カテゴリー「● 金属鉱山(尾小屋、神岡、足尾、別子、生野、石見、佐渡、菱刈、土呂久)、神社仏閣(池上本門寺、吉田神社)、浄化(ヘビノネゴザ、ホンモンジゴケ、リョウブ、鉄バクテリア、藻類)」の14件の記事

2013年11月 4日 (月)

水俣病(水俣、熊本)、アセトアルデヒド合成触媒の水銀のメチル水銀化中毒、水銀による金の精錬、水銀を微量含む石炭の燃焼など、水銀の環境汚染、水俣条約という名の国際的な水銀規制、とは(2013.11.4)

 水俣病(みなまたびょう)は、1953(昭和28)~1960(昭和35)にかけ水俣市(熊本県)において集団発生した有機水銀中毒です。 2013年(平成25年)1月19日、水俣条約と呼ばれる、水銀による環境汚染や健康被害を防ぐ条約制定にジュネーブでの国連の政府間交渉があり、約140ヵ国が合意しました。

 そこで、改めて、水俣病の発症金の製錬石炭燃焼での水銀放出などの環境汚染について調べて見ました。

○ 有機水銀による水俣病の発症

 水俣病原因は、新日本窒素(現名チッソ水俣工場アセチレンから触媒無機水銀を使ってアセトアルデヒドを合成していた時、これを含んだ工場廃液で海が汚染され、その一部が微生物(バクテリア)によりメチル水銀となり、食物連鎖によりプランクトンから魚介類に濃縮され、それを人が摂取(せっしゅ)して発症しまし

 中毒症状は、聴力・視力障害、言語障害、手足のふるえ、運動失調、神経疾患などを起こし、重傷では死亡しました。 

 1964(昭和39)~1965(昭和40)、阿賀野川(新潟県)の河口付近でも同様の集団有機水銀中毒事件第二水俣病)が発生し、河川上流の昭和電工鹿瀬工場でも同じ方法でアセトアルデヒドを合成していたので、その工場排水が原因とされました。

 なお、アセトアルデヒドは、かっては酢酸のほか、多くの有機工業原料(酢酸エチル、プラスチックの可塑剤の主要な原料など)として重要なものでした。 また、人体ではエタノールの酸化によって生成し、一般に2日酔いの原因と見なされています。

○ 無機水銀による環境汚染

 また、金鉱山の金採掘の際の水銀アマルガムによる金の精錬、これは鉱石に水銀を混ぜて金との合金にした後、バーナーで水銀を蒸発させる金抽出方法ですが、抽出過程で水銀が大気に拡散し、環境汚染を生じます。そのため、現在、インドネシア、ラオス、ベトナム、ブラジル、中国、タンザニアやマリなどアフリカ諸国での金採掘における水銀汚染(大気への放出や下水処理がなく、土壌や川、海を汚染など)が懸念されています。

 古くは、無機水銀は、8世紀の奈良大仏建立の頃から利用され、低温で気化しやすいため、大気を汚染し、呼気を通して脳などの健康被害が考えられます。

 が、このことに関し、大仏全身鍍金(キンメッキ)作業は、金4187両(当時一般に用いられていた1両は40,5g)を水銀に溶かした25134両の金アマルガム(金1に対して水銀5の割合)を用い、5年を要する大事業でした。

 金アマルガムを塗った後、表面は白色ですが、350℃の高温で焼き、ヘラ状のもので磨くと黄金色になります。

 すでに完成が間近の大仏殿の中での作業では、水銀の有毒ガスが発生し、金夫役(きんぶやく)の514902人の中には多くの人が中毒の病気になり、また死亡したと考えられますが、水銀中毒の記録は見られないと言う。 

 現在、金の製錬、また石炭にも微量の水銀が含まれているので、石炭燃焼での水銀放出が大気の環境汚染の発生源として大きな割合を示しています。 

○ 水銀に関する水俣条約

 2013年(平成25年)10月10日、約140の国・地域が参加して熊本県で開かれた国連環境計画(UNEP)の外交会議で、人の健康と環境を守るため、水銀の使用や輸出入を包括的に規制する「水銀に関する水俣条約」が採択され、2016年(平成28年)発効目標としています。

 2013年(平成25年)10月27日(日)、熊本県を訪問中の天皇、皇后両陛下は、水俣市初めて訪れ、水俣病患者たちと懇談しました。患者の多くが差別を恐れて病気を隠してきた実態を聞いた天皇陛下は、「真実に生きることができる社会をみんなで作っていきたいと改めて思いました」と、約1分間にわたって思いを語りました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 北陸中日新聞: 香取忠彦、文化、日本めっき事始め、2006年(平成18年)2月9日(木)朝刊; 渡邉泉: 重金属のはなし、中公新書(2012); 北陸中日新聞: 水銀規制へ「水俣条約」、電池や体温計製造禁止、国連10月採択、2013年(平成25年)1月19日(土)朝刊; 朝日新聞: 水俣条約 多くの課題、人力金精製の水銀、深刻、子どもの脳を守る責任、日本の技術でリード、2013年(平成25年)10月24日(木)朝刊; 朝日朝刊: 両陛下 水俣初訪問、真実に生きる社会を、患者らに異例の発言、2013年(平成25年)10月28日(月)朝刊.

(参考資料) 水俣病

 水俣病資料館(水俣市、熊本県): http://www.minamata195651.jp/ 

○ 無機水銀(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%8A%80

 アセトアルデヒド(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BB%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%92%E3%83%89

○ メチル水銀(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%81%E3%83%AB%E6%B0%B4%E9%8A%80..

 水溶性無機水銀水銀単体、生体内メチルコバラミン(ある種のバクテリアによって産生される酵素)によりメチル化されてメチル水銀を生じるという。

○ 奈良の大仏開眼供養にまつわる歴史実話、東大寺大仏の造立、鍍金、大仏殿の建立、お水取り、とは(2010.2.8): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-d92b.html

2013年11月 1日 (金)

土呂久鉱山(高千穂、宮崎)、鉱石(硫砒鉄鉱)を焼いて亜ヒ酸を製造、慢性砒素中毒を発症、はじめ亜ヒ酸はアメリカ南部の綿花畑の農薬として輸出、綿花は主にイギリスに輸出、とは(2013.11.1)

 土呂久鉱山(とろくこうざん)は、高千穂町宮崎県)にある鉱山です。16世紀中頃から銀・銅・錫(スズ)などを産出し、また、明治中期から亜ヒ酸の鉱石(硫砒鉄鉱)の採掘と製錬が行われていました。

 大正中期から(1920~1941)、アメリカ南部綿花畑にまく殺虫剤として亜ヒ酸の需要が高まり、製造が始められ輸出されていました。それには、アメリカ南部から綿花の輸出先として、イギリス綿花需要がありました。

 イギリス産業革命による綿布綿織物の原料の綿花需要が増え、1800年初頭にはイギリスで消費される綿花の80%をアメリカ南部の綿花栽培が供給し、その労働力を支えたのが黒人奴隷でした。

 昭和終戦後も(1955~1962)、露天で鉱石を焼いて亜ヒ酸を精製し、猛毒のヒ素を含む煙をふりまき、慢性砒素中毒で死者や患者が続出し、環境汚染も著しく、土呂久砒素中毒症公害病として認定されました。

 慢性中毒では、食欲不振、嘔吐(おうと)、下痢、発疹(ほっしん)、角質増殖(爪の成長異常)、色素沈着(皮膚の色素異常)、神経症状をきたし、その治療には酸化マグネシウム(緩下剤) などが投与されました。

 1971年(昭和46年)、地元の小学校教師(岩戸小学校、斎藤正健教諭)が告発し、それまでの50余年間、病死した住民101人のうち、享年のわかる92人は、平均39歳の短命でした。

 1962年(昭和37年)に土呂久鉱山閉山し、1975年(昭和50年)、鉱業権を買った住友金属鉱山に対して裁判が始まり、その15年後に和解しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 渡邉泉: 重金属のはなし、中公新書(2012); 朝日新聞: ひと、土呂久ヒ素公害を研究する米ロードアイランド大教授、ティモシー・S・ジョージさん(58)、2013年(平成25年)10月11日(金)朝刊より).

(参考資料) 土呂久ヒ素公害の歴史

○ 土呂久(トロク)の地名の由来(碇 てんつく、川崎市、神奈川);http://www.geocities.jp/jihyoutei/k050301-1.htm

○ 土呂久公害語り継ぐ宮崎 高千穂町ー(全国各地のニュース、動画、2009年(平成21年)6月11日):http://cgi4.nhk.or.jp/eco-channel/jp/movie/play.cgi?movie=j_miyazaki_20090611_1789. 

○ 土呂久ヒ素公害(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%91%82%E4%B9%85%E7%A0%92%E7%B4%A0%E5%85%AC%E5%AE%B3

 硫砒鉄鉱(りゅうひてっこう、FeAsS、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E7%A0%92%E9%89%84%E9%89%B1

○ 亜ヒ酸(あひさん、As(OH)3ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E3%83%92%E9%85%B8

○ 酸化マグネシウム(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%B8%E5%8C%96%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0

 アメリカ南部の綿花栽培(奴隷制プランテーション)、週刊スモールトーク(第92話): http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-92.htm

(追加説明) 土呂久鉱山は、森田三弥(豊後、大分)が発見し、江戸時代にはを中心に採掘されていました。

 なお、地名の土呂久(トロク、川の小盆地)は、(トロ、川の流れが緩やかな所)の縄文語由来と言われています。

 その後、明治、大正と経営者がかわり、大正年間から副産物である亜ヒ酸の生産が主となり昭和の戦時中には(スズ)の生産も伴って町も繁盛しましたが、1962年(昭和37年)には閉山しました。

宮崎県高等学校社会研究会歴史部会編: 宮崎県の歴史散歩(1版4刷)、p.50、土呂久鉱山跡、山川出版社(2000)より)

2010年10月24日 (日)

日本の金属鉱山下のカドミウム汚染(農用地土壌、健康障害)、尾小屋鉱山(石川)、鉱毒耐性の藻、コケ、シダ(ヘビノネゴザ)の状態分析、尾小屋鉱毒の川に魚を戻そう、北陸地方の金属鉱山、とは(2010.10.24)

  1968年(昭和43年)5月、厚生省(のち厚生労働省)は、神通川流域(富山県)の農村で多発していたイタイイタイ病は、その上流の三井金属鉱業神岡鉱山(岐阜県)から流出したカドミウムが原因であると認めました。そして、カドミウムを含む用水や米、その他の農産物を常時飲食することにより、人体中にカドミウムが長年にわたって蓄積された結果起こる腎臓の慢性中毒症であることが明らかにされました。

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日本のカドミウムの農用地土壌汚染対策(農と環境と医療(北里大学学長室通信)、北里研究所、北里、神奈川、google画像)

(解説) 国がイタイイタイ病の原因をカドミウムと認めたことから、全国の金属鉱山下の河川流域、製錬所地域において、1ppm(ppmは百万分率)以上のカドミウムを含む玄米を生産する水田は、農用地土壌汚染防止法により、土地改良(客土など)の対象とされました。(カドミウムの農用地土壌汚染対策(農と環境と医療、北里大学学長室通信): http://www.kitasato-u.ac.jp/daigaku/noui/newsletter/noui_no47.html.)

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日本のカドミウム汚染地域と地域住民の健康障害(金沢医科大学公衆衛生学教室、内灘、石川、google画像)

(解説) 神通川流域(富山、神岡鉱山下)以外に、梯川流域(石川、尾小屋鉱山下)、市川流域(兵庫、生野銀山下)、小坂町地域(秋田、小坂鉱山下)、安中市地域(群馬、東邦亜鉛対州鉱山下、安中製錬所周辺)、巌原町佐須地域(長崎対馬、東邦亜鉛対州鉱山下、佐須川、椎根川水系域)などの地域において、潜在的な腎臓障害を持つ多くのイタイイタイ病患者が確認されました。(イタイイタイ病(イタイイタイ病の発見、金沢医科大学公衆衛生学教室ホームページ): http://www.kanazawa-med.ac.jp/~pubhealt/itaiitai/itai1.html.)

