金沢城は、もと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊の跡地と言われています。特に、兼六園から金沢城址に至る小立野台地は、大量の砂金層を含み、砂金台地と呼ばれていました。戦国期には、流浪の金屋たちが砂金を採掘していました。
現在の犀川と浅野川は、10数万年前には大きな一つの川であって、洪水による川の氾濫が繰り返され、砂金を含む土壌を堆積した後、二つの川が両側を侵食し、小立野台地(砂金台地!)が形成されたことが地質調査で確認されています。
犀川上流には、倉谷鉱山の鉱脈(少量の金と銀を含む黄銅鉱など)があり、砂金は、鉱脈が風化作用を受け、鉱物から分離し、金の粒として残ったものと考えられます。

砂金台地 (兼六、小立野、土清水など)

金城霊沢 加賀藩12代藩主、前田斉広が、江戸後期、1823年(文政6年)、清水が湧き出る泉の周囲に、丸い石の枠と覆屋(おおいや)をつくりました。

1839年(天保10年)、13代藩主、前田斉秦の時、金城霊沢の額が掲げられました。

覆屋(おおいや)の天井絵、龍之図 広田百豊(1876~1955)加賀市出身、日本画家が1936年(昭和11年)に描いたもの、もとは江戸初期、狩野派の絵師、狩野探幽の筆による竜の絵であったが、傷みがひどくなり、広田が描き直しました。


金城霊沢 湧水 兼六園東南端 何かの願いを込めて、多くの一円硬貨が投げ込まれています!
水鉢の端のところで一円玉をそっと浮かべ、手で少し波立たせると、一円玉は沈まず、
水鉢の中央まで動かすことができます。これができると、願いが叶うという!
また、よきご縁を求めたのか、5円硬貨も散見されます!


金城霊沢の石碑 金城霊沢の背後 多くの奇石から鳳凰の形に作った洞窟
(解説) 兼六園には、昔から東南端に、清水が湧き出る泉がありました。この沢水を利用して、小立野台地の砂金層を採掘し、わんかけ法で砂金を採取していました。そこで、この湧き水は、金堀沢、金洗沢と呼ばれ、金沢の名の由来となっています。
加賀藩12代藩主、前田斉広が、江戸後期、1823年(文政6年)、清水が湧き出る泉の周囲に、丸い石の枠と覆屋をつくりました。その後、1839年(天保10年)、13代藩主、前田斉秦の時、金城霊沢の額が掲げられ、今も絶えることなく水鉢の底から清水が湧き出しています。
立札の伝説では、芋掘藤五郎が、山芋の根毛を洗うと、多くの砂金がとれたので、この泉は金洗沢と呼ばれ、金沢の地名の起源となったという。
金沢という地名は、石川のほか、全国各地に約60ヵ所あり、岩手、秋田、山形、福島、茨木、栃木、神奈川、長野では金の産出に関係があります。また、愛知、青森、埼玉、滋賀、静岡、千葉、徳島、鳥取、奈良、新潟、兵庫、北海道にも金沢の名が見られます。
(参考資料)
〇 兼六園の中の名水、、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水、金沢市内の湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2009.6.7):
http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/200967-9e2a.html
〇 金沢の名前の由来(ビューティーホクリク、観光情報マガジン): http://beauty-hokuriku.com/p/kanazawa-origin
(追加説明)
イタリアのローマの観光名所、トレビの泉は、18世紀に建設され、後ろを向いて泉の中にコインを投げ入れると願いがかなうという言い伝えで知られています。