カテゴリー「● 伝統工芸(日本刀、金箔、漆器、焼物、染物、和紙)、伝統産業(揚浜塩田、和菓子)」の7件の記事

2013年2月 3日 (日)

日本刀、鍛える(熱い鉄を叩く!)焼きを入れる(熱い鉄を水に投入!)日本固有の技術、日本刀の起源、砂鉄(磁鉄鉱)、とは(2013.2.3)

 日本には、木炭という低温燃料しかなく、(ふいご)で風を送っても、得られる最高温度1200℃ほどなので、融点1535℃を熔解することは不可能でした。

 が、日本刀の製作には、西洋科学には見られない、鍛えて焼きを入れる! という、日本独特の優れた鉄の技術が考え出されました。 一方、西洋(ヨーロッパ)では早くから、コークス(石炭を蒸し焼きした燃料)があり、鉄を熔解し鋳型で形を整えるだけでした。

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梅干と日本刀(樋口清之著、祥伝社、2005)

○ 木炭で得られる熱量は、鞴(ふいご)を使っても、最高温度は1200℃である!

 普通、を沸かす木炭800℃ほどです。また、を焼く備長炭(びんちょうたん)は600℃ほどの低温で、長時間に燃焼します。これはウバメガシ科の樹木からつくった、叩くとカンカンと金属音がする硬質の炭です。火持ちがよいので、煮物焼物をつくるのに使います。この炭は江戸時代、元禄(1688~1704)頃、和歌山県田辺市の近くで、備中屋長衛門(生没未詳)がつくったという。

 それ以前には佐倉炭(さくらたん)が多く、さらに古くは松炭でした。松炭消し炭のことで、短時間に燃焼する木炭のことです。温度は、松炭が一番高く1200℃ほどでした。

○ 鉄の融点は1535℃ですが、木炭で得られる最高温度は1200℃ほどなので、半熔解、アメ状の鉄しか得られません。日本刀の場合、鉄は不完全熔解なので、叩いて均質にする技術の創案は優れた科学的な知恵と言えます !

 鋼鉄(こうてつ)は、砂鉄を原料にして製錬すると得られます。まず、砂鉄粉石英粉木炭粉を交互に重ねて、蹈鞴(たたら)を使う熔鉱炉の中に入れrます。熔鉱炉の下に火口があり、火をつけて3昼夜ほど熱すると、どろどろのアメ状の鉄が得られます。

 この鉄の塊(かたまり)には、不純物が多く含まれているので、上のカスを取り除き、鋳型に流し込み固めると銑鉄(せんてつ)が出来ます。

 それを叩いて細かくし、もう一度、石英粉と木炭粉を重ね、空気を吹き込む蹈鞴(たたら、ふいごとも)で処理すると、今度は、炭素が多く含まれた鋼鉄の元ができます。それは玉鋼(たまこがね)と呼ばれるものです。

 玉鋼は、炭素分が多く固いがもろい。そこで、これに柔軟性を与えるために、もう一度、木炭の中で半熔解に熱して鍛えます(叩く!)。このとき、火花という形で玉鋼の中の炭素を放出し、いつも同じ力で均質になるように叩く必要があり、熟練を要する技術でした。

 村の鍛冶屋という歌にある、飛び散る火花というのは、鉄粉から出る火花のほか、多くは中に入っている木炭の粉末が火花となって放出されるのを歌ったものです。村の鍛冶屋の歌(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E3%81%AE%E9%8D%9B%E5%86%B6%E5%B1%8B

○ 日本刀の切れ味は、鉄の焼き入れの水加減に秘密がある。焼き入れで硬軟あわせ持つ特異な刃物が出来るという着想は、驚嘆に値する!

  鉄を鍛える鋼鉄の鉄分の純度は髙くなります。が、炭素を出しきってしまうと、グニャグニャのバネになってしまう。そこで、ある一定の限度で叩くことを止め、日本刀の芯の主体をつくります。そのままでは刃物としては弱いので、さらにその表面を一層硬度の高い鋼鉄層に捲りまくり、鍛え!)、よく熱して打ち固め、刀身の主体部を仕上げます。

 その次の段階では、刃の部分に焼きを入れて、この部分だけ最も硬度の高いものとし、薄く研(と)いだとき、よく切れるようにします。

 それには、全体に粘土を塗って、刃のところだけ粘土を落として、火の中で焼く。そして、焼けたものを、生ぬるい水の中につける。刃の部分だけ薄くなって、粘土をつけてないので、そこだけ密度が高くなります。すると、刃のところだけが非常に硬質の刃物となり、粘土に包まれた刀身全体は、まだ柔軟性のある柔らかさを持っています。

 この鉄を収縮させるための水の温度は大切で、冷たすぎる水につけると、刃自体にヒビが入ってしまうし、温度が高いと、硬度が得られないので、適切な温度は7~13℃と言われるが、刀鍛冶はこの水加減を秘伝としました。

 このように、刃のところだけに焼きを入れるために、全体を泥で包んで保護し、刃のところだけ泥を落として焼くと、全身に同じ温度がかかっても、ぬるま湯につけたときの冷却の仕方が異なることになります。

○ 剃刀(かみそり)の鋭利さを持つので日本刀は折れない。日本刀は曲がっても元に戻して使え、固い刃は折れないという、極めて矛盾した性質を備えている!

 日本刀は後ろに反らしてあります。この反りの理由は、直刀で直角に物を切ると、刀身の断面角度は3度くらいあって鋭利さに欠けるからです。刀身を反らして斜めに引き切ると、円運動になります。すると3度の刃が物を切っていくときには、0.1~0.08ぐらいの角度になり、これは安全剃刀の刃ぐらいの鋭利さです。

 日本刀には、丈夫さとして、3度の角度分だけの厚み、加えて重量があります。そして、鋭利さが安全剃刀ぐらいの刃、力が加わると折れずに曲がる柔らかさを持ち、固い物も切れる硬質さを持つという、完璧な刃物となっています。

 のち、鑑賞用になり、焼きを入れるときの刃紋の乱れにおいと呼び、楽しむようになります。これは遊びという芸術性の要求です。が、には本来、においなど問題ではなく、やはり、切れることが第一でした。

○ 日本刀の起源

 日本刀起源として、古墳から出土した刀を顕微鏡で調べ、まくり鍛えは少し異なるが、1500~1600年前のものと分かりました。なお、鉄器は、弥生時代、水稲耕作の技術と同じ頃、中国、朝鮮を経由して日本にもたらされ、武器として用いられました。また、青銅器は、鉄器にやや遅れて日本に伝わり、おもに祭器として利用されました。

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関孫六の銘刀(せきのまごろく、生没未詳、室町後期美濃の刀工、関市、岐阜県、google画像) 関鍛冶伝承館(日本珍スポット百景、関市、岐阜):http://b-spot.seesaa.net/article/58556538.html

(解説) 平安時代には、日本刀は、はっきりと全身まくり(鍛え!)になり、刃に焼きを入れる技術が完成しました。なお、江戸時代、慶長(1596~1615)以前のものを古刀以後のものを新刀と呼びます。 

 昔の刀鍛冶(刀を鍛える工匠、刀工、刀匠とも)が、斎戒沐浴(さいかいもくよく、飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めること)し、仕事場には注連縄(しめなわ)を張るというふうに、その仕事を神聖化したのは、鍛える刀剣へのい(入魂!)もあったと推測されます。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 樋口清之: 梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史(第7刷)、p.38~47、ゾリンゲンのナイフに応用された日本刀の技術、日本刀の切れ味は、焼入れの水加減に秘密がある、剃刀の鋭利さを持つから折れない日本刀、祥伝社(2005);桶谷繁雄: 金属と日本人の歴史(第1刷)、p.54~57、日本刀製作の苦心はどこにあったか、講談社(2006).

