カテゴリー「● 人の世(方丈記、辞世、徒然草、論語、坐禅)」の6件の記事

2013年6月27日 (木)

方丈記(鴨長明、平安末期から鎌倉初期)、序(ゆく河の流れは絶えずして)、天災(大火、大風、遷都、地震)、人災(政治的変乱、出家遁世)、方丈の住居、とは(2013.6.27)

 方丈記(ほうじょうき)といえば、今から800年前、鴨長明(かものちょうめい)が、はじめに(すみか)の無常を説き、次いで、大火地震など見聞した災害の様子、権威にへつらう人間姿自ら半生を紹介。後半で、出家後方丈(いおり)の間取り生活ぶりを描写した随筆です。 

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長明法師画像鴨長明、伝土佐広周筆、google画像)

(解説) 鴨長明(かものちょうめい、かものながあきらとも、1155年(久寿2年)?~1216年(建保4年)は、鎌倉初期の歌人・文学者です。下鴨神社の禰宜(ねぎ)の家に生まれ、管弦の道にも通じていました。和歌を俊恵(しゅんえ、1113年~ ?)に学び、1201年(建仁1年)和歌所寄人(よりうど)となり精勤しましたが、法然(ほうねん、1133~1212)の弟子のもとで1204年(元久1年)出家し遁世(とんせい)、法名、蓮胤(れんいん)。大原山に隠れ、のち日野の外山(とやま)に方丈の庵を結び著作に専念しました。随筆「方丈記」、仏教説話集「発心集」、歌論集「無名抄」などが有名です。

 方丈記

(序)  ゆく河の流(なが)れは絶(た)えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消(き)えかつ結(むす)びて、久(ひさ)しくとどまりたる例(ためし)なし。世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

(解説) 川の流れは絶(た)えることなく、いつも流れつづけている。そして、その水はといえば、すでにもと流れていた水ではない。よどみに浮(うか)んでいる水の泡(あわ)も、こちらで消えたかと思えばあちらで浮(う)いていて、決してもとのままではない。世の中の人や、その住居にしてもまったくこれと同じことだ。 ---

方丈記(鴨長明、がんばれ凡人、古典に親しむ): http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki.htm

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方丈記(ほうじょうき、主な五大災害、安元の大火、元暦の大地震、治承の竜巻、福原遷都、養和の飢饉、朝日新聞:2011年(平成23年)6月20日(月)朝刊)

(解説) 方丈記は、鎌倉初期、1212年(建暦2年)頃の随筆です。人生無常を、仏教的な無常観をもとに、いろいろ実例を挙げて述べ、最後に日野山の方丈の庵に閑居、隠遁するさまを、優れた和漢混交文(漢字交じり片仮名文)で描いています。

 その内容は、(すみか)の無常主題とし、仏教的な無常観をもとに、保元の乱(1156)、平治の乱(1160)、安元の大火(1177)、治承の辻風(1180)、平清盛(たいらのきよもり、1118~1181)の福原遷都(1180)、養和の飢饉(1181)、元暦の大地震(1185)、平家滅亡(1185)のほか、河川氾濫、落雷、疫病流行などを描いています。

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方丈記(ほうじょうき、方丈、朝日新聞:2011年(平成23年)6月20日(月)朝刊)

(解説) 鴨長明は、余生を京の郊外に構えた方丈で過ごし、都を遠く望み、川の流れを見ながら世の中や人生を省察(しょうさつ)しました。

 そして、災厄を生々しく描き、非常時生き方を模索し、無常という思想を引き出し、少欲知足ほどほどの生活を良しとする、生活を実践しました。その無常感は、世をはかなむものではなく、見えない力によって常に変化を強いられる世の中というような意味で、長明はその無常に立ち向かっていく行動の人だったと語られています。 

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 朝日新聞: ことばの旅人、京都・下鴨神社、鴨長明「方丈記」、ゆく河の流れは絶えずして、やっぱりいるぜ こんなやつ、be on Saturday、2004年(平成16年)7月31日(土)朝刊; 世界文化社CULTURE編集部(編)、島尾敏雄、堀田善衛(解説): 徒然草、方丈記世界文化社(2006); 北陸中日新聞: こちら編集委員室、長明に学ぶ「無常」への挑戦、、2011年(平成23年)5月17日(火)朝刊; 朝日新聞:文化の扉、はじめての 方丈記、中世襲った災害的確にルポ、2011年(平成23年)6月20日(月)朝刊.

(参考資料) 下鴨神社(世界遺産、ホ-ムページ、下鴨泉川町、左京区、京都): http://www.shimogamo-jinja.or.jp/

2010年10月 4日 (月)

辞世にまつわる歴史逸話、昔の有名人(武将・禅僧・俳人・文人・本因坊など)の死生観(辞世の句と偈頌)、とは(2010.10.4)

   辞世(じせい)とは、広辞苑によれば、この世に別れを告げること、死ぬこと、また、死に際に残す偈頌(げじゅ、遺喝、ゆいげとも)、詩歌、辞世の句などのことです。日本人で名のある人は、自分の死に際し、辞世の句を詠むのをならいとしました。この風習が盛んになったのは源平時代と言われています。いつの頃からか心に残るものがいくつかあります。

○ 平安時代から鎌倉時代、室町時代の頃の辞世は、

 僧、真言宗開祖、海(774~835)3月21日、62才、832年(天長9年)に高野山の万灯会で「虚空(こくう)尽き、衆生(しゅじょう)尽き、涅槃(ねはん)尽きなば、我(わ)が願いも尽きん」と大誓願を立て、示寂。 921年(延喜21年)、諡号(しごう)弘法大師。 高野山、奥の院の空海廟、「この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける」 そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。 このことにより、弘法大師信仰が1200年を経た今日まで続いています。

 また、秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)、序詩には、「ーーー生まれ生まれ生まれ生まれて 生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死んで 死の終わりに冥(くら)し」 生がどこから始まりどこで終わるのか、答えられないでいるのだ。だからこそ、その刹那(せつな)をどう生きるのか(過去や将来を考えず、一瞬一瞬を大切に生きれば足りるとする!)、そのことが重要な課題となるのだ、と空海はいう。

 武将、薩摩守忠度(さつまのかみただのり、平忠度、清盛の末弟、1144~1184)2月7日、41才、「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを むかしながらの 山桜かな」 平家物語、都落の際、師の藤原俊成(1114~1204)に詠草を託しました。のち、一の谷合戦で岡部忠澄(?~1197)に討たれました。

