と残念がる声が出ている、とのことです。

 この歌詞は、戦後、男女共学となり、1951年(昭和26年)に当時の教頭が上京、県出身の作家として知名度の高かった生田花世、1888(明治21年)~1970(昭和45年)、に作詞を依頼、曲をつけ、校歌として長年歌われてきたものです。

 三番の歌詞は、私には男女の役割を固定化する内容とも思えず、作詞した当人にその意味を聞いてみたいところです。

 京都大学の森毅名誉教授の話は、校歌は校舎に付属しとるもんやなく、在校生のためのもの。歌うか歌わんかはそこの人が決めればいい。しかし、人権がどうのこうの言うより、ダサイ、と言った方がよかったな。郷愁を覚える卒業生はそれぞれ歌ってもらえばいいでしょう、とのことです。

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 なお、校歌の完全版は、花世の自筆ではなく、15才年下で早世(24才)した弟、満州郎(詩人)の自筆となっていました。

 生田花世

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生田花世(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E8%8A%B1%E4%B8%96

 生田花世(いくたはなよ)は、1888年(明治21年)10月14日、徳島県板野郡泉谷村(現上板町泉谷)西崎家で生まれました。家は代々製糖(阿波三盆糖製造)を主業とする豪農でしたが、明治以降、安価な外塘の輸入増大により、また、父親が45才の若さで死去し、多額の借金を抱え、没落しました。西崎家の菩提寺は、糖源公園の北にある和泉寺(阿波西国33ヶ所、26番)です。

 花世は西崎安太郎の長女で4弟2妹がありました。父安太郎は明治38年より同42年まで松島村長に就任しました。父は漢学者でもあり、「菊花のような香り高い幸せとこの世を花の世とせよ」との祝意を込めて「花世」と命名しました。

 1908年(明治41年)、21才の時、3年奉職した小学校(半田、御所、引野)の教師を辞め、文学を志し上京しましたが、東京生活は、言葉で言い表せぬ苦労が多く、「食べることと貞操と」を、「反響、5号」に発表、社会を巻き込む貞操論争となるなど、屈辱的な体験もしています。

 1912年(大正元年)、25才、平塚雷鳥(ひらつからいてう、1886~1971)の主宰する新しい女性の文学集団、青鞜社(せいとうしゃ)に入社、以来、雑誌、青鞜に多くの作品を発表しました。青鞜は、伊藤野枝尾竹紅吉(一枝)らも集まり、女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、母性保護を訴えるなど、近代日本女性史に一時期を画しました。 

 1914年(大正3年)3月5日、27才の時、河井酔茗(かわいすいめい、1874~1965、詩人、堺、大阪)の媒酌で生田春月(いくたしゅんげつ、1890~1930、米子、鳥取、22才)と結婚、貧しいながらも家庭をもって共に文芸活動に励みました。そして、「青鞜(せいとう)」8月号に「広がる愛」を発表、この時から生田花世筆名として使っています。それまでは、西崎花(16才、高等女学校3年生、雛祭りの記、才媛文集)、長曾我部菊子(小学校教師、産土神、女子文壇)などのペンネームで投稿しています。生田春月(いくたしゅんげつ、1890~1930):http://www.urban.ne.jp/home/festa/ikuta.htm#top; http://www.yonago-toshokan.jp/45/277.html.

 花世は日本初の女流文芸史も執筆。著書は、女流作家群像(行人社、昭和4年)、燃ゆる頭(中西書房、昭和4年)、一葉と時雨(潮文社、昭和18年)、源氏物語解説(生田源氏の会、昭和42年)、生田花世詩歌全集(木犀書房、昭和46年)ほか多数あります。

 1970年(昭和45年)10月、83才、生田源氏の会の会員たちにより、東京都八王子市の光照寺境内に花世の歌碑が建立され、除幕式に福島病院(心臓病で入院、上目黒、東京)から出席しました。同年12月8日、死去。 東京都八王子市絹ケ丘3-8-1 光照寺墓地 生田家墓域  ふるさとの 阿波の鳴門に 立ち出でて すくひ上げたる 白き砂はも  S.45.誕生日(10.14)。(松島村は後年上板町に合併)。(郷土「上板」が生んだ女流文学界の異彩、生田花世、上板町立歴史民俗資料館、より) 生田花世(wikipedia, ウイキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E8%8A%B1%E4%B8%96.

 青鞜(せいとう)は、1911年(明治44年)9月、女性の地位向上にに尽くした平塚雷鳥(ひらつからいてう、1886~1971)が呼びかけてできた日本初の女性のための文芸誌です。特に、女性の自立や母性の保護などをテーマに掲げています。1916年(大正5年)2月号まで52冊発行され、その後、無期休刊しました。花世が青鞜に書いた「恋愛及生活難に対して」という文章を読んだ詩人の生田春月が感動し、見ぬ恋をして二人は結婚する事になりました。二人のラブレターを青鞜に発表し、天下に公表した結婚でした。

○ 瀬戸内寂聴

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瀬戸内寂聴(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4

 1961年(昭和36年)、瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう、1922~ )は、「かの子撩乱(りょうらん)」を執筆するにあたり、岡本かの子(おかもとかのこ、1889~1939)と親しかった生田花世から、かの子について知る限りのことを、東京中野駅前の喫茶店で聞いていますが、花世の口は矢継ぎばやで阿波弁のなまりの強い話しぶりであったという。(北陸中日新聞、2011年(平成23年)11月30日(水)、12月1日(木)、夕刊より) 瀬戸内寂聴(wikipedia、ウイキペデイア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4.

德島県立文学書道館生田花世、瀬戸内寂聴の関連資料含む):http://www.bungakushodo.jp/.

○ 松岡康毅

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松岡安毅(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E5%BA%B7%E6%AF%85

 松岡康毅(まつおかやすたけ、1846~1923)は、德島県板野郡松島村(のち上板町)七条出身、官僚政治家です。1906年(明治39年)西園寺内閣の農商務大臣、のち男爵、1922年(大正11年)日本大学初代総長となりましたが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の被災で亡くなりました。

 生田花世が上京していた明治の頃は、大臣として活躍していました。 松岡康毅(朝日日本歴史人物辞典): http://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E5%BA%B7%E6%AF%85; 関係文書(国立国会図書館所蔵):http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/matsuokayasutake1.php. 

 生田花世の短編秋の或る夕の事、の中に、上京後、途方に暮れていた時に助けてもらった同郷の1人の巡査の言葉として、「なほ困りゃ松岡さんが来てるゾ、と、このように同じ県から出て出世して大臣になっている人の名を言って笑った」と記されています。(桂冨士郎著:阿波文学散歩、p.154、生田花世、秋の或る夕の事、德島新聞社(1999)より)

○ 上板町

 上板町は、1889年(明治22年)の町村制施行によりできた、板野郡松島町、大山村、名西郡高志村など3ヶ町村が、1955年(昭和30年)3月31日、合併して発足、現在に至っています。上板町ホームページ(上板、徳島): http://www.townkamiita.jp/

 上板町(徳島)の北部山麓地帯、上板町引野は、阿讃山脈を越えた引田町(香川)に接しています。その地域は、阿讃山脈に源を発する泉谷川をはじめ、6河川からの土砂の流出による堆積層によって形成された扇状地で、地質は、中生層に属し、和泉砂岩(和泉層群)よりなり、土質は酸性度が強く、やせていて、粟、大豆、芋類以外は育ちにくかったのですが、砂礫土で排水がよく、溜池、井戸水、谷水なども利用できましたので、甘蔗(サトウキビ)栽培に適していました。

 阿讃山脈の山麓を東西に走る大きな地層が、阪神大震災で有名な活断層の一つ、中央構造線です。この地層は、関東の長野県の諏訪湖から、紀伊半島、四国の阿讃の山並みを経て、西南日本を縦断、九州の熊本県八代に伸びる大断層です。明治の初期、ドイツから日本に来たナウマン(東京大学、地質学教室、初代教授)が、日本の各地を歩いて調査、1885年(明治18年)、中央構造線と命名、その地質構造を明らかにしました。

○ 中川虎之助

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中川虎之助(八重島・石垣島開墾、徳島県立博物館): http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/mnews/No60.pdf

 中川虎之助(なかがわとらのすけ)、1859年(安政6年)~1926年(昭和元年)は、徳島県板野郡神宅村(現上板町神宅)にて中川家の3男として出生。家は代々製糖、酒造、藍作を業とする旧家であった。

 1868年(明治元年) 明治維新により開国、外国から白砂糖が入るようになり、日本の製糖は奄美大島と沖縄県の黒砂糖のみとなってきました。

 1877年(明治10年)頃から、近代的な機械式製糖法によっる安価な外国産砂糖の輸入量が次第に増大し、日本の旧来の伝統的和式製糖法によって砂糖を生産する国内の業者は大きな打撃を受け、経営不振が続き、没落して行きました。