(参考資料) 宮本武蔵(二天一流)にまつわる歴史伝承、五輪書(霊巖洞)、巌流島の決闘(二天記)、花鳥水墨画(剣禅一如)、とは: http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-f226.html

(追加説明) ○ 砂鉄

 砂鉄(さてつ)は、岩石中に存在する磁鉄鉱(四三酸化鉄、黒色、磁性が強い)が、岩石の風化分解によって流され、河床または海岸、海底に堆積したものです。

 私は、子供の頃、自宅の砂に棒磁石を近づけたところ、小粒の黒色の砂がたくさん付着したのを覚えています。

 日本の砂鉄の産地として出雲(島根)が有名です。そこの砂鉄の成分は、鉄 67.46%、酸化ケイ素 2.74%、酸化アルミニウム 0.42%、酸化マグネシウム 0.67%、 硫黄 0.033%、 リン 0.005%、 銅 0.058%、酸化チタン 1.63%など、その特徴としてリン、硫黄及び銅などの不純物が極めて少ないことです。

 砂鉄(青森県三沢、北海道中ノ沢産など)には、鉄鉱山の鉱石(岩手県の釜石、北海道倶知安産など)に比べ、鋼鉄の製錬の妨害となる、リン、硫黄及び銅が著しく少なく、特に少なかった出雲の砂鉄が、日本における鉄鋼原料として有名な理由が分かります。

 釜石鉄鉱石の成分は、鉄 56.84%、酸化ケイ素 8.64%、酸化アルミニウム 1.78%、酸化カルシウム 5.82%、 酸化マグネシウム 1.33%、 硫黄 0.227%、 リン 0.034%、 銅 0.114%、マンガン 0.159%などです。砂鉄(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E9%89%84

 また、日本刀の成分を調べ、砂鉄には極微量モリブデンが含まれていることが確認されています。これが、鋼鉄の硬さの一つの要因になっているという。日本刀(Tech-On):http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090811/174070/?P=3. 

 八岐大蛇(やまたのおろち)伝説については、出雲地方の水害を象徴したもの、また、朝鮮渡来の金屋集団による砂鉄と木炭による製鉄と大国主命の伝説とが結びついたものとも言われています。八岐大蛇(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81. 

2009年12月23日 (水)

漆器(石川)にまつわる歴史技法、漆の採取、輪島塗、山中塗、金沢漆器、とは(2009.12.23)

  漆芸(しつげい)は、おもに木の素地(きじ)に漆(うるし)を塗り、装飾を施した工芸です。加賀藩(石川)の漆器(しっき)産地として、輪島(わじま)、山中(やまなか)、金沢(かなざわ)があります。 輪島塗山中塗は、庶民の日常生活の必要から生まれた漆工芸ですが、金沢漆器は、加賀藩主前田家の御用により生まれた贅沢な貴族工芸でした。

 漆器は、日本、中国、朝鮮、ビルマ、タイなどで発達し、日本では、縄文時代の末期に出現しています。製作工程は、漆の精製、素地(木、竹、紙、麻布、皮、陶磁器、金属など)の加工に始まり、下地、上塗、加飾など複雑です。加飾技法には、蒔絵(まきえ)、漆絵など絵画的方法、沈金(ちんきん)、彫漆、鎌倉彫などの彫刻的方法などがあります。

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漆の採取(漆掻き、輪島、能登、石川、google画像)

 漆(うるし)の樹木は、中国、朝鮮を経由して日本に移植され、漆の採取や塗り加工の技術も伝わったと言われています。は、ウルシの樹皮に傷をつけ、漆液溝から外に滲み出す黄白色乳状液で、そのままのものは生漆です。

 漆液の中の主成分はウルシオール(OH基を2個含むカテコールの混合物)であり、漆が迅速乾燥してかたい膜をつくるのは、ラッカーゼ(銅(Ⅰ価)を含む酸化酵素)の酵素反応によるもので、水分を除去する一般の乾燥と異なり、湿度の高い(70~90%)乾燥室(漆風呂、室、むろ25~30℃)に放置すると硬くなります。ウルシオールは、皮膚のタンパク質と反応してかぶれ(アレルギー反応)を起こしますが、身体(サラダ油など)を塗っておけば、漆かぶれを防ぐことができます。

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輪島塗 朱塗懸盤、しゅぬりかけばん、わん、1828年(文政11年)、輪島市所蔵、  老松沈金四段重、おいまつちんきんよんだんじゅう、 1848年(嘉永元年)、石屋清九郎作、輪島市所蔵、輪島、能登、石川、google画像)  

 輪島塗(わじまぬり)は、輪島(奥能登、石川)で生まれた漆器で、室町中期(応永年間、1394~1428年)に紀州(和歌山)の根来(ねごろ)から伝授されたと言われています。 アテ(ヒノキアスナロ)、ケヤキ、ホウなどを木地(きじ)として、下塗りに地の粉(じのこ、珪藻土、けいそうど、小峰山、杉平町特産、輪島市内)を用い、また100回に近い複雑な工程を経るため、堅牢をもって聞こえ、装飾には主に沈金が施されます。輪島塗は、木地師、下地塗師、中塗師、研師、上塗師、蒔絵師、沈金師、呂色師など、多くの職人、作家の問屋制家内工業による総合漆工芸となっています。

  根来塗(ねごろぬり、和歌山)は、黒漆で下塗りした上に朱漆を塗ったものが多いです。(根来塗: http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren7/negoro.html

 黒漆には、生漆を天日(真夏、気温30℃以上が最適)で加熱しながら手作業で掻き混ぜ(3~4時間)、水分と不純物を除去し、主成分のウルシオール酸化させてく精製した高級な天日黒目(てんぴくろめ)、また、砂鉄、鉄粉、水酸化鉄などを混ぜ、ウルシオール鉄分による酸化鉄(Ⅱ価)との錯化合物の生成によりく精製した天目黒目の代用品もあります。赤漆には朱色辰砂(しんしゃ、硫化水銀)が顔料として含まれています 

 京保年間(1716~1736年)、日常雑器の加飾から始めた金箔を用いた沈金技法を開発、末期から明治初年に金沢、京都の蒔絵技法を導入するなど、高度な漆芸技法を大成し、高級漆器として全国に名声を博するようになりました。

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山中塗(正尺四寸欅盛器、しょうしゃくよんすんけやきもりぎ、初代向出二郎作、山中漆器伝統産業会館所蔵、山中、大聖寺、石川、google画像)

 山中塗(やまなかぬり)では、大聖寺川の渓流を16kmほど遡った真砂(まさご)(山中、江沼、大聖寺、石川)で、中世末に越前から木地屋(きじや、椀や盆などの木器を作る職人)の集団が移住したと言う。、麦や稗を作りながら、自家用の食器を轆轤(ろくろ)で(ひ)いて作り、元禄年間(1688~1704年)、山中温泉の湯治客の土産物として売られたのが始まりと言われています。ケヤキを素地とした、色彩の明るい、現代風のデザインで値段も安く、大衆向きの漆器です。

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金沢漆器(蒔絵螺鈿秋月野景図硯箱、まきえらでんしゅうげつやけいすずりばこ、江戸 17世紀、伝 五十嵐道甫作、石川県立美術館所蔵、金沢、石川、google画像)

 金沢漆器(かなざわしっき)では、藩政時代、金沢の漆の工人は、蒔絵師、塗師、鞘師(さやし)、靭師(うつぼし)の四つに分かれていました。加賀3代藩主前田利常、1594年(文禄2年)~1658年(万治元年)の頃、蒔絵師として五十嵐道甫(いがらしどうほ)、?~1678年(延宝6年)が金沢に京風の蒔絵を伝え、塗師は茶道具の棗(なつめ)や飾棚(かざりだな)、贅沢な椀、盆、硯箱、手筥(てばこ)、卓などのみ塗り、鞘師は刀の鞘だけ塗り、鞘師は矢を入れる皮製の道具、靫に漆加工していました。(漆工芸京漆器の歴史と特徴: http://www.kyo-shikki.jp/history/index.html

 輪島塗保存団体(輪島塗技保存会、輪島市水守町四十刈11、石川県輪島漆芸美術館内)は、1977年(昭和52年)4月25日、国指定の重要無形文化財として認定されました。

(参考文献) 小百科事典、平凡社(1973); 日吉芳朗、本浄高治、中西孝: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩にゆかりのある史跡と産物(輪島塗)、化学と教育、日本化学会(1991); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993)); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、太田永久、加賀藩の漆器、輪島塗、山中塗、加賀蒔絵(金沢蒔絵)、日吉南賀子、輪島塗と山中漆器、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999).

