カテゴリー「● 絵画(東洲斎写楽、長谷川等伯、山下清、囲碁の絵巻物、源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画、芸術と数学、黄金比、富嶽36景、竜安寺石庭)」の5件の記事

2016年2月 3日 (水)

漫画の起源  平安時代末期 から 鎌倉時代初期、鳥獣戯画(日本最古の漫画、高山寺)、江戸時代、 伝神開手北斎漫画(葛飾北斎)、とは(2016.2.3)

 漫画(まんが)とは、広辞苑によると、① 単純・軽妙な手法で描かれた、滑稽と誇張を主とする絵。② 特に、社会批評。風刺を主眼とした戯画。ポンチ絵。③ 絵を連ね、会話の文を書き加えるなどして、物語風に仕立てたもの、とあります。 

 鳥獣戯画(ちょうじゅぎが、鳥獣人物戯画とも、国宝)は、高山寺(京都市右京区)に伝わる紙本墨画の絵巻物です。これは、サル(猿)、ウサギ(兎)、カエル(蛙)などの動物が擬人化して描かれた絵巻物で、日本最古の漫画だと言われ、現在の漫画やアニメの祖とされる。

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                                鳥獣人物戯画

 作者は、平安時代末期 から 鎌倉時代初期複数の無名の僧侶により描かれ、高山寺に伝来、鳥獣人物戯画として集成したものとされる。 

 伝神開手(でんしんかいしゅ)北斎漫画は、北斎が気の向くままに、人物から動植物、妖怪まであらゆるものを描きました。浮世絵の百科事典ともいえる内容が西洋の印象派の画家(モネ、ゴッホ、リヴィエール、セザンヌ、ピカソなど)にも影響を与えたとされる。 

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                               伝神開手北斎漫画 

 作者葛飾北斎(かつしかほくさい、1760~1849)は、江戸時代、富嶽三十六景など、多くの作品で知られる浮世絵師です。 

(参考資料) 

 〇 囲碁と絵巻物(平安時代、国宝)、源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画の中に見られる囲碁対局の場面、正座(正坐とも)、とは(2011.11.1): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/215.html

 

 

 

2012年1月25日 (水)

東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、江戸後期)、阿波藩(德島)の能役者(斉藤十郎兵衛)と伝えられる謎の浮世絵師(主に歌舞伎の役者絵、相撲絵)、とは(2012.1.25)

   江戸後期、寛政年間(1789~1801)の謎(なぞ)の浮世絵師東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、生没年未詳)は、1794年(寛政6年)5月~1975年(寛政7年)正月までの10ヵ月間、歌舞伎役者絵相撲絵145点余りを世に出し、こつぜんと姿を消しました。

 写楽は、江戸八丁堀地蔵橋に住み、德島藩主蜂須賀侯(はちすかこう)お抱え能役者、斉藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ、1820年(文政3年)3月7日没、58才)と伝えられています。写楽が32才の頃に描いたと思われる初期(1期)の役者絵には、似顔表現に強烈な個性描写が見られます。一方、写楽についての伝記的資料はほとんどなく、の浮世絵師と言われていました。

 当時、歌舞伎役者を描く役者絵といえば、全身像で背景に舞台を描くのが常識でした。が、写楽は、美人画で使われ始めた上半身像の大首絵(おおくびえ)で描き、背景には銀色に輝く黒雲母摺(くろきらずり、黒い雲母の粉末を、ニカワと混ぜ、絵の背景にこすりつけたもの)を採り入れました。これは、初期(1期)の役者絵ですが、劇中人物としての表情と役者自身の素顔の両面を強く描き出し、評判を得ました。

 1910年(明治43年)、ドイツの美術研究家、ユリウス・クルトは、著書「Sharaku」において、写楽を「レンブラント、ベラスケスと並ぶ肖像画家」と絶賛しました。以来、国内外での評判が高まりました。

 写楽の浮世絵は、版画を創作・出版する、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750~1797、江戸の本問屋)の版元から、はじめて28点が売り出されました。その頃は、版元では、下絵師、彫師、刷師らが分業で仕事を行い、すばやく大量に生産することができました。大首絵の成功後、2~4期、画風を上半身の大首絵から全身像へと変えながら、110点以上作品を出しました。

 が、役者絵の紙が、次第に小さく薄く品質が落ち、個性的な描写も消えて売れなくなりました。その原因として、約20業者の版元との競争により、費用を抑えて版数を増やし売り上げを増やそうとしたためとも考えられています。

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東洲斎写楽筆(とうしゅうさいしゃらく版画、三世大谷鬼次の奴江戸兵衛、東京国立博物館蔵、東京、google画像) 顔が写実的なのに比べ、手の描写がつたない(アンバランス!)、三世大谷鬼次の奴江戸兵衛東洲斎写楽筆、コレクション名品ギャラリー館蔵品、東京国立博物館、東京): http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10569.471.

