カテゴリー「● 都道府県(地名の由来、沖縄から北海道まで)」の22件の記事

2014年10月13日 (月)

犀川(さいがわ)、名の由来、下流域の佐奇神社(さきじんじゃ、金沢市)近くを流れる事から佐奇川(さきかわ)となり、訛(なま)って犀川(さいがわ)になった、日本各地の同名の犀川、とは(2014.10.13)

 犀川(さいがわ)という名の川は、日本各地に見られます。 石川県犀川(金沢市、本流、2級河川)は、富山県境の東部付近から北西に流れ、金沢市街を通って日本海へ注ぐ川です。

 その由来は、下流域の佐奇神社さきじんじゃ)近くを流れる事から佐奇川さきかわ)となり、訛(なま)って、犀川さいがわ)になったという。

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佐奇神社さきじんじゃ、 佐奇森町、金沢市、石川県、石川県神社庁、Google画像)  http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/search/detail.php?e7a59ee7a4be4944=45

拝殿は、小立野の天徳院にあった第4代藩主、前田光高(1616~1645)の御霊舎を移築したものです。

(解説) 犀川は、一説には佐奇神社名に由来し、江戸時代、最古の書写、加賀国式内等旧社記には、「佐奇神社、式内一座、大野庄鷺森村鎮座祭神息長帯姫神、佐奇川之河端也、河名或為犀川」とあります。 佐奇森(さきもり)の地名は、中古防人(さきもり)が置かれたことに由来しています。

 日本各地犀川として、長野県犀川(1級河川)は、千曲川(ちくまがわ)の支流で、上流部は梓川(あずさがわ)と呼ばれ、松本盆地の明科(あかしな)付近から北東へ流れ、長野市付近で千曲川(ちくまがわ)に注ぐ川です。 その名の由来は、神話における「征川」から「川」の名が起こったという。

 また、京都府(綾部市、1級河川、宮津市、2級河川)、福井県(吉田郡永平寺町、1級河川)、岐阜県(南部地方、1級河川)、秋田県(大館市、1級河川)にも、同名の犀川の名が見られます。

 なお、1級河川は、国土保全上または国民経済上特に重要な水系で、管理している河川です。2級河川は、、比較的流域面積が小さく、公共の利害に重要な関係がある水系で、都道府県管理している河川です。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

(参考資料) ○ 佐奇神社(さきじんじゃ、石川県神社庁): http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/search/detail.php?e7a59ee7a4be4944=45  

 佐奇神社(さきじんじゃ、阜嵐健、加賀国 INDEX): http://www.geocities.jp/engisiki/kaga/bun/kag330306-01.html

○ 犀川(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%80%E5%B7%9D

○ 1級河川と2級河川の違い(水管理・国土保全、国土交通省): http://www.mlit.go.jp/river/basic_info/iken/question/faq_index.html

2013年1月21日 (月)

兵庫(神戸)県名の由来、兵庫の名は、武庫川の武庫に由来する! とは(2013.1.21)

 兵庫(ひょうご)とは、広辞苑によれば、兵器を納めておくくら。武庫(ぶこ、むことも)。へいこ。また、兵庫寮(ひょうごりょう)は、古代、律令時代、兵庫の兵器および儀仗(ぎじょう、太刀、弓など)の出納(すいとう、出し入れの意)、修理、検閲等をつかさどった役所でした。

 兵庫は、近畿地方の北西部の県で、その昔、但馬(たじま)・播磨(はりま)・淡路(あわじ)三国、摂津(せっつ)国の西半分、丹波(たんば)国の一部を管轄(かんかつ)していました。そこで、改めて、兵庫(ひょうご)と県庁所在地の神戸(こうべ)の由来を調べてみました。

○ 兵庫(神戸)県名の由来

 兵庫(ひょうご)のは、中世に見えて来るが、吉田東伍(よしだとうご、1864~1918、歴史地理学者)は、阪神地方の古称、武庫(むこ)に由来するといい、古事記、播磨風土記等により古代から開けたことが知られています。

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武庫川(むこがわ、上流の宝塚市街から大阪平野に向かって流出している、google画像)。 武庫川(ウィキペディア): 、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%B7%9D

(解説) 武庫地方というのは、大阪湾の北岸一帯をの地方を指し、古代の中心は武庫川の河口付近でした。しかし、奈良時代以後、その中心は、むしろ今の兵庫地方で、これを務古(むこ)の水門(すいもん)、武庫(むこ)の(とまり)、大輪田(おおわだ)の(とまり)等と呼びました。