○ 尾小屋鉱山

 尾小屋鉱山(おごやこうざん)は、石川県小松市、加賀山地にある銅山です。小松の市街地から約13kmの山間、梯川(かけはしがわ)の支流鄕谷川(ごうたにがわ)の上流にある尾小屋町に着き、その裏山が尾小屋鉱山です。

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尾小屋鉱山(おごやこうざん、尾小屋、小松、石川)

(解説) 尾小屋鉱山(おごやこうざん)は、1682年(天和2年)頃に金山として始まり、銅鉱脈は、1678年(延宝6年)、加賀藩(5代)藩主、前田綱紀(まえだつなのり、1643~1724)の頃の発見と言われています。その採掘を手がけたのは、石黒源次(1783、天明3年)、山岸三郎兵衛(1879、明治12年)、吉田八百松外6名、元加賀藩家老、横山隆平と弟の隆興(1880、明治13年)、横山隆平、隆宝館尾小屋鉱山(1881年、明治14年)、日本鉱業株式会社尾小屋鉱山(1931,昭和6年)、北陸鉱山株式会社(日本鉱業系列新会社)(1962年、昭和37年)へと、時代の流れにより経営者が変わっています。

 そこでは、主として、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄鉄鉱などが採掘され、選鉱、製錬により、銅のほか亜鉛、鉛、硫化鉄、金、銀などを産出していました。しかし、産銅価格の低迷と鉱害の発生が原因で、1971年(昭和46年)12月、閉山やむなきにいたり、約300年の幕を閉じました。

○ 尾小屋鉱山下、郷谷川下流、梯川流域のカドミウム汚染

 尾小屋鉱山が、重金属鉱害発生源として注目されたのは、1970年(昭和45年)5月、尾小屋鉱山下の梯川(かけはしがわ)流域の農用地の産米から1.0ppm(ppmは百万分率、百万分の一という極めて少ない量)以上のカドミウムを含むものが多く検出され、また、梯川中部河川水から基準値(0.01ppm)を上まわる0.012ppmのカドミウムが検出されてからです。

 1972年(昭和47年)から名古屋鉱山保安監督部(のち中部近畿鉱山保安監督部)、日本鉱業(株)、北陸鉱山(株)、石川県、小松市による鉱害調査と鉱害防止が始まり、1977年(昭和52年)からカドミウム汚染田の客土による土地改良事業も着手され、1986年(昭和61年)には、その約半分の225ヘクタールが指定解除されました。

1992年(平成4年)、小松市のカドミウム汚染田や導水路で最後まで汚染地区として残っていた25.8ヘクタールが、石川県公害対策審議会土壌部会で指定解除となり、17年ぶりに全地区で汚染に終止符が打たれました。汚染指定は小松市の総水田面積の1割強に及び、地表約20cmの土を入れ替える(客土)大規模な工事が行われました。土を入れ替えた水田は山土などを入れたため赤色が目立つので観察田を設け土壌改良を続けるという。

○ 尾小屋鉱山下、郷谷川上流、梯川水系に生息する生物

 1971年(昭和46年)末閉山の尾小屋鉱山(小松、石川)では、主に黄銅鉱が採掘され、採鉱と選鉱に伴う鉱山廃水の汚染により、梯川(かけはしがわ)水系の郷谷川(ごうたにがわ)と梯川の一部を含む約16kmの水域には、生物はほとんど生存しなくなっていました。

 1997年(平成9年)頃、旧尾小屋(おごや)鉱山(小松、石川)下の梯川(かけはしがわ)の鉱毒汚染と水質浄化を河底の礫石に付着した藻類、特にケイソウ(珪藻)の分布状態を調べたことがあります。尾小屋鉱山近くの梯川の岸辺には、重金属耐性のコケ植物(ホンモンジゴケ、キヘチマゴケ)、シダ植物(ヘビノネゴザ)が群生しているのが見られました。

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郷谷川の岸辺のヘビノネゴザと河床の礫石の藻(梯川流域、尾小屋、小松、石川)

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ケイソウの顕微鏡写真(1~6 マガリケイソウ、 7~8 コバンケイソウ

(解説) 尾小屋鉱山に近づくほど藻類中の重金属濃度が高く、特に銅が多く検出され、また、銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど鉱山から排出される重金属に耐性が強いとされるマガリケイソウ、コバンケイソウが上流ほど多く、ここでは魚は認められず、下流に行くに従って、この種が減少、他の種類が増える傾向が見られました。 一方、ごく普通の河川に見られるヒゲモが見られる下流方面では、アユやウグイなどの魚が生息するようになっていました。鄕谷川の岸辺には、シダ植物、ヘビノネゴザの群生が見られました。

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郷谷川の岸辺に群生するヘビノネゴザの根、葉柄、葉身などの組織中の銅、鉛、亜鉛及びカドミウム(ppm)の分布

(解説) 尾小屋鉱山下の梯川流域、郷谷川の岸辺に群生するヘビノネゴザのには、銅と鉛は主として根に、亜鉛は根から葉まで全身に、カドミウムは主として葉に取り込まれていることが分かりました。

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ルベアン酸とジチゾンで染色したヘビノネゴザの根の銅(左図)と亜鉛(右図)の分布の顕微鏡写真

(解説) このシダ植物の組織中の銅と亜鉛分布状態をミクロトームによる横断切片の有機試薬染色(銅はルベアン酸、亜鉛はジチゾン)ー顕微鏡観察(400倍)したところ、ヘビノネゴザの根は表皮でおおわれ、その内部に皮層と中心柱があり、中心柱ははっきりした内皮に囲まれた二原型の放射中心柱となっているが、横断切片は、ヘビノネゴザの皮層の細胞壁がルベアン酸で黒色に染色され、銅の大部分がそこに集積されていることが分かりました。一方、ヘビノネゴザの根の皮層の細胞壁と細胞内部、中心柱など組織細胞全体がジチゾンで赤色に染色され、亜鉛の大部分が組織全体に集積されていることが分かりました。

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毒の川に魚を戻そう 石川県小松市の郷谷川、 左 足尾鉱毒事件の渡良瀬川、2010年(平成22年)9月20日(月)、北陸中日新聞、朝刊、より)

(解説) 石川県小松市の尾小屋鉱山下、梯川支流、郷谷川では魚が思うように増えないが、一方、北関東(栃木、群馬県)の足尾銅山下、渡良瀬川ではサケが戻ってきたという。また、郷谷川の上流の抗廃水が流れ出る場所から約7km下流まで、魚はほとんどいないという。このことは、今も尾小屋鉱山の多量の銅、亜鉛などを含む酸性抗廃水が梯川水系の郷谷川にたれ流されている所が何ヶ所かある可能性が高く、近くに適切な大きさの溜池(沈殿池など)つくり、消石灰で中和し、特に銅などの重金属を沈殿除去して排出する必要があると思われます。

 私は、1982年(昭和57年)11月16日、里見信生先生(金沢大学生物学教室)のご案内で、ほかに教職員(2名、西川、高木)、学生(4名、八田、畠、?)と共に、はじめて、梯川流域の小松市出村の白山神社境内、その周辺のカドミウム汚染廃田、尾小屋鉱山周辺などを訪れ、そこで群落をなすシダ植物、ヘビノネゴザの重金属(銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど)の取り込み状態について調査、研究したことがあります。その後も、、尾小屋鉱山による梯川流域の河川水、河底泥、川沿いの土壌、廃田などの重金属(銅、鉛、亜鉛、カドミウムなど)汚染と浄化の状態について調査、研究を続け、そこへは何回となく訪れました。

(参考文献) 里見信生: ヘビノネゴザと鉱山、北陸の植物、7巻、p.26(1958); 本浄、八田、西川、里見: 尾小屋鉱山による梯川重金属汚染流域に群落をなすシダ植物ヘビノネゴザの銅および亜鉛の集積について、植物地理・分類研究、32巻、p.158~160(1984); 本浄高治: 指標植物中の重金属の状態分析ー尾小屋鉱山による白山神社重金属汚染地域に群落をなすシダ植物ヘビノネゴザの銅と亜鉛の集積状態についてー、植物地理・分類研究、35巻、p.165~170(1987); 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.136~137、本浄高治、尾小屋鉱山ーカドミウム汚染ー、裳華房(1997); 中西、墨田、弓田、山田、本浄: 石川県尾小屋鉱山下の梯川及び鄕谷川における重金属汚染とその藻における状態(英文)、Anal.Sci.20巻、p.73~78(2004); 山田隆史、墨田迪彰、中西良明、本浄高治: 石川県旧銅山下の河川における付着珪藻群集の分布と化学種分析からみた重金属汚染状態、分析化学、53巻、p.883~889(2004). 

(参考資料) 尾小屋鉱山(日本の金属鉱山、持元宏編): http://www.miningjapan.org/idx/ogoya/index.html.

(追加説明、話題) 

 ヘビノネゴザと鉱山 石川県鶴来町の南方に現在黄銅鉱を採掘している中島鉱山がある。この附近の河原一帯にはヘビノネゴザが大群落をなしている。又、同じく石川県石川郡能美郡国府村の奥にある銅山(遊泉寺銅山!)でも同様の事実を見た。尾小屋鉱山でもそうだと言う。ヘビノネゴザが鉱山と関係ある事について古くは三宅驥一氏が、へびのねござト鉱質トノ関係(植物学雑誌、11巻、p.404(明治30年、1897)で論じておられるし、最近では山中二男氏の、鉱山地帯の研究(予報)、植物分類地理、15巻、p.199(昭和29,1954)に述べられている。(里見信生、北陸の植物、7巻、p.26(昭和33年、1958)、より)

 石川県の金属鉱山には、古くから、宝達金山、金平金銅山、倉谷金銀山、鞍ヶ嶽金山、白山金山、下白山金山、九谷金山、中島銅山、遊泉寺銅山、阿手銅山、尾小屋金銅山などが知られています。カドミウム汚染については、1975年(昭和45年)5月31日、中島銅山(鶴来、石川)による手取川水系の汚染、1985年(昭和60年)6月27日、阿手銅山(大日スキー場、鳥越、石川)による阿手川水系(阿手川上流の金山谷川)の汚染などが認められました。(北国新聞、朝刊より)

 遊泉寺銅山(ゆうせんじどうざん、鵜川町、小松、石川)は、1807年(文化4年)に創業し、藩政時代には加賀藩の有力な財源として栄えました。明治に入ると、吉田茂元首相の実兄である竹内明太郎氏が経営にあたり、機械化を進め、地下270mまで掘り下げ、大規模な採掘をしました。最盛期の1916~1917年(大正5~6年)の頃は月産約56トンを誇っていました。1916年(大正5年)、鉱山用機械を製作する小松鉄工所を興し、今日の大手建設メーカー・コマツの起源とされています。しかし、第1次世界大戦(1914~1918)終了と共に、銅山はすたれ、百年余の歴史を閉じました。(小松東部丘陵(21)、遊泉寺銅山、加賀藩の貴重な財源、1988年(昭和63年)2月22日(月)、北国新聞、朝刊より) コマツ発祥の地、遊泉寺銅山跡(小松だよ!全員集合!!、石川): http://repobitanw.web.fc2.com/page004.html. 遊泉寺銅山跡記念公園(ブナの中庭で、石川):http://blog.goo.ne.jp/repu/e/557b79332d8dde3f6b756ed6550ead85.

 1991年(平成3年)5月10日、小松鉄工所が分離独立してできた小松製作所は、創立70周年を記念して、発祥の地、小松市鵜川町で、遊泉寺銅山跡記念碑の除幕式を行いました。

 2010年(平成22年)、大手建機メーカー・コマツは、JR小松駅近くの小松工場を金沢港(金沢市大野町)近くの金沢工場に移転し、その跡地は、来年5月、研修センター、記念館、緑地公園などに整備されることになっています。また、関係者らによる遊泉寺銅山再生チームが発足、残っている銅山の展望台、高さ20mの煙突などを生かし、遊歩道を整備するなど、市の新たな観光名所として充実させる予定です。コマツKOMATSU、ホームページ): http://www.komatsu.co.jp/

 2017年(平成29年)7月4日、小松市の鉄工業繁栄を支えた遊泉寺銅山跡(同市鵜川町)を明治・大正時代の産業遺産として残すため、市や産業界、地元住民らは、「遊泉寺銅山跡整備事業実行委員会」を設立しました。

○ 福井県の金属鉱山については、面谷鉱山(おもだにこうざん、大野郡和泉村、1922年(大正11年)9月、完全閉山)は銅、中竜鉱山(なかたつこうざん、大野郡和泉村、1987年(昭和62年)10月16日、閉山、のちアドベンチャーランド中竜、2006年(平成18年)11月30日、営業終了)では亜鉛をおもに産出していました。そこの鉱山周辺では、いづれも、シダ植物、ヘビノネゴザの群生を確認しました。また、面谷鉱山の近くの川には、銅に耐性のあるマガリ珪藻しか生息していないことが分かりました。 面谷鉱山(大野市観光協会、福井);http://jigyo.h-onoya.co.jp/archives/718. 