 文人、吉田兼好(1283?~1352以降?)、70才?、随筆、徒然草(つれづれぐさ)、第七段の中で、「もしもあだし野の露(つゆ)の消える時がなく、鳥部山(とりべやま)の煙(けむり)が立ち去ることがないふうに、人の命がいつまでも此(こ)の世に住み長らえるのがあたりまえであるなら、いかにも趣(おもむき)が無(な)くてつまらない、世の中は定め無(な)きことこそ妙味(みょうみ)がある。ーーー」 徒然草の中心思想は、無常観(むじょうかん)であると言われています。兼好は、平常心で無常と対座し、人の命も人の世も、はかないからこそ生きる価値があり、一瞬一瞬を大切にして生きるべきだと説きました。

 兼好の辞世の句は、かへり来(こ)ぬ 別れをさてもなげくかな 西にとかつは 祈るものから (自分は世を去るが、それはやはり悲しいことだ。ただ西方浄土に行けるよう、祈りはするけど。)

○ 戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代初期の頃の辞世は、

 武将、本多忠勝(ほんだただかつ、1548~1610)12月3日、63才、彼は死に際して息子たちから遺言をきかれ、ただ一言「死にたくない」と言いました。意外に思った息子が、「始めあれば終わりあるのがこの世のならい」と諫(いさ)めますと、忠勝は辞世を一句「死にともな まだ死にともな 死にともな 御恩を受けし 君を思えば」と詠みました。

 武将、織田信長(おだのぶなが、1534~1582)6月2日、49才、彼が好んだとされる「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内(うち)をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり 一度(ひとたび)生(しょう)を得て 滅(めつ)せぬ者のあるべきか」(人間にとっての50年は、神が住む天の時間に比べれば一瞬のことにすぎない。この世に生まれた者は必ず滅びるのだから。)は、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」の一節です。

 武将、豊臣秀吉(とよとみひでよし、1537~1598)8月18日、62才、、「つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」(人の一生などは、すぐ消える露のようにはかないものだ。大坂城を作り、栄華を極めたように思われているが、夢でしかない。) わが身(わかみ)を露(つゆ)になぞらえるのは、鎌倉以来の古典的な無常観、さらに、自分が最終的なよりどころとしていた難波(なにわ)を、「ゆめのまたゆめ」とすることによって、秀吉が、心の底では無常を痛切に感じていたことを示しています。

 武将、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)4月17日、75才、、「嬉(うれ)しやと 二度さめて一眠り うき世の夢は 暁(あかつき)の夢」 (お終いと目を閉じたが、嬉しいことにまた二度も目覚めた。一眠りしょう。この世のことは暁の空のようにひと時のことだ。)「先に行く あとに残るも同じこと 連(つ)れて行けぬを 別(わかれ)とぞ思ふ」 家康の家訓によれば、「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くが如(ごと)し 急ぐべからず ーーー」という。

 初代本因坊、碁の名手、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ、1559~1623)5月16日、65才、「碁(ご)なりせば 劫(こう)を打ちても活(い)くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」 1623年(元和9年)5月16日示寂、法名日海上人。碁では、死(しに)石も劫(こう)の手段により活(い)かすことができるが、人の死については、手の打ちようがないという。

○ 江戸時代中期から後期の辞世は、

 俳人、松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)10月12日、51才、「旅に病(や)んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」(旅の途中で重い病気にかかってしまった。寝ていて、夢で野原を駆け回るのだが、野原は枯野で、今の自分の人生のようだ。)1694年(元禄7年)5月、江戸を出て長崎に向かっていましたが、大阪に入って発病し、門人の看病にもかかわらず、ついに同年10月12日に一生を閉じました。

 俳人、加賀千代(かがのちよ、1703~1775)9月8日、73才、「月も見て 我はこの世を かしく哉(かな)」 (月も見たし、私はこのへんで、謹んでこの世から失礼いたします。) 秋も深まりつつある9月8日、病気と老衰が重なり、この句を詠み残して、福増屋の白烏、なを夫婦、孫、すへ女らに見守られて亡くなりました。

 禅僧、良寛(りょうかん、1758~1831)1月6日、74才、3句、「散る桜 残る桜も 散る桜」 「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」(形見に何を残す必要がありましょうか。春は桜、夏はほととぎす、秋はもみじ、これらが私の形見だと思ってください。)彼の和歌の中に、「良寛に 辞世あるかと 人問はば なむあみだぶつ といふと答えよ」と詠われいて、私の辞世は「南無阿弥陀仏」と示し、浄土教にも深い信仰心を持っていました。

 文人、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、1765~1831)8月7日、68才、「此の世をば どりゃお暇(ひま)に せん香(こう)の 煙とともに 灰(はい)左様なら」 (さあ、この世を線香の煙と一緒に失礼しよう。では、はい(灰)さようなら。)滑稽本作者らしい、まことにおもしろい辞世の句です。

 禅僧、仙厓(せんがい、1750~1837)10月7日、88才、彼は正直に書く、「来時知来處 去時知去處 不撤手懸厓 雲深不知處」(この世に来た時に、どっちから来たか知っとらんしゃったこと、去る時にもどっちに行きんしゃあか分かるくさ。ばってん、今、崖(がけ)っぷちにぶらさがっとって、手ば放されんけん、雲が深うて、行き先がよう見えんばい。長性寺、野口氏訳)、「老師、そげな心細かごたあ遺偈やら、格好わるかばい」弟子がそう言ったかどうか、定かでない。しかし更に一言を求められた仙厓は、「死にとうもない」と答えたと言われています。(玄侑久:仙厓 無法の禅(23)、北陸中日新聞、2010年(平成22年)10月1日(金)、夕刊より)

○ 明治時代辞世は、

 俳人、正岡子規(まさおかしき、1867~1902)9月19日、35才、3句、「糸瓜(へちま)咲(さい)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」 (庭で咲いている糸瓜の花を見ながら、痰をつまらせている私は、もはや、この世の人ではない。まるで仏のようだ。)「痰(たん)一斗 糸瓜(へちま)の水も 間にあはず」 「をとゝひの へちまの水も 取らざりき」 これら糸瓜を詠んだ句より、子規の忌日9月19日を糸瓜(へちま)忌と言い、また、雅号の一つから、獺祭(だっさい)忌とも言います。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.235、辞世の句(歌)いろいろ、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 宣田陽一郎編: 魂をゆさぶる 辞世の名句、成美堂出版(2009). 