 1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会(東京)で、中川家出品の「阿波和三盆」が品質優秀、「有効一等賞」を受賞、虎之助は功労者として表彰されました。この時出品されていた沖縄産の大きな甘薯(かんしょ)が目にとまり、和三盆製造研究のため、沖縄本島、八重山群島(石垣島)での甘薯栽培を調査しました。 

 1894年(明治27年)、石垣島の名蔵地区を開墾して和三盆製造に取りかかりました。栽培から製糖まで一貫生産し、糖度が高く、安価な原料によって砂糖を大量生産して、輸入増に対抗するつもりでした。

 しかし、3年後、1897年(明治30年)11月、翌年6月の2回、大型台風が石垣島を直撃し、1899年(明治32年)操業中止となり、1902年(明治35年)解散しました。しかし、製糖技術は現地の人達に受け継がれ、今日の石垣市の基幹産業、糖業の礎となりました。

 その後、虎之助は、石垣島の工場で使用していたボイラーを台湾の製糖業者に売却するため台湾に渡りましたが、台湾総督、児玉源太郎、民政長官、後藤新平から、台湾での精糖工場経営を助言されました。

 1890年代末~1900年代始め、日清戦争に勝利、日本領となった台湾に近代的製糖工場が相次いで設立されました。

 1901年(明治34年)、虎之助は中川製糖所を台湾で設立しましたが、日本に機械製糖品の安価な外国塘の輸入量が急増、日本国内の和式製糖業者も衰退の一途をたどり、また、再度操業停止に追い込まれました。

 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に立候補し当選、1915年(大正4年9までの7年間、代議士として国政に参加、砂糖税の改正(輸入砂糖の税率を上げる提案)などで大いに国内糖業界のために尽力し、砂糖代議士という異名を取りました。

 その後、虎之助は郷里の神宅(かんやけ、のち上板)に帰り、村の土地が柿と桃の栽培に適していることに着目し栽培に取り組み、その地域は現在も柿と桃の名産地となっています。

 1990年(平成2年)5月、石垣市の郷土史家、西表信氏が中川虎之助伝執筆のため中川家を訪れ、同年11月、中川家から虎之助が石垣島開拓に使用した農機具を石垣市へ寄贈したことを契機として、石垣市と上板町の友好の機運が高まっていきました。1995年(平成7年)には、両自治体が友好都市に関する「新書」の交換、1996年(平成8年)には石垣市長が上板町を訪問するなど、着実に交流が進みました。 

 1999年(平成11年)7月17日(土)~22日(木)の6日間、徳島県板野郡上板町にあるテーマセンター「技の館」において、「第1回石垣島・上板町観光物産友好交流フェア」が開催されました。砂糖が取り持つ縁で、1500キロ離れた沖縄県石垣島市との観光物産交流フェアが同所で実現しました。(alic、独立行政法人農畜産業振興機構、砂糖類ホームページ、国内情報、地域だより、大坂事務所、砂糖がつなぐ夢の架け橋1500キロ!1999年9月より)

 上板町と石垣市は、2000年(平成12年)に「ゆかりのまち」として提携、文化交流が始まりました。徳島県上板町の文化交流使節団が、2006年(平成18年)1月18日午後、上板町制50周年、石垣市とのゆかりまち提携5周年の節目に、名蔵小中学校(照屋千鶴子校長)を訪れ、自作の紙芝居「中川虎之助」を公演しました。文化交流には、上板町の板東宏教育長、さわらび読書会など9人が参加、上板町を紹介するとともに、紙芝居を披露し、相互理解と親善を深めました。(八重山毎日新聞、2006年1月19日、より) 石垣市(ホームページ、沖縄):http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/.

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伊藤汎監修砂糖の文化誌ー日本人と砂糖ー、八坂書房(2008)、渡辺信一郎著、江戸の庶民が拓いた食文化、三樹書房(1996) より)

○ 砂糖の歴史

 江戸時代、鎖国を行った1639年(寛永16年)以降は、日本砂糖輸入は、中国や東南アジアからの「唐舟」とオランダ舟によるもので、江戸中期頃までは、砂糖の主な輸入先は、ベトナム、タイ、台湾、インドネシア、中国などでした。

 江戸時代の百科事典、「和漢三才圓會」、1713年(正徳3年)には、白砂糖、氷砂糖、黒砂糖、石蜜とあって、全て外国から渡来し、長崎を経て全国に広められると述べられ、日本での産地は記されていません。このことから、江戸中期には、砂糖は全て舶来品であり、また貴重品であった事が分かります。

 白糖の上品を三盆と言い、また唐来品であったので「唐三盆」と言う。白糖を精製した上等のものをなぜ「三盆」の字を当てたかについては、「守貞漫稿」、1853年(嘉永6年)28編には、支那よりは三種白糖を持来る。上品三盆本と云う。上白下品太白と云う、と記されていることから、中国からの舶来品であるので、唐、その時に白糖の上等、中等、下等の三種の砂糖が入来したため、三種の内の最高級という意味で、「三盆」と言われました。

 サトウキビによる砂糖生産は、ヨーロッパ世界が新大陸に進出し、植民地を拡大するに伴い、産業革命から20世紀に至る科学技術の発展により、大規模な砂糖産業に成長しました。その生産地には、新大陸(キューバ、ブラジル、コロンビア)、アジア(インド、インドネシア、フィリピン、タイ、パキスタン、台湾)、南アフリカ共和国、アメリカ合衆国(ハワイ、テキサス、ルイジアナ、フロリダ)、オーストラリアなどがあります。

 インド仏教典に砂糖やサトウキビに関する記述があり、砂糖の英語名、Sugarの語源が、古代インドの言語、サンスクリット語で、サトウキビという意味のSarkara(サッカラ)に由来ということで、砂糖始まりインドと言われています。

○ 江戸時代1600年代、日本のサトウキビ栽培は、1610年(慶長15年)、儀間真常(ぎましんじょう、沖縄)、直川智(すなおかわち、奄美大島)により、中国福建省から相次いで琉球(沖縄)、奄美大島へ、シネンセ種(中国細茎種)のサトウキビの導入と共に始められたと言う。

 徳川吉宗の奨励策に支援されて日本本土各地に普及し、高品質和糖の原料とされたのもこの種という。

 サトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。

 それは、外国産(オランダの金平糖(コンペイトウ)、中国の唐三盆など)の長崎での輸入の砂糖が高価だったためです。

 琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。

 1869年(明治2年)、沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的多く、株の再生も中庸で、黒糖原料としての美味しさと栄養性、フラクトオリゴ糖が多いなどの長所を持ち、香川、德島では和三盆の原料として今も用いられています

 読谷村は、沖縄中部で、1945年(昭和20年)4月1日、太平洋戦争の沖縄戦で米軍が最初に上陸した沖縄本島の地です。森山良子「さとうきび畑」、作詞作曲、寺島尚彦(1930~2004)でもよく知られたところです。

 平和を祈る歌(沖縄・沖縄本島)、サトウキビ畑(米国占領下で生まれた平和を祈る歌、寺島尚彦、作詞作曲)、とは: http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-7d44.html

 黒糖(黒砂糖)は、純度75~86%。サトウキビのしぼり汁をあく抜きしながら濃縮して(130℃でひたすら煮詰める!)かためたものです。黒色をして糖蜜(ブドウ糖や果糖がたくさん含まれている)を含んでいて、これを分離すると白砂糖となるので、分蜜糖ともいう。砂糖の結晶は無色透明で、白く見えるのは光が乱反射するためです。

 黒糖には、カリウム、カルシウム、鉄などが5~6%含まれ、また、抗酸化作用が注目されるポリフェノールに、美白効果があるといわれるアルブチンなどもそのまま残っています。

 黒褐色の独自の色は、様々な成分が混じっているのと加熱による変色のせいだという。白い砂糖にはない香ばしさは加熱で生まれ、コクの元は豊富なアミノ酸です。

 沖縄県黒砂糖協同組合(那覇市)によると、沖縄本島産や石垣島産の黒糖はなく、沖縄で黒糖を作っているのは、波照間島、多良間島、西表島、伊平家島、栗国島、小浜島、与那国島の計7離島だけだという。他の島のサトウキビは主に粗糖にされ、精製して上白糖などの白い砂糖になるそうです。

 黒砂糖白砂糖栄養分については、ショ糖は黒砂糖では80%ほど、白砂糖(グラニュー糖)では100%で、両者の間に約20%の差があるが、黒砂糖にはショ糖のほにブドウ糖、果糖などが含まれているため、エネルギーには余り差がありません。黒砂糖にはほかにも、カルシウム、カリウム、マグネシウムなどのミネラル、さらに、ビタミンB群やナイアシンなどのビタミン類が含まれていて栄養豊富です。伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008)より)