○ 富山県の金属鉱山としては、古くから、松倉金山、虎谷金山、河原波金山(以上旧松倉村)、下田金山(げたきんざん、上市町)、吉野銀山(大沢野町)、亀谷銀山(おがいぎんざん、大山町)、長棟鉛山(なだとえんざん、大沢野町)などが知られていました。松倉金山: http://heartland.geocities.jp/matsukurajyou/mount/matukurakinzan/matukurakinzan.htm

○ 尾小屋地下実験施設(金沢大学環日本海域環境センター、低レベル放射能実験施設(LLRL)、尾小屋、小松、石川):http://llrl.ku-unet.ocn.ne.jp/

〇 尾小屋鉄道 復元へ  「ポッポ汽車」と親しまれ、かって尾小屋鉱山(石川県小松市)の鉱山鉄道として活躍した尾小屋鉄道。廃線から今年で40年。車両の修復や保管を担う有志グループが、大正時代から走っていた木造客車「ハフ1」のトタン張りの天井に隠れていた製造当時の木製天井を発見し、当初の姿に復元しようと奮闘している。製造から百年を来年に控え、「百歳の誕生日はきれいな姿で迎えてほしい」と7月中の完成を目指す。

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保存客車、1919年(大正8年)に開通、新小松から尾小屋間(16.8㎞)、尾小屋鉱山の鉱石や資材を輸送したほか、沿線住民の移動手段としても活躍。1977年(昭和52年)廃止されたが、線路幅が標準より狭い762ミリで、生活路線では国内最後の非電化軽便鉄道でした。

(北陸中日新聞(竹内なぎ): ポッポ汽車 誕生時の姿再び 小松 尾小屋鉄道復元へ 来年100歳 貴重な保存客車、2017年(平成29年)6月17日(土)より)

2010年10月21日 (木)

神岡鉱山(岐阜)にまつわる歴史実話、鉱石、イタイイタイ病(カドミウム汚染、神通川流域)、アユの味日本一(神通川、第1回全国利きアユ大会)、神岡鉱山(周辺の景色)、とは(2010.10.21)

   四日市ぜんそく(三重)、イタイイタイ病(富山)、阿賀野川水銀中毒(新潟水俣病とも、新潟)、水俣病(熊本)は、産業優先の高度成長末期、激しい健康被害を受けた被害者が損害賠償を請求した訴訟で、四大公害訴訟(よんだいこうがいそしょう)と呼ばれています。

 神岡(かみおか)は、岐阜県北部、吉城(よしき)郡(のち飛騨市)の町で、中心の船津は飛騨山地を流れる高原川流域にある鉱山集落で、銅、亜鉛、鉛、銀などを含む鉱石を多産する三井金属鉱業神岡鉱山(かみおかこうざん)の製錬所と社宅が集まっています。

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銅 鉛 亜鉛 鉱石(黄金色の鉱物は、黄銅鉱(CuFeS2)、鉛灰色は方鉛鉱(PbS)、黒褐色は閃亜鉛鉱(ZuS)、黄白色は黄鉄鋼(FeS2)、下の灰白色の部分は鉱化作用をまぬがれた晶質石灰岩、神岡鉱山 茂住抗(岐阜)産、神岡鉱山資料館蔵、google画像)

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鉛 亜鉛 鉱石(鉛灰色の鉱物は方鉛鉱(PbS)、黄褐色は閃亜鉛鉱(ZnS)、桃色の部分は菱マンガン鉱(MnCO3)で、金(Au)と銀(Ag)も含む、上国鉱山(北海道)産、神岡鉱山資料館蔵、google画像)  神岡鉱山資料館(バーチャルミュージアム、神岡町、吉城郡、のち飛騨市、岐阜県): http://dac.gijodai.ac.jp/vm/virtual_museum/database/page/H11-PCD2583-014.html

(解説) 神岡鉱山(かみおかこうざん)は、岐阜県神岡町にある日本最大の亜鉛、鉛、銅、銀の鉱山です。江戸時代から金森宗貞(かなもりむねさだ、のち打它宗貞、うたむそうてい、茂住宗貞、糸屋彦次郎とも)、1559(永禄2)~1643(寛永20)、が開き、採掘が進み、茂住(もずみ、神岡)などの鉱山も開き、金山奉行を務めました。1874年(明治7年)以降、三井鉱山三井グループによって近代的経営が始まりました。1986年(昭和61年)の合理化で三井金属鉱業から分離独立、神岡鉱業となり、 亜鉛鉱山として、亜鉛、鉛、銀、金の地金のほかに、金属粉の製造を行っていましたが、2001年(平成13年)、神岡鉱山鉱石採掘は中止となりました。

 カドミウム汚染は、亜鉛や銅の鉱山、製錬所から排出される有害金属カドミウムによる農地汚染(カドミウム汚染米!)のことで、イタイイタイ病の原因となりました。1ppm(ppmは百万分率、100万分の1という極めて少ない量)以上含有の玄米を生産する水田は、農用地土壌汚染防止法により土地改良の対象とされました。1997年(平成9年)末現在、水田からカドミウムを除去する対策を必要とする指定の農地は、富山県神通川流域や秋田県平鹿地方など全国57地域で6110haに上り、その内の6割弱が客土などの対策を完了しました。

○ イタイイタイ病(神通川流域、富山県)

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イタイイタイ病左図 カドミウム汚染程度別地域区分、右図 50歳以上女子人口に対するイタイイタイ病患者有病率、神通川流域、富山、google画像) イタイイタイ病(イタイイタイ病の発見、金沢医科大学公衆衛生学教室ホームページ): http://www.kanazawa-med.ac.jp/~pubhealt/itaiitai/itai1.html

(解説) イタイイタイ病は、富山県神通川流域の農村に多発し、大正年間(1912~1926)以来、中年婦人、特に頻回(ひんかい)経産婦に多く見られる骨軟化症様の病気で、四肢、骨盤、脊椎、肋膜に変形、萎縮、骨折を来たし、わずかな刺激で病的骨折が起こり、日夜苦痛を訴えました。カドミウムによる腎障害から、カルシウムの再吸収が妨げられて起こると考えられています。

 金属鉱山から流出したカドミウムが体内に蓄積して骨軟化症や腎臓障害を起す公害病で、全身に激痛を伴います。富山県神通川流域で発生したイタイイタイ病は、1955年(昭和30年)、その地域の萩野昇(はぎののぼる、1915~1990)開業医により発見され、1968年(昭和43年)5月、厚生省(のち厚生労働省)は、岐阜県三井金属鉱業神岡鉱山から流出したカドミウムが原因であると認めました。

 1967~1969年(昭和42~44年)に訴訟され、反公害世論の高まりを背景に、1971~1973年(昭和46~48年)の間、いずれも被害民が第1審で勝訴、確定しました。この裁判の過程で、企業と癒着(ゆちゃく)した行政の責任、また企業側証人としていたずらに論点をはぐらかし、原因究明を遅らせた科学者の責任が浮き彫りにされました。四大公害訴訟で確定した金銭賠償方式は、1973年(昭和48年)の公害健康被害補償法で制度化されましたが、賠償額の増大は、新たに認定問題を生みました。1997(平成9年)年末、現存認定患者は9人(総数156人)でした。

○ アユの味日本一(神通川、第1回 利きアユ全国大会)

 1999年(平成11年)9月4日(土)、イタイイタイ病で社会問題となった富山県の神通川流域の水質を河底の礫石に付着している藻類、特にケイソウの分布状態により調査したことがあります。その結果、神岡鉱山下の近くの神通川や下流では、一般に鉱山から重金属(銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど)が排出された時に見られるマガリケイソウ、コバンケイソウなどの分布は観察されず、重金属による水質汚染は認められないことが分かりました。

 その日の朝日新聞の朝刊に、河川環境の指標となるアユを食べ比べて自然保護を考えよう(清流を復活させたい)と、高知県友釣連盟(内山顕一、代表理事長)が、9月3日、初の利きアユ全国大会を高知市内で開いたこと、四万十川はじめ、新潟や愛知、和歌山など10県の27河川からとれた約2500匹を、橋本大二郎知事ら約200人が食べ比べたこと、姿、香り、身など5項目で吟味、さらにアユの塩焼きなども食べた市民による人気投票もあり、最優秀に富山県の神通川のアユが選ばれた新聞を目にして驚き、その記事をスクラップして地元の方にお見せしたことがあります。 

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アユの味日本一神通川)、第1回 利きアユ全国大会、高知、1999年(平成11年)9月4日、朝日新聞朝刊、より)

(解説) 2008年(平成20年)11回までにグランプリをとったのは、神通川(富山)、高知県内の4河川(安田川は2回、野根川、松葉川、新庄川)、和良川(岐阜県)、宇佐川(山口県)、雫石川(岩手県)、寒河江川(山形県)、損保川(兵庫県)、長良川(岐阜県)で、気象条件なども含め、その年に最もアユに適した環境が保たれていた川のアユが一番おいしかったそうです。その後、2009年(平成21年)の第12回グランプリは、寒河江川(山形県)、揖保川(兵庫県)、2010年(平成22年)の第13回グランプリは、揖保川上流(兵庫県)のアユであったという。( 第13回 清流めぐり利き鮎会、2010年(平成22年)9月、高知): http://tollotjoe.livedoor.biz/archives/51624852.html#.)

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神岡鉱山(かみおかこうざん、神岡鉱山と製錬所、2004年(平成16年)9月25日(土)、調査、撮影)

 私は、1973年(昭和48年)7月19~23日、金沢大学理学部化学教室(木羽敏泰教授、寺田喜久雄助教授、松本健技官、飴野清研究生)と共に、神通川上流の高原川本流及び支流、梓川上流の上高地周辺、旧平金鉱山廃坑を中心とする小八賀川上流地域での河底泥(でい)採取の調査研究で、はじめて神岡鉱山を訪れ、また、神岡製錬所を見学させていただいたことがあります。その後、何回かマイカーでここを訪れたことがあります。

 神岡鉱山の山麓や製錬所、神通川周辺には、金属鉱山に特有のシダ植物、ヘビノネゴザの散生あるいは群生が見られましたが、そのヘビノネゴザの根には、土壌中の重金属量に比例して、多量の亜鉛、鉛、少量の銅などの重金属の蓄積が著しいことを確認しました。 

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 木羽敏泰、寺田喜久雄、本浄高治、松本健、飴野清: 濃度相関マトリスクによる河底でい試料の相関性の検討、分析化学、24巻、p.18~25(1975); 岐阜県高等学校教育研究会社会科部会(編集委員長、近藤晋潤)編: 岐阜県の歴史散歩、山川出版社(1990); 原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 金沢大学日本海域研究所報告、第30号、p.171~193、重金属と指標植物ー自然環境の回復-(1999);  朝日新聞(朝刊): きれいな川にはうまいアユ、高知で味比べ、1999年(平成11年)9月4日(土); 朝日新聞(朝刊): 味の決め手は川の環境? 日曜 ナントカ学2、2007年(平成19年)6月24日(日)、より.