(追加説明) ○ 辞世の名句 (宣田陽一郎編: 魂をゆさぶる 辞世の名句、成美堂出版(2009)、より) 

 平安時代  

 西行法師(さいぎょうほうし、73才) 願(ねが)はくは 花の下(もと)にて春死なむ そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ (死ぬときは、春、咲き誇るきれいな桜の下で死にたいものだ。如月(きさらぎ)の満月の頃に。)西行は、23歳のとき出家、26歳から奥州、四国など各地を行脚50年、1190年(建久元年)2月16日に亡くなったという。この歌は、山家心中集(自選歌集、約600首)の中にあり、年齢的にも西行の辞世歌でなく、釈迦入涅槃の2月15日とは違うのではないかとも言われています。

 西行が俗世を見切るきっかけは、親友の死に無常を感じたから、つりあわない高貴な女性を愛し失恋したから等々、古くから諸説がある。「西行法師絵物語(江戸時代)」では、仕事から帰宅して、お帰りなさいと駆けよってくる幼い愛娘のあまりのかわいらしさに、これこそ魔縁、出家の足かせと、縁側から蹴落とし俗世への思いをたち切っていた。真偽はわからないが、名場面として語り草となっている。

 鎌倉時代 

 親鸞(しんらん、90才) 恋(こひ)しくば 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱(とな)ふべし 我(われ)も六字(ろくじ)の中にこそあれ (私は死ぬが、もし、私に会いたくなったら、南無阿弥陀仏と唱えなさい。私はこの言葉の中に生きているから。)

 室町時代 

 一休禅師(いっきゅうぜんじ、88才) 極楽(ごくらく)は 十万億土(じふまんおくど)とはるかなり とても行かれぬ わらじ一足 (極楽は十万億土も離れた遠い所だという。まったく遠すぎて、わらじ一足ではとても行けそうにない。) この世にて 慈悲も悪事もせぬ人は さぞや閻魔(えんま)も困りたまはん

 戦国時代 

 細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ、38才) 散(ち)りぬへき とき知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ (命あるものは、命が終わるときを知らなければならない。それでこそ、花は花として美しく輝き、 人は人になれるのだから。)

 江戸時代 

 小堀遠州(こぼりえんしゅう、69才) 昨日(きのふ)といひ 今日(けふ)と暮らしてなすことも なき身の夢(ゆめ)の さむるあけぼの (今までの人生と残した仕事さえ、亡くなって逝(ゆ)く自分には、曙(あけぼの)の中で はかなくさめていく 夢のような気がする。) 

 小林一茶(こばやしいっさ、65才) ああままよ 生きても亀の 百分の一 (鶴は千年、亀は万年という。しかし、自分のように気ままに生きても、人はせいぜい 亀の百分の一さ。)

 高杉晋作(たかすぎしんさく、29才) おもしろき こともなき世をおもしろく 住(す)みなすものは 心なりけり (この世は心の持ち次第だ。不満を言わずに気持ちを変えれば、世の中は面白く、楽しくなってくる。)

 明治時代 

 西郷隆盛(さいごうたかもり、51才) ふたつなき 道にこの身を捨小舟(すてこぶね) 波たたばとて 風吹かばとて (たったひとつの自分が信じる道に、身は小舟のように捨てよう、波風がたったときの備えとして。)

 昭和時代 

 宮沢賢治(みやざわけんじ、38才) 病(いたつき)のゆゑにも朽(く)ちぬ いのちなり 御法(みのり)に棄(す)てば うれしからまし (私は病気のために死んで逝(ゆ)くが、深く信じている法華経の世界に生きることができるので嬉(うれ)しい。) 臨終の床の中から父に残した言葉は、「法華経を一千部印刷して皆さんに配って下さい」だった。

○ 人の世 (柳澤桂子: いのちと放射能、ちくま文庫(2007)、より)

  私たちはこの広大な宇宙の一点に生きています。150億年という宇宙の歴史の一点に生きています。時間的空間的に宇宙というスケールで自分を見つめてみようではありませんか。この宇宙の中で、人間とは自分とはいったい何なのでしょう。40億年の生命の歴史の中で、私とはいったい何なのでしょう。人間はどこからきて、どこえいくのでしょう。

 1.1日1日をていねいに、心をこめて生きること 2.お互いの人間存在の尊厳をみとめ合って(できればいたわりと愛情をもって)生きること 3.それと自然との接触を怠らぬこと 

結局のところ人の世詩も幸せもこの他になく、それ以外はすべて空しいことにすぎないのではないかな。

 これは、医師であった細川宏((ほそかわひろし、1922~1967、46才、解剖学者、東大医学部教授)氏が、ガンで亡くなる28日前に書き残されたものです。これは、細川氏だけでなく、多くの宗教家や修行者や思索者や苦しみを生きぬいた人々が到達する共通の結論です。すべての欲を捨て去ったときに、人間は人間にとって一番大切なものが何であるかということを知るのです

○ 素顔を見つめる (樋口清之編:生活歳時記、p.328、遠藤周作(1923~1996,作家)、素顔を見つめる、ぐうたら生活入門、三宝出版(1994)、より) 

  諸君。諸君がもし生活に多少とも退屈し、おれはこのままでええんやろうかと、ふと思われることがあればーーー、いやいや、きっと、そう思われるにちがいない。ーーーー そう思われたならば、ワシは諸君に一つの場所に行ってみることをお奨めする。それは病院だ。ーーー、病院とは、生活のなかで他人にみせる仮面ばかりかむっているワシらが、遂に自分の素顔とむきあわねばならぬ場所だ。

 わしは長い間、病院生活をやっとったから、これだけは確実に言えるのだが、夕暮れに灯(ともしび)がうるむ病院の窓では社会の地位や仕事がなんであれ、自分の人生をじっとふりかえる人びとが住んでいる。病苦のおかげでみんな、そうせざるをえんのでなア。 ワシらの生活には仮面をぬいで、自分の素顔とみきあおうとする時はそうざらにない。いや、ひょっとすると、素顔をみることが怖(おそろ)しいのかもしれんなア。ーーー

○ 人生意気に感ず魏徴述懐詩、人生感意気、功名誰復論: http://3rd.geocities.jp/cgdxs125/index29.html) 人間は人の意気に感じて行動する。金銭や名誉は問題外であるということ意気とは、①きだて。心ばえ。きまえ。心もち。気性、②気力。気合。気概(困難にくじけない強い意気)。いきごみ。、③意気地(事を貫徹しようとする気力)のあること。心意気。(広辞苑より)

〇 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

毎年毎年花は同じように咲く 毎年毎年人の顔ぶれが異なる!