(解説) 大田南畝(おおた なんぽ、1749~1823、文人、狂歌師、別号、蜀山人、しょくさんじん)がまとめた浮世絵師の名鑑、(浮世絵類考(うきよえるいこう、1844年(弘化元年)増補版)によれば、「あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む」と作風による不人気により(役者絵は役者を見た目よく描くものですが、写楽は、役者の骨張った輪郭や大きな鼻、老いた顔つきといった実像をあまりに真実に描こうとして、望ましくないように描いてしまった。例えば、女形の絵は、首が太く、いかつい顔つきから、男の女形の姿であることがよく見える!)、短期間で浮世絵の画壇を退くはめになったと伝えられています。写楽の項では、町名主・斉藤月岑(さいとうげっしん、1804~1878)が「俗称、斉藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ、1763~1820)」「阿波侯の能役者也」と明確に書き入れています。

 初期(1期)大判黒雲母摺(おおばんくろきらずり)28図が最も優れているという。 写楽「特別展」(2011年5~6月、1~4期作品解説、東京国立博物館):.http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=706.

 代表作に、大谷鬼次(おおたにおにじ)の奴江戸兵衛(やっこえどべえ)のほか、市川高麗蔵(いちかわこまぞう)の志賀大七(しがだいしち)、小佐川常世(おさがわつねよ)の桜木(さくらぎ)など、1794年(寛政6年)5月の狂言に取材した大首絵などがあります。

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東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、肉筆画四代松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪、国立コルフ・アジア美術館蔵、ギリシャgoogle画像)  肉筆画ギリシャで発見、注目される写楽論争(asahi. com. 2009年6月17日): http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200906170202.html.

(解説) 2008年(平成20年)夏、アドリア海に浮かぶギリシャのコルフ島のギリシャ国立コルフ・アジア美術館(20世紀初頭にギリシャ人の外交官が集めた日本美術品7000点余りを収蔵)で、それまで調査されずに埋もれていた東洲斎写楽筆の扇に描かれた浮世絵肉筆画が発見されました。 また、三重県津市の石水博物館にも、1934年(昭和9年)に発見され、本物の写楽のものか不明な扇の浮世絵肉筆画が保存されていました。そこで、美術の専門家が、現存する写楽の版画の浮世絵と二つの肉筆画の絵の線の模様、筆使いなどを詳細に解析した結果、全く同じで、全て写楽の作品であると確認されました。

 これらの絵の線の模様、筆使いは、その当時の有名絵師(10名)の個性とも異なるものでした。また、扇の浮世絵の肉筆画は、1800年(寛政12年)に描かれたもので、版元の蔦屋重三郎は、3年前の1797年(寛政9年)に亡くなっていることから、東洲斎写楽は阿波藩の能役者、斉藤十郎兵衛であることが、確認されました東洲斎写楽の菩提寺法光寺(ほうこうじ、浄土真宗、越谷、埼玉)の過去帳には、斉藤十郎兵衛、58才没、と記されています。写楽と法光寺: http://homepage3.nifty.com/shirakobato-network/famous/sharaku.html.

 また、写楽は、武士扱いの能役者と浮世絵師という立場、名前を隠さねばならない時代背景がありました。名前の「さい とう じゅう ろ べえ」の「さい(斎) とう(藤) じゅう(十)」の名字を逆に読むと「とう(東) じゅう(洲) さい(斎)が、うつすのを(写) たのしむ(楽)」と隠し名前が読み取れるという。自らの足跡を後世に残したい気持ちがあったのだろうか?

 私は、2011年(平成23年)5月14日(土)、NHK番組、歴史秘話 写楽 謎の絵師についての放送を見たことがあります。東洲斎写楽という筆名の浮世絵の肉筆画の発見による写楽謎ときのドキュメント(記録映像)が強く印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991);  永原慶二監修: 岩波 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 北陸中日新聞: 浮世絵師 東州斎写楽、浮世絵とは?江戸期の庶民文化、正体は? 阿波藩の能役者説、魅力は?人間の内面描く線、なぜ消えた? 封建制が 活動阻む、2011年(平成23年)4月4日(月)、朝刊より; 朝日新聞(井上英樹): 文化の扉、はじめての写楽、役者のリアル描いた「一発屋」、活動は寛政年間の十ヶ月、役者の大首絵で真に迫る、外国人に評価されて脚光、2011年(平成23年)4月25日(月)朝刊より.

(参考資料) ボストン美術館と浮世絵浮世絵名品展、名古屋、ボストン): http://ukiyoe.exhn.jp/history/index.html 

特別展写楽」(2011年5~6月、東京国立博物館、東京): http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=706. 

東洲斎写楽筆、(大判黒雲母摺(おおばんくろきらずり)28図、三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛、哀感にじむアンバランスな魅力、浅野秀剛、アート・アーカイブ探求、2009年10月): http://artscape.jp/study/art-achive/1209401_1982.html.

東州斎写楽 浮世絵(google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=584.