(文献資料) 漆の採取(輪島、能登、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%BC%86%E3%80%80%E6%8E%A1%E5%8F%96%20%20%E8%BC%AA%E5%B3%B6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

石川県輪島漆芸美術館: http://www.city.wajima.ishikawa.jp/art/

輪島漆器(石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/wajima/main.html

山中漆器(石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/yamanaka/

金沢漆器(石川新情報書府):http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kougei1/sikki/what/index.html

漆工芸(日本の漆塗りの特徴): http://urushi-kogei.org/characteristics.html

漆の歴史(まる又漆器店、長野): http://www.marumata-japan.com/urushinorekishi.htm

2009年12月21日 (月)

宮崎友禅斎(友禅染の祖)と京友禅(京都)、加賀友禅(金沢)、江戸友禅(東京)、とは(2009.12.21)

  友禅染(ゆうぜんぞめ)は、江戸中期(元禄期、1688~1704年)に京都の扇絵師、宮崎友禅斎(みやざきゆうぜんさい)が創始したと言われています。京都のものは京友禅、金沢のものは加賀友禅、東京のものは江戸友禅と呼ばれています。中世から近世にかけ、衣の主流は、織物から染物へと時代は移っています。

 宮崎友禅斎(生没年未詳)は、江戸前中期の扇、染物絵師です。知恩院(ちおんいん、浄土宗、京都)門前に住み、狩野派の影響が見られる画風の扇絵蛍の図などを描いていました。友禅齊は、扇絵師として名声を博し、元禄期以降は小袖模様を描きました。

 1692年(元禄5年)に小袖雛形本(こそでひながたぼん)、余情ひながた、を刊行、動植物、器物、風景など、絵画性を持つ図柄を模様染に取入れましたが、友禅染という技法の創始にどの程度関与したかは不明です。

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扇絵蛍の図、宮崎友禅齊、東京国立博物館所蔵、google画像)

 友禅齊は、謎の多い人物ですが、伝承によれば、能登(穴水、あなみず)生まれ、晩年に35年住み慣れた京都から金沢へ帰り、加賀6代藩主前田吉徳、1690年(元禄3年)~1745年(延享2年)の御用、紺屋頭取黒梅屋のもとで染め衣装の下絵を描いて余生を送り、1736年(元文3年)86才の生涯を終えたとも伝えられています。卯辰山の龍国寺(りゅうこくじ、曹洞宗、金沢)の境内の石碑に、京のこと また口へ出る 余寒かな、と刻まれています。

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友禅染上 京友禅、京都、 下 加賀友禅、金沢、google画像より)

  京友禅は、柔らかい色調を好み、多彩な色を使っていますが、配色に工夫が見られ、上品で華やかです。加賀友禅は多色を使っていますが、加賀五彩(臙脂(えんじ)、黄土(おうど)、古代紫、草緑、藍)、特に紅色や紫、緑などに深みがあり、優雅で艶やかです。

 絵柄は、図案調京友禅に対し、加賀友禅では、草、花、鳥等の絵画調の物が多く、自然描写を重んじる中から「虫喰い」等独自の装飾が生まれました。「ぼかし」も京友禅以上に多用される傾向にあります

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友禅染江戸友禅、東京、google画像)

 また、東京の江戸友禅は、江戸の町人文化を背景とし、渋く落ち着いた色合いの中にも、洒落感が漂う都会風が特徴とされています。

(解説) 加賀友禅は、下絵(したえ)には、もち米粉とぬかで作った糊(のり)で図案の線を描き、色挿し(いろさし)、伏せ糊地染など約26工程を経て染めます。下絵を付け、糊を置きあるいは絞りをして地色と文様を染分け、その後、縫箔や鹿の子絞りを入れて、その上に彩色絵を手書きで描く、優美で多彩な染色法です。華やかな配色とぼかしの技法に特色があります。

 下絵を書き始めるとき、染め上がりに影響しないように、ツユクサ科のオオボウシバナの青い花弁から水で抽出した青い色素が下絵に使われます。その絞り汁を和紙に染め込ませ、乾燥して青花紙を作り、この和紙より青い色素を水に溶かし出して、下絵描きに使っています。この色素は、青い花の色素(アントシアニンの類似体)で、ツユクサの学名より、コンメリニンと呼ばれています。

 色挿しとは、輪郭が完成した模様に筆や刷毛で染料を染め付けていく工程で、昔は日本画の顔料として使われる青黛(せいたい)や艶紅(ひかりべに、つやべに)などを柄の彩色に使用しています。また、天然由来の藍(あい)、紅花(べにばな)、蘇芳(すおう)、茜(あかね)、紫根(しこん)、刈安(かりやす)などの植物染料、臙脂虫(えんじむし)から得られるコチニールなどの動物染料を用いていました。現在では、1856年(安政3年)、イギリスの化学者 W.H.パーキンにより発見された赤紫色の合成染料(アゾ染料)、その後、開発された化学染料が使われています。

 有名な友禅流しは、水のきれいな川(鉄分の少ない適度な軟水)で布から糊や余分な染料を落とす水洗(水もと)です。金沢では、厳冬のころ行うこと(約3時間)が多く、犀川、浅野川の雪解け水にさらすこともあります。川の上に色とりどりの布が泳ぐさまは、観光の目玉にもなる美しさですが、現在は河川の汚れなどもあり、1968年(昭和43年)、良質で豊富な地下水を求め、金沢の郊外、専光寺浜の松林に加賀友禅染色団地を竣工し、人工の川を利用して染めた布を水洗しています。

 型染友禅(かたぞめゆうぜん)は、明治中期に広瀬治助(ひろせじすけ、京都)、1822年(文政5年)~1890年(明治23年)が考案したもので、型紙を用いて捺染(なっせん)します。また、堀川新三郎(ほりかわしんざぶろう)、1851年(嘉永4年)~1914年(大正3年)がモスリン友禅(写染法)を開発して安価なものが工夫されました。 縮緬(ちりめん、モスリン)、絽(ろ)、羽二重などに染めて振袖(ふりそで)、訪問着などにしますが、最近はウール(羅紗、らしゃ、羊毛)、化学繊維、合成繊維なども染められています。

 1978年(昭和53年)7月13日、石川県は、加賀友禅の伝統技術の保護育成のため、こうした伝統的な技術を有する技術者を主たる会員とする、加賀友禅技術保存会(専光寺町、金沢)を県指定の無形文化財として認定しました。

(参考文献) 小百科事典、平凡社(1973); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993)); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、太田永久、加賀友禅、友禅流し、宮崎友禅齊ー加賀友禅の生みの親ー、板垣英治、ツユクサと加賀友禅、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999).

(文献資料) 加賀友禅とは(金沢の伝統工芸、長町友禅館、石川): http://www.kagayuzen-club.co.jp/learn/history.html

京友禅(友禅齊と友禅染、美と技の都、京都): http://www.kougei.or.jp/crafts/kyoto/yuzen1.html

江戸時代の京友禅(京都、google画像)http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%AC%E5%8F%8B%E7%A6%85%E3%80%80%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

京友禅(京都、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%AC%E5%8F%8B%E7%A6%85&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

加賀友禅(金沢、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8F%8B%E7%A6%85&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸友禅(東京、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%8F%8B%E7%A6%85&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) 

○ 友禅祭  1920年(大正9年)、龍国寺金沢市東山)で加賀友禅の始祖・宮崎友禅斎墓碑が見つかったのをきっかけに、毎年開催されています。

龍国寺(曹洞宗、金沢): http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/spot_search/spot.php?sp_no=551

 2014年(平成26年)度は、命日の5月17日(土)、70回目の「友禅祭」が龍国寺で開かれ、友禅作家や呉服業者ら約100人が出席し、友禅斎の墓参りをし、加賀友禅のさらなる発展を祈願しました。また、制作で使いふるした筆やはけなどを燃やす筆供養もありました。(2014年(平成26年)5月18日(日)、北陸中日新聞朝刊

 2017年(平成29年)5月17日(水)、友禅斎史跡保存会により、加賀友禅の祖とされる宮崎友禅斎の遺徳をしのぶ恒例(73回目)の友禅まつりが金沢市東山の龍国寺でありました。友禅作家や呉服業者ら百人が参列。参列者は境内にある墓に焼香し、手を合わせました。筆供養もあり、友禅染に使用した筆やはけを麦わらとともに燃やしました。

 友禅斎史跡保存会の水野昌徳会長は「友禅斎先生のおかげで今の加賀友禅の発展がある。これからも多くの人に加賀友禅の魅力を伝えていきたい」と述べました。(2017年(平成29年)5月18日(金)、北陸中日新聞朝刊)

2009年12月13日 (日)

金箔(金沢)にまつわる伝統工芸、砂金、金の舞(金箔、銀箔、金沢)、澄屋(金合わせ、圧延)、箔屋(雁皮紙、箔打ち)、金閣寺の修復(京都、金沢の金箔)、とは(2009.12.13)