 ということで、武庫地方の中心が武庫川の河口から、今の神戸市兵庫の地に移動したために、そこが武庫の湊(みなと)となり、転じて兵庫の湊(みなと)となった、という。

 神戸(こうべ)のは古く、大輪田(おおわだのとまり)と呼び、畿内の西の要衝(ようしょう)であったため、源平、南北朝などの争乱の地となりました。

 神戸(こうべ)の名については、和名抄諸国郡鄕考によれば、八田部郡生田の近境の鄕名神戸(かんべ)があり、神社に所属してその経済を支えた封戸(ふこ)のことでした。延喜式に生田神部をして造酒させたことがのっており、これは灘酒起こりであって由緒は正しいという。

 江戸時代(1603~1868)、兵庫(県)は姫路藩以下大小19藩、天領(てんりょう)などに分かれていました。1871年(明治4年)、兵庫、姫路、豊岡、名東4県となり、1876年(明治9年)、兵庫県統一されました。

 私は、郷里にマイカー(マツダ、サバンナ、のちファミリア)で帰るとき、1976年(昭和51年)~1982年(昭和57年)まで、平和町(金沢市、石川)ー北陸自動車道(金沢西IC~敦賀IC)ー国道8号(山越え、峠茶屋休息、彦根へ)ー名神高速道路(彦根IC~西宮IC)ー国道43号ー阪神フェリー(青木(おおぎ)、東灘区、兵庫~末広(すえひろ)、南福島、のち沖州地区、徳島)ー県道ー自宅(上板町、板野郡、徳島)のコースで帰省していました。

 1983年(昭和58年)からは、北陸自動車道(金沢西IC~米原JCT)-名神高速道路(米原JCT~西宮IC)ー阪神高速道路(西宮IC~若宮)ー国道2号線(若宮~明石)ー明石フェリー(明石~岩屋)ー淡路島(国道28号線、四国連絡道路、うずしおライン)ー淡路フェリー(阿那賀、淡路~亀浦、鳴門)ー県道ー上板町(板野郡、徳島)のコース(片道約500km)て帰省していました。

 その後、1985年(昭和60年)には、大鳴門橋(淡路島南IC~鳴門北IC、全長1.6km)、また、1998年(平成10年)には、明石海峡大橋(垂水JCT, IC~淡路IC,SA、世界一の吊橋、全長3.9km)が開通、神戸淡路自動車道(垂水JCT, IC~鳴門IC)ー高松自動車道(鳴門IC~板野IC~高松中央 IC)とつながり、まさに夢の架け橋が実現し、高速料金が少し高いのですが、直通で帰省できるようになり、現在に至っています。

 なお、運転免許証は、1975年(昭和50年)4月9日、アリゾナ大学(化学科、H. Freiser 教授、米国)に博士研究員(溶媒抽出、イオン選択性電極関連の研究)として留学中(1975年1月~12月)に取得した国際免許証(帰国後、書き換え手続きで日本でも通用するもの!)でした。 免許試験は、まず交通法規に関するマークシートの筆記試験があり、合格後に実技試験に移り、自動車学校の教官(警察官OB!)よりオートマティック車で1週間の路上教習を受けた後、試験場のまわりを一周し、駐車場に見立てた所定の4本のポール位置に車を入れるというものでした。

 私は、その5年ほど前、1969年(昭和44年)4月から金沢大学理学部(化学科、分析化学研究室、分析化学、環境化学関連の研究)に勤務しはじめ、木羽敏泰教授(金沢大学)及びH. Freiser 教授(アリゾナ大学)のもとに留学された松井正和助教授(のち教授、京都大学)のご推薦もあり留学することができました。

 ということで、それまでの郷里への帰省は、主にJR北陸線(金沢~湖西、京都~大阪)ーJR山陽線(大阪~宇野、岡山)ー宇高連絡航路(宇野~高松)ーJR高徳線(高松~板野、徳島)ー国鉄鍛冶屋原線(板野~鍛冶屋原、1972年(昭和47年)1月廃止、県道へ)-自宅(天神前、引野、上板町、板野郡、徳島)のコースで、まる1日かかり、遠い道のりを実感しました。  

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(第1刷)(1972); 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 兵庫県高等学校教育研究会歴史部会(兵庫県歴史学会)編: 兵庫県の歴史散歩(1版、5刷)、上 下、山川出版(1998).