(参考資料) 三井金属リサイクル株式会社神岡鉱業株式会社、産業廃棄物処理含む):http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/group/mkr/office.html

神岡鉱山(気ままに鉱山、炭坑めぐり、神岡(のち飛騨市)、岐阜): http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/kamioka01.html

イタイイタイ病(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%97%85&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

鮎釣りWorld(富山県): http://turiworld.net/toyama.html; アユ)は、川魚の王として、万葉の昔から賞味(塩焼き、鮎ずしなど)されてきました。鮎には、独特の香味がある香魚とも言われ、また、その腸、子の塩漬け(うるか)は、珍味とされています。

スーパーカミオカンデ(東京大学宇宙線研究所、付属神岡宇宙素粒子研究施設装置、東茂住、神岡町、飛騨市、岐阜県): http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/location.html

2010年10月19日 (火)

足尾銅山(栃木)にまつわる歴史実話、日本の公害の原点(足尾銅山鉱毒事件)、鉱山廃水の浄水処理(中才浄水場、渡良瀬遊水池)、禿山の復元(植林と自然修復)、とは(2010.10.19)

  日本の代表的な4大銅鉱山といえば、足尾銅山(あしおどうざん、栃木)、日立鉱山(ひたちこうざん、茨城)、別子銅山(べっしどうざん、愛媛)、小坂鉱山(こさかこうざん、秋田)のことです。

 足尾銅山(足尾町、のち日光市、栃木)の鉱床の発見は、江戸時代、慶長年間(1596~1615)とされ、江戸幕府直轄(ちょっかつ)の鉱山となっていました。 明治時代、日本の産業資本の生成発展期にあたる1890~1907年頃に渡良瀬川沿岸の農地を荒廃させる足尾銅山鉱毒事件が起こりました。足尾銅山は、日本ではじめて公害が社会問題になった所として、日本の公害の原点と言われています。

○ 足尾山地

 足尾山地(あしおさんち)は、栃木と群馬の両県にまたがる山地です。大部分が秩父古生層からなり、主脈に地蔵岳(1274m)、根本岳(1197m)などがそびえ、多くの銅鉱床、マンガン鉱床があり、足尾銅山などで採掘されました。足尾の西部の円錐状の成層火山(せいそうかざん)である皇海山(すかいさん、2144m)、庚申山(こうしんざん、1901m)は、日光国立公園に属しています。

○ 足尾銅山

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足尾銅山(あしおどうざん、黄銅鉱(おうどうこう)と電解銅(でんかいどう)、足尾町(のち日光市)、栃木県) 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈

(解説) 足尾銅山(あしおどうざん)は、江戸時代、1610年(慶長15年)に発見され、銅山奉行が直轄、1661~1687年(寛文元年~貞享4年)最盛期を迎え、1684年(貞享元年)には、銅40万貫(1500トン、1貫は3.75キログラム)を産出しました。1877年(明治10年)、古河市兵衛(ふるかわいちべえ、1832~1903)が買収後、明治時代(1868~1912)の中後期には、近代的な採鉱、製錬法の採用により、生産量も急増し、国内銅生産量の40%以上を占め、1917年(大正6年)には1万7000トンの産銅量に達し、全国一の銅山となりました。しかし、銅山の急速な近代化が、足尾銅山の鉱毒事件(こうどくじけん)の原因となりました。

 1968年(昭和43年)頃は、古河工業が経営、月産銅量500トン、製錬量は輸入鉱、国内鉱を含め3000トンでした。一帯は荒涼とした銅山特有の景観を呈していました。1972年(昭和47年)、古河工業は、採掘条件の悪化と鉱害問題の再燃を理由に、足尾銅山の閉山(鉱山部廃止)を発表し、翌1973年(昭和48年)2月28日、足尾に銅山が発見されてから370年余、その長い歴史に終止符を打ちました。1877年(明治10年)、古河に経営が移ってから、1973年(昭和48年)の閉山までの96年間に掘られた坑道の長さは、1200kmで、東京から博多までの長さになるという。

 また、2005年(平成17年)より、栃木県日光市(旧足尾町)は、足尾銅山の世界遺産登録を目指して活動しています。しかし、足尾製錬所をはじめ施設群のいくつかは、20年間放置され、2010年(平成22年)6月、ほとんど解体されたという。 

○ 足尾銅山鉱毒事件

 足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、足尾銅山の製錬所から出る煙害(亜硫酸ガスなど)や山火事、製錬用薪炭作りの乱伐により、足尾山林の荒廃を招き、大洪水を頻発(ひんぱつ)させ、また、足尾銅山から流れ出た有害重金属(特に銅、亜鉛など)を含む酸性の廃水のたれ流しにより、群馬と栃木の両県にまたがって、渡良瀬川(わたらせがわ)沿岸に深刻な漁業被害、農地(桑畑)や農作物(稲作)の鉱毒被害が発生しました。

 特に、1890年(明治23年)の洪水による鉱毒被害の激化は、農民を鉱毒反対運動へと駆り立て、1896年(明治29年)の大洪水による被害拡大に伴い、それまでの地元からの数次の建議、上申にもかかわらず改善がみられなかったため、代議士、田中正造(たなかしょうぞう、1841~1913)の指導のもと、1897年(明治30年)、数千人の農民が政府に鉱業の停止を求める請願運動て大挙上京し、鉱毒問題は社会問題となりました。

 さらに、1900年(明治33年)、鉱毒悲歌を歌って大挙上京中、警官との衝突により大乱闘となり、68名が検挙され前橋監獄に収容されるという、川俣事件(かわまたじけん)が起こりました。1901年(明治34年)、田中は天皇に直訴、代議士を辞し、鉱毒問題を政治問題化させていきました。社会主義者やキリスト教徒らの支援があり、1902年(明治35年)には内閣に鉱毒調査会が設置され、予防工事が命じられましたが、十分な解決を見ませんでした。

 足尾銅山の鉱毒が社会問題化したのは、産業資本の生成発展期にあたる1890年頃から1907年頃までの間で、政府による鉱毒問題の治水問題への転換、1907年(明治40年)に谷中村(やなかむら)の廃村、遊水池化を経て、鉱毒問題は一応の解決を見ました。しかし、その後も鉱毒被害は続き、今なお足尾には禿山(はげやま)、下流に広大な渡良瀬遊水池(渡良瀬川下流、利根川水系、洪水防止の調整池!)を残しています。

 足尾鉱毒事件の発生後、運動の拠点となったのが、雲龍寺(うんりゅうじ、曹洞宗)で、現在は、足尾鉱毒事件の核心をなす寺として有名で、境内には田中正造の墓、救現堂、足尾鉱毒事件被告碑、歌碑などがあります。また、群馬県館林市の渡良瀬川近くにある足尾鉱毒事件田中正造記念館では、鉱毒事件や田中正造の関係資料を紹介しています。

○ 足尾銅山の廃水の浄水処理と渡良瀬遊水池

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中才浄水場(なかさいじょうすいじょう、足尾銅山からの汚染水を処理、日光市、栃木、google 画像) 中才浄水場(足尾銅山の世界遺産登録をめざして、日光市、栃木): http://www.nikko-ashio.jp/heritage/jousui/nakasaijousui.html

(解説) 足尾銅山は、1973年(昭和48年)に閉山された後も、足尾銅山から渡良瀬川に流れ出た重金属(特に銅、亜鉛など)を含む酸性水は、中才浄水場(なかさいじょうすいじょう)などで石灰による中和、重金属の沈殿、ろ過などの 処理が続けられており、洪水の調整池としての渡良瀬遊水池とあいまって、渡良瀬川の水質は改善されています。魚も徐々に戻り、館林市でも数年前からサケがよく見られるようになっているという。

 川に魚を回復させた鉱毒対策の事例では、岩手県八幡平市の松尾鉱山跡が知られています。鉱山跡から流れ出た強酸性水で魚がすまなくなっていた北上川は、バクテリアや石灰を使った中和処理施設が1982年(昭和57年)に完成したことにより、水質が改善され、今ではサケの遡上(そじょう)もみられるという。一方、源流に鉱山跡がある松川、百々川(須高、長野)と梯川の支流、鄕谷川(小松、石川)では、鉱害対策が不十分で、抜本的な対策が取られておらず、魚がほとんどいないという。

○ 足尾銅山の禿山の植林と自然修復

 日本の公害の原点、足尾銅山の下流域の鉱害事件は有名ですが、銅山の北側の上流は、製錬所からの煙害で今も荒廃地が残っています。

 国や県の予算で、荒れ果てた足尾銅山の植林として、1985年(昭和60年)頃、土と肥料と種が一緒に入っている「植生袋」を植え付け、山をもとの緑にする工事が進められました。

 禿山(はげやま)に少しでも緑を残そうと、NOP法人「足尾に緑を育てる会」が今年も一般の参加を募って植樹デーを、2010年(平成22年)4月24日、25日に開きました。この会は、1996年(平成8年)に発足、植樹は今年で15回目、総計10万本を超えそうだという。

 煙害が収まったのは排煙脱硫技術(亜硫酸ガスの除去)が実用化された1956年(昭和31年)で、この頃から治山事業が本格化し、約2500ヘクタールあった禿山(はげやま)は、一部で緑が戻ってきたが、それでも約半分は荒れたままだという。足尾の山が真に回復するには、さらに100年、200年かかるだろうが、長い目で活動を続けたいとのことです。

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足尾銅山(あしおどうざん、上 禿山(はげやま)、山麓のヘビノネゴザの大群落、山奥のリョウブ林、1988年(昭和63年)7月30日、調査、撮影、 下 河川の中州にはアシヨシとも)の群生、川岸にはススキの散生、2004年(平成16年)9月3日、撮影)

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(解説) 足尾銅山の自然修復として、特に足尾銅山周辺は、山麓からヘビノネゴザの大群落で覆われ、山奥に行くにつれてススキ、イタドリ、クズやササ、そしてウツギやリョウブの林へと続いて、人間社会の動きとは別に、自然が己(おの)が力で本来の植生を回復しようしている涙ぐましい姿が見られました。このような植生遷移は、尾小屋鉱山(石川)、別子銅山(愛媛)の山林でも見られました

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足尾銅山(銅、亜鉛汚染地域)、磐梯精錬所(カドミウム汚染地域)、多磨地域(非汚染地域)で生育しているヘビノネゴザとイタドリの根と葉の中の銅、亜鉛、カドミウム含量

(解説) 足尾銅山の山麓には、金属鉱山に特有のシダ植物、ヘビノネゴザの大群生が見られましたが、そのヘビノネゴザの根には、土壌中の重金属量に比例して、銅、亜鉛などの重金属の蓄積が著しいことを確認しました。一般に、ヘビノネゴザでは、銅と亜鉛は葉より根に、カドミウムは根より葉に多く取り込まれていましたが、イタドリでは、銅、亜鉛、カドミウム共に葉より根に多く取り込まれてていました。また、一般にヘビノネゴザとイタドリの組織中の細胞内部の細胞質よりも細胞壁に多量の銅、亜鉛、カドミウムが分布していました。

 また、足尾銅山で生育していた、ヘビノネゴザイタドリ、バッコウヤナギ、ヨモギ、ノガリヤス、リョウブなどの植 物は、いずれも体内(組織中)でメタロチオネイン(細胞質に取り込まれた重金属と結合、無毒化)を作る種類ばかりでした。このことは、重金属で汚染された土壌で生育可能な植物種は、このような特殊な蛋白質を合成できる種類(この特性は、遺伝子配列の変化で獲得、後天的)に限られると考えられます。 

 この重金属耐性の獲得の謎の解明は今後の課題です。というのも、重金属で汚染されていない地域で生育した同じ種の植物を汚染地に移植しても、全てが生育するわけでもなく、枯死するものも多く、また重金属の取り込みも必ずしも多くないからです。

 足尾銅山のヘビノネゴザには、根の細胞壁に90%(2899ppm)の銅(ペクチン酸錯体)を、また、細胞質に10%(325ppm)の銅(メタロチオネイン錯体)が取り込まれていることが報告されています。すなわち、ヘビノネゴザは、細胞壁の中に有毒な銅を閉じ込め、その毒性を軽減していると考えられます。また、生命の根源である細胞質に入っている銅は、ヘビノネゴザがメタロチオネインと呼ばれる蛋白質を作り、これが銅と結合して複核錯体の形で存在し、細胞液中に溶け出さないので、これが細胞液中の銅を無害にしてくれていると考えられています。 

 鉱山地帯では、ヘビノネゴザの群落状態は、金属鉱脈がどの方向に走っているかの目印にもなります。また、このシダは、4月頃に芽を出し11月頃には地上部の全てが枯れてしまう夏緑性のシダ植物ですが、土壌中の重金属は、その量(可吸態、根に取り込み得る化学形)に応じて、すき好むのではなく、受動的に体内に取り込みながら、繁茂と枯死を繰り返し、枯死してできた腐植酸は有毒な重金属を包み、無毒化し、重金属の周辺への拡散を防ぎながら、自然を回復させている姿にも見えます。 

 私は、1988年(昭和63年)7月29日(金)~31日(日)、里見信生先生(金沢大学理学部生物学教室)のご案内で、酒井雄一郎君(学生、4年生)と共に、マイカーで北陸自動車道、関越自動車道を走り、日光東大植物園、日光東照宮、足尾銅山、安中製錬所など、フィールド調査研究で、はじめてこれらの地域を訪ねました。そこでは、金属鉱山でよく目にする、シダ植物ヘビノネゴザが、いずれの所(園内、境内、山麓、周辺など)にも群生していたこと、また、足尾銅山の昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿など、強く印象に残っています。その後、2004年(平成16年)9月3日、JR、上野、高崎、桐生(群馬)、足尾線(わたらせ渓谷鉄道)を利用して、16年ぶりに足尾銅山を訪れ、徐々に禿山の緑が回復していることを実感しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 本浄高治: 週刊朝日百科、植物の世界(朝日新聞社)、重金属と植物、汚染地の土壌改良者たち、p.13-316~13ー318(1996); 群馬県高等学校教育研究会歴史部会編: 群馬県の歴史散歩、p.70、足尾鉱毒事件と雲龍寺、山川出版社(1998); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 金沢大学日本海域研究所報告、第30号、p.171~193、重金属と指標植物ー自然環境の回復-(1999); 小出五郎: 足尾銅山400年ー産業遺産の保全、廃墟観光のススメー、化学と工業、Vol.63-7、July、p.549~550(2010); 朝日新聞(朝刊): 環境エコロジー、足尾銅山、山よみがえれ 市民の輪、2010年(平成22年)4月23日(金); 北陸中日新聞(朝刊): 鉱毒の川に魚を戻そう、足尾鉱毒事件の渡良瀬川、努力実りサケ帰る、2010年(平成22年)9月20日(月).