  古代(飛鳥時代)、金箔(きんぱく)は、遣唐使によって、仏教文化と共に、中国から日本に持ち込まれたと言われています。は、749年(天平21年)、陸奥守、敬福( きょうふく)により、日本で初めて陸奥国(涌谷町、わくやちょう、宮城)で砂金が発見され、多量の金箔が藤原時代、967年(康保4年)~1068年(治暦4年)、中尊寺(天台宗、岩手)、平等院鳳凰堂(天台宗、浄土宗、のち単立、京都)において使われました。

 このことから、日本に製箔技術が定着したのは、奈良時代の末期、または平安時代の初期の頃と考えられています。金箔は、主に仏像や寺院に使われ、沈金(ちんきん)、截金(きりかね)、蒔絵(まきえ)、金屏風(びょうぶ)、料紙(りょうし)装飾、金蘭(きんらん)、西陣織、金唐革(からかわ)、水引(みずひき)、漆器、陶芸などの美術工芸品、金仏壇、建築屋根の金箔瓦、鴟尾(しび)へと利用が広まりました。

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砂金(マイントピア別子、新居浜、愛媛)と 金の舞金箔、銀箔、箔一産業、金沢、石川) 2014年3月、石川県立自然史資料館へ砂金を寄贈

(解説) 金沢金箔生産については、1593年(文禄2年)2月、加賀初代藩主前田利家、1537年(天文6年)~1599年(慶長4年)が、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)の朝鮮出兵に従って、九州の名護屋(なごや、肥前、佐賀)にいた頃、秀吉から明(中国)の使節団の出迎え役を申し渡され、武者揃(むしゃそろえ)の際の槍(やり)などをきらびやかに飾るため、領地の加賀、能登にそれぞれ金箔(きんぱく)と銀箔(ぎんぱく)を打つように命じたとの史料があります。このことより、利家の金沢入城以前に、加賀には箔の工人がいたのではないかと言われています。

 加賀藩では、加賀には、1584年(天正12年)、宝達(ほうたつ)金山、1615年(元和2年)、倉谷(くらたに)金銀山、1770年、(明和7年)、金平(かなひら)金山のほか、鞍ヶ嶽金山、九谷金山、白山金山、下白山金山、尾小屋銅山(1682年(天和2年)の記録に、採金の記述あり)、阿手鉱山、遊泉寺鉱山、中島鉱山、越中には、松倉金山、虎谷金山、河原波金山、長棟鉱山、などの金鉱山開坑(かいこう、鉱床に向かい坑道を切り開く)されています。

 1603年(慶長8年)、江戸幕府を開いた徳川家康、1543年(天文11年)~1616年(元和2年)は、幕藩体制を固める経済政策として、全国の主要鉱山を直轄領としました。1667年(寛文7年)に各藩に命じて貨幣の鋳造を禁止し、貨幣の材料である金銀銅の地金を管理統制下に置き、1696年(元禄9年)には、箔座を設けて、金銀箔の生産、販売を厳しく統制しました。その後、箔座は廃止され箔打ち金座銀座管理下に置かれ、金箔は江戸、京都以外での製造が厳しく禁じられました。

 金箔製造は、素材の金を薄く延ばす作業ですが、昔から分業制をとっており、大きく分けて3つの工程を家内工業的な2種の業者が分担しています。一つは、澄屋(ずみや)と呼ばれる業者で、延金(のべきん)の製造と上澄(うわずみ)の2つの工程を受け持っています。純金の箔は軟らか過ぎて扱いにくいので、銀や銅を少量混ぜ、熔融して合金金を作り(金合わせ、標準は四号色、質量比が純金100に対し、純銀4.8,純銅0.7)延金にします。

 これを圧延して(澄打ち)、厚さ3μ(マイクロ)m程度の 上澄を作ります。次に、箔屋と呼ばれる業者で箔打ちと箔移しの第3工程が行われます。約4cm角の上澄を特殊加工した和紙(雁皮紙、がんぴし)約500~1600枚の間に一枚ずつ鋏みこみ重ねたものを牛や猫の袋皮にしっかりと固定してハンマー(槌)で打ちます。江戸時代、箔打ちは親方が鎚1挺(かなづちいっちょう)、子方が2挺で向かい合って行いました。明治の末期から機械打ちの工夫がされ、昭和の初期の頃から、家内工業のまま、完全に機械打ちに変わりました。

 金箔の厚さが0.5μm程度のところで雁皮紙を取り替え、さらに0.1~0.4μmの厚さの金箔(透かすと向こう側が見える、1万分の1ミリの薄さ)にまで打ち延ばし、和紙100枚を綴じた広物帳(ひろものちょう)に1枚ずつ鋏みます。最後に、箔を、女竹製の枠カッターやピンセットを用いて、所定の大きさ(標準は11.5cm角)に切り揃え、切紙(きりがみ)に移しかえて100枚1束で出荷しました。 

 1808年(文化5年)、金沢城の二の丸御殿が焼失し、その再興のために多量の金箔が必要となり、京都より箔打ちに熟達した職人が呼び寄せられました。これを契機に金沢の町人の間に、製箔業を確立しようとする動きが起こりました。

 幕府は文政年間に3度も箔打ち禁止令を出していますが、加賀藩の細工所中心に、幕府の目を逃れて秘(ひそ)かに箔を打つ「隠し打ち」が行われていました。加賀藩内では、幕府の規制対象にはならない真鍮箔(しんちゅうはく)、錫箔(すずはく)、銅箔(どうはく)を隠れ蓑(みの)に金箔(きんぱく)を打っていたと言われています。加賀藩12代藩主前田斎広、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)は、1819年(文政2年)、兼六園内に竹沢御殿を建てましたが、そこに使った金箔は全て金沢の安田屋助三郎らによって作られたものです。

 1830年(天保元年)加賀藩当局の尽力で、江戸金座の後藤家から、江戸箔売りさばきの鑑札として、「金箔請売所」の看板が能登屋佐助に下付され、1845年(弘化2年)に江戸箔売りさばきの公式の許可が下りました。この間、金沢の箔職人達は、江戸、京都から購入した金銀箔を打ち直し、あるいは銅、真鍮箔の打ち立てという名目を隠れ蓑とし、金、銀箔の隠し打ちを続けていました。

 幕末、1864年(元治元年)、加賀藩の御用箔に限って金箔打ちをしてもよいとの幕府の公認、1868年(明治元年)、明治維新による金箔製造に関する締め付けの撤廃などが行われました。また、1900年(明治33年)、金沢にも電気が通じ、三浦彦太郎、1869年(明治2年)~1949年(昭和14年)がドイツ製打箔機を改良し、重労働だった箔打ちの機械化が進みました。

 現在、金沢金箔生産は、全国99%を獲得し、残る1%は京都府と滋賀県産となっています。 中尊寺金色堂(岩手)、東大寺大仏殿(奈良)、金閣寺(京都)、日光東照宮(栃木)などの国宝、世界遺産登録の建造物、また古都(京都、奈良)の重要文化財、美術工芸品など、全ての補修、修復に、金沢の金箔が用いられています。 

(参考文献) 中西孝、日吉芳朗、本浄高治: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品(金沢の金箔)、化学と教育、日本化学会(1991); 国立科学博物館編: 日本の鉱山文化、絵図が語る暮らしと技術、科学博物館後援会(1996); 北国新聞社出版局編: 日本の金箔は99%が金沢産、北国新聞社(2006).