2012年12月 8日 (土)

沖縄(琉球、那覇)名の由来、那覇は漁場(ナハ)と考えられる! とは(2012.12.8)

   沖縄(おきなわ)は、古書には阿児奈波(オキナワ)、悪鬼納(オキナ)、倭チ拿(ウチナ)と記され、南島志、新井白石(あらいはくせき、1657~1725、江戸中期の儒学者、政治家)著に初めて沖縄の字が出ています。沖縄史略、伊地知貞馨(いじちさだか、1826~1887、明治時代の官僚)著には、邦人洋中をと称す、其地東西に狭く南北に長く洋中にを浮かべたるが如きを以て名づけしならん、とあります。

 その他、諸説がありますが、新屋敷幸繁(しんやしきこうはん、1897~1985、詩人、教育者)は、新講沖縄一千年史において、沖縄語源内港の意とし、沖縄のお岳(ウチナーヌウガン)付近の港の旧名ウチミナ沖縄総名となったものであろう、という新説を提示しました。

 那覇(なは)は、漁場(ナハ)と考えられ、島袋源七(しまぶくろげんしち、1897~1953、民俗学者)は、古くは那覇全体漁場であり、その海岸の周りにはいろいろな漁場(内ナハ、外ナハ、小ナハなど)があり、小那覇、我那覇、与那覇などの地名からも推測されるという。

 琉球(りゅうきゅう)は、隋書(中国)に流求の文字が見え、日本では古く、阿児奈波または南島と呼びました。日本、中国の諸書に、流虬、琉求、流鬼、瑠求、留求、流球、瑠球など種々に記されています。それが今日の流球を指すものか、台湾を指すものか、それとも台湾と流球を含めて呼んだものか、諸説があって一定しないという。流球名義については、朱寛(生没未詳、中国特使)が、島影を発見し、虬竜(キュウリュウ)の水中に浮かべるが如くであったので流虬(リュウキュウ)と名づけたとの説があるが信じがたいという。

 私は、2004年(平成16年)5月17日、はじめて、ANA小松ー那覇の航路で沖縄(那覇)を訪れ、沖縄観光バスを利用して、家内(タカコ、尊子)と二人で、首里城、ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館、万座毛、沖縄美ら海水族館など沖縄中北部の思い出深い観光をしたことがあります。が、途中、バスの中から見た米軍駐留基地には何とも言えぬ思いがしました。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

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守礼門(しゅれいもん、首里城の外門の一つ、琉球、沖縄) 首里城(しゅりじょう、国営沖縄記念公園、那覇、沖縄): http://oki-park.jp/shurijo-park/

(解説) 流球(りゅうきゅう)は、15世紀以降、日本と中国に両属の形をとり、1609年(慶長14年)、島津氏が侵攻して王城の首里を征服し、明治維新後、1872年(明治5年)、流球藩を置き、1879年(明治12年)、沖縄県となりました。

○ 日本政府は2017年(平成29年)5月12日、尖閣諸島に1819年、琉球王族が船で上陸していたことを示す資料を内閣官房のホームページで公表しました。これまでは1845年の英国人の上陸を記した記録が最古とされてきたが、さらに26年さかのぼることになります。日本の領有権の正当性を示す新たな根拠として国内外に発信する!(朝日新聞、2017年(平成29年)5月13日(土)より)

2012年12月 7日 (金)

北海道(蝦夷、札幌)名の由来、札幌はアイヌ語のサッポロ、乾燥広大の意! とは(2012.12.7)

   北海道(ほっかいどう)は、古くは蝦夷(えぞ)、また北州、十州島とも呼ばれた地で、原住民アイヌ人です。鎌倉時代(1192~1338)以降、次第に日本人が移住し、江戸時代(1603~1868)、水産業を通じてアイヌと接触、1604年(慶長9年)、松前藩(まつまえはん)の領有地となりました。

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北海道庁(赤レンガ庁舎、開拓使から北海道庁札幌、北海道、google画像) 北海道の行政組織(開拓使から北海道庁へ): http://sapporo-jouhoukan.jp/sapporo-siryoukan/lekishibunko/sapporo_histry/meiji/meiji2.html

 18世紀末からロシア、イギリス人などが来航、1869年(明治2年)蝦夷北海道と改め、開拓使を置き、移民を招き、屯田兵により開拓と防衛を兼ねました。そこで、改めて、北海道(蝦夷、札幌)名由来について調べてみました。

○ 北海道(蝦夷、札幌)名の由来

 北海道(ほっかいどう)は、江戸時代(1603~1868)、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていたのが、1869年(明治2年)に現在の名に改められました。蝦夷(えぞ)は、初めエミシまたはエビスと読まれていたのが、平安時代(794~1192)末よりエゾとも呼ばれました。

 北海道命名には、幕末以来の蝦夷地の開拓判官、松浦武四郎(まつうらたけしろう、1818~1888、探検家、博学者)による、総合命名案として、北加伊道、日高見道、海北道などがあり、東海道、南海道、西海道に対応する北海道の名が採用されたと考えられています。また、アイヌ語地名をもとに国名、郡名選定されました。