自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させ、人生の無常を詠歎した句です。

唐詩選 中国唐代の詩人 劉廷芝(劉希夷とも、651~679)

代悲白頭翁    白頭を悲しむ翁に代りて

古人無復洛城東  古人無復洛城の東に無く
今人還対落花風  今人還た対す 落花の風

年々歳々花相似  年々歳々、花相い似たり
歳々年々人不同  歳々年々人同じからず

寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子
応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁

2010年6月27日 (日)

徒然草(吉田兼好、鎌倉末期)、つれづれなるままに、ある人が法然上人に、仁和寺にいたある法師、高徳の僧侶たちの言い置いたこと、八つになった年私は父に、とは(2010.6.27)

   徒然草(つれづれぐさ)と言えば、高等学校の国語(古文)の時間に、はじめて習った古典文学です。今から700年前、吉田兼好が書きつけた、序段と連想の243段からなる思索と見聞の随筆です。改めて目を通すと、そのような考え方、教え、生き方もあるものか、と感じ入りました。

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兼好法師画像吉田兼好、狩野探幽筆、google画像)

(解説) 吉田兼好(よしだけんこう、兼好法師とも)、1283年(弘安6年)?~1352年(文和元年)以降?は、鎌倉末期(南北朝期)の歌人、随筆家です。俗名は卜部兼好(うらべかねよし)、先祖京都吉田神社神主の家で、後世、吉田兼好とも言う。初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至ります。天皇崩御後、1313年(昭和2年)9月以前、30才頃に出家、遁世しています。鎌倉末期の社会を活写した、徒然草のほか、自撰の兼好法師集があります。

 徒然草(つれづれぐさ)は、鎌倉末期の文学作品(随筆)で、朝廷に蔵人として仕えやがて遁世した吉田兼好(著者)が、48、9歳の頃、過去の時代の説話、見聞した同時代の話や書物から知り、聞いた故実や有職などを綴ったもので、鎌倉末期の社会の動きを知る歴史史料としても一級品です。

 その内容は、無常、求道、自然観、住環境、趣味、人間観察、人生訓、有職故実、考証、逸話、滑稽談など多岐にわたっています。宮廷社会の動きや都市化していった京都とその周辺の暮らし、風俗を知る上で貴重な情報を伝えています。上下2巻、244話(序段のほか、243段)構成、原本はないのでが、最古の正徹筆写本、伝東常縁書写本などがあり、流布本は烏丸本です。清少納言の枕草子と共に随筆文学の代表とされています。

 以下、序段、第39段、第52段、第98段、第143段は、寸言、求道、人生訓、滑稽談などに関するもので、面白く、印象に残りました。

○ (序段) つれづれなるままに、一日中机に向かい、心に移り行く思いをあれこれと書きつけると、妙(みょう)にあやしいきもちになる。

(解説) つれづれ(徒然)とは、これといってすることもなく、退屈(たいくつ)でひまなこと。ひとり物思いに沈み、しんみりすること。時間が長く、周りに人のいない孤独感も語感に含まれています。書名の中のは、書きつけた、くさ(種、話のたね、話題のもと、材料)の意味だと思います。兼好は、つれづれを活用して文章を書き、自分の世界を開きました。

○ (第39段) 或(あ)る人が 法然上人(ほうねんしょうにん)に、「念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えるときに眠気(ねむけ)に襲われ行(ぎょう)を怠ることがあるのですが、どんなふうにしてその障碍(しょうがい)を乗り越えたらいいでしょう」と言ったところ、「目のさめているあいだは念仏を唱えていなさい」と答えられたそうだが、まことに尊(とうと)いことばだ。また「極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)する事は必ず出来るのだと思えば出来るし、出来そうもないと思えば不確(ふたし)かなことになる」と言われた。これも尊いことばだ。また「疑いながらも念仏を唱えれば往生できる」とも言われた。これもまた尊いことばだ。

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法然上人絵伝生涯の行状、国宝、京都知恩院蔵、google画像)

(解説) 法然上人、1133年(長承2年)~1212年(建暦2年)、鎌倉初期の僧、浄土宗の開祖、1147年(久安3年)15才、比叡山延暦寺で源光(生没年未詳)の門に入り、天台宗を学んだが、1150年(久安6年)18才、教学などに対する疑問を生じ、比叡山西塔、黒谷叡空(くろたにえいくう)のもとで20年間修学、唐(中国)の善導(ぜんどう)、613年(大業9年)~681年(永隆2年)、の観経疎(かんぎょうしょ、観無量寿経の注釈書)を読み、修念専仏(せんじゅねんぶつ、称名念仏、しょうみょうねんぶつ)、ひたすら南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)を口で唱える浄土宗を開きました。

 疑いながらも念仏を唱えれば往生できる、とは、浄土宗系の他力本願のことで、阿弥陀仏の発した願い、慈悲そのものが衆生を救う力で、それにすがるために念仏をひたすら唱える意、と言う。

 浄土宗の総本山、知恩院(ちおんいん)は、東山三十六峰の一つ、華頂山山麓に位置しています。境内には開祖法然上人の遺骨を奉じる廟堂もあり、民衆と強く結びついています。

○ (第52段) 仁和寺(にんなじ)に居た或(あ)る法師(ほうし)が、年をとるまで石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に参詣(さんけい)したことがなかったので情(なさけ)ないことに思い、或る日思い立ってただひとり歩いてお参(まい)りした。麓(ふもと)の極楽寺(ごくらくじ)や高良社(こうらしゃ)などの末社(まっしゃ)を拝(おが)み、これだけのものと思いきめ、山上(さんじょう)の本社(ほんしゃ)には行かずに帰ってしまった。さて、仲間に会って、「長いあいだ思いつづけてきたことがやっと果たせて、やれやれだ。聞きしにまさる尊(とうと)いものであった。でも参詣の人がみんな山の方に登って行ったのは何があったのだろう。自分も行ってみたかったけれど、神詣(かみもうで)でこそ本筋(ほんすじ)と思い、山の上までは行かなかったよ」と言ったという。些細(ささい)なことにも、先達(せんだち)はほしいものだ。

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石清水八幡宮曼荼羅、山城、京都、根津美術館蔵、google画像)

(解説) 石清水八幡宮は男山山頂の本殿などの上院と、麓の下院に分かれ、下院に高良社があります。極楽寺は神社に付属する神護寺(神宮寺)で、現存していません。人々が山上に登るのは、八幡宮が男山の上にあるためです。

 ちょっとしたことでも、案内者(指導者)のいたほうが、大失敗を避(さ)けることができるものだ、との人生訓ですが、その法師を登場させて、当時の宗教界の不健全さを皮肉ったとも言われています。