(参考資料) 足尾銅山(足尾銅山観光管理事務所、日光市、栃木): http://www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/asio/asio.html

渡良瀬遊水池(山とんぼ、栃木、群馬、茨城、埼玉): http://www.kimurass.co.jp/yusui.htm

足尾鉱毒事件田中正造記念館(NPO法人ホームページ): http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/index.html

(追加説明) ○ 本庫鉱山(北海道枝幸町)では、かって銅や亜鉛を掘り出していました。その山に分け入ると、ヨシなどの茂った湿地が突然現れます。生い茂ったヨシが鉄や亜鉛などの金属成分を吸収し、植物の細胞などの中に固定され、湿地内に蓄積され、鉱毒の浄化が行なわれています。

2010年10月14日 (木)

石見銀山(島根)と佐渡金銀山(新潟)にまつわる歴史伝承、ジパング(黄金の国、東方見聞録)、銀の国(石見銀山、世界遺産)、道遊の割戸(佐渡金山、相川、佐渡島)、とは(2010.10.14)

 ジパング(ジャパンの語源とも、日本)は、マルコ・ポーロ(1254~1324、イタリア)の「東方見聞録(とうほうけんぶんろく、1438~1485年頃出版」により、「黄金の国」として、ヨーロッパに紹介されました。ヨーロッパ人の中には、これを信ずる人々が多く、1492年、スペイン王室の援助により航海しアメリカ大陸を発見した、クリストファー・コロンブス(1451?~1506、イタリア)もその一人でした。

16世紀の中頃、室町時代の末頃に、初めて日本を訪れたヨーロッパ人たちは、そこが「黄金の国」にならずとも「銀の国」であることを知って驚きました。その頃の日本は、戦国時代の末期にあたり、諸大名はしきりに銀山石見銀山、佐渡金銀山、生野銀山などを発掘し、銀をたくわえました。やがて、豪華な桃山文化がこのような豊富な銀の力を背景として花開きました。

 ヨーロッパ諸国の中で、スペインはアメリカ大陸から銀をヨーロッパに運び、その銀をもってポルトガルがアジアに進出しました。ポルトガルは中国で生糸や絹織物、金などを買い入れ、日本に渡り、中国で仕入れたものを売りつけ、日本の銀を手に入れました。日本人は、海外の産品を欲しがったので、高く売れました。

 日本との貿易でポルトガルは、さらに銀の量をふやし、再び中国に渡り、この銀をもとでに大量の品を買って、ヨーロッパに帰りました。当時のポルトガルの繁栄には、日本の銀が大きく貢献しました。

 このような日本の銀の流出は、安土桃山時代から江戸時代(1573~1603)初期にかけて、年間10数万キロに達したといわれ、実に世界の産出銀の3分の1を占めました。

○ 石見銀山(島根県太田市の銀山、大森銀山とも)

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石見銀山(上 釜屋間歩付近、仙ノ山本谷地区にあるテラス状の巨大な岸壁遺構、左下に見えるのが釜屋間歩の入り口、 下 龍源寺間歩 銀山地区大谷にある抗口、抗口前の両脇にシダ植物ヘビノネゴザが繁茂しています、2010年4月1日撮影、大田市、島根、google画像) 世界遺産 石見銀山遺跡(大田市、島根): http://ginzan.city.ohda.lg.jp/

(解説) 石見銀山(いわみぎんざん)は、14世紀に発見、16世紀初頭、室町時代の末期、1526年(大永6年)、博多の豪商、神谷寿禎(かみやじゅてい、生没年不詳)が、海上からはるか南の山が輝くのを見て驚き、発見したとされています。寿禎は、出雲大社(いずもたいしゃ)近くの鷺(さぎ)銅山経営者、三島清右衛門(みしませいえもん)に相談し、3人の技術者を連れて探索し、銀鉱石を発掘したという。

 天文年間の灰吹法(はいふきほう、金や銀を含む鉱石を鉛と共に焼き、金や銀の鉛合金を作り、それに空気を吹き込み金属鉛を酸化鉛(灰)に変え、分離した金や銀を灰の中から取り出す方法)の導入により、当時の日本及び東アジアを代表する世界でも最大級の銀山へと発展しました。近世初期の銀山奉行、大久保長安(おおくぼながやす、ちょうあんとも、1545~1613)の時代に最盛期を迎えましたが、間もなく衰退しました。1923年(大正12年)休山となりました。その後、この灰吹き法は、石見銀山の技術者によって、佐渡金銀山、生野銀山の金、銀の精錬に伝えられました。

 また、当時守護大名として岩見を支配していた大内義興(おおうちよしおき、1477~1529)の支援を背景に、寿禎は銀山の開発を進めていきました。大内・尼子・毛利3氏が激しく争奪し、のち江戸幕府直轄となりました。江戸初期、1ヵ年の運上銀は3600貫、1640年(寛永17年)頃、最盛期人口10万人という盛況ぶりでしたが、18世紀には衰えました。

 江戸時代、「岩見銀山猫(ねこ)いらず」と呼ばれ、ヒ素系の殺鼠剤(さっそざい)は同銀山産のヒ石から製したと称され、「岩見銀山」は殺鼠剤の異称となりましたが、ヒ石産地には異説があります。

 石見銀山は、その発見から発展の時期と、日本経済の商業的な発展と重なり、岩見の銀は国内で流通したばかりでなく世界的にも有名になりました。16世紀後半からマカオを拠点に来日するようになったポルトガル人との活発な交易を支えました。貿易商たちは、銀の世界的な価格差を利用した仲介貿易で莫大(ばくだい)な利益を得ています。

 1549年(天文18年)、日本(鹿児島)に初めてキリスト教を伝えた、フランシスコ・ザビエル(1506~1552、スペイン)は、ジョアン・ロドリゲス(ツヅとも、1561?~1633、ポルトガル))神父に宛(あ)てた書簡のなかで、当時の日本を「銀の島」と紹介しています。17世紀初頭、日本の銀産量は年間200トンで、世界の銀産高の3分の1に達したとも言われています。石見銀は「佐摩銀」とも呼ばれ、この頃の文献では「ソーマ銀」という良質の日本銀として記載されています。

 石見銀山は、16世紀以降、約400年にわたり採掘が続いた鉱山跡や町並みが残る「核心地域(コアゾーン)」(約442ヘクタール)が、2007年(平成19年)に世界遺産に登録されました。

 私は、1989年(平成元年)6月、石見銀山の遺跡を訪ねたことがあります。大森代官所跡、昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿が、強く印象に残っています。また石見銀山の近くには、金属鉱山に特有のシダ植物ヘビノネゴザの散生と群生が見られました。

(追加説明) 福石場の一般公開

 石見銀山は、2017年7月、世界遺産登録から10年目を迎え、その心臓部とされる採掘現場が初めて一般公開されます。16世紀の大航海時代、ヨーロッパまで名が届いたほどの産出量を支えた「福石場(ふくいしば)」です。地元ではボランティアガイドらが準備を進めています。「福石」とは白っぽい火山岩にできた銀鉱石の愛称。(2017年(平成29年)5月21日(日)朝日新聞より) 

石見銀山通信(石見銀山ガイドの会): http://iwami-gg.jugem.jp/?eid=2284

〇 佐渡渡金銀山(新潟県佐渡島内の相川町を中心とした金銀山の総称)

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佐渡金山(上 露天掘りの「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」、金鉱石(新生代の地層の石英脈)が掘り尽くされ、山頂から麓にかけて2つに断ち割られた奇観、2008年8月9日撮影、産業遺跡、訪問紀、相川、佐渡、新潟、google画像、 下 金銀鉱、 白い部分は石英、黒い筋が銀の硫化物で、その中に金の粒が含まれている、佐渡鉱山産、新潟)、 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈 佐渡金山(産業遺跡、訪問紀、未来航路): http://miraikoro.3.pro.tok2.com/travels/Niigata_Gunma/Sado_Tomioka02.htm#header

(解説) 佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、古くから西三川(にしみかわ)の砂金採取が行われましたが、1542年(天文11年)から鶴子銀山(つるしぎんざん)が開発され、1601年(慶長6年)に鶴子銀山の山師が相川金山を発見しました。相川金山は、1603年(慶長8年)に大久保長安(おおくぼながやす、ちょうあんとも、1545~1613)が佐渡奉行になるに及んで開発が進みました。大久保は、岩見銀山の灰吹き法の技術を佐渡金銀山の金銀精錬技術として導入し、佐渡金山を隆盛に導きました。

 この時期、精錬に水銀アマルガム法(金や銀を含む鉱石を細紛し、液体の水銀と振り混ぜてアマルガム(水銀合金)を作り、それを加熱して水銀を蒸発除去し、あとに残った金や銀を取り出す方法)が行われましたが、水銀の確保が困難で定着しなかったようです。鎮目惟明(しずめこれあき、1564~1627)が奉行の1620年(元和6年)代に最盛期を迎え、年平均6~9トンを産出したと推定されます。産金銀からは佐渡金銀と総称される小判や印銀も鋳造されました。

 17世紀中頃から不振となり、坑内湧水(こうないゆうすい)が多く、水替人足(みずかえにんそく)の確保にも苦悩して、幕末まで産出量は低迷し、次第に衰微してゆきました。18世紀には銅山の開発も進み、鋳銭も行われました。1869年(明治2年)官営となり、1896年(明治29年)三菱に払い下げられ、金銀量も増大しましたが、近年は月700トンほどを細々と掘り続けていました。が、鉱石の品質の低下と枯渇により、1989年(平成元年)3月末、388年の歴史を終え、休山となりました。それまでに掘り進んだ坑道の延長は、相川から東京までの距離にあたる約400キロですが、その大部分は水に没しているという。

 私は、1983年(昭和58年)10月、新潟港から高速船ジェットフォイルに1時間ほど乗船し、佐渡へ渡り、佐渡金銀山の遺跡を訪ねたことがあります。露天掘りの跡、道遊の割戸(どうゆうのわれど)、昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿が、強く印象に残っています。また佐渡金山の近くには、金属鉱山に特有のシダ植物、ヘビノネゴザの散生と群生が見られました。また、そのヘビノネゴザの根には、土壌中の重金属量に比例して、銅、鉛、亜鉛などの蓄積が著しいことを確認しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.595、銀の国・日本、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 金沢大学日本海域研究所報告、第30号、p.171~193、重金属と指標植物ー自然環境の回復-(1999).