 薩摩藩主島津氏は、奄美大島を支配、琉球をも半ば支配し、当時、砂糖は高価な食べ物で、大きな利益があがりました。薩摩藩は砂糖を藩の専売とし、砂糖を財源にすることで、幕府に対抗できるほどの財力を蓄え(富国!)ました。この藩が、明治維新中心になったのは、ここにも遠因があったという。砂糖は甘味料、調味料として重要ですが、その防腐効果を利用して、砂糖漬、練ようかん、お菓子の金平糖(こんぺいとう)などもつくられます。また、疲労回復の効果もありますが、過度に食べると胃腸を害し、骨格の成長を阻害するという。

○ 阿波和三盆糖 

  阿波和三盆糖は、1789年(寛政元年)~1800年(寛政12年)頃、引野村(引野、松島村、松島町、上板町、徳島)の丸山徳弥山伏、玉泉)、1753年(宝暦3年)~1821年(文政10年)、により、はじめて作られたと言われています。

 山伏(やまぶし、山臥)は、修験道(しゅげんどう、原始以来の山岳信仰、道教、仏教など融合、神仏習合の民衆宗教)に基づき、山野を行場とする呪術(じゅじゅつ)宗教者で、奈良時代、山林修行による呪術力の獲得、独自の儀礼による治病、各種の祈祷に従事、役小角(えんのおづぬ)が始祖とされています。

 熊野、吉野をはじめ、出羽三山、白山、四国石鎚山、九州英彦山(ひこさん)などの霊山を拠点とし、加持祈祷や呪符の配付、霊場への案内などによって、中世及び近世を通じ、民衆宗教家として大きな位置を占めました。聖護院を本山とする天台宗本山派と醍醐三宝院を本山とする真言宗当山派に分かれています。明治維新以後、神仏分離令により、修験道は廃止となりましたが、戦後再び独自の活動を行っています。

 1830年(天保元年)~1832年(天保3年)、大阪廻送された白糖産地別生産量は、讃岐61.5%、阿波23.9%、和泉12.5%、紀伊1.5%、伊予0.2%、備前、備中、備後各々0.1%となっています。

 また、阿波の産地として、1819年(文政2年)頃の生産量は、板野58.1%、阿波34.1%、那賀3.4%、麻植2.3%、名西2.1%、美馬0.1%で、板野と阿波の両郡で全生産量の90%以上を占めていました。

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川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より)

○ 葬儀のしきたり

 は、一般に死者は、棺桶(かんおけ)、あるいは甕(かめ)に納め、墓地の地中に深く土葬していました。明治時代(1868~1911年)になって、伝染病で死亡した場合には、必ず死体を火葬にしなければならなくなりました。ところが、明治時代の末頃から、一般の普通の死亡者も次第に火葬にする傾向が増えてきました。

 松島村(のち上板町)では、1897年(明治30年)7月22日、引野字東原の北約100mの松林の中に火葬場を建設し、許可を得て、この目的に使用しました。ここの一帯はもとはうっそうとした松林で、土地の人々は大林と呼び、南入口には大きな墓地があり、付近には民家は一軒もなく昼間でも寂しい場所でした。

 大正時代(1912~1925年)も半ばを過ぎ去った頃からは、土葬はほとんどなくなったので、村では1913年(大正2年)6月、従来の火葬場を増改築して時代の要請に応えました。

 その後、1935年(昭和10年)12月、農林省四国種馬所徳島出張所(のち徳島県畜産試験場、畜産研究所(上板、徳島):http://www.pref.tokushima.jp/tafftsc/chikuken/outline/ )、松島千本桜)が火葬場の地に開設されることになり、移転を余儀なくされ、1936年(昭和11年)8月、七条字西原に移転し、近代的な火葬炉を二基持つ新火葬場が建設され、使用されるようになりました。私が学んだ松島中学校は、松林のこの火葬場の数百メートルほど西方にあったのですが、火葬の際の煙が風に乗って校舎に届いた時には、何ともいえない臭いがしたことを覚えています。

 それから30年後、時代の変遷と共に、施設は老朽化し、その他諸種の要因により、1968年(昭和43年)4月、その使用を禁止し、同年5月1日から吉野町(のち阿波市)、8月1日から鴨島町(のち吉野川市)に対し、火葬場使用に対する事務を委託し、その後、両町の火葬場を使用しました。現在では、吉野川市斎場(鴨島町中央火葬場、吉野川市、徳島)の火葬場を使用しています。(児島光一著、上板昔読本、教育出版センター(1981)より)

○ 葬式のやり方今昔 日本で葬制ができたのは孝徳天皇の大化2年(646)で、当時は土葬であった。それ以前には、死体を甕(かめ)におさめたり、石棺におさめ、さまざまな貴重品とともに埋葬したりした。現在も大阪、奈良地方に残る古墳群が当時の埋葬文化をしのばせる。 天武天皇の4年(675)に元興寺の道昭という人を、遺言により火葬したのが、火葬の初めだが、火葬はそもそも仏式に限られていた。その遺骨はおもに壺におさめて埋葬したようだが、山野にまき散らすことも多かったらしい。「万葉集」の挽歌にも「清き山辺にまけば散りぬる」とある。

 仏教の普及とともに公家、武家をはじめ、庶民に広まった。特に江戸時代の初め、キリスト経禁令で宗門改めの制が設けられたため、一般に檀那寺を決めている檀徒の証明が必要だったから、仏式による葬式が圧倒的になった。それでも神道は根強く、徳川家康なども神式による葬儀だった。

 ところで、日本には古くから村民の交際倫理として葬式組という相互扶助の仕組みがある。人が死ぬと世話役の指揮により、この葬式組が組織され、死を告げに行く知らせの使い、諸道具をそろえる役、炊事の手伝いをする役、穴掘りの役などを分担する。この形式が現在の葬儀に引き継がれているわけだ。(樋口清之(監修): 生活歳時記、p.173,葬式のやり方今昔、三宝出版(1994)より)

○ 古来の葬儀では、「(さかき)」や「(しきみ)」を飾っていました。(さかき)は、「古事記」に記されているように奈良時代の頃から認識され、主に神道の葬儀で使用されていました。一方、(しきみ)は主に仏教の葬儀の中で使用されることが多いようです。一説には、奈良時代の天平の頃、鑑真和尚(がんじんおしょう)が日本に持ち込んだとも、また唐招提寺に樒を供えたともいわれています。樒も一年を通じて葉が茂っている常緑樹です。(2011年(平成23年)3月9日(水)、古来の葬儀、季節を彩る花物語、北陸中日新聞、夕刊より)

 樒(しきみ)はモクレン科の常緑小高木です。山地に自生し、また墓地などに植えます。高さ3m、葉は平滑、春、葉のつけ根に黄白色の花を開きます。花弁は細く多数、全体に香気があり、仏前に供え、また葉と樹皮を乾かして粉末とし、抹香または線香を作ります。実は甘いが猛毒で「悪しき実」が名の由来という。シキビ、コウシバ、コウノキ、木蜜、仏前草ともいう。

 (さかき)はツバキ科の常緑小高木です。葉は厚い革質、深緑色で光沢があり、5~6月頃、葉のつけ根に白色の細花を開きます。古来神木として枝葉は神に供えられています。

○ 年忌供養(ねんきくよう) 死後7日ごとに供養し、四十九日の中陰があけたあとは、一周忌・三周忌以下、七年・十三年・十七年・二十三年・二十七年・三十五年・四十九年と年忌がある。そして最終の年忌を機会として個々の仏に対する供養を終える。(神葬の場合もほぼ同様の年ごとに神葬祭を行なう)。

 最終年忌を弔(とむら)い上げと称するが、七年忌で終える所もあれば、四十九年忌・六十六年忌までする所もある。弔い上げには他の年忌と異なった行事を行い、それまで仏壇に納めていた位牌を、焼き捨てたり墓の中に納めたりする。なお、弔い上げが終わると、仏は神さまになると一般に信じられている。

 仏壇(ぶつだん)が庶民のあいだに広がるのは江戸時代の中期以後のことで、先祖や近親者の御霊(みたま)のしずまる場所として位牌を安置するための厨子(ずし)である。

(大島、佐藤、松崎、宮内、宮田編: 図説 民俗探訪辞典(1版19刷)、p.189~190、年忌供養、仏壇と位牌、山川出版(2005)より)

○ 私の生家

 私の生家(徳島)は、明神山の糖源公園の南を歩いて下り、10分ほどのところですが、祖父(本浄家養子、訓導、紋蔵、神宅村、安芸家出身、跡取りの浪太郎日露戦争戦死)が植えたのか、本宅(向き)のすぐ隣の畑には、西に柿、西南に桃がありました。今も名残りの柿、大きな夏みかんの古木(南)があります。家の裏()は、竹、椿、椋(むく)で覆われ、には樫とヤマモモの大木がありましたが、伐採や枯死により、現在は名残の椿が垣根となっています。

 (本浄家養子、農業技手、利治、高志村、新開家出身)は、私が小学校の頃は、農事試験場に勤務、木頭村(のち那賀町、那賀)までも農業指導で出かけ(単身赴任、のち退職)、農業しながら、柿、桃、ミカン、茶などの栽培、果樹の剪定(せんてい)をしていたのを覚えています。(きとうむら、木頭村、ブログホームページ: http://www.kitomura.jp/