 石清水八幡宮は、伊勢神宮に並ぶ神宮寺で、朝廷、武家の尊崇も厚く、天皇、上皇のおでましも多かったようです。因みに、仁和寺から石清水まで、一般には船で川を下って行くことが多いのですが、徒歩の場合は、八幡宮のある男山の麓、極楽寺、高良神社を通ることになるようです。

 仁和寺は、真言宗御室派の総本山で、888年に創建、年号の仁和によって名付けられました。皇室との関係が深く、法皇が住し、御室御所とも呼ばれていました。

 仁和寺の南に最高峰で100mほどの丘陵、双ヶ岡があり、その東麓に兼好は隠棲していたと言われています。そのため、仁和寺の僧とも何らかの交わりがあり、これはその時に耳にした話ではないかと思います。

 これ以外にも仁和寺の僧に関する逸話(第53段、第54段など)があります。 第53段の鼎(かなえ)をかぶって首が抜けなくなった僧の話は、小学校の学芸会の時に演じた想い出があります。

○ (第98段) 高徳(こうとく)の僧侶(そうりょ)たちの言い置いたことを書きつけ、「一言芳談(いちごんほうだん)」とか名づけた本を読み、心にかなって感銘(かんめい)したことの条々(じょうじょう)。 一、することにしようか、しないでおこうかと思い迷(まよ)ったことは、大方しない方がよい。一、死後の安楽(あんらく)を願う者は、ぬかみそ甕(かめ)一つも持ってはいけない。常住(じょうじゅう)所持するお経から守り本尊(ほんぞん)に至るまで、立派な品を持つのはつまらんことだ。一、出家遁世(しゅっけとんせい)した人は、物が無(な)いことに不自由を思わぬ方法を心がけて暮らすのが、一番よいやり方だ。一、上位の僧は下位の僧の心になり、智者(ちしゃ)は愚者(ぐしゃ)になり、物持ちは貧しき者の立場になり、芸能(げいのう)ある者は無能(むのう)に立ち返らなくてはいけない。一、仏道(ぶつどう)を願うというのはほかのことではない。閑(ひま)のある身上になって、世間(せけん)の事を心にかけぬことを第一とすることだ。このほかにもあったが忘れた。

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一言芳談和書、元禄2年刊、国文学研究資料館、google画像)

(解説) 一言芳談は、編者未詳(明遍の系譜の聖による編纂?)、浄土宗関係の高僧達による仮名法語の収録書です。兼好が考証した僧の望ましい生き方が述べられていると思います。

 ぬかみそは、原語は、糂汰(じんた)で、麹(こうじ)と糠(ぬか)と塩を混ぜて発酵させたもので、野菜や魚をつけた漬け物の床としてだけでなく、そのまま食べることもありました。

○ (第143段) 八つになった年、私は父に、「仏(ほとけ)とはどんなものですか」と問うた。父は、「仏とは人間が成(な)ったものだ」と言った。私はまた問うて「では人はどのようにして仏に成るのですか」ときくと、父はまた、「仏の教えによって成るのだ」と答えた。私はまた。「人に教えた仏には、何者(なにもの)が教えたのですか」ときいた。父は更(さら)に答えて。「その前の仏の教えによってそう成るのだ」。私はなお、「ではその教えはじめた第一番目の仏は、どんな仏ですか」ときくと。父は「はてさて、それは天(てん)から降ったか地から湧(わ)いたか」と言って笑っていた。そして。「子どもに問いつめられて、答えられなくなってしまった」と人々に語ってはおもしろがっていた。

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幼時の体験仏をめぐる父との問答、アニメ古典文学: http://www.sun-edu.co.jp/anime_koten/tsurezure/anime_4_tsurezure.htm、google画像)

(解説) 八歳の兼好が父に突きつけた問は、論理的な思考に貫(つらぬ)かれた難問で、父は即答できず、笑ってごまかしましたが、内心ではわが子の明晰(めいせき)な頭脳に舌を巻いたことと思います。兼好にとって、父との遠い想い出ですが、自分の思想の旅路を締めくくる意味もあり、また、老いると子どもに帰るとも言われ、このお話を最終段に持ってきたとも考えられています。一方、これは老いた今の自分も解けない難問と述べているようにも感じられます。

 吉田兼好の父は、卜部兼顕(うらべかねあき)で治部少輔、京都の吉田神社社務職の出とも言われています。治部省は僧尼、山陵、宮廷、雅楽などを司る役所で、少輔は従五位下に当たります。 

 吉田神社の歴史は古く、9世紀後半、藤原山蔭(やまかげ)が一族の繁栄を祈るために春日(かすが、奈良)四神を勧進(かんじん)したのを始まりとし、藤原道長(みちなが)の氏神社として信仰を集め、卜部(うらべ)氏が、代々神職を努めました。

 室町時代になって神職の卜部兼俱(うらべかねとも、のち吉田姓)が唯一神道(ゆいつしんとう、儒、仏、道の三教に対する神道の純粋性を主張)を唱え、大元宮(だいげんぐう、日本中の神社のご利益を一度に授かれるという)を創祠(そうし)、吉田流神道総家として大いに興隆しました。今でも中近世の絶大な権威のよすがを残しています。

 徒然草の中心思想は、無常観(むじょうかん)であると言われています。兼好は、平常心で無常と対座し、人の命も人の世も、はかないからこそ生きる価値があり、一瞬一瞬を大切にして生きるべきだと説きました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 稲田利得編: 校注、徒然草、和泉書院(2004); 世界文化社CULTURE編集部(編)、島尾敏雄、堀田善衛(解説): 徒然草、方丈記、世界文化社(2006); 角川書店編(吉田兼好、武田友宏): 徒然草、角川学芸出版(2008).