(参考資料) 石見銀山(日本の銀、シルバーアクセサリー、東京): http://www.silveracce365.com/japan-silver.html

佐渡金山(ゴールデン佐渡、相川、佐渡、新潟): http://www.sado-kinzan.com/

(追加説明) 山吹(やまぶき)は、①バラ科落葉低木、鮮黄色の五弁花、一重、八重。②山吹色の略。③(山吹色であるからいう)金貨。大判や小判。転じて、一般に金銭をいう。④昔の鉱山で採取した鉱石を溶かして、金・銀・銅などに分離すること。(広辞苑より)

2010年8月 9日 (月)

菱刈金山(鹿児島)の金鉱床と金集積植物、金鉱脈の浅熱水鉱床、金を取り込むヤブムラサキ、ホソバカナワラビ、とは(2010.8.9)

    常温ではは水に溶けないのですが、地下のマグマの熱と強い圧力のもと、300℃以上に熱せられた地中深くの熱水により、鉱物から溶かし出されます。熱水は地表に向けて上昇しながら、圧力や温度の低下により沸騰し、また、化学反応を起こし、200~250℃でを石英と共に吐き出します。これが地層の割れ目にたまったり、鉱物にしみ込んだりして、海底に噴き出します。このようにしてできた岩石のの含有量は普通の岩石の数千倍以上になっています。また、金鉱石が浸食されて砂金になったり、堆積した地層も見られます。

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菱刈金山の金鉱脈(黒っぽい岩盤に上下に走る白い帯が金鉱脈です、住友金属鉱山菱刈鉱山、菱刈、伊佐市、鹿児島、google画像)

(解説) 菱刈金山(鹿児島)の金鉱脈は、500万年前より後の火山活動でできたものです。それは、地下のマグマが基盤岩を押し上げた際にできた割れ目に沿って、金を含んだ高温の熱水が地表近くまで上昇し、石英と共に金が沈着して形成された、浅熱水鉱床と言われています。この熱水は地表にまで達していて、このため金鉱のすぐ上の安山岩が、熱水で粘土質に変質したり、鉄分が変化しています。

 菱刈の金鉱脈の先端は、標高80~120mにあって、金の平均含量が80ppm(普通は6ppm以下)、予想採鉱可能な金含量が120トンという高品位の金鉱脈で、佐渡金山(新潟)の金鉱床の総生産量77トンを上回るということで、大きな話題となりました。ppmは100万分率(1ppmは100万分の1)です。 

 その後、1997年(平成9年)5月31日に、1985年(昭和60年)の操業開始からの金の生産量が83.1トンに達し、1601年(慶長6年)~1989年(平成元年)まで操業した、佐渡金山の83トンを抜いて、金の産出量が日本一となり、2003年(平成15年)3月末には、128.8トンに達しました。

 また、菱刈金山は、鉱石1トン中の金含量は約40グラムで,現在操業中の金鉱山では,世界一の金品位で、埋蔵推定量は260トンと言われています。

 ところで、金属鉱床の探査に植物を利用する例として、古くから金属鉱脈を探査するとき、山師の間では金山草(かなやまそう)と呼ばれ、その目印としたシダ植物、ヘビノネゴザは、よく知られた指標植物です。

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金を取り込む植物 ヤブムラサキ(クマツヅラ科)、  クロモジ(クスノキ科)、 google画像)

(解説) 1987年(昭和62年)頃、西村和雄氏(京都大学農学部農芸化学教室、1945~ )は、金属鉱業事業団の依頼を受け、菱刈金山の鉱脈を中心に、東西3km、南北4kmの調査区域を設け、そこに生育している植物の葉に含まれる金を含む約30元素を中性子放射化分析し、金鉱脈の存在を特定できるか検討しました。

 採集の対象とした植物は、ススキ、カンザブロウ、ヤブツバキなど6種類、シダ、単子葉植物各1種類、双子葉の木本植物4種類でした。その結果、2種類の植物(ヤブムラサキ、ホソバカナワラビ)の金含量(10~36ppb)が他の植物より非常に高く、金鉱脈の位置とほぼ一致していることを明らかにしました。ppbは10億分率(1ppbは10億分の1)です。

 植物による金の取り込みについては、プラム(スモモ?)の類は根から青酸化合物を分泌するので、これが金と錯体を形成し、金が可溶化するという報告もあるそうですが、菱刈金山のヤブムラサキとホソバカナワラビがそれと同じように青酸を分泌しているかは不明とのことです。なお、外国には、金を取り込む植物として、チェコスロバキアのイヌスギナ(Equisetum palustre)、ブラジルのガマ(Typha latifolia)などが知られており、組織中にシアン配糖体を含み、シアン化物(青酸化合物)として取り込んでることが確かめられています。

(参考文献) 高橋英一: 比較植物栄養学、養賢堂(1974); 小山睦夫、高田実弥、白川正広、片山幸士: 中性子放射化分析法による植物葉中の微量元素の分布と特異集積の研究ー特にコバルト、マンガン、亜鉛、カドミウム、希土類元素、ラジウム等についてー、放射性コバルトの放射生態学的諸問題に関する短期研究会報告、p.1~20(1982); 金属鉱業事業団、住友金属鉱山(株)菱刈鉱山の発見と開発、鉱山地質、37、p.227~236(1987); 西村和雄 :  研究紹介、植物を用いる金鉱床の探査、京大RIニュース、No.30、p.2~7(1989); 本浄高治: 話題、指標植物中の重金属のキャラクタリゼーションー重金属の集積に耐性のある植物についてー、ぶんせき、3、p.213~215(1990); 朝日新聞朝刊: 金鉱探査、葉の中を見ればピタリ当たる!?、金鉱探査に使われる植物、ヤブムラサキ、クロモジ、金属鉱業事業団、植物センサー開発中、鉱物の吸収、蓄積現象に着目、1992年4月29日(水); (財)日本自然保護協会編(監修): 指標植物、自然をみるものさし、p.97、大野正男、シダと探鉱、ヘビノネゴザ、平凡社(1994); 山本真男: 金山、菱刈が、佐渡を超えて日本一に、SCIaS、8.1.p.16~17(1997).

(参考資料) 菱刈金山(日本一の金山、ホームページ、鹿児島県): http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/shizen/hishikari.html

植物による鉱脈探し(12.植物の世界、朝日新聞社): http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/13/1312a.htm

ヤブムラサキ(金集積植物、石福金属鉱業):http://www.ishifuku.co.jp/market/price/soba/2007/20070501_54.html; 

ヤブムラサキ(クマツヅラ科、岡山理科大、植物生態研究室): http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/verbenaceae/yabumurasaki/yabumurasaki.htm

クロモジ(クスノキ科、岡山理科大、植物生態研究室): http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/lauraceae/kuromoji/kuromoji.htm

(追加説明) の使用は極めて古く、古代エジプトでは、紀元前3000年頃すでに水簸法(すいひほう、ワンカケ法?)で金が採取され、日本では749年(天平感宝、天平勝宝)、初めて陸奥国(奥州)から金を産出しました。

 は金属中最も展延性が大きく厚さ0.1ミクロンの箔(はく)にできます。は化学的に安定ですが、シアン化カリウム(青酸塩)、王水(濃塩酸:濃硝酸が3:1の混合溶液)、水銀には可溶です。

 の大部分は、自然金、すなわち山金(やまきん)の状態で、また、砂金としても産出します。(下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973)より)

2010年7月24日 (土)

日本三大銅山、別子銅山(愛媛)の歓喜抗と歓東抗(坑道)、シダ(ヘビノネゴザ)の銅蓄積、リョウブの樹林、マイントピア別子の東平と端出場ゾーン(産業文化遺産)、とは(2010.7.24)

  別子銅山(べっしどうざん、愛媛)は、足尾銅山(あしおどうざん、栃木)、日立銅山(ひたちどうざん、茨城)と共に、日本三大銅山の一つに数えられていました。

 別子銅山は、1691年(元禄4年)に採鉱を開始、豊富な産銅量で住友系諸事業の発展を支えてきましたが、コスト高で採算が合わなくなり、1973年(昭和48年)、約280年の歴史を閉じました。その間、約70万トンの銅を産出し、日本の近代化に貢献しました。

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歓喜抗(かんきこう、抗口の上と下の左右にシダ植物、ヘビノネゴザの群生と散生が見られます、別子山村、2009年5月27日(水)、愛媛、google画像)

(解説) 歓喜抗(かんきこう)、となりの歓東抗(かんとうこう)は、別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道で、四国随一の工業都市、新居浜市の発展の基となった所です。1690年(元禄3年)、鉱夫長兵衛(俗称切上り長兵衛)により、嶺南(海抜約1200m)に有望な露頭のあることを知った、備中国(岡山)吉岡銅山(住友家経営)に出向中の重役田向重右衛門らは、苦心して山中を調査し、この付近で見事な鉱脈を探し当て、翌1691年(元禄4年)、幕府の許可を得て、同年9月22日に、採掘を開始しました。この坑の名は、当時の人々の歓びを端的に伝えています。江戸時代を通じて鉱夫はここから入坑し、鉱石も殆どすべてここから運び出しました。また、歓喜抗前には、鋪方役所(採掘事務所)がありました。

別子銅山は、はじめから民間の住友の経営で採鉱された鉱山としても特異な鉱山でした。住友が大阪に設けた銅吹き所では、銅から金銀分を吹き分ける南蛮吹き法などの新技術が導入され、長崎輸出銅のかなりを担当しました。

 南蛮吹き南蛮絞り、なんばんしぼりとも)は、西洋から渡来した銀精錬法で、これは鉛と銅の融点の違いと、灰吹き法を組み合わせたものです。銅鉱石を焼いて得られた粗銅(あらどう)にも銀が含まれています。この粗銅に鉛を混ぜて加熱して融解したあと冷却していくと、融点の高い銅がまず固化します。このとき銀を溶かし込んでいる鉛を絞りとり、フイゴを用い、それを加熱して灰(酸化鉛)にすると、灰の中から銀が得られます(灰吹き法)。

 別子銅山を経営した大坂(大阪)の和泉屋(住友家)は、この南蛮吹き(南蛮絞りとも)によって粗銅から銀を取り出し、巨万の富を築いたと伝えられています。

 山吹(やまぶき)は、①バラ科落葉低木、鮮黄色の五弁花、一重、八重。②山吹色の略。③(山吹色であるからいう)金貨。大判や小判。転じて、一般に金銭をいう。④昔の鉱山で採取した鉱石を溶かして、金・銀・銅などに分離すること。(広辞苑より)

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リョウブの樹林(りょうぶのじゅりん、歓喜抗の近くにリョウブの樹林が見られます、別子山村、2009年5月27日(水)、愛媛、google画像)

 私は、1988年(昭和63年)8月18日、弟(光男)と二人で、また、1998年(平成10年)8月12日、弟(悟)と二人で、別子山村の旧別子銅山入り口より登はん道をたどり、歓喜抗歓東抗を訪れたことがあります。

 そこに近づくにつれ、以前に訪れた足尾銅山と同じように、金属鉱山でよく見られる、かなり大きなリョウブの樹林があったこと、また、かっては、山師が金属鉱山の探査の目印としたシダ植物、ヘビノネゴザが群生あるいは散生しているのが目につきました。 

  歓喜抗(かんきこう)近くで群生していたヘビノネゴザを採取し、ケイ光X線法で調べたところ、非常に大きな銅のピークが現れ、このシダが土中のを根から吸収して、根、茎、葉、特に根に多量に蓄積していることを確認しました。なお、ケイ光X線スペクトルには、非常に大きな銅のピ-クのほか、非常に大きな鉄、カルシウム、カリウムなどのピ-ク、また中程度の塩素、リン、硫黄、ケイ素などのピ-ク、小さなチタン、マンガン、アルミニウムなどの元素のピークが検出されました。

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別子銅山遺跡マイントピア別子、上 東平(とうなる)ゾーン、索道基地跡、下 端出場(はてば)ゾーン、本館、新居浜市、愛媛、google画像)

(解説) 別子銅山遺跡(新居浜市、愛媛)は今、ささやかな観光ブームに沸いているという。大正時代から昭和初期まで採鉱本部があった東平(とうなる)ゾーン、標高750m)は緑があふれ、産業文化遺産として、石造り貯鉱庫通洞跡廃墟などが残っています。 

 また、端出場(はてば)ゾーンは、東平から移転してきた端出場の採鉱本部跡地を利用したテーマパークで、江戸時代の採鉱シーンから近未来シミュレーションまでが体験できる観光坑道、砂金採り体験パークなどがあります。

 私は、1987年(昭和62年)8月6日、弟(悟、光男)と三人で、また、1994年(平成6年)8月6日、家内(尊子)と二人で、マイントピア別子端出場ゾーン、本館、と近くの遺跡、別子銅山記念館などを訪れたことがあります。

(参考文献) 別子山村役場(別子山村、宇摩、愛媛): 別子山村(観光と自然)、旧別子案内図(別子銅山旧跡のあらまし、日浦方面(別子山村)より登はん道順、別子銅山記念館発行より抜粋); 別子山村教育委員会編: 銅の里(あかがねのさと)、旧別子銅山遺跡探訪、明星企画(1987); 別子銅山、緑を再生、「地域と共生」日本の先駆け、2010年(平成22年)4月2日(金)、朝日新聞朝刊より. 