(追加説明) ○ 写楽の作品は、制作期順に、1期: 役者大首絵28枚(寛政6年5月取材)、2期: 二人役者絵など38枚(同7、8月取材)、3期: 大首絵など64枚(同11月、閏(うるう)11月取材、4期: 役者絵など12枚(寛政7年1月取材)に分けられます。

 特徴は、人物造形のデフォルメ(特徴を誇張、強調して表現)とよくいわれるが、東京国立博物館の田沢裕賀さんは「写楽の特長は、ほとんどの絵師が描く定型的な線描を避けた独特の線にある。それによって役を演じている役者自身だけでなく、役柄が持つ人間ドラマまで描き出している」と指摘しています。

 こうした表現は、2期までは顕著ですが、3、4期となると急速に薄れていく。2期の線が力強く躍動感に満ちているのに対し、3期は線をたくさん描き込んでいるのに迫力が見られない。これが、写楽が一人でないとする説を後押しする一因になっています。また、価格のことか、紙が次第に小さく薄くなっています。

 写楽の正体は斉藤十郎兵衛であることがほぼ確実ですが、なぜ活動期が10ヶ月と短かった理由については、時代背景も一因と考えられています。当時は寛政の改革が行われ、幕府の財政の安定を目指して、緊縮財政と風紀取り締まり実施されていました。

 斉藤十郎兵衛は能役者ですが、武士階級でした。一方、写楽が題材としているのは歌舞伎役者で、武士が役者と交流していることが発覚すれば、厳しい処分が下される恐れがありました。写楽が評判になったことで、幕府から目をつけられるのを避けるために、早めに浮世絵の世界から手を引いたことが考えられています。(北陸中日新聞: 浮世絵師 東州斎写楽、浮世絵とは?江戸期の庶民文化、正体は? 阿波藩の能役者説、魅力は?人間の内面描く線、なぜ消えた? 封建制が 活動阻む、2011年(平成23年)4月4日(月)、朝刊より)

 

2011年11月 1日 (火)

囲碁と絵巻物(平安時代、国宝)、源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画の中に見られる囲碁対局の場面、正座(正坐とも)、とは(2011.11.1)

   平安時代の国宝四大絵巻には、源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)、鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)、伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)、信貴山縁起絵巻(しぎざんえんぎえまき)などがあります。 これら絵巻物の中の囲碁対局の場面について、改めて調べて見ました。

○ 源氏物語絵巻

 紫式部(むらさきしきぶ、本名、生没年未詳)、父は淡路守、越前守、越後守などを務めた文人・歌人の藤原為時(ふじわらのためとき、生没年未詳)、の長編小説、源氏物語(げんじものがたり)の中の「空蝉(うつせみ)」「宿木(やどりぎ)」「竹河(たけかわ)」「手習(てならい)」などの巻で、あでやかな囲碁対局の場面が出てきます。 

 石山寺(いしやまでら、大津、滋賀)は、紫式部が源氏物語を着想した場所と言われ、石山寺の名は源氏物語の随所に登場します。紫式部は、藤原宣孝(ふじわらののぶたか、?~1001)と結婚し、娘が生まれた。が、宣孝と死別したのち、藤原道長(966~1027)の娘で一条天皇(第66代、980~1011)の中宮、彰子の家庭教師に抜擢され、宮仕えをしました。 石山寺(いしやまでら、真言宗、石山寺公式プログ、大津、滋賀): http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/flower.html.

  

源氏物語絵巻(上 源氏物語 宿木(やどりぎ)一今上帝と薫(かおる)の君との囲碁対局、 下 竹河(たけかわ)美しい姫君姉妹の囲碁対局、徳川美術館蔵、google画像) 切手にみる紫式部と源氏物語(花橘亭、源氏物語を楽しむ、なぎ、福岡): http://kakitutei.web.fc2.com/column/kitte.html.

(解説) 1989年(平成元年)10月6日、源氏物語の「宿木(やどりぎ)」と「竹河(たけかわ)」の囲碁対局の絵巻が国際文通週間記念切手として売り出されました。今上帝が皇女の婿君にと望んでいた中納言薫(かおる)の君と、菊の花を賭(か)け三番勝負を争う「宿木一」、庭の桜を賭(か)けて玉鬘(たまかつら)の姫君姉妹が三番勝負を争う「竹河」など、一千年ほど前の貴族社会の囲碁対局の様子が描かれています。

 「空蝉(うつせみ)」の巻では、人妻である空蝉の邸に光源氏が忍んで行く。そして空蝉と義理の娘、軒端萩(のきはたのおぎ)と対局している姿を隙見(すきみ)する場面があります。「手習(てならい)」の巻では、碁好きな尼僧一家、老尼と若い女性が対局する場面が出てきます。

 絵巻物は、紙本着色縦21.5cm、平安時代(12世紀前半)、斜め上方から見下ろした俯瞰描写(ふかんびょうしゃ)、内部の人物が見えるように、建物の屋根や天井(てんじょう)を省略する表現法の吹抜屋台(ふきぬけやたい)が多く使われました。

○ 鳥獣人物戯画

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鳥獣人物戯画(丙巻、猿(さる)と兎(うさぎ)の囲碁対局、高山寺(こうざんじ、右京区、京都)蔵、東京国立博物館に寄託、google画像) 高山寺(こうざんじ、天台、のち華厳宗、右京区、京都、公式ホームページ): http://www.kosanji.com/.