 また、家のすぐ隣の東の畑ではサトウキビを栽培し、製糖所(影山)で褐色のねば砂糖(黒砂糖)を作ってもらい、四角の大きな金属缶に保存し、家で使っていました。太平洋戦争が始まり、砂糖(台湾産)の供給が絶たれ、砂糖は配給制となり、戦後は配給制も打ち切られ、砂糖が不足してきたので、昔のサトウキビ栽培が復活したのではないかと思います。自宅のすぐ東の畑の一角に大きな穴(サトアナ)を掘り、サトウキビを保存し、次年度の作付けに使いました。また、戦後まもなく、私の家の近く(川瀨家)では、シメ小屋があり、牛を使ってサトウキビをシメていた(サトウ汁の採取)のを覚えています。

 私が小学校の頃、近くの山にはアカマツ林が多く、秋にはマッタケが沢山採れ、臭いをかぐのも嫌なほど、焼きマッタケを食べたことがあります。この村の山は、ほとんどがアカマツ林で、その他、コナラ、ウバメガシ、ニセアカシア、竹林など全て代償植生であり、それは、江戸時代より製糖が盛んであったため、燃料材の伐採とアカマツの植林がが繰り返して行われたこと、また山火事が度重なったこと(地元の人々は竹筒に水を入れて、山火事の消火にあたったという?)が考えられています。しかし現在ではアカマツ林の手入れもされず、自然まかせで、マッタケも生えなくなっているようです。(阿波学会研究紀要、郷土研究発表会紀要、第27号、総合学術調査報告、上板町、1981年3月より) 阿波学会研究紀要(上板町): http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/klist_right6.htm

○ 私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の本浄家過去帳によれば、本浄源藏(5代目)の倅(せがれ)、浪太郎は、1904年(明治37年)9月3日(旧7月24日)、日露戦争で亡くなっています(渤海湾近く?)。享年22才。自宅の床の間には、勲章をつけ羽織袴の肖像画がかけられていました。本浄家の墓地では、浪太郎さんのお墓は、本浄家の先祖のお墓の中でも特別大きなお墓であったので、子供の頃から強く印象に残っています。

○ 私の郷里は、阿讃山麓の農村地域にあり、草葺屋根(麦ワラ屋根)の家の周囲は屋敷林で囲まれていました。その樹種は、おもに母屋の裏()は、ムク(椋、ニレ科)、ツバキ(椿、ツバキ科)、タケ(イネ科、タケ亜科、またはタケ科、真竹)が多く、にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、カシ(樫、ブナ科)、エノキ(榎、ニレ科)、ヤマモモ(山桃、ヤマモモ科)、西にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、柿(富有柿、カキノキ科)畑、南はミカン(夏蜜柑、ミカン科)、ビワ(田中枇杷、バラ科)などに囲まれていました。

 また、本宅の西には納屋、牛小屋、鶏小屋、表玄関のの方には広い庭があり、見晴らしがよかったことを覚えています。そして、庭のの端にはツルベ井戸、西の端には瓦屋根の外便所と風呂場を備えた建物がありました。

 家は草葺屋根(麦ワラ屋根、のち赤色トタンを被せる)で、家の周囲を囲む屋敷林は、おもに夏の台風(東南風)、冬の風(北西風)から家を守る防風林と思われます。 

 昔は屋敷神(やしきがみ、地主神)が、家の守護神として、屋敷内や付属地にまつられました。地方により、内神、氏神、荒神とも。祖霊信仰に由来すると考えられるが、稲荷、八幡、熊野、明神(神明とも)、秋葉、祇園などの神が勧進され、それらが祭神とされるに至りました。

 屋敷林は、防風林だけが目的ではなく、カシ(樫)防火にも役立つとされ、竹林地震のときの駆け込み場であり、堤防土留め強化に植えられたこともあるという。

○ 私の故郷周辺は、樹木、竹薮、果樹など屋敷林で囲まれていました。草葺屋根(麦ワラ屋根)の母屋の側(裏)は竹薮(真竹)、大きなエノキ(榎木)、ムクノキ(椋の木)、ツバキ(椿)、ウメ(梅)、小ビワ、ユスランベ、側は大きなカシノキ(樫の木)、ムクノキ(椋の木)、サクラ(桜、ソメイヨシノ)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、東南に大きなヤマモモ(山桃の木、老木となり台風で倒壊)、また、大きな渋柿の木(上部が台風で折れる)がありました。

 一方、母屋の側(表)は大きな夏ミカン、大きなタナカビワ(老木となり台風で倒壊)、スダチ、キンカン、インドヤシ、南西側に大きなクスノキ(楠木)、ウメバガシ(外トイレの背後)、西側にはモモ(桃)と柿(甘ガキ、フユウ)畑、その下はクサイチゴ、小ビワ、サクランボ(桜桃)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、西北に大きなクリ(栗)の木があり、自然豊かな姿でした。  

 これらの樹木も、母屋を新築した時、ほとんど伐採したので、現在、昔の面影が少し残っている程度で、家の周辺は見違えるほど明るく、見通しも良くなっています。また、屋敷の周辺の畑の畦(あぜ)には、の木が植えてありましたが、現在もその名残の姿を見ることができます。 

 私が小学生の戦後まもなくの頃は、自宅(引野、松島、のち上板、德島)近くの西北では陸稲、大麦、小麦、粟(あわ)、タカキビ、コキビ、トウモロコシ(ナンバ)のほか、サトウキビ、サツマイモ、サトイモ、ジャガイモ、タマネギ、ネブカ、ワケギ、ラッキョウ、大根、カブラ、菜の花(アブラナ、ナタネ)、ゴマ、フキ、ゴボウ、ニンジン、コンニャク玉、白菜、キャベツ(玉菜)、ホウレンソウ、春菊(シュンギク)、アカジソ、アオジソ、ニラ、ショウガ、ミュウガ、パセリ、落花生(ソコマメ)、カボチャ、大豆、ソラマメ、エンドウ、アズキ、ササゲ、インゲンマメ、枝豆(アゼマメ)、トウガラシ、ピーマン、トマト、キュウリ、スイカ、キンウリ、マクワウリ、カンピョウ、クサイチゴ(フウユウ柿の木の下の周辺)、ウド、タバコ、ワタ(綿花)、桑、茶、柿、桃などを栽培していました。

 また、近くの西の田畑では水稲と大麦の二毛作、遠くのの田では湿地であり水稲のみを栽培していました。梅雨前の4~5月頃、水田で綱(つな)を張り、長方形の木枠(きわく)などを使い、手で苗を植えていました。が、しばしば水田のヒル(蛭)が足に吸いつき、取り除くと真っ赤に出血したことがありました。

 水田では、田の草を手で、あるいは手押しの草取り機、八反ずり(田すりとも)などで取り除き、水の管理(溜池と用水、野井戸、バケツつき鎖の滑車、のちポンプつき発動機など)、稲刈り、ハデかけ(乾燥)、リヤカーによる稲束の自宅の庭への運搬などの手伝いをしました。 

  麦(裸麦、小麦)の脱穀と選別作業については、1929年(昭和4年)頃からトバタ石油発動機と脱穀機を泉谷の農家25人が講(発起人、かん医者林久雄、吉田芳太郎氏)によって購入、泉谷地区のほか、引野、鍛治屋原、七条など各地域にも出張して脱穀、選別(発動機講!)していました。(児島光一:上板昔読本、発動機講、資料、吉田武男、p.147~153、教育出版センター(1979)より) 

 また、戦後の麦と米の脱穀作業は、各農家では、かなばし(すごいて穂を落とす)、からさお(たたいて麦粒をたたき落とす)、とおし(麦粒と穂のかすを分ける)、とおみ(麦粒からいがを飛ばして選別精製する)など、昔ながらの重労働でしたが、次第に戦前の発動機講と同じように、発動機と脱穀機が順番に各家を回り、地域ごと(隣組)の協同作業で脱穀選別が行われていました。

 私の家では、作業後、自宅の黄色に熟して甘い大きなタナカビワ、小ビワなどみんなで一緒に食べていたのを覚えています。タナカ(田中)ビワは、原産地は中国で、 長崎から東京に持ち帰り播種選抜した植物学者、田中芳男の名に因むものです。

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郷里(天神前、引野、上板、德島)にマイカー(ファミリア1500CC)で帰省、2009年(平成21年)8月4日撮影 

○ 新制教育制度

1946年(昭和21年)11月3日 日本国憲法公布(47年5月3日施行)。(吉田内閣)

1947年(昭和22年)3月31日 教育基本法、学校教育法公布(6・3・3・4制を規定)。4月1日 国民学校廃止、小・中学校の6・3制発足。5月3日 日本国憲法施行。(吉田内閣)