(参考資料) 別子銅山記念館(1975年(昭和50年)に建設、住友グループ広報委員会、新居浜、愛媛):http://www.sumitomo.gr.jp/related/index02.html. この記念館には、以前に、二度ほど訪れ、館員の方から資料もいただき、いろいろご教示いただきました。

マイントピア別子(テーマパーク、公式ホームページ、新居浜、愛媛): http://www.besshi.com/. ここには、端出場(はてば)ゾーン東平(とうなる)ゾーンがありますが、端出場ゾーン、本館には、二度ほど訪れ、楽しいひとときを過ごしました。

旧別子銅山の探索歓喜抗、歓東抗、2009年5月27日(水)、愛ある愛媛、関東から四国へ、移住生活、愛媛): http://ameblo.jp/nnccb139/entry-10268587611.html

(追加説明) ○ 私は四国の銅山では、1988年(昭和63年)8月17日 に広石鉱山跡(德島)、また、翌日の18日に白滝鉱山跡(高知)を弟(光男)と訪れたことがあり、いずれの所でも、シダ植物、ヘビノネゴザの群落が見られました。

広石鉱山(神山町の植生、阿波学会研究紀要、郷土研究発表会紀要第22号、広石鉱山跡のヘビノネゴザ群落の記述があります、德島):http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/22/2205.html

四国の金属鉱山(日本石炭公団ホーム、別子銅山、佐々連鉱山、白滝鉱山): http://www10.tok2.com/home2/kurodaiya/No.3/contents3.html

(追加説明) ○ 別子銅山の平野部の惣開(そうびらき)地区で洋式製錬所が1888年(明治21年)に操業を始めると、亜硫酸ガスが農作物を枯らす「煙害」が表面化、農民運動が相次ぎました。別子の山中は燃料用に森林が伐採され、煙害で山肌がむき出しになりました。

 そこで、住友2代目理事(経営トップ)伊庭貞剛(いばていごう、1847~1926年)は、新居浜沖約20kmの無人島の四阪島(しさかじま、今治市、愛媛)へ製錬所を移転すれば、煙が拡散して被害は起きないと考え、反対も起きましたが、移転を決断、1905年(明治38年)に四阪島での製錬所の操業が始まりましたが、煙害は収まりませんでした。

 その後、1932年(昭和7年)には、亜硫酸ガスを硫酸にして回収する世界でも最新鋭の工場が四阪島にできました。アンモニア水と中和して回収する工場も1939年(昭和14年)に完成、煙害問題は最終決着しました。別子銅山では、排煙脱硫技術から生産した硫酸を、化学肥料の原料とし、これが住友化学の事業母体となりました。日立銅山(日立市、茨城)では煙害を防ぐ巨大煙突を考え出した技術力が、世界的な総合電機メーカー日立製作所の礎となりました。

四阪島(しさかじま、今治市、愛媛、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%9B%9B%E9%98%AA%E5%B3%B6&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

 

2009年9月12日 (土)

吉田神社(京都)と京都大学の青色と赤色の建造物周辺に群生するコケ植物、土壌とタチゴケ、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケの組織内の重金属分布、大学近くの碁会所、とは(2009.9.12)

 吉田神社(よしだじんじゃ、左京区吉田、京都)は、吉田山の麓にあり、京都大学時計台前の正門を出ると、すぐ左に赤い大鳥居が見えます。

 その歴史は古く、9世紀後半、藤原山蔭(やまかげ)が一族の繁栄を祈るために春日(かすが、奈良)四神を勧進(かんじん)したのを始まりとし、藤原道長(みちなが)の氏神社として信仰を集め、卜部(うらべ)氏が、代々神職を努めました。

 室町時代になって神職の卜部兼俱(うらべかねとも、のち吉田姓)が唯一神道(ゆいつしんとう、儒、仏、道の三教に対する神道の純粋性を主張)を唱え、大元宮(だいげんぐう、日本中の神社のご利益を一度に授かれるという)を創祠(そうし)、吉田流神道の総家として大いに興隆しました。

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時計台絵はがき(京都大学、吉田、左京区、京都)  京都大学(ホームページ): http://www.kyoto-u.ac.jp/ja

 ところで、今年(8月4日)の雨水の酸性、アルカリ性の強さ、pH(水素イオン指数)の全国一斉調査(4000人協力)によれば、政令指定都市は平均pH5.33(京都市はpH5.61)でした。

 近年、神社、仏閣の青色の銅葺き屋根や銅像(赤銅色の金属銅が錆びて、緑青、塩基性炭酸銅を生じたもの)、白色の金沢城の鉛瓦(灰黒色の金属鉛が錆びて、鉛白、塩基性炭酸鉛を生じたもの)などが、酸性雨(さんせいう、pH<5.6の雨)により溶解し、周辺の土壌が銅や鉛で汚染されています。

 そこの土の中には多量の銅や鉛があり、有毒な重金属(可吸態、イオン形、可溶)が多いと、普通のコケ植物は全く生えませんが、特に銅の汚染地には、銅に耐性のあるコケ植物、ホンモンジゴケ(センボンゴケ科、Scopelophila cataractae(Mitt.)Bross)、キヘチマゴケ(カサゴケ科、Pohlia bulbifera、また、鉛の汚染地には、鉛に耐性のあるコケ植物、タチゴケ(スギゴケ科、Atrichum undulatum(Hedw.)P.Beauv.)、キヘチマゴケなどの特異的な群落が見られます。

 主として、タチゴケは鉛、亜鉛の汚染地域、キヘチマゴケは、鉛、亜鉛、銅の汚染地域、ホンモンジゴケは銅の汚染地域で群落をなして生育していることが分かりました。

 

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鉛、銅、亜鉛などに耐性のあるコケ植物(左よりタチゴケ、ホンモンジゴケ、キヘチマゴケ) 

 1991年(平成3年)頃の調査でしたが、吉田神社の緑青で青くなっている銅葺き屋根の拝殿の石段の壁には、銅に耐性のあるシダ植物、ヘビノネゴザ、またコケ植物、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケの生育が見られました。

 土壌中の有毒な銅が一番多いところにホンモンジゴケ、その量が少なくなると、隣にキヘチマゴケ、さらに銅が少なくなるとヘビノネゴザの生育が見られ、この植生は、銅の汚染の程度に応じた生育分布を示していることが分かりました。

 また、京都大学の時計台近くの元総長荒木博士銅像、正門から向かって左の銅葺き屋根と雨樋のある留学生センター周辺でも銅ゴケの群生が見られました。

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吉田神社拝殿石垣の植生(左より、ヘビノネゴザ、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケ) 

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吉田神社の表参道の大鳥居(吉田、左京区、京都、google画像)

吉田神社(わたしの青秀庵、ヒデ、京都)http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro-yoshida-jinjya.htmhttp://www5.ocn.ne.jp/~yosida/

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タチゴケ(上)、ホンモンジゴケ(下左)、キヘチマゴケ(下右)の根の横断面の鉛、銅及び鉛の分布

(解説) 吉田神社の鮮やかな赤色の鳥居、本殿(本宮)、摂社、末社、特に摂社の建物の周辺は、金沢城の鉛瓦による鉛汚染地域と似た植生が見られ、鉛に耐性のあるタチゴケとキヘチマゴケの群生が目立っていました。そこで、生育土壌を調べたところ、大量の鉛が検出されました。

 また、有機試薬染色ー顕微鏡観察より、タチゴケとキヘチマゴケの組織中には、表皮から茎の中心部にかけて表皮側ほど多量の鉛を、ホンモンジゴケでは多量の銅を蓄積していることを確認しました。

 宮司さんに電話で塗装(顔料)のことをお聞きしたところ、秘密のことでしたが、赤色の塗装は、安価なベンガラ(酸化第二鉄)は傷みやすく何回も塗装する必要があること、また朱(辰砂、硫化水銀)は高価なので、鉛丹(四三酸化鉛、光明丹、赤鉛)を使っていますとのこと、思いもかけず土壌の鉛汚染を確認したことを懐かしく思い出します。

(参考文献) 山本四郎: 京都府の歴史散歩(上)、山川出版社(1990); 織田樹郎、本浄高治: 重金属汚染地域の金属耐性コケ植物ータチゴケ、ホンモンジゴケ及びキヘチマゴケにおける銅、鉛及び亜鉛のキャラクタリゼーション-(英文)、植物地理・分類研究、43巻、p.91(1995); 本浄高治: 環境をめぐる視点(Ⅱ)、重金属と植物ー自然の回復ー、環境保全(京都大学)、p.25~35(1997); 本浄高治; 重金属と指標植物ー自然環境の回復-、日本海域研究所報告(金沢大学)、30巻、p.171~193(1999); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料)○ 酸性雨調査(2009.8.4): http://weathernews.com/jp/c/press/2009/090804_1.htmlhttp://weathernews.com/jp/c/press/2009/090623.html; 

 顔料と染料(身の回りの粉粒体):http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub73.htm; 丹土:  http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm

○ 指標植物(しひょうしょくぶつ)、重金属集積植物

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(追加説明)○ 鉛の顔料には、白色の鉛白(えんぱく、塩基性炭酸鉛、京おしろい)、黄色の密柁僧(α型一酸化鉛、みつだそう、金密柁、β型一酸化鉛、きんみつだ)、赤色の鉛丹(えんたん、四三酸化鉛、別称光明丹、こうみょうたん)などがあります。

 水銀の顔料には、白色の水銀白粉(塩化水銀含む、伊勢おしろい)、赤色の朱(しゅ、辰砂、しんしゃ、硫化水銀)などがあります。

 鉛と水銀は、共に有毒ですので、現在では白色の顔料として、亜鉛華(あえんか、酸化亜鉛)、チタン白(ちたんしろ、二酸化チタン)などが用いられています。

 また、舗装道路の塗装として、一般に、白線にはチタン白、黄線には黄鉛(おうえん、クロム酸鉛)が使われています。

○ ところで、万葉集に、あおに(青丹)よし  奈良(寧楽、なら)の都(京師、みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく  今盛りなり、という和歌があります。 この歌は、小野老(おののおい)が大宰府(九州)へ赴任していた時、奈良の都を懐かしんで詠んだと言われています。 あおによし(青丹よし)は奈良の枕詞(まくらことば)ですが、従来は特別な意味を持たず、次の語句への口調をよくする言葉です。 一方、あお(青、岩緑青)、に(赤、朱)に色の意味を持たせ、青と赤に彩られた奈良の都(平城京)の建物の美しい景色を称えた歌としての解釈もあります。

 奈良に顔料の青丹(青黒い土、岩緑青、いわろくしょう)を産出したことが秘府本万葉集に見えるが、事実か伝説の記録か不明とのことです。(広辞苑、岩波書店、より) 

〇 あおに(青丹)よし  奈良(寧楽、なら)の都(京師、みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく  今盛りなり(小野老、大宰少貳小野老朝臣歌一首、万葉集巻三・328)

この歌は、730年(天平2年)ころに詠まれ、奈良の都が造られ20年ほど、人口は20万~10万と推定され、10人に1人が役人の政治都市で、活気があったようです。小野老が大宰府(九州)へ赴任していた時、宴席で奈良の都を懐かしんで詠んだとされています。

ところで、この歌の「にほふ」は、この時代には、赤黄白の鮮やかに映ゆることを意味し、のち匂いの香りにも用いるようになっているようです。

また、「咲く花」については、桜という説と、いろいろな花という説があるようですね! ご教示の武田祐吉(1886~1958)「萬葉集全註釈」は、桜の花という説、一方 、伊藤博(1925~2003)「萬葉集釈注」は、その季節に奈良で咲いていた、色々な花(梅、桜、藤波など)ではないか、とあります。

奈良の都から遠く、筑紫の国で、宴席の一座の者達が、望郷の念を募らせ、この直前まで、奈良の都にいた老に、今の平城の都の様子を尋ねたときのの答えがこの歌である、と言われています。

〇 匂ふ”ことについて、先日、ふと思い出したことですが、京都大学学歌(昭和15年1月18日制定)に、 1, 九重に 花ぞ匂へる 千年の 京に在りて その土を 朝踏みしめ ーーーとあり、この歌詞では、九重は宮中、花は奈良から贈られた八重桜、”匂へる”は、香りではなく 見た目の美しさを表す意味のようですね!