(解説) 鳥獣人物戯画で最も興味のあるのは丙巻です。その前半には、僧侶と俗人のふるまいを、擬人化した蛙、兎、狐などを通して風刺(ふうし)しています。遊びの人物戯画として、猿(さる)と兎(うさぎ)の囲碁対局があります。囲碁は早くから貴族の間に流行し、持統天皇の3年(689)に双六(すごろく)と共に禁ぜられたことがあり、天平勝宝6年(754)にも禁令が出ています。囲碁は勝負を争うばかりでなく、賭(か)けごとにも利用したようです。

鳥獣戯画は、紙本墨画、縦30.4~31.2cm、長さ289~1148cm、平安時代末期~鎌倉時代前期、日本最初のアニメとも称される、全編、詞書(ことばがき)のない白描画(はくびょうが)です。

  私は、京都(下別当町、北白川、左京区、村井方)で下宿していた頃、源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画京都国立博物館展示されているのを見たことがあります。これが有名な国宝の絵巻かと、しばし感じ入り、見て回ったことを覚えています

(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 渡部義通: 古代囲碁の世界、三一書房(1977); 三浦修: 囲碁の美学、現代書林(1980); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 日本経済新聞社出版局編集部(内田勝晴、木村仁)企画製作: 囲碁大全、日本経済新聞社(1996); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 宮本常一: 絵巻物に見る日本庶民生活誌(26版)、中央公論新社(2007); 詳説日本史図録編集員会編: 詳説日本史図録(第2版)、山川出版(2009); 朝日新聞(文・田中京子、写真・筋野健太): 歴ナビ 旅する日本史、ゆかりを訪ねて、29 紫式部、光る絵巻は御簾(みす)の奥、2010年(平成22年)4月17日(土)、朝刊; 朝日新聞(文・中村真理子): はじめての源氏物語、華麗 不幸 平安ラブストーリー、2011年(平成23年)4月4日(月)、朝刊; 週間朝日百科編: 国宝の美、絵画9 説話・縁起絵巻、31、高山寺鳥獣人物戯画、伴大納言絵巻、朝護孫子寺信貴山縁起絵巻、朝日出版社(2010).

(参考資料) 国際文通週間にちなむ郵便切手の発行(日本郵便): http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2011/h231007_t.html. 国際文通週間(日本では1958年(昭和33年)以降、Kumamoto、ホームページ):http://members2.jcom.home.ne.jp/a-kumamoto/page003.html.

(追加説明) 

○ 紫式部(むらさきしきぶ、実名、生没年未詳)は、平安時代文学の最高傑作、「源氏物語」の作者ですが、1964年(昭和39年)、ユネスコによる世界に誇る文学作品の著者として、「世界の偉人」の選定に、日本人からただ一人選ばれています。 作品の背景には、紫式部の人生そのものが反映しているという。 紫式部は、藤原氏の出身ですが、傍流(ぼうりゅう)であり、祖父の兼輔(かねすけ)が文人として著名な程度の、弱小貴族でした。

 また、彼女の結婚生活は、あまり幸福でなく、当時としては適齢期を過ぎた30才ほどで結婚したが、夫はすでに子供のある20才ほど年の離れた藤原宣孝(ふじわらののぶたか)です。一女をもうけ、3年後に死に別れることになりますが、その前に宣孝の彼女への愛情は冷めていたという。そののち、時の権勢人、藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘の中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)のもとに出仕することになります。(井上満郎著、上田正昭監修: 平安京の風景、p.162~165、天才文学者 紫式部、源氏物語の誕生、文英堂(2006)より

○ 源氏物語(げんじものがたり)は、54巻、1001年(長保3年)~1010年(寛弘7年)頃までに成立。時の帝を父とし、桐壺更衣を母として生まれた光源氏が、葵上(あおいのうえ)、夕顔、紫上等々の女性と交渉をもち、また父帝の中宮藤壺との恋に苦悩しながらも、太政大臣から太上天皇に準じられ栄華をきわめる物語です。全54帖のうち終わりの10帖は、源氏の子、薫大将と宇治の浮船の恋愛を描いて「宇治10帖」とされています。文章は華麗で人物・自然の描写に優れ、各巻が独立した場面を形成しながら、全体で緊密な長編小説としてのまとまりを見せ、古典文学の最高峰とされています。(小百科事典より

 物語の構成は、主人公光源氏は次々と女性を愛するなかで、父の后藤壺と密通、冷泉帝が生まれて栄華を極めます(第1部)。しかし晩年、今度は若い妻に密通され、最愛の紫の上を失う(第2部)。第3部のうち「宇治十帖」と呼ばれる巻々は、その密通によって生まれた薫と宇治の姫君たちの物語。伝本は、青表紙本、河内本、そのどちらにも属しない本に分かれます。成立時から評価が高く、後世の文学をはじめとする諸芸術に与えた影響は大きい。{古典大系、新古典)(岩波日本史辞典より) 源氏物語(現代語訳、古典に親しむ、がんばれ凡人!): http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/genjipage.htm.