1948年(昭和23年)4月1日 新制高等学校発足(旧制高校廃止)。4月1日 新制女子大学発足。9月18日 全日本学生自治会連合(全学連)結成大会。(芦田内閣)

1949年(昭和23年)4月23日 GHQ(連合国軍総司令部)が1ドル=360円の単一為替レート設定を発表。25日 実施。5月31日 新制国立大学69校設置。(吉田内閣) 

1953年(昭和27年)4月1日 12国立大学に新制大学院設置。(吉田内閣)

戦後史年表 1926ー2006、朝日新聞社(2007)、より) 

 

 

 

阿波藍(徳島)と樽廻船(大阪と江戸を結ぶ貨物船、南海路)にまつわる歴史秘話、藍草と藍染め、藍玉の取引(德島城下~吉野川~撫養~大阪~太平洋岸~江戸)、とは(2009.8.16)

  古代、阿波国は、律令制のもと、中郡の名方(なかた)、板野(いたの)、阿波(あわ)及び下郡の麻植(おえ)、美馬(みま)、勝浦(かつら)、那賀(なか)の7郡に分かれ、国府(こくふ)は名方(のち名東(みょうどう)、名西(みょうざい)、現国府町、徳島)に置かれていました。

 1784年(天明4年)頃、阿波藍生産地の中心は、吉野川中・下流域の北方5郡(名東、名西、麻植、板野、阿波)、特に吉野川下流の板野郡の地域でした。この地域は、吉野川が毎年氾濫し(1800年代で16回)、上流から土砂が流出し、肥沃な平野を形成していました。

 地名のことですが、(いた)は、傷む(いたむ)の語幹、物が損なわれるの意味であり、河川などによる川岸の崩壊に由来するので、板野(いたの)は吉野川の氾濫によりできた平野を意味していると思います。俗説では、徳島藩が吉野川流域に堤防を築かなかったのは、流域の藍作を持続したいためとのことですが、史実は、藩には吉野川の完璧な治水工事を行う財源もなければ、労働力の確保も出来なかったのだと言われています。

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藍の館旧奥村家、藍住町歴史館、藍住、板野、徳島)

藍の館(藍住歴史館、藍住、板野、徳島):  http://www.town.aizumi.tokushima.jp/ainoyakata/index.html

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三好昭一郎(郷土史家)、ふるさとの宝物、奥村家の住宅(2002.10.1): http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/furusato/021001.htm

 板野地域には、昔から藍を栽培していたと思われる、藍がついた町名、藍園(あいぞの、のち住吉と合併、藍住、あいずみ)、名西地域の藍畑(あいはた、のち浦庄、高原、高川原と合併、石井)などがあります。

 古くは、鎌倉時代、1247年(宝治元年)、美馬郡岩倉(脇町)の宝珠寺(ほうじゅじ)境内に翠桂和尚(住僧)が、唐から入手した藍の種をまいて栽培し、その染葉で僧衣を染めたことが見性寺記録に見られますが、これが阿波における藍作の始まりと言われています。

 なお、平安時代の初期に、荒妙(あらたえ)という布地(麻!)を織っていた阿波忌部(いんべ)氏が栽培したのが起源だという伝承もあります。

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藍草と藍染め(あいぐさとあいぞめ、草木染め、染料植物図鑑)

(解説) 藍草(タデ科、一年草)は、インドシナ(南部)原産と言われ、日本には飛鳥時代中国から渡来し、広く栽培され、染色または薬用(生葉の汁を毒虫の刺傷、腫れ毒に外用、解毒、解熱などの漢方薬)として使用されました。 

 は、毎年同じ土地に栽培すると、収量も減るし品質も落ちる(連作できない)のですが、吉野川流域の藍の生産地は、毎年の大洪水により、広い畑に新しい肥沃な土が堆積するので、毎年葉藍を収穫することができました。藍は、早春の2月頃に苗床に種をまき、4月中頃に畑に移植し、7~8月頃の暑い盛りの刈り取りまで120日間手掛けました。9月頃、葉藍を作る藍こなし作業、黒色の塊状の蒅(すくも)を作る発酵作業(約75日)後、これを藍臼(あいうす)に入れてつき固めたものが藍玉(あいだま)です。

 これらの作業はいづれも重労働であり、その労苦をしのばせる多くの作業唄(さぎょううた)が残っています。阿波の北方(きたがた)おきあがり小法師(こぼし)、寝たと思たらはや起きた、二度とくまいぞ藍こなしだけにゃ、芋と麦めしで目がくらむ、嫁にやるまい板野の里へ、夏の土用に水踏車、藍の種まき生えたら間引き、植えりゃ水取り土用刈り

 藍草は白藍(インジカン)を含み、加水分解によってインドキシルとなり、空気中で酸化して青藍(インジゴ)となります。蒅(すくも)を藍甕(あいがめ、大谷焼)に入れて、灰汁とふすまと石灰で藍建して染色します。水色から藍色、紺色までの青色の全てを染めることができます。

  染色は、産地による品質の違いが大きく、阿波産のものが染色に一番良かった言われています。阿波産の藍には色素(インジゴ)含量が多く、何回も染液に布を浸けなくても良く染まったそうです。これは、肥料の3要素(窒素、リン酸、カリ)の中でも、肥沃な土には窒素成分の多い腐葉土が豊富に含まれていたと考えられます。

 また、川の氾濫による生産には限界もあり、後になって、北前船(きたまえぶね、西廻り航路、大阪~日本海岸~北海道)を通じ、腐葉土の代わりに北海道産の魚肥(いわし)を干したもの、干鰯(ほしか)、ニシンを干したものなどを買い付け、有機肥料として使うようになりました。この理由として、藍の色素のインジゴの1分子には2個の窒素原子が含まれており、藍のよい色素を生成するには、多くの有機窒素肥料が必要なものと推測されます。

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蜂須賀家政(1558~1639、徳島藩祖、阿波、徳島)

(解説) 阿波藍の名が全国に知られるようになったのは、1625年(寛永2年)、阿波、徳島藩祖、蜂須賀家政が、藩にはじめて藍方を置き、これを保護奨励し、専売制を確立したからです。阿波藍については、徳島藩25万石(阿波18万石。淡路7万石含む)、藍50万石とも言われ、徳島藩の最大の収入源でした。そのため、藍の商品、藍玉の取引については、大阪と江戸を結ぶ南海路(大阪~太平洋岸~江戸)の樽廻船(たるかいせん)、菱垣廻船(ひがきかいせん)交易、問屋取引の主導権争いには、第4代徳島藩主蜂須賀 綱矩(はちすか つなのり)はじめ歴代藩主の支援がありました。1694年(元禄7年)、綱矩公の時、藍商江戸十組問屋が定められています。 

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樽廻船 (たるかいせん、Google画像検索)

(解説) 樽廻船が上荷を菱垣廻船と奪い合うようになり、洩積(もれずみ、樽廻船が菱垣廻船の荷物を低運賃で引き受けること)が激しくなっていきます。そこで1770(明和7)年酒問屋と十組中の他の九組の間で、米・糠・阿波藍玉・灘目素麺・酢・溜り(醤油)・阿波蝋燭(ろうそく)の7品目に限り樽廻船への積合いを認める協定を結びます。この7品目は、酒と同様に送り荷物であり、生産者(荷主と同じ)が輸送から販売までを行う委託販売方式を取っていたので選ばれたと思われます。 

 特に、江戸時代の中頃は、全国的に綿花が大量に栽培され、木綿が庶民の衣類として普及してから、藍玉は藍商によって市場で取引され、全国の紺屋に渡り、阿波商人の足跡は全国に及びました。徳島藩の村々で産出される葉藍、藍玉は、平田船(ひらたふね、小型の帆船)により、吉野川を利用して阿波の玄関口の撫養(むや、岡崎)、徳島城下(藍場浜、船場、藍場、徳島) などに積み降ろされました。

  徳島での最盛期は、1908年(明治36年)頃で、県内の藍草の作付面積は約23%でしたが、1880年(明治13年)、ドイツでの藍の色素(インジゴ)の化学構造の決定とその人工合成(純度94%)の成功、また1897年(明治30年)代では、インド藍(青藍成分、インジゴ含量、60%、阿波藍の数倍)の輸入と共に、阿波藍は生産性とコストで太刀打ちできなくなり、次第に衰退して行きました。近年、洗うほど色の冴える正藍染めなど、人気も高く、その良さが見直されてきています。

 私は、2007年(平成19年)8月中旬、松島中学(のち上板中学、上板、板野、徳島)の恩師、三好昭一郎先生(郷土史家)には、久しぶりの同窓会で、ふるさとの歴史を、11月下旬、第59回全国人権、同和教育研究大会(石川)でご来沢の時には、喜寿記念日本史論集、第22回国民文化祭(おどる国文祭、徳島)の阿波藍に関する資料などいただき、また、郷土の興味あるお話など、いろいろご教示いただきました。  

(参考文献) 山崎青樹: 草木染、染料植物図鑑、美術出版社(1985); 児島光一: 和三盆唐、藍、歴史と製法の概要、教育出版センター(1989); 三木産業(株)技術室編: ポピュラー サイエンス 藍染めの歴史と科学、裳華房(1992); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのちー吉野川辞典ー自然/歴史/文化ー、三好昭一郎、阿波藍、農文協(.1999);永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料) ○ 藍染め(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E6%9F%93%E3%82%81. 