 札幌(さっぽろ)の名は、永田方正(ながたほうせい、1838~1911、教育者、アイヌ研究者)によると、アイヌ語サッポロ乾燥広大の意、河海の跡が乾燥して広大な陸地になったのを指すという。札幌は豊平川の扇状地面に立地しているので、地形上から見て上記にふさわしいところという。

 私は、1981年(昭和56年)8月、JR、青函連絡船で、一人はじめて北海道を訪れ、観光しながら、長距離バスで北海道を横断、地平線が見える雄大な自然に感動したのを覚えています。また、観光バスのコースは、札幌、北大、大通公園、時計台ー洞爺湖、昭和新山、有珠山、駒ヶ岳ー屈斜路湖、硫黄山、摩周湖、阿寒湖ー網走駅、原生花園、オホーツク海など見学し、思い出深い旅行となりました。

 その後、何度か、小松ー千歳の航空を利用して、一人で、あるいは家内(タカコ、尊子)と北海道を訪れ、函館から根室までの地域の名所をバスあるいはタクシーで観光したことがあります。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

(追加説明) 北方領土については、1855年(安政2年)、日露通好条約で、千島列島は択捉から南は日本、ウルップから北はロシア領となりました。が、1945年(昭和20年)2月、ソ連のスターリン首相は、米国のルーズベルト大統領とのヤルタ協定を基に、同年8月、日ソ中立条約を破って参戦、北方四島を占領しました。1956年(昭和31年)、日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞、色丹2島を引き渡すと明記されています。

2012年12月 5日 (水)

鹿児島(薩摩、大隅)名の由来、鹿が多く生息していた一区域を指したもの、とは(2012.12.5)

   鹿児島(薩摩、大隅)といえば、明治維新での島津藩の尚古集成館、薩長同盟による倒幕運動、砂糖専売のほか、薩摩揚(さつまあげ)、サツマイモ芋焼酎(いもしょうちゅう)、桜島(さくらじま)、菱刈金山(ひしかりきんざん)などが思い浮かびます。そこで、改めて、鹿児島(薩摩、大隅)由来について調べてみました。

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桜島(さくらじま、鹿児島市内より遠望、鹿児島県、google画像 ) 鹿児島県(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C

 鹿児島(薩摩、大隅)名の由来

 鹿児島(かごしま、薩摩、大隅)起源は極めて古く、続日本記(しょくにほんぎ、平安初期の史書)にも見られ、和名抄(わみょうしょう、平安中期の辞書)には薩摩国鹿児島郡として出ています。

 鹿児島名義にについては、薩隈地理纂考によれば、日本書記(にほんしょき、奈良時代、最古の正史)の神代記中の無目籠(まなしかたま)及び天鹿矢(あめのかごや)の名から考えて、鹿児島は、このあたり一帯が彦火火山出見尊の大御猟場で鹿児が多く、鹿をすべてかこと読む例は、万葉集(まんようしゅう、最古の和歌集)にも見られ、は海中に限らず周囲に界隈(かいわい)がある一区域をいったので、鹿が多く生息していた一区域を指したもの、としています。

 薩摩(さつま)名は、諸国名義考(しょこくめいぎこう)によれば、幸浜(さちはま)で、得物(さつ)、また、(さつ)の意味であるとしています。白尾国柱(しらおくにはしら、1762~1821、江戸後期の国学者)の鹿児藩名勝考にも、薩摩幸島であり、神話のいう山幸、海幸の意であり、というのは、周囲に界隈(かいわい)があって一区域をなすところで、であるという。

 大隅(おおすみ)は、もと日向(ひゅうが、宮崎)の一部でしたが、奈良時代の初め、一国として分置されたものです。その名義は、隼人(はやと)の部名であるという説や、もと日向西南隅にあったので大隅郡が生まれ、のち国名となったという説があります。

私は、1980年(昭和55年)10月13日、JRで一人、はじめて鹿児島を訪れ、桜島、島津藩の尚古集成館、城山展望台など、定期観光バスで市内観光をしたことがあります。特に尚古集成館では、薩英戦争から倒幕運動へ、明治維新の原動力、島津藩が推し進めた殖産興業、富国強兵の姿を見る思いがしました。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月30日 (金)

三重(伊勢、津)名の由来、伊勢は五十瀬なり、五十鈴川より出づる名なり、とは(2012.11.30)

   三重(伊勢、津)といえば、伊勢神宮(皇祖神と五穀の神を祀る)、伊賀者(伊賀衆、忍者)、英虞湾(あごわん、真珠イカダ)、御木本幸吉(みきもとこうきち、1854~1954、養殖真珠の創始者)、鳥羽水族館などが思い浮かびます。そこで、改めて、三重(伊勢)名由来について調べてみました。