○ 源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)は、源氏物語の各帖(54帖)から物語の要点となる情景や情緒豊かな場面をぬき出して絵画化(濃彩のつくり絵の技法)し、対応する本文(切箔、野毛を散らした優雅な料紙に美しい仮名書きをしたためたもの)の一節を書き添えた絵巻です。現在は、13帖分に当たる詞(ことば)20段、絵19段(原典の20帖分に相当)しか残っていないという。

 平安以後各時代を通じ各種の製作が行われ、現存遺品の種類も多い。中でも12世紀前半に宮廷絵師により分担製作されたと見られる彩色絵巻(徳川美術館・五島美術館分蔵)は特に名高く、最古の遺品で国宝となっています。その画風が4種に、また詞書の書風は5種に分類され、院や女院の企画下で貴族達が製作を分担し、出来ばえを競い合って成立したものと推定されます。徳川美術館(東区、名古屋): http://www.tokugawa-art-museum.jp/.  五島美術館(世田谷、東京): http://www.gotoh-museum.or.jp/.

 国宝の絵巻の他にも、14世紀後半の絵巻がメトロポリタン美術館(ニューヨーク、米国)、天理図書館(天理大学附属、天理、奈良)、また、1554年(天文23年)の奥書を持つ白書の6巻本がニューヨーク公共図書館(ニューヨーク、米国)に分蔵され、代表的な物語絵として享受されてきました。天理大学附属天理図書館(天理、奈良): http://www.tcl.gr.jp/index.htm. メテロポリタン美術館(Wikipedia、ニューヨーク、米国): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8. ニューヨーク公共図書館(Wikipedia、ニューヨーク、米国): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%85%AC%E5%85%B1%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8.

○ 源氏物語(五十四帖) 一帖 桐壺(きりつぼ) 

 いづれの御時(おほむとき)にか、女御(にょうご)、更衣(かうい)あまたさぶらひたまひける中(なか)に、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。 

 この冒頭の文章は、私が高校の古文の時間にはじめて目にした文章で、今でも自然に口に出てきます。源氏物語の現代語訳は、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴ら作家のほか、多くの文学者によってなされています。(源氏物語訳散見: http://homepage3.nifty.com/pointdevue/essay/mosgenji.html.)

 何時の時代であつたか、帝の後宮に多くの妃嬪達があつた。(与謝野晶子訳)

 何という帝の御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいている方がありました。(谷崎潤一郎訳)

 いつの御代のことであったか、女御更衣たちが数多く御所にあがっていられる中に、さして高貴な身分というではなくて、帝の御寵愛を一身に鍾めているひとがあった。(円地文子訳)

 帝にはあまたの女御やお妃がいられたが、誰にもまして熱愛されたのは桐壺の更衣であった。(田辺聖子訳)

 いつの御代のことでしたか、女御や更衣が賑々しくお仕えしておりました帝の後宮に、それほど高貴な家柄のご出身ではないのに、帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっしゃる更衣がありました。(瀬戸内寂聴訳)

○ 空蝉(うつせみ)の巻では、著名な囲碁描写が見られ、紫式部の囲碁の確かな棋力が読み取れるという。

条文 碁打ちはてて、けちさすわたり、心疾(と)げに見えて、きはぎはしうさうどけば、奥の人は、いと靜かにのどめて、「待ち給へや。そこは、持(じ)にこそあらめ。このわたりの劫(こふ)をこそ」などいへど、「いで、この度(たび)は負けにけり。隅のところどころ、いでいで(数へん)」と、指(および)を屈(かが)めて、「十(とを)、二十(はた)、三十(みそ)、四十(よそ)」など数ふる様、伊豫の湯桁(ゆげた)も、たどたどしかるまじう見ゆ」

大意 碁が大方終わって、ヨセの段階で周囲の女房たちが騒がしいのを静かに押しとどめ、(空蝉、うつせみ)は「待ってください。そこは地(ぢ)(セキ)ではありませんか。こちらの劫(コウ)の所を打つべきですよ」などというが、(軒端、のきば)は「さあ、この度はまけました。隅のあちらこちらの地を数えましょう」と指を折り「とう、はた、みそ、よそ」などと数えるさまは伊予の国の(道後温泉の)湯槽を数えるようにたどたどしい」(水口藤雄:囲碁の文化誌(第2刷)、起源伝説からヒカルの碁まで、p.112~115、28 源氏物語の囲碁描写、日本棋院(2002)より

○ 鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は、高山寺(こうざんじ、天台、のち華厳宗、栂尾町、右京区、京都)に伝わる甲乙丙丁(こうおつへいてい)の4巻からなる白描(はくびょう)の戯画絵巻です。猿(さる)・兎(うさぎ)・蛙(かえる)などの遊びを擬人的に描いた甲巻と、様々な動物の生態を描いた乙巻があり、また、丙巻の前半は勝負事に興じる人物描写、後半は甲巻と同様です。丁巻は人物戯画が描かれています。

 12世紀中頃から13世紀中頃の作品で、国宝となっています。時期を異にした数人の作者によって描かれたと見られ、古代以来の落書きや戯画の系譜につながる作品です。作者の一人は、鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう、天台座主、絵画に精通)と伝えられています。

 鳥獣人物戯画高山寺所蔵ですが、甲・丙巻は東京国立博物館、乙・丁巻は京都国立博物館寄託しています。京都国立博物館(東山区、京都): http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html. 東京国立博物館(台東区、東京): http://www.tnm.jp/.