百人一首には、いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 、伊勢大輔(61番) (通釈)古い都があった奈良の八重桜は、献上された今日、ここ平安京の九重の宮中で色美しく咲き匂うのだった。

〇 小倉百人一首、いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 伊勢大輔(61番) 『詞花集』春・29、 この句の「にほひ」の「にほふ」については、現在の「におう」にあたり、

におう”(匂う。臭う)は、広辞苑によると、ニは丹で赤色、ホは穂。秀の意で、外に
現れること、すなわち赤などの色にくっきり色づくのが原義。転じて、ものの香がほのぼのと立つ意。多く、良い感じの場合は「匂う」、悪い感じの場合は「臭う」と書く。

○ 私は、愛媛(愛媛大学文理学部、卒業)から京都へ(京都大学大学院理学研究科、進学)、1964年(昭和39年)4月~1969年(昭和44年)3月まで、5年間、京都大学吉田、北部キャンパス(理学部化学教室、化学研究所放射化学研究室、放射性同位元素総合研究室)まで徒歩10分、銀閣寺電停近く、下別当町(村井良治様方、北白川、左京区、京都)で下宿していました。ということで、銀閣寺、哲学者の道、吉田神社の周辺はよく散策したことがあります。

 また、私の趣味囲碁は、下宿から登校途中の農学部正門手前の歩道右側にある碁会所(西村宅、久保田町、北白川、左京区、京都)で、常連の学生として、一般の方々とよく囲碁対局を楽しみました。

 江戸時代、初代名人、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)ゆかりの寂光寺(じゃっこうじ)を、はじめ寂光院と間違え、訪ね歩き、やっとのことで探しあてたことがありました。 

 ご縁があり、京都から金沢へ(金沢大学理学部、就職)、1969年(昭和44年)4月から金沢大学理学部(化学教室分析化学研究室)に勤務し、1991年(平成3年)頃に、鉛瓦(金沢城)、神社、仏閣の銅葺き屋根、銅像(日本各地)などの酸性雨による溶解と土壌汚染、そこに特異的に生育している重金属耐性のコケ植物、シダ植物を環境化学の立場から調べたことがあります。その頃、久しぶりに、京都大学キャンパスへ、近くの吉田神社をフィールドに選び、調査研究したことが懐かしく思い出されます。

2009年7月29日 (水)

兼六園の曲水中の玉石、尾小屋鉱山下の梯川(小松、石川)水中の礫石に付着した藻による水質浄化、うまい鮎(アユ)は日本のどこの川にいるのか、とは(2009.7.29)

   兼六園の中を流れる曲水の水は、犀川の源水と同じ名水です。ところが、犀川源流下の辰巳用水の取水口水がかなり汚れています。これらの水は、ここから少し下った末(すえ)浄水場の横の水路あたりから専用の地下導水管を通って兼六園の山崎山の裏まで送られ、ゴミを取り除き沈砂池に入れられた後、園内に流れ込んでいます。

 兼六園の曲水は、沈砂池から霞ヶ池までが約570m、幅3~4mのせせらぎであり、花見橋付近と千歳橋下流から板橋付近までの約130mほどの曲水の河床直径5~10cmほどの玉石(ぎょくせき、たまいし)が約12万個ほど敷き詰められてさざ波をたてて美しい流れとなっていますが、下流に行くほど河床の玉石に汚れが目立っています。

 見た目は汚く見えますが、これは(も、緑藻、りょくそう藍藻、らんそう、珪藻、けいそう、など)が光合成により水の中の生物が生きていくために必要な酸素を供給し、また水中の細かい泥を自分のからだに付けて曲水の浄化を行っている姿にも見えます。

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曲水中の玉石の藻(兼六園、金沢、石川)

(解説) 自然の河川では、玉石のような礫石(れきせき)に付着した藻は、降水による水量と流速などの変化により、自然に剥離(はくり)し、また新たに付着し、水中の細かい泥の微粒子もその表面にくっつけて泥まみれになり、水質浄化を繰り返し行っています。

 兼六園の曲水では、さざ波がたつ程度の流域は藻の自然の剥離が行われずに汚れが目立っています。そこで、曲水の美観が損なわれないよう、2~3日に1回、竹ぼうきで水底をはき、玉石に付着した汚泥だけは除去しているそうです。

 ところで、1971年(昭和46年)末閉山の尾小屋鉱山(小松、石川)では、主に黄銅鉱が採掘され、採鉱と選鉱に伴う鉱山廃水の汚染により、梯川(かけはしがわ)水系の郷谷川(ごうたにがわ)と梯川の一部を含む約16kmの水域には、生物はほとんど生存しなくなっていました。

 1997年(平成9年)頃、旧尾小屋(おごや)鉱山(小松、石川)下の梯川(かけはしがわ)の鉱毒汚染と水質浄化を河底の礫石に付着した藻類、特にケイソウ(珪藻)の分布状態を調べたことがあります。この時、尾小屋鉱山近くの梯川の岸辺には、重金属耐性のコケ植物(ホンモンジゴケ、キヘチマゴケ)、シダ植物(ヘビノネゴザ)が群生しているのが見られました。

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河川の岸辺のシダ植物ヘビノネゴザ河床の礫石の藻梯川流域、小松、石川)

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ケイソウの顕微鏡写真(1~6 マガリケイソウ、 7~8 コバンケイソウ

(解説) 尾小屋鉱山に近づくほど藻類中の重金属濃度が高く、特に銅が多く検出され、また、銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど鉱山から排出される重金属に耐性が強いとされるマガリケイソウ、コバンケイソウが上流ほど多く、ここでは魚は認められず、下流に行くに従って、この種が減少、他の種類が増える傾向が見られました。 一方、ごく普通の河川に見られるヒゲモが見られる下流方面では、アユやウグイなどの魚が生息するようになっていました。

 また、1999年(平成11年)9月4日(土)、かっては(1955年(昭和30年)頃)、三井神岡鉱山によるカドミウム汚染によるイタイイタイ病(国が認めたのは1969年(昭和44年)頃)で問題となっていた、富山県の神通川流域の水質を河底の礫石に付着している藻類、特にケイソウの分布状態により調査したことがあります。その結果、神岡鉱山の近くの神通川の上流では、尾小屋鉱山下の梯川の上流のような重金属汚染は認められませんでした。

 その日の朝日新聞の朝刊に、河川環境の指標となるアユを食べ比べて自然保護を考えよう(清流を復活させたい)と、高知県友釣連盟(内山顕一、代表理事長)が、3日、初の利きアユ全国大会を高知市内で開いたこと、四万十川はじめ、新潟や愛知、和歌山など10県の27河川からとれた約2500匹を、橋本大二郎知事ら約200人が食べ比べたこと、姿、香り、身など5項目で吟味、さらにアユの塩焼きなども食べた市民による人気投票もあり、最優秀に富山県の神通川のアユが選ばれた新聞を目にして驚き、その記事をスクラップして地元の方にお見せしたことがあります。

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アユの味比べ(高知、1999年(平成11年)9月4日(土)、朝日新聞朝刊、きれいな川にはうまいアユ、高知で味比べ) 

神岡鉱山(岐阜)にまつわる歴史実話、イタイイタイ病(カドミウム汚染、神通川流域)、アユの味日本一(神通川、第1回全国利きアユ大会)、神岡鉱山(近年の周辺の景色)、とは(本浄高治編): http://kanazawa.typepad.jp/weblog/2010/10/kagakufudoki136.html.

(解説) その後、2008年(平成20年)11回までにグランプリをとったのは、高知県内の4河川(安田川は2回、野根川、松葉川、新庄川)、和良川(岐阜県)、宇佐川(山口県)、雫石川(岩手県)、寒河江川(山形県)、損保川(兵庫県)、長良川(岐阜県)で、気象条件なども含め、その年に最もアユに適した環境が保たれていた川のアユが一番おいしかったそうです。

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日本の川で普通に見られるケイソウの顕微鏡写真  ケイソウ(珪藻、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AA%E8%97%BB

(解説) 日本の川で普通に見られるケイソウ(珪藻)は約350種ほど、そのうちアユが生息できる程度のきれいな水域では、約280種ほどのケイソウがあるそうです。アユは、河底の礫石の表面に付着する藻類(藍藻、緑藻、珪藻など)を食(は)むなど、いわゆる、石垢(イシアカ)、コケを食むのですが、なわばりでその回数が多くなるほど、そこのコケは栄養価の高い藍藻(糸状藍藻)が増えていき、それを食べたアユはよく育つとのことです。

 日本各地の河川に放流されている琵琶湖のコアユは、陸封されたために成長が止まったもので、一般の河川に放流すれば大きく育つことを、石川千代松氏、1860年(安政7年)~1935年(昭和10年)、(東京帝国大学教授)は、1913年(大正2年)の春、琵琶湖のコアユを東京の多摩川釜ガヶ淵に放流し、そこで夏に大きく育ったコアユを確かめ証明されました。この学術研究により、日本各地で釣り用の稚魚のアユの放流事業が盛んとなり、今日に至っています。

 私は、琵琶湖の近くの高島(新旭、滋賀)の親戚に、1960年(昭和35年)頃、おじゃましたことがあるのですが、琵琶湖に注ぐ近くの小さな川(水路)の河底が真っ黒になるほど、コアユが遡上しているのを見たことがあります。

(参考文献) 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、本浄高治、兼六園と文化・水の文化ー兼六園の中の名水ー、橋本確文堂(1997); 中西、墨田、弓田、山田、本浄: 石川県尾小屋鉱山下の梯川及び鄕谷川における重金属汚染とその藻における状態(英文)、Anal.Sci.20巻、p.73~78(2004); 山田隆史、墨田迪彰、中西良明、本浄高治: 石川県旧銅山下の河川における付着珪藻群集の分布と化学種分析からみた重金属汚染状態、分析化学、53巻、p.883~889(2004). 

(参考資料) 石垢の話: http://www5e.biglobe.ne.jp/~tomozuri/isiaka.html; 富山県鮎釣りWorld: http://turiworld.net/toyama.html; 彦根観光協会、観光情報: 石川千代松像http://www.hikoneshi.com/sightseeing/?itemid=337; 小鮎塚と石川千代松博士http://www012.upp.so-net.ne.jp/sawayaka/newpage093.html 

(追加説明) 

〇 (あゆ)は、川魚の王として、万葉の昔から賞味(塩焼き、鮎ずしなど)されてきました。鮎には、独特の香味がある香魚とも言われ、また、その腸、子の塩漬け(うるか)は、珍味とされています。アユという名は「落ちる」という意味の古語「あゆる」からという説があります。

 川魚で、より上流に山女(やまめ)、さらに上流に岩魚(いわな)が棲息しています。岩魚は、冷寒な水を好み、一生淡水に留まる、あめ鱒(ます)の陸封された肉食種で、昆虫などを飛びついて食べ、時には蛇を捕らえて食うという。本州、四国、北海道の高さ1000mほどの山間渓流にも棲息し、黒部峡谷の岩魚釣りは有名です。独特の風味ある美味しい魚です。

〇 梅花藻(ばいかも)

 夏の花として、日野山(標高794m)の麓、福井県越前市の上真柄町の治左川では、かれんで白い小花が夏の主役になっています。清流でしか見られないキンポウゲ科の水生多年草「梅花藻(ばいかも)」。猛暑の中、訪れる人たちを涼やかに迎えている。

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清流の水面い涼やかに咲く梅花藻、福井県越前市の治左川で、梅花藻が約300mに渡って群生。水温14℃前後の透き通った流れの中で、緑色の藻と4月中頃から咲き始めた、白い花畑が揺らぐ神秘的な景観を10月まで楽しめる。

 川はレッドデータブックの絶滅危惧種に指定される淡水魚「トミヨ」の県内唯一の生息地。石垣で築いた川縁には、野菜などを洗う「外川端(そとかばた)」の石畳が数カ所あり、水と共に暮らす穏やかな時間が流れている。(2017年7月20日(木)、奥田啓二、北陸中日新聞より)

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