○ 三重(伊勢、津)名の由来

 三重(みえ、伊勢、津)の名は、もとの三重郡三重村(のち四日市市)が三重名称起源とされています。古事記に、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、三重に至った時、わが足は三重の勾(みえのまがり)のごとくして、いと疲れたり、といわれたのでその三重と名づけた、とあります。

 この話はいわゆる地名起源説話ですが、地名には道の曲がりにもとづく七曲(ななまがり)とか、九十九折(つずらおり)などがあるので、それと同型の地名ではないかという。

 (つ)については、昔、安濃津(あのつ)といったが、安濃されてだけになったのである。というのは、港の意味である。明人(中国)は日本の三津として、博多の津、坊の津、安濃津をあげたほど賑わった港であった。

 安濃名義については、吉田東伍は、明(中国)の武備志洞津と記されているように、もとここの港湾が洞穴(あな)の状にたとえられたことに由来する、と推論された。

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五十鈴川と御手洗場(いすずがわとみたらし、伊勢神宮皇大神宮(内宮)、伊勢市、三重県、google画像) 伊勢神宮(ホームページ、皇大神宮(内宮)、伊勢市、三重県): http://www.isejingu.or.jp/naiku/naiku.htm

(解説) 伊勢(いせ)の名義については、釈日本記および仙覚律師(せんがくりっし、1203~ ?、鎌倉時代初期の天台宗の僧、万葉学者)の万葉集註釈の引く伊勢風土記に、初代天皇、神武天皇(じんむてんのう、生没未詳)が天日別命(あまひわけのみこと)をして、この国の伊勢津彦(いせつひこのみこと)を征服された時、はよろしく国つ神をとって伊勢名づけよといわれたとある。

 日本書記通証によれば、山崎闇斎(やまざきあんさい、1619~1682、江戸時代前期の儒学者、神道家)は、伊勢五十瀬なり、五十鈴川(いすずがわ)より出づる名なり、と解し、また和訓栞にも、いせ五十瀬なりともいえり、川瀬の多きよりのなるべし、とあるが、これは藤原清輔(ふじわらのきよすけ、平安時代後期の公家、歌人)の奥儀抄を承けているものと見られる。また、瀬々であり、伊勢で、この海に臨んでいるので名づけられたという。

 伊勢神宮(いせじんぐう)は、伊勢市(三重県)にあり、皇大神宮(内宮、祭神、天照大神、皇祖神)と豊受神宮(外宮、祭神、豊受大神、五穀の神)を合わせて神宮という。第40代天武天皇(631?~686)の奈良朝以来、社殿20年ごとに造りかえる式年造替の制を残し、正殿の様式は唯一神明造(ゆいつしんめいづくり)と呼ばれています。

 私は、京都大学の近く、銀閣寺手前の下別当町(北白川、左京区、京都)で、経済学部の学生、下出敏幸君(三重県出身)と二人で、大工さんの村井良治宅(2階)で下宿していました。1969年(昭和44年)3月、下出君のご家族のお招きで三重県久居警察署、嬉野町豊田警察官駐在所におじゃまし、はじめて伊勢神宮を参拝、また真珠王と呼ばれた御木本幸吉の記念館を訪ねたことを懐かしく思い出します。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月28日 (水)

滋賀(近江)名の由来、淡水湖の琵琶湖を指す淡海が近江となる、とは(2012.11.28)

   滋賀(しが、近江)と言えば、 琵琶湖(小鮎、琵琶湖周航の歌、琵琶湖大橋)、瀬田川(瀬田川洗堰、瀬田の唐橋)、志賀の都(天智天皇、大津宮)、甲賀者(甲賀衆とも、忍者)、信楽焼(陶器)、穴太(穴生とも、石垣職人)、石山寺(真言宗、松尾芭蕉, 1644-1694、俳人、紫式部、生没年未詳、女房)、近江商人(三方よし)、最澄(767-822, 天台宗の開祖)、井伊直弼(1815-1860, 桜田門外の変)などが思い浮かびます。 

琵琶湖周航の歌(ホームページ、新旭町、高島市、滋賀県): http://www.city.takashima.shiga.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1134976319645&SiteID=0

 そこで、改めて、滋賀(近江)名由来について調べてみました。

○ 滋賀(近江)名の由来

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琵琶湖(びわこ、衛星写真、滋賀県、google画像)  琵琶湖(びわこ、滋賀県、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96

(解説) 近江(おうみ)については、神楽歌入文に、浅井家記録に、近江の国の風土記を引きていわく、淡海(あふみ)のは、淡海(あわうみ)をもって(な)となす、とあります。この説は一般に行われているもので、ここにいう淡海は、淡水の大湖(おおうみ)、琵琶湖を指し、琵琶湖より国名がつけられたという。