○ 囲碁の対局は、伝統的に畳の上で正座して打たれます。正座は、古くは正坐で、紀元前、古代インドの石造物に見られるのがはじまりとされています。紀元前5世紀の中国戦国時代の「荘子」が初出で「威儀正しく座る。居住まいを正しくする」の意とされました。他に類義語で「端座」「危座」「静座」などがあります。これらの語彙(ごい)は、奈良、平安時代の遣唐使、渡来人、留学生らによって日本にもたらされました。

 しかし正座を実践したのは、その後の僧侶や儒学者だったとされる。つまり正座は仏教の北上とともに東アジアに伝播(でんぱ)し、特に日本では宗教のみならず武術を含む芸道の世界にも取り込まれ、動作の基本ともなりました。(北陸中日新聞:小林忠雄、正座文化の継承、2012年(平成24年)3月25日(月)夕刊より)

2011年10月 7日 (金)

長谷川等伯(はせがわとうはく、安土桃山・江戸初期の絵師)、能登の七尾から京の都へ、壮麗な金碧画から水墨画の世界へ、画風の変化をもたらした人生の出来事、とは(2011.10.7)

  安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)は、能登半島・七尾の武士の家に生まれで、はじめは、30年余り、信春(しんしゅん)と名乗り、能登の地方画家として仏画を中心に肖像画など描きました。 のち京都に出て、独自の画風を創造して、御用絵師として隆盛を誇った狩野派に対抗する画業を築きました。その後、画風は水墨画の世界に傾倒していくのですが、そこには等伯の人生の大きな転機となる深い悲しみがありました。

 そこで、能登、七尾の片田舎から、30才半ばに京の都にのぼり、狩野派をおびやかすほどの活躍を見せた後、絵師、長谷川等伯の壮麗な金碧画(きんぺきが)から水墨画(すいぼくが)の世界へ、画風の変化をもたらした人生の出来事などについて、改めて調べてみました。

 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)は、安土桃山・江戸初期の画家。長谷川派の祖。初期の名あるいは号は信春(しんしゅん)。能登七尾の生れ(父は戦国大名能登畠山氏の家臣奥村氏、長谷川家の養子)。代々日蓮宗徒の養父、長谷川宗清(はせがわそうせい、1507~1571、染物屋)や雪舟等楊(せっしゅうとうよう、1420~1506?、室町後期の禅僧、画家)門弟の等春に画法を学び、仏画を主とするほか、肖像画などの地方画家として活躍しています。 14世紀に日像(にちぞう)が布教した羽咋法華(はくいほっけ)と七尾法華(ななをほっけ)が、能登七尾時代の等伯を支えています。

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長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610、33才本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗)、境内銅像:http://photozou.jp/photo/show/17077/302184上京区、京都、google画像) 名所旧跡めぐり本法寺、ほんぽうじ、上京区、京都): http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/honpo-ji.htm. 

(解説) 長谷川等伯人生の転機は、30才半ば、相次いで養父母が亡くなり、1571年(元亀2年)頃、妻と幼子を連れて能登から上洛(じょうらく、京都に出る)、法華信徒だったので、日蓮宗本山本法寺(ほんぽうじ、上京区、京都)に身を寄せました。 本法寺の日通上人(にっつうしょうにん)と親しく、同寺に寄進された「仏涅槃図(ぶつねはんず、重要文化財)」や「日通上人像」があります。

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桜図(さくらず、長谷川久藏(はせがわきゅうぞう、等伯の長男、25才)筆智積院(ちしゃくいん、真言宗国宝、京都) 智積院(ちしゃくいん、東山区、京都、google画像): http://www.chisan.or.jp/sohonzan/.

(解説)上洛後、等伯は堺商人や千利休とも親交を深め、権力との距離を縮めていきます。本法寺(日蓮宗)の日通上人や茶人千利休(せんのりきゅう、1522~1591)との交友の内に牧谿(もっけい、生没未詳、宋末元初の僧、水墨画家、中国)の中国宋元画や室町の水墨画にふれ、日本の水墨画に開眼して行きました。

 1582年(天正10年、44才)総見院、1589年(天正17年、51才)三玄院と、大徳寺塔頭に水墨障壁画を制作、頭角を現すようになり、その実力は評判を呼び、1591年(天正19年、53才)豊臣秀吉(1537~1598)の愛息、鶴松(3才で病没)の菩提(ぼだい)を弔うためにささげる菩提寺祥雲寺の金碧(きんぺき、緑青、群青、金泥を使った技法)障壁画の製作を依頼されるようになりました。そして、四季花木図襖絵(ふすまえ)を制作、等伯の長男、久藏による「桜図」を含め、一部は今も、真言宗智山派総本山の智積院(ちしゃくいん、東山区、京都)に残っています。 

 等伯(とうはく)の息子(久藏、宗宅、左近、宗也)はいずれも画家として活躍、東胤(とういん)、宗園(そうえん)らの弟子と共に長谷川派を形成しました。 親子で一世一代の仕事を成し遂げた翌年、等伯は息子、長男の久藏が26才で急死、悲しみと怒り、恨みに苦しみました(暗殺説が根強い)。 この時期から彼の画風は壮麗な金碧画(きんぺきが)から水墨画(すいぼくが)の世界へと傾倒していきます。

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松林図屏風(しょうりんずびょうぶ、長谷川等伯(50才代)筆東京国立博物館蔵国宝、東京、google画像) 制作年代は未詳ですが、等伯50才代の作と推定されています。1592年(文禄元年)、等伯が祥雲寺障壁画(現・智積院襖絵)を完成させた翌年、息子の久蔵が26才の若さで亡くなっており、その悲しみを背負った等伯が、人からの依頼ではなく自分自身のために描いたとも言われています。 松林図屏風(しょうりんずびょうぶ、東京国立博物館、東京): http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10471.