(参考資料) 比叡山延暦寺、天台宗総本山、大津市(滋賀)、京都市(京都):http://www.hieizan.or.jp/

知恩院(浄土宗総本山、法然の廟所、林下町、東山区、京都): http://www.chion-in.or.jp/; 知恩院(浄土宗総本山、東山区、京都、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 

仁和寺(ホームページ、御室、京都): http://www.ninnaji.or.jp/index.html

石清水八幡宮(ホームページ、山城、京都): http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu.htm

吉田神社http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro-yoshida-jinjya.htmhttp://www5.ocn.ne.jp/~yosida/

梁塵秘抄 (平安時代末期、後白河法皇編、今様歌謡集、巻第二 法文歌 雑法文歌、仏も昔は人なりき、-- -):http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_02.html. 仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ(仏も昔は人間だった。われらも最後には仏に成れるべき性質を本来備えている身だと知らずに、仏道をなおざりしているのは悲しいことだ。三身は法身、報身、応身で、いずれも仏の身を表すもので、三身仏性は仏性というのと同じ。衆生が本来備えている仏に成りうる資質をいう。植木朝子編、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)

2010年6月18日 (金)

禅(無門関、中国)の言葉、平常心是道(公案、南泉と趙州の禅問答)、とは(2010.6.18)

  平常心(へいじょうしん、びょうじょうしんとも)という言葉をよく耳にします。広辞苑によれば、(特別な事態に臨んでも)普段どおりに平静である心、と言う。これは、無門慧開(むもんえかい、1183~1260年)が編集した48の公案集(こうあんしゅう)、無門関(むもんかん、宋代、中国)、第十九則の中にある、平常心是道(びょうじょうしんこれどう)、という公案(悟りを開くために与えられた課題、禅問答)に由来する言葉です。 

 禅は、サンスクリット(梵語、インド)でデイヤーナ(dhyana)、パーリ語(巴利語、インド)でジャーナ(jhana)の語を音写したものです。しばしば靜慮(じょうりょ)と訳され、坐禅により心を鎮(しず)め、静かに叡智(えいち)を働かせる、と言う。

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南泉普願(なんせんふがん、36世、唐代禅僧、中国、google画像)

 南泉普願(なんせん ふがん、748~835年)と趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778~898年)との次のような禅問答は、平常心こそが道だ、と説いています。

 南泉趙州が、「とはどんなものですか」とたずねたので、「ふだんの心が道である」と答えた。。(南泉、因趙州問、如何是道。泉云、平常心是道)。趙州は問うた、「それをめざして修行してよろしいでしょうか」。南泉は答えた、「めざそうとすると、すぐにそむく」。趙州、「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」。南泉、「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。知るというのは妄覚(誤った知)だ、知らぬというのは、無記(知の外)だ。もしほんとにめざすことのない道に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。そこをむりにああのこうのということなどできはしない」。

(解説) ふだんの心が道だ、というのは、有名な「平常心是道」の句の訳です。我々の日常そのものが道、と言う。しかし、それはめざしたとたん、そむいてしまう、と言う。対象的に捉(と)えられるものではない。その日常生活のただ中にある、絶対の主体そのものに生きるとき、虚空のように、障礙(しょうがい)が何一つない、さわやかさを覚えるのだ、と言う。 

 禅宗は、伝説的には、5世紀末に、菩提達磨(ぼだいだるま)がインドから中国にやってきて、禅観の法を伝えた、と言う。末期、五代十国の頃には、臨済宗(りんざいしゅう)、潙仰宗(いぎょうしゅう)、曹洞宗(そうどうしゅう)、雲門宗(うんもんしゅう)、法眼宗(ほうげんしゅう)の五家が有名で、この頃は、中国の政治、文化を指導していました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 竹村牧男: 禅のこころ、その詩と哲学、ちくま学芸文庫(2010).

(参考資料) 曹洞宗(曹洞禅ネット、永平寺、福井): http://www.sotozen-net.or.jp/

(追加説明) ○ 日本鎌倉時代から室町時代にかけ、中国では、が政治、文化を指導し、五山十刹(ござんじっさつ)の制度も確立されました。

 室町幕府、将軍(第3代)、足利義満、1358年(正平13年、延文3年)~1408年(応永15年)の頃、この中国の制度を採用しました。五山は官寺の禅院の最高の寺格で、その下に、十刹、諸山などが位置付けられました。中国の五山(南宋時代、杭州、明州)は、径山万寿寺、霊隠寺、天童寺、淨慈寺、阿育王山広利寺でした。

 官寺として、幕府の保護と管理を受けた日本の五山(鎌倉五山、京都五山、臨済宗、叢林(そうりん)とも呼ぶ)が確立され、その外にある大徳寺(臨済宗、京都)、妙心寺(臨済宗、京都)、永平寺(曹洞宗、福井)、総持寺(曹洞宗、能登から横浜に移転) などを林下(りんか、叢林下の意味)と呼び、南禅寺(臨済宗、京都)を別格としました。五山の順位は、鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、淨智寺、浄妙寺、また、京都五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺で、五山の上が南禅寺となっています。

 五山の禅僧は、幕府の外交、文化の顧問として活躍し、五山文学(漢詩文など)をはじめ学芸の興隆に寄与しました。

○ 兵法の道における平常心(ふだんの心)については、 兵法の道におゐて、心の持やうは、常の心に替る事なかれ。(宮本武蔵、五輪書、より)、また、僧、古徳ニ問フ、如何カ是レ道ト、古徳答テ曰ク、平常心(ふだんの心)是レ道ト。この話、諸道に通じたる道理也。道とは何たる事を云ぞととへば、常の心を道と云也、とこたへられたり。実に至極之事也。ーーー。此平常心をもって一切の事をなす人、是を名人と云也。(柳生但馬守宗矩、兵法家伝書、より)   

○ 阿吽(あうん)は、梵語a-humの音写で、阿は口を開いて出す最初の音、吽は口を閉じて出す最期の音です、最初と最期で、密教では、阿を万物の根源(原因、理)、吽を万物の結果(智、一切が帰着する智徳)とする。寺院山門の仁王、獅子、狛犬(こまいぬ)などは阿吽を表し、一は口を開き、他は口を閉じる。また、呼気と吸気、阿吽の呼吸は、共に一つの事をする時などの相互の微妙な調子や気持。(広辞苑より)

○ 和顔愛語(わげんあいご、わがんあいごとも)という言葉は、おだやかな顔でやさしい言葉をかけるという仏教用語です。大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)というお経の中に説かれている言葉です。笑顔と言葉によって人を幸せにすることが出来るという教えです。

 仏教の無財の七施には、和顔施(おだやかな顔)、慈眼施(やさしい眼差し)、愛語施(やさしい言葉)、身施(美しい身のふるまい)、心施(思いやりと感謝の心)、床座施(人に席をゆずる)、房舎施(自宅でのもてなし)などがあります。金品や物でなく、無財で人を幸せな気持ちにさせるお布施です。

 

孔子(論語)の言葉、學びて時に、吾れ十有五にして、故きを温めて、これを知る者は、老子(老子道徳経、老子とも)の言葉、多言なれば、道は自然に、諺 歳月人を待たず、とは(2010.6.18)