○ 樽廻船: http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%A8%BD%E5%BB%BB%E8%88%B9&um=1&ie=UTF-8&ei=c26GSpLtEYeBkQWgsvXCBw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4. 

(追加説明)  (あい)と貝紫(かいむらさき)の色素の分子構造について の色素はインジゴ貝紫の色素は6,6’ージブロモインジゴであることが確認されています。 このことは、また、貝紫に光(紫外線)が当たると、次第に2個の臭素(ブロム)が外れ、空気(酸素)酸化により、インジゴに変換することも確かめられています。

 海中の巻貝の色素の貝紫に2つのBr(臭素)が含まれていますが、これが外れると、陸上のタデ科植物の色素のインジゴと全く同じ分子構造となり、これらの成分には、神経麻痺作用、殺菌作用なども認められているので、何か自然に秘めらた謎を感じる次第です。 

インディゴインジゴとも、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B4貝紫色(かいむらさきいろ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9D%E7%B4%AB%E8%89%B2

 

2010年3月 4日 (木)

撫養塩田(鳴門、徳島)の歴史技術、入浜式製塩と塩田争議、流下式製塩、イオン交換膜製塩、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による撫養沿岸の隆起、鳴門渦潮、とは(2010.3.4)

  江戸時代、文化年間(1804~1817年)、四国では、瀬戸内海沿岸の遠浅の砂浜に、阿波(徳島)から伊予(愛媛)にかけ、主要な入浜塩田が広がっていました。特に、讃岐(香川)の坂出塩田、阿波の撫養塩田、伊予の波止浜、多喜浜の塩田が有名でした。

 十州塩田(じつしゅうえんでん)と呼ばれていた播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予では、全国の製塩量の90%(400石)を生産していました。

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撫養塩田(板野郡、のち鳴門市)周辺の地図、(右上の島 高島、三ッ石など(旧鳴門)、右下の対岸 黒崎、桑島、斎田、立岩など(旧撫養)、google画像)

 阿波(徳島)の主な塩田(約530町歩)は、板野郡(のち鳴門市)の撫養塩田、名東郡(のち徳島市)の南斎田塩田、那珂郡(のち阿南市)の答島塩田でした。なかでも12ヵ村(大桑島、小桑島、高島、三ッ石、弁財天、北浜、立岩、南浜、斎田、黒崎、明神、小島田、のち鳴門市)は、塩方十二ヵ村、斎田浜(撫養塩田)と呼ばれ、阿波(徳島)の塩業の中核地となり、その産塩は斎田塩(さいたじお)として全国的に名が知られていました。大半の塩は、撫養(岡崎)港から塩廻船問屋を通じ、大阪と江戸を結ぶ南海路(大阪~太平洋岸~江戸)の樽廻船、菱垣廻船の交易により、大阪、江戸市場に積み出されていましたが、7割以上は江戸積みでした。

 撫養(むや)は、古くから四国の門戸として栄えた港町で、粟(阿波)の門(鳴門海峡)、牟夜(むや)とも呼ばれていました。撫養(岡崎)港は、阿波の玄関口でしたが、明治の中頃、海上交通が帆船から汽船の時代を迎えると、大型船には不便であり、小松島に新しく港湾が造られ、撫養の港としての活力は衰退しました。

 鳴門市は、1947年(昭和22年)3月、板野郡から分かれ、撫養町を中心に、里浦町、鳴門町(高島、三ツ石、土佐泊の3ヵ村が合併)、瀬戸町の4ヵ町が合併し、はじめは鳴南市、しかし、市名が住民に不評のため、3ヶ月後に鳴門市に改称して発足しました。その後、1955年(昭和30年)、大津村、翌年に北灘村、さらに1967年(42年)大麻町を合併して県下第2の都市となりました。

 海水からの製塩には、塩田を使って鹹水(かんすい、濃厚な塩水)を得る採鹹(さいかん、鹹水採取)、火力により鹹水を煮つめて塩を得る煎熬(せんごう、蒸発濃縮)の二つの過程があります。 鹹水は、古くは揚浜式(あげはましき)塩田、入浜式(いりはましき)塩田、また、現代(戦後)になって、流下式塩田、イオン交換膜による電解濃縮などにより得ました。煎熬は、古くは製塩土器、平釜、のち真空式や加圧式の蒸発缶により水分を蒸発させ、食塩の結晶を得ました。

 揚浜式塩田は、海水面より少し高い所を粘土で固め、その上に砂をまき、それに海水をかけ、その砂を集めます。それにまた海水をかけ、得られた濃い鹹水を煮つめる方法です。

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入浜塩田の風景、江戸時代初期~1955年(昭和30年)、(高島、三ツ石鳴門、阿波、徳島、google画像)

(解説) 入浜式塩田は、瀬戸内海沿岸に多く、海水が入江に流れて砂を運んで来ますが、潮が引くと、砂州の内側に干潟が出来ます。その干潟に日が当たると、砂についている海水の水分が蒸発し、濃い塩分が砂に残ります。それを掻き集めて、さらに海水をかけ、得られた濃い鹹水を煮つめる方法です。

 阿波(撫養)の本格的な入浜式製塩は、藩政期に始まっています。1597年(慶長2年)、淡路島の篠原孫左右衛門、1556年(弘治2年)~1625年(寛永2年)が撫養の竹島村(のち高島村)に塩田を築造し、民間主導によって開始されました。徳島藩も殖産政策の一環として製塩業を重視し、1599年(慶長4年)3月、播州赤穂の入浜式塩田の技術者、馬居七郎兵衛、?~1625年(寛永2年)、大谷五郎右衛門、?~1670年(寛文10年)を招き、夷山(えびすやま、蛭子山とも、大桑島、撫養)の麓に塩田を築造させました。ということで、ここ(蛭子山公園)は撫養塩田の発祥地と伝えられています。

 1608年(慶長13年)には、斎田、桑島、南浜、北浜、竹島(のち高島)、三ツ石、安芸神、立岩、弁財天、小島田の塩浜10ヵ村が成立し、1644年(正保元年)、桑島を大桑島と小桑島に分け、斎田から黒崎が分かれ、塩浜12ヵ村となりました。この斎田塩(さいたじお)は、江戸で赤穂塩(あかほじお)と並ぶ評価を受け、阿波藍と共に徳島藩の重要な特産品となりました。

 幕末から明治にかけて、塩は慢性的な生産過剰となりました。江戸時代から生産過剰による値崩れを防ぐため、瀬戸内沿岸十州の塩業者が十州塩田同盟を結び、休浜法による生産制限が行われていましたが、1886年(明治19年)に組織された十州塩田組合は、不同盟者が続出するなど結束が弱まりました。

 1905年(明治38年)、塩は専売制施行で政府の統制下に置かれ、また、製塩地も整理されましたが、大正期には輸入塩(日本の植民地、租借地の台湾、中国遼東半島の関東州など)との競争が起こり、高価格と生産過剰が相まって、塩業不況が続き、生産削減が相次ぎ、撫養でも賃下げ反対の争議が起きました。

1912年(明治45年)に鳴門塩田労働組合、1921年(大正10年)には、撫養塩田労働連合会が結成されました。1926年(大正15年)10月、政府が要請した、生産一割削減を受け入れた経営者側に撫養塩田労働組合が反発、激しい塩田争議に突入し、1927年(昭和2年)4月には、同労働組合高島支部が賃上げ闘争に立ち上がり、105日にわたる同盟罷業(ストライキ)を行いましたが、組合側の敗北に近い調停で終息しました。大正期、徳島県の塩田面積は460町歩前後で、全国の総面積の約7.9%、全国生産高の約7~9%を占めていました。

 1952年(昭和27年)から約5年の間に、採鹹の方法は、入浜式塩田から流下式塩田という能率のよい方法に変わり、また、煎熬法も平釜から真空式蒸発缶に切り替わりましたが、1967年(昭和42年)にイオン交換膜製塩法が導入されると、枝条架の流下式製塩も姿を消しました。現在では、1966年(昭和41年)に設立された、鳴門塩業株式会社(黒崎、撫養、鳴門)でイオン交換膜法による製塩が行われています。

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流下式塩田の風景、1950年(昭和20年)代後半~1971年(昭和46年)、(鳴門、徳島、google画像)