(参考資料) マイントピア別子(新居浜、愛媛):  http://www.besshi.com/

金沢箔(石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kougei1/haku/index.html

金沢金箔(金沢、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E7%AE%94%20%E9%87%91%E6%B2%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

金閣寺(京都、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

中尊寺金色堂(岩手、google画像): https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E5%B0%8A%E5%AF%BA%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A0%82&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=xItXUoGuL4WakAXtiIDACg&ved=0CDwQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

(追加説明) ○ 金泥(きんでい)とは、金箔をすりつぶして粉末とし、膠(にかわ)液で練って泥状にしたものです。その色合いによって、青金、赤金などの種類があり、顔料の一つとして、仏画などの絵画、料紙(りょうし、美術工芸紙)装飾の下絵、また経文の書写などに幅広く使われます。

○ 金箔押しとは、薄い金箔を絵画などの地に貼付して装飾する技法です。箔は膠水(こうすい)ようのりを引いて貼り付けます。

○ 金平(かなひら)金山(小松、加賀)は、大杉谷川と郷谷川とに挟まれた山間部にあり、明和年間(1764~1772年)に、沢村の十村(村方の最高役人)、石黒源次(7代、いしぐろげんじ)によって発見されました。金の産出の増加につれて、諸国から人夫が集まり、村には茶屋や芝居小屋などもできて、鉱山町として大変賑わいました。 

 鉱石発見から製錬までの過程は次のようであり、その間にいろいろの用具を使用しました。鉱脈の存在を予想して、ゲンノウでタガネを打ち込み、土砂を崩しながら掘り進んでいく。金鉱を見つけるとカッサでかき出し、ザルで運んでワンカケワンに入れ、水で不純物を洗い流す(ワンカケ法)。その後金場(きんば)に送り、釜に入れて焼き、細紛化する。これを根子流(ねこなが)し用布を敷いた箱に入れて、何度も繰り返して洗い流す。布の上に残った砂金を水銀と共に乳鉢に入れ24時間置く(アマルガム法)。洗浄後、唐木綿で水銀を絞り取り、残った混在物をルツボに入れて火にかけ、金の固形物を得る。さらに、薄く引き延ばした鉛に包み、フイゴで加熱し、を得る。これは、江戸時代の灰吹法(はいふきほう)という製錬法である。

 1616年(元和2年)、大坂の陣の褒美として、徳川家康から、金平の山師、金掘師に金山を掘る権利を与えられた採掘免許状が現存しています。また、金平金山は、1788年(天明8年)、加賀藩直営の御手前山となっています。

(小松市立博物館編集、発行: 小松市立博物館 総合案内(2000).より)

○ 2004年(平成16年)では、全世界の金産出量は、南アフリカ(14.1%)、オーストラリア(10.7%)、アメリカ(10.6%)、中国(8.8%)、ペルー(7.1%)、ロシア(7.0%)、カナダ(5.3%)です。日本(0.3%)では、菱刈金山(鹿児島)が操業中です。 菱刈金山(鹿児島):http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/shizen/hishikari.html

○ 金沢金洗い沢、その昔、砂金を洗って取ったことが名前の由来となっています。金沢にまつわる民話、芋掘り藤五郎は、掘った芋の根に砂金がたくさんからまっており、それを取って藤五郎夫妻は幸せに暮らしたというものです。実は民話だけでなく、金沢を流れる犀川からは砂金が取れ、昔からたくさんの人が川に入って砂金を取ってきました。江戸時代、1608年(慶長13年)、犀川上流にあった倉谷鉱山は、鉛、亜鉛を主に産出した鉱山でしたが、産出していました。その周辺の金を含んだ鉱脈から、砂金が川に流れ込んだと考えられています。砂金は激しい流れにのって上流から流されてくるのですが、岩の割れ目や、ポットボール(甌穴、おうけつ)のような穴があると、そこにもぐり込んでたまります。その場所に草など生えていると、根っこにからまることが多いので、そこを探しワンカケ法により今でも砂金採取することができます。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、四ヶ浦弘、砂金、裳華房(1997).より)  

○ 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地砂金層を大量に含み、戦国期には流浪の金屋たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。このとき沢水を利用して採金(ワンカケ法)したので、金掘沢、金洗い沢などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。現在も兼六園の南端には、金沢の名称発生の地、金城霊沢があり、今も絶えることなく水鉢の底から清水が湧き出しています。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、本浄高治、金城霊沢、金沢の名の由来、裳華房(1997).より)

 

2009年12月 7日 (月)

九谷焼(石川)にまつわる歴史技法、古九谷(江戸前期)、色絵磁器(陶土、呉須、九谷五彩)、再興九谷(江戸後期)、とは(2009.12.7)

  古九谷(九谷、大聖寺、石川)は、有田(有田、肥前、佐賀)、姫谷(福山、備後、広島)と共に、近世(江戸時代)初期、日本の三大色絵磁器として、その大胆な図柄、流麗な筆致、深みのある色調で、広く海外にまで知られていました。 

 山中温泉から大聖寺川を約14kmさかのぼる奥深い山麓に、九谷(くたに)村(現在、廃村)がありました。ここは、江戸の始め、色絵磁器で有名な古九谷(こくたに)発祥の地であり、九谷磁器窯址(くたにじきようあと、蓮房式登窯)の石碑が立っています。大聖寺藩の吹座役を務めていた後藤才次郎(ごとうさいじろう)が、重罪人を鉱夫に使った金山があったこの地に、金鉱を探し求めてやってきた時、良質の陶土を発見した、との伝承があります。

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古九谷色絵山水文平鉢、小松市立博物館蔵、九谷独特の五彩で山水図が豪快に描かれています。google画像)

(解説) 主原料の陶石は、カオリン(カオリン石、アルミニウムの含水ケイ酸塩、Al2O3・2SiO2・2H2O、長石の変質)の一種です。長石(アルミノケイ酸塩)類が自然に分解し流れて沈積した白色の粘土は、磁器の原料となります。陶磁器の中で、磁器は、粘土質物や石英、長石を原料とし、1300~1400℃程度の高温で、約15~20時間ほど焼成、最も硬く、軽く弾くと金属音がします。素地(きじ)がよく焼き締まってガラス化し、吸水性のない純白透明性の焼物となります。色絵磁器として、有田焼、九谷焼などが有名です。

 また、九谷焼では、九谷五彩と呼ばれる青,黄,紺青,紫,赤の色鮮やかな五色の絵具を使用しています。 赤と黄には酸化鉄を、青には酸化銅、紺には酸化コバルトを、紫には酸化マンガンを使用しています。色絵模様の下絵付けの藍色、呉須(ごす)の主成分は酸化コバルトで、少量の鉄、マンガンが含まれています。上絵具の熔剤には、白色の粉末、唐の土(塩基性炭酸鉛)、白玉(無色ガラス粉末)、日の岡(珪石)の3種を使用していますが、唐の土の鉛化合物は有毒なので代替品が考慮されています。

  九谷焼の特色は、磁器の素地が純白でなく、やや青味がかっていることです。これは陶石に含まれている鉄とチタン酸化物の焼成による着色と考えられています。九谷焼の陶石の原料として、九谷陶石(九谷)、荒谷陶石(荒谷)、花坂陶石(能美)などが使用されています。 また、九谷陶石は、蛍光X線分析より、ケイ素(77%)、アルミニウム(14%)、カリウム(8.5%)、鉄(0.1%)などが検出されました。

 このように、九谷焼に使われる土の原石は、流紋岩の風化物で、主成分は二酸化ケイ素(約74%)、酸化アルミニウム(約17%)ですが、鉄の含有量が比較的に高いので、やや青味がかり、白い素地ができず、この悪い素地をカバーするために、九谷焼の基本であり命までと言われる上絵が発達しました。

 大聖寺藩の初代藩主、前田利治(としはる)、1618年(元和4年)~1660年(万治3年)の命により、後藤才次郎(同名4名在、うち定次)が、有田(肥前、佐賀)の陶業技術修得に遣わされ、1655年(明暦元年)頃、九谷の地に窯を築き、田村権左右衛門(たむらごんざえもん)、?~1683年(天和3年)を指導し、古九谷の生産が始められたと言われています。その築窯、焼成のため、多数の工人が有田から招かれ、九州に伝わる明(中国)の技術が導入されたと考えられています。

 古九谷は、学問的には、有田(別名、伊万里)の移入説と九谷焼独自の開窯説が長い間対立していました。1970年(昭和45年)以降の発掘調査で、1655年(明暦元年)の銘の入った白磁の大皿や、古九谷の特徴とされる朱と藍の二彩の絵付皿が発見され、九谷で実際に焼かれたことが確かめられ、これより少し前の1650年(慶安3年)頃に開窯されたと考えられています。

 1690年(元禄3年)頃、古九谷は突如として姿を消しますが、その廃窯の事情を語る文献資料は全く伝わっていないという。その原因は謎ですが、大聖寺藩の御用窯であったが、藩の財政の悪化により廃止、大量生産の安価な伊万里の色絵磁器が入ってきたことなど、種々の要因が重なったと考えられています。