 近江は、和名抄の訓読みが知加津阿不三(ちかつあふみ)で、近淡海(ちかつあふみ)を二字としたものと解釈できます。近淡海は、遠淡海(遠江、浜名湖)に対しての語であって、都より距離が近いためです。

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大津宮跡(近江大津宮錦織遺跡、大津市、滋賀、google画像) 大津宮跡近江大津宮錦織遺跡、滋賀県観光情報、大津市、滋賀): http://www.biwako-visitors.jp/search/spot_around_971.html. 近江大津宮(天智天皇): http://www.bell.jp/pancho/travel/jinsin-no-ran/section01.htm#contents; 歴史探訪ブース(ホームページ、Don Pancho): http://www.bell.jp/pancho/.

(解説) 滋賀(しが)については、古書、和名抄に訓読みが同じ志賀(しが)のほか、斯我、志我、志何、思我、思賀などと書かれています。 県名については、大津以北の琵琶湖岸の地域が滋賀郡でそのをとったものという。

 寒川辰清(さむかわたつきよ、1697~1739、江戸中期の儒者、国学者)近江国輿地史略(おうみのくによちしりゃく)によると、飛鳥時代、第38代天智天皇(626~671の時、まず大津付近志賀都(大津宮とも)があって、のち志賀郡(滋賀郡とも?)と名づけられたいう。

 志賀(しが)の名義については、詳かでなく、大きな崖上、氷・樹氷・霧氷・霧の意、干拓・砂州の意などの諸説があるので、比叡山東側の断層崖下、琵琶湖岸の扇状地式三角州と関係のある語かも知れない。

 私は、琵琶湖の近くの高島(岡、新旭、滋賀)の親戚(叔父の川原林宅)に、1960年(昭和35年)頃、父親と一緒におじゃましたことがあります。家の近くの琵琶湖に注ぐ小さな川(水路)の河底が真っ黒になるほど、小鮎(コアユ)が遡上しているのを見たことがあります。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

2012年11月24日 (土)

和歌山(紀伊)名の由来、築城地名(吹上峯、虎伏山、岡山、若山)から雅名の城名(和歌山)に改称、とは(2012.11.24)

   和歌山(わかやま、紀伊)といえば、和歌山城、高野山金剛峯寺(真言宗総本山)、白浜温泉、那智の滝、紀国屋文左衛門(?-1734、江戸中期の豪商)、徳川吉宗(1684~1751、紀州藩主、のち徳川第8代将軍)、南方熊楠(1867~1941、民俗学者、博物学者)、松下幸之助(1894~1989、実業家、パナソニック創業者)などが思い浮かびます。 そこで、改めて、和歌山(紀州)由来和歌山城などを調べてみました。

○ 和歌山(紀伊)名の由来

 紀伊(きい)の、木であって、韻事(いんじ)をそえて好字二字としたものだという。紀伊は、古来、森林繁茂の地として有名であったことは、日本書紀神話でも伝えられています。また、古語拾遺に、神武天皇橿原(かしはら)造営する時、天富命(あまのとみのみこと)をして手置帆負(ておきほをひ)・彦狭知(ひこさしり)の二神の孫をひきい、はじめて山の材を切って正殿造らせました。それで、その子孫は、紀伊国名草郡の御木(みき)、麁香(あらか)の鄕に住む、と記されています。

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和歌山城(わかやまじょう、御橋廊下(おはしろうか)、和歌山市観光協会、和歌山、google画像) 和歌山城(、和歌山市観光協会、和歌山): http://www.wakayamakanko.com/seeing/history1.html

(解説) 和歌山については、1585年(天正13年)、豊臣秀吉(1536~1598)が、紀ノ川の三角州の南側、海岸砂丘の北端、結晶片岩の突出する吹上峯岡山伏虎山とも)に和歌山城を築城して弟の豊臣秀長(1540~1591)に与えたのが、城下町和歌山のはじまりです。それ以前は、この地に、岡・吹上、鷺森(さぎもり)・和歌などの諸村があったといわれています。

 和歌山地名起源は、紀伊続風土記(紀伊藩纂集)には、和歌山ではなく、若山となっています。これは、従来の名の岡山(オカヤマ、ワカヤマと訓読みが似ている!)を、和歌の浦弱の浜、若の浦とも)のワカをとって、ワカ山と改めた(若山と書いた!)のであろうという。のち雅名和歌山と書くようになり、若山和歌山とが混用され、江戸元禄年中は、公的には若山の文字に統一され、明治になってから和歌山に改められたという。

 私は、1964年(昭和39年)8月、JR列車に乗り、1泊2日、はじめて、京都大学瀬戸臨海実験所(和歌山県西牟婁郡白浜町)を訪れたことがあります。 京都大学瀬戸臨海実験所(ホームページ、白浜、和歌山): http://www.seto.kyoto-u.ac.jp/. 