   孔子(こうし)、(紀元前552~紀元前479年)は、中国、周(春秋)時代の学者、思想家、儒教の祖です。紀元前500年の頃と言えば、日本は、今から2500年ほど前の原始、縄文時代です。その頃、孔子が、70余年の複雑な人生体験に基づき、弟子(でし、70人?)と交わした問答は、のちに弟子たちによりとしてまとめられました。

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孔子画像(唐、呉道子、中国、google画像)

(解説) 孔子の学問(儒教)は、死後338年たって、漢の武帝(ぶてい)、(紀元前156年~紀元前187年)の時、紀元前136年(建元5年)、国家の正統思想として認められました。

 儒教日本への伝来は、古く、飛鳥時代天智天皇(第38代)、626年(推古34年)~672年(天智天皇10年)、の勧学堂(大津、滋賀)における儒教教育、憲法十七条、令(りょう)、式に、その影響が見られます。

 論語は、512の短文を20編の構成にまとめたものですが、いつの頃からか、強く、私の心に残っている言葉があります。

○ 子曰(しのたま)わく、學(まな)びて時(とき)にこれを習(なら)う、亦(ま)た悦(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方(えんぽう)より來(き)たる、亦(ま)た楽(たの)しからずや。

 孔子がいわれました。学問の楽しさ、それは先生から学んだことをときどき復習してみる。そしておさらいするたびに、なにか新しい意味を発見するということだ。遠方から友だちがやってきて、学問のことをたがいに論じ合う、それはひとりで復習しているのと比べて、いちだんと楽しいことではないか。

 これは、学問をするのは楽しいから学問するのであって、むりに勉強するのではない、という言葉です。

○ 子曰(しのたま)わく、 吾(わ)れ十有五(じゅうゆうご)にして學(がく)に志(こころざ)す。三十にして立(た)つ。四十にして惑(まど)わず。五十にして天命(てんめい)を知(し)る。六十にして耳從(みみしたが)う。七十にして心(こころ)の欲(ほつ)する所(ところ)に從(したが)って矩(のり)を踰(こ)えず。

 孔子が言われました。わたしは数え年十五歳ではじめて学問の道に志し、三十歳で自分の立場をかため、四十歳ではすっかり迷いがなくなり、五十歳で運命のなんであるかを知り、六十歳では他人の言をすなおに受け取ることができ、七十歳では欲するままに行ってもすこしも行きすぎがないようになった。

 これは数え年七十四歳で死んだ孔子が、晩年に自分の一生の経歴を振り返って述べた自叙伝のようなものです。 

 これらの言葉から、人の年齢の別称として、15歳、志学(しがく)、30歳、而立(じりつ)、40歳、不惑(ふわく)、50歳、知命(ちめい)、60歳、耳順(じじゅん)、70歳、従心(じゅうしん)が生まれました。

○ 子曰(しのたま)わく、故(ふる)きを温(あたた)めて新(あたら)しきを知(し)る、以(もつ)て師(し)と為(な)るべし。

 孔子が言われました。過去の歴史、伝統を、もう一度考え直して、現代に生かす新しい意味を知る、そんなことができる人、それが師というものだ。

 これらの言葉から、温故知新の言葉が生まれました。一般に、故温は、ふるきをたずねて、とも読まれています。

○ 子(し)の曰(のたま)わく、これを知(し)る者(もの)はこれを好(この)む者(もの)に如(し)かず。これを好(この)む者(もの)は、これを樂(たの)しむ者(もの)に如(し)かず。 

 孔子が言われました。学問をして知っているという人間も、本当に知ることが好きだという人間にはかなわない。また、好きというのも、これを本当に楽しんでいる人間には及ばないものだ。 

 これは、学問だけでなく、スポーツ、芸術のほか、幅広い分野にも適用できる言葉だと思います。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 貝塚茂樹: 論語、講談社現代新書(2004).

(参考資料) 孔子(儒家の始祖、中国の思想家、中国情報所、中国): http://www.chinfor.com/modules/webdoc1/content0054.html

(追加説明)  老子(道教の始祖、中国の思想家)の言葉(老子道徳経、老子とも

老子(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90

○ 多言なれば数々(しばしば)窮す。

 人は、あまりしゃべりすぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 道は自然に法(のっと)る。

 すべては自然にのっとっている。草木の生えるのも自然であり、春夏秋冬の移り変わるのも自然である。人間の踏み行なうべき道も、やはりこの自然にのっとるのが最もいい。

(樋口清之(監修:生活歳時記、p.596、多言なれば数々窮す、三宝出版(1994)より)

○ 十代は分、二十代は時、三十代は日、四十代は週、五十代は月といわれる。つまり、四十代の人だったら、じゃあ来週のことにしようと、週を単位にして約束する。ところが、その人が五十代になると、それは来月のことにしようと、月を単位にして予定を立てる。 このように、時間の受け取りかたが、年齢に応じて加速度変化していくことを、この言葉が表現している。

 日長きこと少年に似たり、という文句があるが、少年のころの1日は長い。そのために、人間は一生の生活設計を、とかくまちがうことが多い。われわれは1歳を重ねるごとに1年の回転率がそれに比例して早くなることを、念頭におかなければならない。                                                         (樋口清之(監修: 生活歳時記、三宝出版、より)

○ 歳月人を待たず(Time and tide wait for no man)というもあります。この言葉は、中国の六朝時代の詩人、陶淵明(365~427)の「雑詩」、人生無根蔕  --- 12句目、 歳月不待人、とあります。5言古詩の作品で、人の命は短いのだから、生きているうちに、時をのがさず、無理をしてでも、大いに人生を楽しもう、充実した時間を過ごそう、とうたっています。

 太平記(小島法師?南北朝時代、軍記物語)に、光陰人を待たず、とありますが、光陰(時間の意)の光は日、影は月です。 光陰矢の如し、これは月日の早く過ぎゆくたとえです。

○ 少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、(朱熹、しゅき、朱子作とも、偶成詩)、これは月日がたつのは早く、自分はまだ若いと思っていてもすぐに老人になってしまう。それに反し学問の研究はなかなか成しとげ難い。だから、寸刻を惜しんで勉強をしなければならない。すこしの時間もむだに費やしてはならない。        (広辞苑より)

 

2010年6月 2日 (水)

ダルマさん(少林寺、中国)にまつわる歴史伝承、達磨大師(坐禅)、達磨寺(日本各地)、起上り小法師(七転八起)、とは(2010.6.2)

  ダルマさんと言えば、商売繁盛、開運出世の縁起物(えんぎもの)、また選挙の時には必勝祈願の呪物(じゅぶつ)の姿が目に浮かびます。ダルマさんの本当の姿は、達磨大師、中国の少林寺で面壁(めんぺき)9年の坐禅の功を積み、禅宗の開祖となったインドの高僧です。人生は、起上り小法師、七転八起、人々の生きる心の支えとなっています。