 江戸時代後期、九谷焼の復興を目的とした再興九谷の最初の春日山窯(金沢)、加賀藩営で量産に成功した若杉窯(小松)、古九谷についで声価の高い吉田屋窯(大聖寺)、赤絵細描で独特の趣を持つ宮本屋窯(大聖寺)、京風の優美な金襴手(きんらんで)の永楽窯(大聖寺)、洋絵具を加味して華やかな新しい画風を始めた九谷庄三(くたにしょうざ、寺井、能美)など、特色ある上絵付の作風を持つ窯が次々と生まれています。

 1806年(文化3年)、絵師、陶工として名高い京都の青木木米(あおきもくべい、春日山窯)、1767年(明和4年)~1833年(天保4年)が、九谷再興のため加賀藩に招かれ、約2年間指導、現在、卯辰山(山の上町、金沢)の地に春日山窯跡の碑が立っています。

 1823年(文政6年)、大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門(よしだやでんえもん、吉田屋窯)、1752年(宝暦2年)~1827年(文政10年)72才が、120年ぶりに古九谷青手の技法を再興、1826年(文政9年)、飯田屋八郎右衛門(いいだやはちろうえもん、宮本屋窯)、1818年(文政元年)~1852年(嘉永5年)らが赤絵、金襴手(きんらんで)の技法を開発しました。

 1835年(天保6年)、斉田道開(さいだどうかい)、1796年(寛政8年)~?が、佐野窯を築いた後、名工、九谷庄三(くたにしょうざ)、1816年(文化13年)~1883年(明治16年)が、彩色金襴手(きんらんで)の画風を大成し、明治時代の九谷焼を風靡(ふうび)しました。明治の半ば頃、九谷焼は日本の輸出陶磁器の首位に立ち、ジャパンクタニの名で世界に知られました。各時代の上絵付の作風は、明治以降の今日までの九谷焼上絵付に強い影響を与えています。

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色絵金彩花鳥紋大香炉九谷庄三晩年の代表作、 石川県立美術館蔵、古九谷、吉田屋窯、赤絵、金襴などの手法を含む絢爛豪華な「彩色金襴手」の技法(色絵に金箔、金粉であらわした文様を焼き付けたもの)を確立し、洋絵具を使い、顔料釉薬では出せなかった中間色も表現し、作風を広げました。 google画像)

 石川県では、1976年(昭和51年)に九谷焼を石川県の無形文化財に指定、九谷焼技術保存会を組織して、その技術の保存と後継者の育成に当たり、九谷焼の伝統を守っています。石川県九谷焼美術館(大聖寺、加賀)、能美市九谷焼資料館(寺井、能美)には、九谷焼の代表的作品と作業工程などが展示されています。

(参考文献) 小百科事典、平凡社(1973); 嶋崎丞: カラーブックス、日本の陶磁18,九谷(1979); 新村出編: 広辞苑、第四版、岩波書店(1991); 中西孝、日吉芳朗、本浄高治: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品(九谷焼)、化学と教育、日本化学会(1991); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993)); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、三宅幹夫、九谷焼、鈴木健之、後藤才次郎、古九谷の創始者、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 小松市立博物館(編集、発行): 小松市立博物館 総合案内(2000).

(参考資料) 古九谷焼(大聖寺、加賀、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A4%E4%B9%9D%E8%B0%B7&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 古九谷焼(石川県立美術館、google画像): http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/syozou/keyword/search.php?page=1; 古九谷焼(小松市立博物館、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A4%E4%B9%9D%E8%B0%B7%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 古九谷焼(出光美術館コレクション、 google画像): http://www.kutani-mus.jp/idemitu.html;

九谷焼(九谷庄三 作品、google画像より): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%B9%9D%E8%B0%B7%E5%BA%84%E4%B8%89%E3%80%80%E4%BD%9C%E5%93%81&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

石川県九谷焼美術館(大聖寺、加賀、石川): http://www.kutani-mus.jp/

能美市九谷焼資料館(泉台、寺井、能美、石川); http://www.kutaniyaki.or.jp/; 

九谷陶芸村(泉台、寺井、能美、石川): http://www.hitwave.or.jp/kutani/index2.htm

金沢卯辰山工芸工房(卯辰山、金沢、石川):http://www.utatsu-craft.gr.jp/

九谷焼(加賀、能美、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%B9%9D%E8%B0%B7%E7%84%BC&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

有田焼(有田、佐賀、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9C%89%E7%94%B0%E7%84%BC&um=1&ie=UTF-8&ei=DDsaS-qFI8uLkAWd34XOAw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CDIQsAQwAw

姫谷焼(姫谷、福山、広島、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%A7%AB%E8%B0%B7%E7%84%BC&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

人間国宝ギャラリー陶芸ほか、日本工芸会): http://www.nihon-kogeikai.com/KOKUHO.html.

(追加説明) ○ 九谷村(九谷、山中、江沼、大聖寺)は、かって山田光教寺(浄土真宗、現在廃寺、加賀)の蓮聖(本願寺8世蓮如の4男)が九谷坊を開き、また、江戸の頃は大聖寺藩の流刑地であり、重罪人を鉱夫に使った九谷金山がありました。

○ 九谷焼陶土は流紋岩の風化物で、主成分はケイ素(約74%)、酸化アルミニウム(約17%)です。しかし、陶土の鉄の含有量が比較的高く、白い素地ができないので、それを覆い隠すため、上絵が発達しました。

 九谷焼製造は、陶石を粉砕、水簸(すいひ)、水分除去の工程を順次加えて陶土とします。生乾きの段階で仕上げ削りをし、完全に乾燥し、約700℃で素焼きします。素焼きの上に呉須(ごす、鉄、マンガン、ニッケルを含むコバルト塩の顔料)で模様の骨描きをし、釉薬(ゆうやく、長石、石灰石、滑石などを混合粉砕して泥漿水(でいしょうすい)にしたもの)をかけ、1300~1380℃で本窯焼成します。これに上絵を施し、上絵窯(錦窯)で焼成します。

 九谷焼は、江戸の慶長から寛永の頃、中国から伝わった登窯(のぼりがま)でした。山の斜面に角型の煙突のように築きます。内部は何室かに区切られていて、下からまず第一室を焼き、順次一室ずつ上へ炊きあげます。第二室からは側面の小さな焚口から薪を投げ込みます。燃料は炎が高く上がる赤松が最も効率が良いとされています。1877年(明治10年)頃、ヨーロッパの窯が導入されましたが、燃料も石炭、重油、プロパンガス、そして今日主流の電気窯へと変わってきました。

○ 九谷焼は、石川県の金沢、小松、能美、加賀(九谷、江沼、大聖寺)地域で作られた焼きものですが、その名称については、元禄の頃は大聖寺焼(だいしょうじやき、ほか大聖寺染付、大聖寺伊万里)、一般に広く九谷焼と呼ばれるようになったのは、江戸後期の1803年(享和3年)以降からと言われています。また、創始期の九谷焼を、再興時代に入ってからの九谷焼と区別する意味で、江戸末期の1840年代より、古九谷と呼称するようになりました。また、九谷焼は、大別すると古九谷、再興九谷、明治九谷、現代九谷の4つの時代に分けられると言われています。

○ 九谷五彩(上絵具)の色素と融剤は、白玉(無色硝石の一種)、唐の土(炭酸鉛)、珪石(二酸化珪素)のほか、次のような色素ですが、調合は陶画工の秘伝ともなっています。色素として、赤には紅柄(酸化鉄)、アンチモニ、緑には酸化銅、紺青には酸化コバルト、黄には紅柄(酸化鉄)、紫には酸化マンガンが使われています。

○ 有田焼(伊万里焼とも)は、佐賀県有田地方産の磁器です。伊万里港から輸出されたので、伊万里焼の名が広まりました。1616年(元和2年)、朝鮮の帰化人、李参平(りさんぺい)が磁器焼成に成功し、寛永(1624~1643年)末期に酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)が赤絵を創始すると共に、その声価は欧州に及びました。製品は、染付、赤絵のほか青磁、染錦など多種多様で、有田は現在も日本有数の生産地です。 

有田焼(柿右衛門、伊万里焼とも、佐賀、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9F%BF%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&um=1&ie=UTF-8&ei=lO4qS9jtGYGgkQXO9uj7CA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CC8QsAQwAw

2009年7月17日 (金)

加賀・能登(石川)の和紙、金箔打ちの雁皮紙(川北)、奉書紙(二俣)、行灯張りや壁掛けの仁行紙(輪島)、とは(2009.7.17)