(解説) 長谷川等伯は、長男の久藏の死を境に、深く仏門に帰依しました。日本の水墨画で最高峰とされる「松林図屏風(しょうりんづびょうぶ)」も、息子の死を背負って描いたとも言われています。松林に立ちこめる霧を描き込まずに表した幽玄の世界、それは仏と向き合い、苦しみを乗り越えた絵画の境地を具現化(具体的に、また実際に表わすこと)しているという。また、このような立ちこめる霧の中の影絵のような松林の景色は今でも、能登の羽咋(はくい)、七尾の海岸沿いでよく似た景色が見られることから、都から遠く離れたふるさとの思いも込めて描かれているような感じもします。

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仏涅槃像(ぶつねはんぞう、長谷川等伯(61才)筆 、本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗)蔵 、重要文化財、京都、google画像)仏涅槃図は、父以上の才能を期待されていた子、久藏の七回忌に本法寺に寄進されています。 仏涅槃図(ぶつねはんず、本法寺、京都): http://www.kujhoji.or.jp/get.kouwa/newpage5.8.htm.

(解説) 仏涅槃図(ぶつねはんず)は、釈迦(しゃか)の死を嘆き悲しむ弟子や動物たちを描いた、高さ10m、幅6mの大作です。裏面には、日蓮とともに、亡き妻と長男の久藏の名が記されています。「釈迦ほどの人物でも、死という自然の摂理からは逃れられない。悲しみこそ分け合いなさい」。そのようなメッセージを込めたとされています。

 等伯は、慶長年間にも、1599年(慶長4年、61才)妙心寺隣華院、大徳寺真珠庵、1602年(慶長7年、64才)南禅寺天授庵など障壁画の制作に従事、旺盛な活動を続けました。そして、法眼(ほうげん、日本の僧位の一つ、中世・近世では、法印、法橋と同じく、僧以外の儒者、仏師、連歌師、医師、画家などにも与えられました)に(じょ、宮中からさずけられた)。 代表作には、「水墨画の松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)、「智積院障壁画、金碧画の楓図(かえでず)」(智積院蔵、国宝)、日通が筆録した日本最初の画論「等伯画説」などがあります。

 1610年(慶長15年)、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)の要請により、長谷川宗宅(次男)を伴い江戸へ下向、旅の途中で発病し、江戸到着後2日目に亡くなりました。享年72才。法名は厳浄院等伯日妙居士、遺骨は本法寺(上京区、京都)に葬られたと言われているが、その墓は定かでないという。

 私は、2010年(平成22年)3月10日(水)、NHK番組、歴史秘話 長谷川等伯を見たことがあります。その中で、松林図屏風絵とよく似た景色が今も、等伯のふるさと、能登の羽咋(はくい)、七尾の海岸沿いで見られることが、強く印象に残っています。  

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991);  永原慶二監修: 岩波 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 石川県の歴史散歩編集委員会編(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩、p.177、長谷川 等伯と七尾美術館、山川出版社(2010); 朝日新聞(文・山内深沙子、写真・高橋一徳): 歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、35 長谷川等伯、喪失の闇を抜けて、2010年(平成22年)7月3日(土)、朝刊より.

(参考資料) 長谷川等伯筆の肖像画(はせがわとうはく、1539~1610、七尾、能登、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%AD%89%E4%BC%AF%E3%80%80%E8%82%96%E5%83%8F%E3%81%8C&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=584.

 等伯の絵画を所蔵する京都のゆかりの寺院には、本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗、上京区、京都、仏涅槃図所蔵): http://eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp/. 智積院(ちしゃくいん、真言宗、東山区、京都、金碧画の楓図(かえでず)、息子・久藏の桜図など所蔵):http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html. のほか、 隣華院(りんかいん、臨済宗、右京区、京都、水墨画、山水図襖(ふすま)所蔵): http://www.rinkain.com/info/.  妙蓮寺(みょうれんじ、法華宗、上京区、京都、金碧画、松桜図、次男宗宅の吉野桜図所蔵): http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/index.html.  大徳寺本坊(だいとくじほんぼう、臨済宗、北区、京都、千利休が増築、寄進した三門に等伯壁画): http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/、などあります。

(追加説明) ○ 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)には、謎の一時期があります。能登の七尾から京の都に上洛した1571年(元亀2年)以降の約10年間、おそらく大坂の堺に居住していたと推測されるのに、今もって証拠がありません。堺在住を推測する理由の一つは、堺に茶人千利休との付き合いが深いこと、二つには等伯の再婚した妻が堺の商人の娘であったという事実です。