 禅宗の始祖とされる達磨(だるま、生没年未詳)は、正しくは、梵語(ぼんご、サンスクリット語)、Bodhidharmaの音訳、菩提達磨(ぼだいだるま)と言い、諡号(しごう)は円覚大師、達磨大師と呼ばれています。南インドのバラモンの生まれ、香至国の第3王子と言われています。出家後は、般若多羅(はんにゃたら)に学び、大乗禅を究め、527年(大通元年)、大乗仏教の僧として、中国における禅の教化という師の遺志を受け継ぎ、海路中国に渡り、南京の梁(りょう)の武帝(ぶてい、464~549年) の尊崇を受けました。

 その時にやった武帝との問答は有名です。武帝が、「聖諦(しょうたい、仏教の精神の意)第一義は何か」と問うたのに対し、達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう、とても広くて、仏教精神の第一義などない、という意)」と答えました。そこで重ねて武帝が、「朕(ちん)に対する者は誰そ」と問うたところ、達磨は、「知らない」と答えました(伝法正宗記)。

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達磨大師(達磨図、月岡芳年、木版画、1887年(明治20年)、google画像)

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嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ、曹洞宗、河南省、中国、google画像)

(解説) 達磨は、武帝の質問に満足せず、北魏の河南省、嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に行き、「終日面壁而坐9年」、面壁9年(壁に向かって9年間座し、悟りを開いたという故事)の修行をしました。縁日などでなじみ深い張子のダルマは、この達磨大師の坐禅した像を模したものです。その後、達磨は、慧可(えか)に禅の奥義を授けたと伝えられています。しかし、その伝記とか著書には伝説的な要素が多いようです。

 禅宗は、仏心宗、達磨宗とも呼ばれ、その奥義は、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心、直示人心、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)に要約されると言われています。それは、文字に頼ることなく、心の修行によって、自得される無住空寂な心(悟り)により、仏の心を直接に感得すると言う。達磨の提唱する大乗禅は、仏教でありながら、哲学的で、中国の思想家にも大きな影響を与えたと言われています。 

 また、日本各地の達磨大師ゆかりの仏教寺院として、達磨寺(曹洞宗、北広島、北海道)、達磨寺(黄檗宗、高崎、群馬)、法輪寺(臨済宗、上京、京都)、達磨寺(臨済宗、北葛城、奈良)、達磨寺(臨済宗、伊豆、静岡)、勝尾寺(達磨寺とも、真言宗、箕面、大坂)、西来院(臨済宗、那覇、沖縄)などがあります。

 達磨大師が日本に渡来した確証はなく、大師に対する日本人の篤い(あつ)い帰依(きえ)が、達磨大師と聖徳太子の邂逅(かいこう)伝説となり、また、日本各地の達磨寺の存続につながっていると考えられています。 

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法輪寺(ほうりんじ、臨済宗、だるま寺とも、上京、京都、google画像 )

(解説) 縁日などの張子のダルマは、達磨大師の坐禅に因み、手足のない赤い衣をまとった僧の姿の人形です。 起上り小法師(おきあがりこぼし、異称は不倒翁)の一つで、普通、顔面以外の部分を赤く塗り、達磨の形の人形の底に重りをつけ、倒してもすぐに起き直るように作られています。法輪寺(だるま寺とも、京都人ブログ2、京都):http://kata2.wablog.com/128.html.) 

 ダルマは、商売繁盛、開運出世の縁語物としても喜ばれ、目のない達磨に願いごとがかなった時に目玉を描き入れる風習があります。郷土玩具として、張子製のものが各地で作られ、達磨市の立つ地方が多いようです。松川達磨(仙台、宮城)、目無し達磨(豊岡、群馬)、子持達磨(甲府、山梨)、姫達磨(松山、愛媛)などが著名です。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.171、ダルマと禅宗、三宝出版社(1994); 吉野裕子: ダルマの民俗学、陰陽五行から解く、岩波新書(1995).

(文献資料) 嵩山少林寺(河南、中国、google画像):http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B5%A9%E5%B1%B1%E5%B0%91%E6%9E%97%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1020&bih=587

(追加説明) ○ 少林寺は、中国、河南省、登封県の崇山(すうざん)の西方、少室山の北麓にある名刹です。北魏の孝文帝が、496年に創建、北周の廃仏に会って伽藍が破壊されましたが、隋唐代に復活、山門、天主殿、大雄宝殿など多くの建築物があります。達磨大師の面壁9年、少林拳発祥の地として有名です。

 ところで、この少林寺は、「少林寺拳法」の発祥地としてお馴染みです。この拳法は、いつ、誰によって始められたのか、分からないのですが、いつのまにか普及して、近年、映画にもなり、大きな反響を生みました。皮肉にも、少林寺には達磨の言行は全く伝わっていないのですが、拳法はずっと伝えられ、ついに拳法の大本山になった次第です。(樋口清之(監修)、生活歳時記より)

○ 達磨宗祖とする中国の禅宗は、孝徳天皇の653年(白雉4年)、入唐した道昭(どうしょう)が玄奘三藏法師に遭って禅定を習い、帰国後、元興寺に禅院を建てたのがその招来のはじめと言われています。桓武天皇の802年(延暦21年)、最澄が入唐して、天台の教法と禅宗を招来しました。また、後鳥羽天皇の1187年(文治3年)、栄西が入宋し、臨済宗を招来、ついで道元も入宋し、帰朝して曹洞宗を伝えました。後光明天皇の1654年(承応3年)、中国僧、隠元隆琦(いんげん りゅうき)が来朝して、臨済禅の一派、黄檗宗を宇治を本拠として、日本に定着させました。

○ 七転八起とは、七たび転んで八たび起きる意です。人生の浮き沈みが甚だしく、度重なる失敗をしても屈することなく奮起する、とのたとえです。私が中学生の時の恩師、熱田治先生の賀状には、毎年ダルマが毛筆で描かれていて、その風貌が強く印象に残っています。

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○ 達磨大師のもう一つの像(すがた)、容(かたち)を象徴するものは、インド哲学、仏教の4大(地大、水大、火大、風大)の火天、中国哲学の五行(木火土金水)のである、と考えられています。そして、起上り小法師は、火の造形であり、火の本性は炎上であり、たとえ風などにより炎が横倒しになっても、すぐに真っ直ぐ炎上する姿を表していると言う。

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