(解説) 流下式塩田では、まず粘土や塩化ビニルなどで作ったゆるやかな傾斜盤の表面に小砂利を敷きつめ、海水をこの上に数回流して太陽熱によって蒸発濃縮させます。次に枝条架という数メートルのやぐらに、1メートル間隔で、孟宗竹の枝を組んで作られた枝条(しじょう)を数段つるしたものを、風向きに直角に立て、海水を雨のように落下させ、風を利用して濃縮し、これを繰り返して塩分15~20%の濃縮塩水を得て製塩工場に送りました。

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イオン交換膜製塩法、1972年(昭和47年)以降、(鳴門、徳島、google画像)

(解説) イオン交換膜製塩法は、電解槽(でんかいそう、電気分解を行う装置)の両電極間に多数のイオン交換膜を並べ、海水の電気透析(イオン交換膜と電気を利用する膜分離)により濃い鹹水(3.5%の塩濃度の海水を18%濃度まで濃縮)とし、これの蒸発により食塩を得る方法です。わが国の食塩は、ほとんどこの方法により生産されています。陽極側から陰イオン交換膜、陽イオン交換膜の順で数百室に仕切り、一室おきに原料の鹹水を流して電解すると、中間の各室から18%NaCl(塩化ナトリウム、食塩)の濃い鹹水が得られます。これを多重効用蒸発缶(蒸発濃縮の効率を高める多段化蒸発缶)に移し、食塩を結晶化させました。 

 1972年(昭和47年)には、鳴門市内の塩田は全て廃止され、350年にわたる塩田による製塩の歴史の幕を閉じました。 その後、廃止塩田の転用や、転業の問題が大きな課題となりました。現在では、高島の塩田跡は、鳴門教育大学のキャンパス(1981年、昭和56年10月、開校)に生まれ変わっています。

 私の母(高子、小学校教諭)は、高島(撫養の対岸、のち鳴門)の製塩業者(中島家)の生まれですが、本浄家の養女として育てられました。毎年、お盆には里帰りしていました。私が小学校の頃、お盆に、母の実家に連れていって貰ったことがあります。その頃は、流下式塩田となっていて、竹の細枝で作った藁葺き状の屋根から海水がゆっくりと流れ落ちていたのを覚えています。太陽熱によって水分を蒸発させていたものと思います。

 また、高島は一つの島であり、昔は岡崎桟橋から高島渡舟場まで渡し船が出ていました。そこの小鳴門海峡には、小鳴門橋(441.4m、1961年、昭和36年7月、開通) 、それと平行して、徳島自動車の撫養橋(536m、1987年、昭和62年5月、暫定2車線、のち上り線、1998年4月、平成10年、下り線、開通)が架かっています。

 そこを通り抜けると鳴門海峡があり、淡路島の間には大鳴門橋(1629m、1985年、昭和60年、6月8日、開通)が架かり、さらに、淡路島と明石(神戸)の間には明石海峡があり、明石海峡大橋(3911m、1998年、平成10年、4月5日、開通)が架かり、鳴門から明石まで、神戸淡路鳴門自動車道が結ばれ、夢の架け橋となり、21世紀に向けて、撫養(鳴門)の新しい発展が始まっています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); 大木道則、大沢利昭、田中元治、千原秀昭編: 化学事典、東京化学同人(1996); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); とくしま地域政策研究所編: 吉野川事典、農文協(1999); 宮本常一: 塩の道、講談社学術文庫(2007). 

(参考資料) 鳴門塩業株式会社(黒崎、撫養、鳴門):http://www.naruen.co.jp/gaiyou01.htm

撫養塩田入浜式、流下式、鳴門、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%92%AB%E9%A4%8A%E5%A1%A9%E7%94%B0%E3%80%80%E5%85%A5%E6%B5%9C%E5%BC%8F%E3%80%80%E6%B5%81%E4%B8%8B%E5%BC%8F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

高島塩田地帯の社会調査(富野敬邦、阿波学会研究紀要): http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/04/0406.htm

鳴門の風景(なつかしの写真館、鳴門市): http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/natsukashi/hukei.html

(追加説明) ○ 藻塩(もしお)は、海草(アマモ類、藻塩草)に潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを薪(藻塩木)の火(藻塩火)で焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮つめて得られた塩です。古代、歌などに多く詠まれ、また、随筆にも引用されています。

○ 海水からの製塩は、日射が強く、降雨の少ない地中海、紅海、中国、西アジア、東南アジア、北アメリカ、中米、アフリカなどの沿岸で、太陽熱と風を利用し、塩田で順次海水を濃縮し、塩の結晶を得ていました。これは天日製塩と呼ばれていました。

 天然鹹水は、湖沼や地下の塩水で、中国では地下のものを塩井という井戸から汲み上げて利用していました。

 岩塩は、鉱物(塩化ナトリウム、不純物として、硫酸カルシウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウムなど少量混在)として、米国、ドイツ、ソ連に広く産出します。鉱石のように採掘し、粉砕とふるい分けをしてそのまま利用するか、あるいは水を流し込んで濃塩水をつくったのち、これを煮つめて製塩しました。

○ 1585年(天正13年)、蜂須賀家政(阿波、徳島藩祖)が播州(兵庫)竜野(竜野市)から阿波(徳島県)に入国しました。そして、播州、淡路から製塩技術者を招き、1596年(慶長元年)の大地震によって隆起した撫養沿岸の干拓地の踏査、,開発に当たらせました

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蜂須賀家政(1558~1639、徳島藩祖、阿波、徳島)

 篠原孫左衛門もその一人で、1597年(慶長2年)、竹島村(のち高島村)の干潟を調査し、翌年塩浜の築造に着手しました。1607年(慶長12年)、塩田の検地が行われ、高島塩浜8町6反24歩(約8.5ha)、年貢として銀784匁1分9厘が定められ、孫左衛門は竹島村の庄屋に任命されました。以降、篠原家は代々庄屋を世襲し、製塩業に従事しました。(鳴門市史、上、岩村武勇、高島塩田の開拓と篠原家、1983、より)。

 安土、桃山時代1596年(慶長元年)の大地震は、1596年(慶長元年)7月13日(新暦9月5日)、近畿地方(山城、大和、摂津、河内、和泉)を襲ったM8の大地震です。京都と伏見の間は特に被害が大きく、京都の伏見城天守閣、石垣、方広寺の大仏も崩れました。この時、畿内に謎の降灰、降毛があり、伏見城の圧死者600人、豊臣秀吉も命からがら外に避難したと言う。 

 この2ヶ月後の9月4日、九州、大分の別府湾において、M7.0の慶長豊後大地震が発生し、大津波に襲われ、また瓜生島が海没し、死者700余名を出しました。

 この二つの地震の間に、四国の中央構造線断層帯も活動した可能性が高いと考えられています。この場合、九州北部から近畿西部にかけて、大きな断層がドミノ倒しのように、次々に活動したことになります。しかし、四国の中央構造線断層帯が、この時に活動したことを実証する記録は得られていないようです。

○ 大鳴門橋(おおなるときょう)と渦潮(うずしお) 瀬戸内海と紀伊水道の潮の干満により、幅が1.3kmと狭い鳴門海峡に1.5mもの落差ができ、ときに時速20kmとすさまじい勢いで潮が流れることにより、無数の渦が発生します。春と秋の大潮の時には、直径20m以上の大きな渦が現れ、その迫力は、観潮線により間近に味わうことができます。大鳴門橋は全長1829mの吊り橋で、渦潮をまたぐように架かっています。

 渦潮は現れたと思えば、すぐ消え、一つの渦の寿命はせいぜい数十秒、速さの違う潮流の波と波がぶつかり合って、ザバザバと音を立てる「鳴る瀬戸」という。そして、遊覧船の周囲は一面に白く泡立ちます。 渦の道(大鳴門橋遊歩道、450m、展望ガラス床から45m下の渦潮、エディ、徳島県): http://www.uzunomichi.jp/

2009年8月14日 (金)

阿波踊り(徳島)と北前船(日本海の商船、撫養~大阪~瀬戸内海~日本海~北海道、西廻り航路)にまつわる歴史逸話、盆踊り(念仏踊り)、阿波踊りの歴史、とは(2009.8.14)

  古代、飛鳥(あすか)時代、645年(大化元)年の大化改新(たいかのかいしん)により、北方(きたがた)の粟(あわの)国と南方(みなみがた)の長(ながの)国が統一されて、阿波(あわの)国ができました。

 ところで、盆踊り(ぼんおどり)は、旧暦7月の盂蘭盆会(うらぼんえ)の時期に、死者の霊がこの世に戻り、それを供養するための踊りです。その起源として、平安時代の空也(くうや、浄土教民間布教僧、阿弥陀信仰と念仏を広める)、903年(延喜3年)~972年(天禄3年)、鎌倉中期の僧、一遍(いっぺん、時宗開祖、南無阿弥陀仏の六字名号札を賦る)、1239年(延応元年)~1289年(正応2年)の念仏踊りが考えられています。