  古来、日本和紙は、(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の樹皮などを原料とし、伝統的紙漉き(かみすき)手法で作られた紙のことです。中国で発明され、飛鳥時代高句麗(こうくり、朝鮮)の曇徴(どんちょう)によって日本に伝えられた紙漉の手法は、江戸時代には、土佐(とさ、高知)、美濃(みの、岐阜)、越前(えちぜん、福井)、若狭(わかさ、福井)、駿河(するが、静岡)をはじめ全国に普及しました。

 各地特色ある多くの製品として、檀紙(だんし、楮、福井)、奉書(ほうしょ、楮、福井、石川)、土佐和紙・美濃紙(とさわし・みのし、楮、三椏、雁皮)、典具帖紙(てんぐじょうし、楮、岐阜)、杉原紙(すいばらし、楮、兵庫)、鳥の子紙(とりのこし、雁皮、福井)、札紙(さつし、楮、全国各地)、宿紙(しゅくし、漉き直しの中古和紙)などが作られています。

 加賀と能登(石川)に現存する和紙の産地は3ヶ所です。そこでは、雁皮から作られ、金沢の金箔(きんぱく)打ちに使われている雁皮紙(がんぴし、能美郡川北町中島)、楮から作られる奉書紙(ほうしょがみ、金沢市二股町)、杉皮や若竹などから作られる行灯(あんどん)張や壁掛用の仁行紙(にんぎょうし、輪島市三井町仁行)など、特色ある伝統的な和紙が見られます。

 本来の和紙作りは、楮、三椏、雁皮などの樹皮を木灰で煮て繊維を取りだし(蒸煮、漂白、除塵)、その繊維を叩いて細かくほぐし(叩解、こうかい)、トロロアオイ(アオイ科)の根の粘液(ねり)を加え、簡単な漉き具による手漉き、流し漉き(ながしすき)が有名です。また、古来、ねりを使わない溜漉き(ためすき)の手法もあります。

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二俣の紙漉き和紙(奉書紙、金沢) 加賀二股和紙(かがふたまたわし、全国手すき和紙連合会、石川県): http://www.tesukiwashi.jp/p/kagafutamata1.htm

(解説) 和紙主成分は、セルロース(ブドウ糖を単量体とする線状の縮合重合体)と呼ばれる天然の高分子化合物です。昔はカセイソーダを使わず、木灰で植物繊維を煮て取りだしていました。トロロアオイの根の粘液(ラムノースとガラクチュロン酸を主成分とする長い鎖状の複合多糖類)を利用した流漉きが我が国の独自の紙すき手法です。

 加賀雁皮紙は、江戸時代から能美郡那谷寺付近の丘陵地に自生する雁皮を原料として作られていました。金箔打ち紙は、まず雁皮紙を機械で打ち、わら灰の灰汁や渋柿(主成分はシブオール、フェノール性化合物)、卵白などの混合液に浸けて乾燥させます。さらに機械で打つ工程を繰り返し、表面を滑らかにして仕上げます。一万分の1mmと非常に薄く延びる金箔を扱うため、その表面を滑らかにする必要があります。

 二股の和紙作りは、奈良時代の719年(養老3年)の頃からで、医王山の周辺で自生する楮を原料とし、繊維が水中で均一になる冬の寒い時に行われていました。最初は写経や布教用に使われていたようです。1593年(文禄元年)、前田利家から加賀藩御料紙漉きの指定を受け、加賀奉書紙を作るようになりました。 

 能登の仁行紙は、能登半島で生まれた野趣溢れる紙で、山野の草花、クマザサ、杉皮、海草などを原料として漉き込んだ和紙です。 能登仁行和紙(You Tube): http://www.youtube.com/watch?v=MqyQOdMi5_Q

 明治になり、洋紙(原料、木材パルプ)の製造が導入されると、和紙は次第に衰退して行きました。今日の和紙の多くは、洋紙の影響を受け、その製法が近代化され、その特色が失われがちなので、昔の手法の良さが見直されてきています。

(参考文献) 平凡社小百科事典編集部編: 小百科事典、平凡社(1973); 町田誠之: 紙の科学、講談社(1981); 石川県高等学校野外調査研究会編: 加賀・能登の伝統産業、能登印刷出版部(1994); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、板垣英治、柿のしぶと金箔、雁皮紙、裳華房(1997).  

(参考資料) 全国手すき和紙連合会ホームページ: http://www.tesukiwashi.jp/index.htm

(追加説明) ○ 2014年(平成26年)11月26日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、日本政府が無形文化遺産に提案していた「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」について、登録決定しました。

 今回は「細川(ほそかわ)」{埼玉県小川町、東秩父村)と「本美濃紙(ほんみのし)」(岐阜県美濃市)を、既に登録済みの「石州半紙(せきしゅうはんし)」(島根県浜田市)と一括登録し直し「和紙」としました。

 これらは、いずれも原料にクワ科の落葉低木の(こうぞ)を用いるなど、8世紀以来の伝統工芸技術です。(北陸中日新聞: 和紙 無形文化遺産に ユネスコが登録決定、2014年(平成26年)11月27日(木)夕刊)

2009年6月 9日 (火)

加賀(金沢)の名菓の長生殿と主な原料の阿波(徳島)の和三盆にまつわる歴史伝承、砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史、とは(2009.6.9)

 古来、人は、長生殿(ちょうせいでん)(石川、金沢、森八)、越乃雪(こしのゆき)(新潟、長岡、大和屋)、山川(やまかわ)(島根、松江、風流堂)を日本三名菓と呼んでいます。

 日本三名菓として、山川の代わりに鶏卵素麺(けいらんそうめん)(福岡、博多、松屋菓子舗、ポルトガル伝来の南蛮菓子、氷砂糖含む)、また越乃雪の代わりに木守(きもり)(香川、高松、三友堂、讃岐特産の和三盆含む)を挙げる人もいます。

 いずれの和菓子もサトウキビから得られた、無機質を豊富に富み、口にふくむと舌にとろけるような甘味、風味と香気を持つ阿波の和三盆(わさんぼん)(阿波和三盆糖、徳島)を主な原料とし、もち米や飴(あめ)などを混ぜて作った落雁(らくがん)と呼ばれ、渋みのある抹茶(まっちゃ)とよくあう高級な和菓子です。

 和三盆は、阿波の玄関口、撫養港(むやこう)(真向かいは土佐泊港、岡崎、鳴門)から北前船(弁財船、帆船)により、大阪経由の西回りで、各地のお菓子の産地に運ばれていました。人的交流も盛んとなり、撫養(鳴門)から嫁をもらった橋立(加賀)の北前船主の家では、阿波さまは黒砂糖を料理に多く使うので、村人が驚いたとのことです。

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長生殿森八、商品のご案内より、金沢) 森八(ホームページ、金沢): http://www.morihachi.co.jp/

(解説) 森八(もりはち)(金沢市尾張町、1625年(寛永2年)創業、江戸初期!)の長生殿は、阿波三盆糖(1790年(寛政2年)ころ、江戸中期製法確立! 初めは唐三盆使用か?)を主な原料とし、加賀もち米(一部に小麦粉、飴?)などを混ぜ、型に入れ干して作るもので、茶道では高級な落雁と呼ばれる和菓子です。

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前田利常第3代加賀藩主、肖像画、那谷寺 所蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8

 加賀百万石三代藩主 前田利常(1593~1658)の創意により、唐墨に似た長方形に作り上げ、茶道遠州流の始祖、小堀遠州(1579~1647)の長生殿の三字の書が現在の型になっています。 

小堀遠州(大名、茶人、造園家)にまつわる歴史秘話、加賀3代藩主前田利常にあてた書状の発見、長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3字の筆跡、頼久寺(高梁市、岡山)の庭園、砂糖の道、とは(2011.3.14): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/166.html

長生殿(金沢和菓子の素材製法、いいね金沢、金沢市ホームページ): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/dentou/bunka/wagashi/index7.html

 また、長生殿は、山形から取り寄せた本紅で彩りを添え、伝統的な味と気品をかたくなに守っています。本紅は、エジプト原産のキク科の越年草である紅花(べにばな)から取り出します。その色素はカルタミンと呼ばれる天然の有機化合物(配糖体)です。

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阿波和三盆糖 岡田製糖所(引野、上板、徳島): http://www.wasanbon.co.jp/wasanbon