 その時、藤永太一郎教授(1919~2013)の手ほどきを受けながら、硝酸銀による沈殿滴定法により、海水中の塩分濃度を調べました。恩師藤永太一郎先生を悼む(PDF、日本分析化学会):http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2014/201411tuitou.pdf

 また、時岡 隆助教授(1913~2001)のお話を聞きながら、海水中のプランクトンの何とも言えない奇妙な姿を光学顕微鏡で観察するなど、海洋化学と生物の臨海実習をしたのを覚えています。時岡隆: http://www.wikiwand.com/ja/%E6%99%82%E5%B2%A1%E9%9A%86

近くには露天の温泉があり、湯煙が立ち上がり、そこで売りに出されていた珍しい温泉卵を食べたことがあります。

 その後、金沢から何度かマイカーで白浜を訪れた時、家内(タカコ、尊子)の妹(アッチャン、あつ子)さん勤務のシーモアホテルで宿泊させていただき、高野山参りをしたことがあります。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 和歌山県高等学校社会科研究協会)編: 和歌山県の歴史散歩、山川出版社(1996); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月21日 (水)

高知(土佐)名の由来、高知城のある孤立丘陵(大高坂山、河内山、高智山)名から城下町(高智、高知)名へ、とは(2012.11.21)

   高知(こうち、土佐、とさといえば、幕末土佐藩主山内豊信(やまのうちとよしげ、容堂、1827~1872)が、1867年(慶応3年)、大政奉還(たいせいほうかん)という無血革命の推進役を果たし、1869年(明治2年)、版籍奉還(はんせきほうかん)を進んで行ったのが明治維新のときの歴史的な政治行動で、土佐藩は、1871年(明治4年)の廃藩置県(はいはんちけん)によって高知県となりました。

 また、人物として、坂本竜馬(1835-1867)、中岡慎太郎(1838-1867,幕末に薩長連合を成立させる)、紀貫之(?-945,土佐日記)、空海(774-835,室戸御崎の洞窟、仏道修行の御厨人窟)、ジョン万次郎(1827-1898,中浜万次郎とも、土佐漁民出身の幕臣)、、牧野富太郎(1862-1957,植物分類学者)、寺田寅彦(1878-1935,地球物理学者)を思い浮かべます。寅彦語録「天災は忘れたる頃来る」の警句は名言とされるものです。そこで、改めて、高知(土佐)名の由来について調べてみました。

  ○ 高知(土佐)名の由来

  全讃志は、土佐は山が多くて土田が狭いので土佐という、と記し、内山真龍(うちやままたつ、1740~1821、国学者)は、土佐の名は処嶮岨の略言であるとし、この国は通路の山がけわしい岩であるので、古事記に、土佐の国を建依別(たけよりわけ)という、そのは、岳・髙という山の意にるという。

 日本地理志料に、土佐の一の宮と呼ばれる髙賀茂大社の地が、海湾に臨み、東西から山が突出して島が翼(つばさ)を張ったようであるので門狭鄕(とさごう)といい、これが郡名となり、国名となったと説いているのは、かなり、うなずかれる説といえる。

 その他、国名については、風土記にいわく、神の御心の利勝(ときまさ)、古事記伝による言離(ことさく)の略、土佐幽考に、土佐の語は俊聡(とくさとき)など諸説があります。

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高知城(追手門、おうてもん、櫓門、入母屋造、背後に天守閣、高知、google画像) 高知城(こうちじょう、公式ホームページ、高知): http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/kochijou.html. 

(解説) 高知城のある孤立丘陵を、もと大高坂(おおたかさか)と呼んでいましたが、山内一豊(やまのうちかずとよ、1545~1605、初代土佐藩主)が長曽我部元親(ちょうそがべもとちか、1538~1599)のあとをうけて、1603年(慶長8年)、ここに築城したとき、河内(こうち)と名を改めたといわれる。それは鏡川と江の口川との間の川中島にあるからであろう。

 その後、河川がたびたび氾濫したので、1610年(慶長15年)、竹林寺(ちくりんじ、真言宗、31番札所)の僧・空鏡(くうきょう)に地鎮を行わせて、名を高智(こうち)と改めました。それは、竹林寺に安置する文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に因んだものだといわれる。城下町もまた高智(こうち)と呼ばれることになり、さらに高知(こうち)と書くようになった。