 (ぼん)は、盂蘭盆会(うらぼんえ)の略語で、盂蘭盆は梵語(ぼんご)で倒懸(さかさづり)という意味です。あの世で非常な苦しみを受けている死者を供養し救うのが、盂蘭盆会の行事です。飛鳥時代、推古天皇(女帝)、606年頃に、インドから中国を経て、日本に取り入れられたことが、日本書紀に記録されています。盆については、供物を載せる容器を日本の古語でボンといったところから、盆になったという説もあります。

 祖霊祭の意味を持つ盆の期日ですが、室町時代では、14日~16日、江戸時代では、13日~16日でしたが、近年になって13日~15日となっています。その代表的な行事には、迎え火、送り火、盆踊りなどがあります。盆の13は、先祖代々の墓参りをするならわしがあります。夕方に門口で苧殻(おがら、あさがら、皮をはぎ取った麻の茎)の迎え火を炊(た)き、精霊(しょうりょう)を迎え入れます。14日15日はお坊さんにお経をあげてもらい、15日の夜は送り火を焚き、精霊を送ります。

 盆踊りは、もともと精霊(しょうりょう)を迎えて慰め、送る行事ですが、現在は、阿波踊りに見られるように、娯楽的な要素が強くなっています。 

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三好昭一郎(徳島近世史研究会会長) ふるさとの宝物徳島盂蘭盆組踊之図阿波踊りのルーツ : http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/furusato/020813.htm

 阿波踊りの起源については、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(はちすかいえまさ、正勝(小六)の長男)が、1585年(天正13年)に播州(兵庫)龍野(5万石)から秀吉から賜った阿波国(徳島藩18万石)に入り、1587年(天正15年)、徳島城完成のお祝いに、町人達を招いて祝い酒をふるまった時の無礼講(ぶれいこう)で、自然発生的に町人達が踊り出したのが始まりと言われています。

 歴史的には、阿波踊りは、江戸時代の鈴木芙蓉(すずきふよう)の描いた踊りの絵から推して、盆の精霊踊りが変化したものと考えられ、藩の規制の触書(ふれがき)が出された俄(にわか)踊り(即興の寸劇、歌舞伎、人形浄瑠璃などの真似、声色、手品など、1人~数人)、組踊り(風流踊り継承、風流芸能集団、大踊り、100~120人)、文化・文政の頃から藍(あい)の豪商が他国の藍問屋を招待したときの座興(余興、俄)踊り、また、藩の貢祖の収奪によって苦しめられた民衆の鬱積(うっせき)した不満のはけ口としての狂乱(きょうらん)踊り騒(ぞめき)踊りなど、400年の間に諸芸や諸楽器を取り入れて、時代と共に変化してきた特異な民族芸能と考えられています。徳島の盆踊りは、社会の混乱が激しい時、また、戦時中は中止させられているので、平和な世を歓びあう意味も持っています。

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徳島市街の盆踊り(徳島盂蘭盆、組踊り、幕末の絵、徳島県の百年

(解説) 徳島市では、毎年、8月12日~15日の4日間阿波踊り(ぞめき踊り)があります。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」との唄ばやし(よしこの)、前身は都々逸(どどいつ)、リズミカルな太鼓、鉦(かね)、三味線(しゃみせん)に笛(ふえ)の囃子(はやし)にのって浮かれ踊る姿は楽しいもので、飛び入りしたくなるものです。

 ただ、阿波踊りは、手を挙げて足を運べば阿波踊りとも言われ、現代的な二拍子の激しい動きの踊り(ぞめき踊り)であり、日本古来のゆったりした盆踊り(寺社の境内の櫓(やぐら)の廻りを輪になって踊る、廻り踊りなど)とは根本的に異なるもので、あの世の精霊を喜ばせるための踊りというよりも、現世の人々のストレス発散のための踊りの意味合いが強いように感じました。

 ところで、この手を挙げて踊るスタイル跳ねるようなリズミカルな三味線の伴奏は、九州ハイヤ節(牛深、熊本、元唄)が源流のようです。もとは、船出の唄(うた)で、船乗り達が、南風(はや)を受け、北前船(きたまえぶね)に乗って日本海や瀬戸内方面へ貿易に出かけた時、ハイヤ節をその曲調と名を変えて日本各地の港町に伝え、広まった(黒潮文化)と言われています。南風(ハヤ)が唄の名(ハイヤ)となったという。テンポの激しいリズミカルな曲の踊りですが、北へ行くにつれて緩やかとなり、阿波踊り、佐渡おけさ、津軽あいや節などに変化したと言われています。

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北前船模型(広海家広徳丸)      北前船の航路と寄港地(西廻り航路)

(解説) 北前船(弁才船、帆船、千石船)は、最初は大阪に北陸の米などを運び、その後は大阪、瀬戸内各地の塩、紙、砂糖、木綿、雑貨などを買い、日本各地の港で商売しながら北海道(蝦夷地)の函館、江差、松前まで行き、これらを売って海産物(昆布(コンブ)、数の子、鰊(ニシン)、魚肥の鰊〆粕(ニシンしめかす)、鰯粕(いわしかす)など)を仕入れ、また内地への帰り道でこれらを売る商売(貿易)をしました。瀬戸内の撫養(岡崎、徳島)では、塩、砂糖(三盆白、黒砂糖))、藍(葉藍、藍玉)などを売り出し、一方、北海道、東北産の魚肥を買い付け、藍や甘蔗(サトウキビ)を栽培するときの有機肥料としました。

 北海道と大阪を日本海を経由して結ぶ西廻り(まわり)航路は、河村瑞賢(かわむらずいけん)が1672年(寛文12年)に開拓したものです。北前船は、江戸時代(18世紀)中期から1897年(明治30年)頃まで活躍していますが、地方によっては商品価格に大きな差があり、大きな利益を得ることが出来ました。鉄道の発達などにより衰退していきました。

 また、ハイヤ節の源流は、奄美大島(あまみおおしま、沖縄)の六調(ろくちょう)で、唄遊び、宴会、お祝いとつながりが深いものです。ハイヤ踊りは、もとが船乗り達の酒盛り踊りであり、中腰で重心が低く、また網投げ、櫓漕ぎ(ろこぎ)などの動きが特徴ですが、腰を落として豪快に踊る阿波踊りの男踊りとよく似たところがあります。

 徳島では、「よしこの節」を「ハイヤ節」の伴奏に合わせて唄うようになり、また、盆踊りは、時代の影響を受け、ぞめき踊り(二拍子の軽快で賑やかな踊り)だけが生き残り、今日の阿波踊りに発展してきたと考えられています。

(参考文献) 三好昭一郎、松本博、佐藤正志、徳島県の百年、山川出版社(1992); 樋口清之監修: 暮らしのジャーナル、生活歳時記(新装改訂版)、三宝出版株式会社(1994); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのちー吉野川辞典ー自然/歴史/文化ー、三好昭一郎、阿波踊り、農文協(.1999); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 牧野隆信: 日本海の商船 北前船とそのふる里、北前船の里資料館、加賀市地域振興事業団(1999); 加藤貞仁: 北前船、寄港地と交易の物語、無明舎出版(2002); 三好昭一郎: 喜寿記念日本史論集 第二部 徳島城下町民間藝能史論、山川製本書(2006); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也、徳島県の歴史、山川出版社(2007). 

(参考資料) ○ 牛深ハイヤ節(YouTube): http://www.higo.ed.jp/sh/ushibukash/page007.html; 

○ 徳之島民謡、六調(ろくちょう、YouTube): http://www.youtube.com/watch?v=4U5QgFuhqko; 

○ 阿波踊りの歴史: http://www.awabank.co.jp/kojin/odori_1.php

(追加説明) 徳島藩は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政による阿波国(18万石)の領国経営より始まります。1587年(天正15年)、蜂須賀家政、小早川秀景、長曽我部元親の天下普請により、徳島城(平山城、ひらやまじろ)が完成しました。

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蜂須賀家政(1558~1639、徳島藩祖、阿波、徳島)

 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦では、家政は阿波の領国を豊臣秀頼に返上、家督を嫡子(ちゃくし、長男)、至鎭(よししげ)に譲って隠居、剃髪(号、蓬庵)して高野山に登り、光明院に入りました。 

 関ヶ原の戦では、家政は至鎭(よししげ)(15才)を徳川家康のもとに参陣させ、至鎭は先鋒隊として活躍、家康より改めて、阿波一国が与えられました。大坂の役では、至鎭は阿波の水軍を率いて徳川軍として参戦、1614年(慶長19年)、冬の陣では、大阪湾を封鎖、木津川砦・博労斑砦の攻防では大きな軍功をあげ、1615年(元和元年)、夏の陣では、海が荒れたため最後の決戦には遅参したが、味方を勇気づけました。

 その戦功として淡路(兵庫)7万石が加増となり、25万石の蜂須賀家(徳島藩)の領国が確定、また家康の養女(下総古河の小笠原秀政の娘、氏姫)と婚約、初代阿波藩主となりました。その後、蜂須賀家は、明治維新までの約270年、徳島藩主(14代まで)として、阿波と淡路の領国に君臨しました。

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