(解説) 和三盆は、サトウキビを絞り(汁液中の糖度は15~20%)、煮詰めて得られた褐色の糖(あくぬき、石灰で中和、不純物抜き、結晶化、白下糖)を麻布でくるみ、重しをかけ(酒屋の糟絞りの流用、押し槽)、さらにお盆の上で少量の水をかけながら手で押し、十分に練り回し、麻布にくるんで絞る(水による糖蜜と色素の抽出除去、研ぎ槽)と得られます。かってはこの作業が3回だったことから三盆糖の名が生まれました。

 和三盆の有機質には、フラクトオリゴ糖含量が多く、また無機質として、鉄、カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、リンなど12成分が確認されています。

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サトウキビ畑(引野、上板町、徳島) 上板町(ホームページ、徳島):http://www.townkamiita.jp/bunya/kanko-bunka/上板町(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%BF%E7%94%BA

(解説) 私の郷里、阿讃山麓の上板町(旧松島村)引野(ひきの、徳島)の丸山徳弥(まるやまとくや、山伏(玉泉)、修験者、熊野庄、俗称和田徳弥)が1776年(安永5年)に日向(宮崎県)の延岡からサトウキビをこっそり持ち帰り試植したのが和三盆の始まりで、製糖については、江戸中期、1793年(寛政5年)頃に粗糖(白下糖)、1798年(寛政10年)頃に三盆糖の製法を確立したと言われています。

 近年、阿波三盆糖は、黒糖系(糖蜜多く無定形)の日向産の砂糖とは異なるので、阿讃山脈を越えた讃岐(香川)のサトウキビの品種と讃岐三盆糖の製法が伝わったと考える方が史実に近いことが指摘されています。

和三盆(わさんぼん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86.

 阿讃山麓の阿波(上板、土成など)、讃岐(三本松、白鳥、津田など)が甘蔗の適地として、またその適種についても薩摩(鹿児島)からのお遍路さんで、阿波の丸山徳弥はある修行僧、讃岐の向山周慶は関良介という薩摩人で四国遍路の途中急病になり助けてあげた人らより教えられ、入手したとも言われています。

 阿波と讃岐の三盆糖、その原料の白下糖(糖蜜少なく結晶化)の作り方も、非常によく似ています。讃岐和三盆創案(糖蜜と色素の除去操作で、押し船は酒の糟絞りの工夫、研ぎ船は手水で米を研ぐ要領)は、第5代高松藩主松平頼恭(まつだいらよりたか、1711~1771)の命による、池田玄丈、平賀源内、向山周慶(さきやましゅうけい)の調査、研究の継承により、第8代藩主松平頼儀(1775~1829)の時、1790年(寛政2年)頃、1803年(享和3年)?、阿波和三盆より早く製法を完成と言われています。松平頼恭(1711~1771、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E6%81%AD. 

その頃、阿波の徳島藩は、第11代藩主 蜂須賀治昭(1758~1814)の時代となっています。

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蜂須賀治昭(1758~1814、第11代徳島藩主、阿波、徳島)

  江戸の中期(1800年代)の頃は、阿波と讃岐は、四国遍路や借耕牛(かりこうし、讃岐の呼び名)、米取り牛(こめとりうし、阿波の呼び名)、砂糖締牛(さとうしめうし、讃岐、阿波の呼び名)の利用など、また婚姻関係(讃岐男に阿波女! とか)も多く、阿讃山脈の近くの街道、峠を通じての交流、往来が盛んに行われていました。  阿波街道詳説(三水会、琴平、香川):http://space.geocities.jp/mt9882axel/awakaidou.html

 現在も、徳島、香川では、和三盆の原料として、1600年(慶長5年)頃に中国から初めて琉球(奄美大島、沖縄)に導入されたシネンセ種(中国細茎種)、竹糖が用いられています。

  この間、1869年(明治2年)に沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的に多く、株の再生も中庸です。黒糖原料としての美味しさと栄養性、機能性を兼ね備え、フラクトオリゴ糖含量が多いなどの長所を持っています。今も、香川、徳島では和三盆の原料として用いられています。

 また、幕末の頃の全国の砂糖(糖蜜多い黒砂糖、粗糖の白下糖、再製糖の三盆糖など含む)の生産量は、讃岐は6割、次いで阿波は2割ほど占め、量の讃岐、質の阿波! と言われました。

 阿波の砂糖は主に城下市中の問屋を通じて、撫養から大阪の砂糖問屋へ送り出されています。明治以後は、外国産砂糖の輸入に押されて衰退しましたが、今も和三盆だけは昔ながらの製法の伝統が頑なに守られ、高級和菓子の原料として用いられています。

 (参考文献) 伊藤恭子編: 「金沢の旅」、和菓子、日本交通公社出版事業局(1984); 児島光一: 和三盆糖・藍ー歴史と製法の概要-、教育出版センター(1989); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島の歴史散歩、山川出版会(1995); 香川県の歴史散歩編集委員会: 香川の歴史散歩、山川出版社(1996); 牧野隆信: 日本海の商船 北前船とそのふる里、北前船の里資料館、加賀市地域振興事業団(1999); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのちー吉野川辞典ー自然/歴史/文化ー、三好昭一郎、阿波和三盆糖、農文協(.1999); 伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008).

(参考資料) ○ 和三盆(google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=aqZPUs-SN8uXkwWPtYDoBg&ved=0CDwQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

 全国菓子大博覧会(日本の地方博覧会の一つ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E8%8F%93%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A. 

 1994年(平成6年)、第22回全国菓子大博覧会が金沢市の主催で、石川県西部緑地公園・石川県産業展示館で開催されるということで、さっそく足を運び日本全国の和菓子三昧にひたったことを覚えています。私の郷里(鍛冶屋原、上板、徳島)の瀬部製菓も、和三盆を使った和菓子を創作して参加された(?)ような気がします。

○ 阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c430.html

(追加説明) ○ 砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史 

 古道の長崎街道は、長崎から佐賀、小倉へと続き、シュガーロードとも呼ばれている砂糖の道です。安土・桃山、江戸時代の頃、スペイン、ポルトガル、中国などから渡ってきた砂糖や南蛮菓子(コンペイトウなど)が、この街道を通して全国に広まりました。

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徳川吉宗像(徳川記念財団蔵、Google画像) 徳川吉宗(とくがわよしむね、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

 日本においてサトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗(1684~1751)が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。

 これは、外国産(オランダの金平糖(コンペイトウ)、中国の唐三盆など)の長崎での輸入の砂糖が高価だったので、徳川吉宗の奨励策により、この種を日本各地に普及させたという。

 琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。

 明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より) 

○ 日本三大銘菓は高級落雁、干菓子という茶菓子ですが、越乃雪は長岡藩(越後)の第9代藩主・牧野忠精(まきのただきよ、1760~1831)のころ、山川は松江藩(出雲)の第7代藩主・松平治鄕(まつだいらはるさと、1751~1816)のころ、長生殿は加賀藩(金沢)の第3代藩主・前田利常(まえだとしつね、1594~1658)のころ特製の和三盆糖の菓子として藩主に贈られたと伝えられています。

 が、阿波あるいは讃岐の和三盆糖は、江戸中期、1790年(寛政2年)ころにサトウキビからつくられ、北前船により和菓子の産地に届けられていることから、長生殿については、加賀藩(金沢)の第11代藩主・前田治侑(まえだはるなが、1771~1802)のころから和三盆糖が用いられた(それ以前は、長崎を通して中国から輸入した白糖、唐三盆が用いられた?)と推測されます。

 また、銘菓の鶏卵索麺は、1673年(延宝元年)創業の松屋菓子舗、初代松屋利右衛門がポルトガル伝来の南蛮菓子を氷砂糖、卵黄から作り福岡(筑前)第3代藩主、黒田光之(1628~1707)に献上したものです。銘菓の木守は、1872年(明治5年)創業の三友堂、2代目大内松次が讃岐特産の和三盆を使って作った和菓子です。

○ 三盆(さんぼん、三盆白、さんぼんじろ、とも)は、広辞苑によれば、上等の砂糖。白砂糖をさらに精製脱色して純白の結晶形としたもの。和菓子に珍重される。初めは中国から輸入し(唐三盆)、江戸時代、享保(きょうほう、1716~1736)頃からわが国でもつくられました(和三盆)。

 また、小百科事典によれば、三盆白は、白砂糖をさらに精製して作った高級砂糖。江戸中期ごろから四国、讃岐、高松で藩営で、また、阿波、徳島でも作られ、中国からの輸入品を唐三盆というのに対し和三盆と呼ばれた。おもに高級和菓子に使用された。今日では遠心分離機などを使用して精製する。

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