 私は、1983年(昭和58年)8月、金沢から郷里(徳島)にマイカー(マツダファミリア1500CCセダン)で帰省していた時、はじめて一人で、マイカーのドライブ旅行で高知を訪れたことがあります。そのコースは、8月18日(木、晴れ)は、引野(自宅)ー板野ー池田ー大歩危峡(徳島)ー龍河洞(高知)ー播磨屋橋ー高知城ー足摺岬(くろしお民宿泊)、翌日19日(金、晴れ)は、足摺岬ー竜串、見残ー大方ー久礼坂ー桂浜ー室戸岬(高知)ー海南町(徳島)ー引野(自宅)、総走行距離 790.3kmの思い出深い長距離ドライブ旅行でした。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); 高知県高等学校教育研究会歴史部会(監修山本 大)編: 高知県の歴史散歩、山川出版社(1992); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999).

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(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月19日 (月)

香川(讃岐、高松)名の由来、さぬきとは小平野の多い狭野の国、水城の高松城(玉藻城とも)、とは(2012.11.19)

  香川(かがわ、讃岐、高松)といえば、金刀比羅宮、屋島源平合戦の古戦場、栗林公園、空海(弘法大師)の生まれ故郷、善通寺、満濃池、サヌカイト(讃岐岩、カンカン石)などを思い浮かべます。私の郷里(徳島)の北方、阿讃山脈(あさんさんみゃく)の峠を越えると香川(讃岐)に入ることができます。そこで、改めて、香川(讃岐、高松)名の由来について調べてみました。

 香川(かがわ)については、奈良時代、郡鄕制であったので、和名抄の中に香河郡香川鄕の地名として出ています。また、地方の神名五十香河彦の一部の香河(かがわ)から出たものと推論された説もあります。中山城山(なかやまじょうざん、1763~1837、江戸後期の儒者)の全讃志に、香川郡、北都の山奥に樺河(かがわ)という里あり、上古古木の樺ありて異香芬々(ふんふん)たり、其樹下より出る水かほりありて大河に落ちて、中央を流れて海に注ぐ郡中馥郁(ふくいく)として匂(にお)ひ渡れり、因って香河(かがわ)といへり、とあり、香川(かがわ)の字と結びつけた説が古くからありました。

○ 香川(讃岐、高松)名の由来

 奈良時代、万葉集に、玉藻(たまも)よし讃岐(さぬき)の国は、国がらか見れども飽(あ)かぬ、と詠われています。

 讃岐(さぬき)名の由来については、古事記伝に、古語拾遺(こごしゅうい)の記事の中に、手置帆負命(たおきほおひのみこと)の孫、矛竿(ほこさを)をつくる、その子孫、今分かれて讃岐に住み、毎年調庸(ちょうよう)の外、八百竿をたてまつる、の文を引き、讃岐の語竿調(さをのつぎ)の、あるいは竿木(さをのき)を約(つづ)めた言葉ではないかという。

 また、福家惣衛(ふけそうえ、1884~1971、大正、昭和期の教育者、郷土史家)は、さぬきとは狭野、小平野の多い地形を示す狭野国であろうという。その他、讃岐の語は、真麦(さむぎ、早麦とも)、狭貫(さぬき)、狭之城(さのき)などに由来する多くの説があります。

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高松城(たかまつじょう、玉藻城とも、旧東の丸の艮櫓(うしとらやぐら、南東、もと城の東北(うしとら)の隅にあったのを現在地に移築、海水を堀に引き入れた水城、高松、香川、google画像) 高松城(たかまつじょう、玉藻公園公式ウェブサイト、高松、香川): http://www.tamamokoen.com/

 高松(たかまつ)の地は、もと八輪島という(す)ので、香東川の堆積による三角州(さんかくす)の一部でした。1588年(天正16年)、生駒親正(いこまちかまさ、1526~1603、江戸初期の武将)がここに高松城玉藻城とも)を築城し、東方の山田郡高松(古高松とも)の嘉名(かめい)をとって名としたと伝えられています。

 和名抄に、山田郡高松鄕(のち高松市)があり、新修高松市史(高松市史編集室編)によると、当時、この地方に高い松の木がそびえ立っていて、朝日夕日に照らされた影の長さが6町(約654m)に及んだという。

 高松という地名は全国に数多く、その命名は、平凡な普通に見られる自然の松の木の景相に由来する場合が多く、たとえば人々の目印(めじるし)になるような松の大木があれば、それが地名になりやすいようです。

 1890年(明治23年)、高松に市制が敷かれ、次第に市域を拡げ、1988年(昭和63年)に瀬戸大橋が開通するまでは、宇高連絡船(岡山県宇野~香川県高松)が本州と四国を結び、高松四国玄関口でした。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); 香川県の歴史散歩編集委員会編: 香川県の歴史散歩、山川出版社(1996); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

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