 等伯が画家として名を売るのは、利休の口添えで、豊臣秀吉の長子鶴松(つるまつ)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う襖絵(ふすまえ)の製作だったことも重要なことです。一方、高山右近(別名、南坊、等伯など) も千利休との交際や外国人宣教師らとの交流で堺との関係は深い。(北国新聞社編: 加賀百万石異聞、髙山右近、p.68~71、二人の等伯、北国新聞社(2003)より)

○ 等伯没後400年で「達磨図」を切手に、七尾ロータリークラブが作りました。図柄は同市の龍門寺が所有する「達磨図」を選びました。長谷川等伯の達磨図(七尾商工会議所観光委員会、七尾、石川): http://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/big/1.html.(朝日新聞、2010年(平成22年)5月23日(日)、朝刊より) 長谷川等伯の絵画作品と所蔵美術館: http://www2u.biglobe.ne.jp/~fisheye/artist/nihonga/tohaku.html.

2010年9月16日 (木)

山下 清(放浪の画家)にまつわる歴史実話、阿波(德島)の土柱の絵、土柱の散文(兵隊の位にして、鳴門は「左官」で、土柱は「尉官」というところだろうな)、とは(2010.9.16)

  阿波(德島)の天然記念物の観光として、鳴門の渦潮(うずしお、鳴門海峡)、大歩危峡(おおぼけきょう、吉野川中流域)と共に、奇勝土柱(どちゅう、阿讃山脈の南麓、阿波、德島)が有名です。

 土柱は、阿讃山脈の急傾斜地の下に堆積した土砂、和泉砂岩層(約130万年前の地層)を風雨が浸食して出来た土の柱で、現在の地形になるには約3万年かかったという。世界でも珍しい地形で、1934年(昭和9年)には国の天然記念物、1961年(昭和36年)には、高越山(こうつざん)や岩津の名勝を含めて、県立自然公園に指定されています。

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土柱( 上 土柱の絵(放浪の画家、山下 清氏) 下 土柱の写真(波涛嶽など)、阿波、德島、google画像)  

(解説) 1956年(昭和31年)10月10日、ハダカの王様、山下 清(やましたきよし、1922~1971)氏が来県され、德島、鳴門を見て、土柱に来遊、その時の絵と散文、語り口などが、德島新聞には、1956年(昭和31年)10月11日、文芸春秋には、1956年(昭和31年)12月号に発表されました。

 その頃、私は高校生でしたが、德島新聞に出ていた山下画伯の姿、土柱の絵、山下語録などが強く印象に残っています。そして、その年の10月下旬、村のお祭りの頃、親友(松田容和君)にさそわれて、土柱を見に自転車で行き、大規模な山崩れの奇景!を眺め、近くの山々を不思議な思いで見て回ったことを覚えています。その後、機会を見て、家族や知人とも何回か訪れました。

○ 土柱にて(散文)                                          山下 清

 德島から土柱へゆくとちゅう、六十ぐらいのよぼよぼのおじいさんが自動車にひかれそうになった。あんな人をおいぼれというのだろうか。でも六十になっても、はたちくらいの人のように元気な人もいるだろう。はたちの人と六十の人と、どっちがえらいのだろうか。はたちの人は力がつよいし、六十の人は世の中のいろんなことを知っているから頭がいい。どっちもいいところをもっているから、えらさはきっと同じだろうな。はたちはおとなのはじまりで、六十はおとなの終わりなんだな。

 六十ぐらいの人は、きたないけれど、六十ぐらいの人を一万人も二万人も並べたら、きたなく見えないようになるだろうな。そのなかへ四十ぐらいの女の人を一人か二人つれてきたら、その人はきっと、はたちぐらいの若さに見えるだろうな。一人二人かいないんだから、めだつんだな。

 土柱みたいな景色は世界に二つか三つしかないとおしえてくれた。だから土柱が有名になったんだろう。ここは、東京でいえば銀座みたいなもんだろうな。こんなところが日本じゅうあったら、六十の人がたくさんいるのと同じで、きっとつまらないだろう。岩ばかりの絵はあまりかかないので、はじめはちょっとまごついたが、めづらしいのでかいてみた。ここの景色は兵隊の位にしたら将校かな。おなじ将校でも、まえにみた鳴門にくらべるとちょっと下だな鳴門は「左官」で、土柱は「尉官」というところだろうな。(文芸春秋 1956(昭31)、12月号)

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軍隊における階級(呼称一覧、google画像)

○ 土柱(三山六嶽三十奇)

 土柱は、「三山六嶽(さんざんろくがく)三十奇」と言われ、千帽子(せんぼうし)山に波涛嶽(はとうがだけ)、扇子(せんす)嶽、その西方500mの高歩頂(たかぶちょう)山の橘(たちばな)谷沿いに橘嶽、さらに西500mの円山(まるやま)の五明谷(ごみょうだに)に沿って灯籠(とうろう)嶽、不老(ふろう)嶽、筵(むしろ)嶽の六つの奇勝ががあります。土柱のうち最も雄大なものは、波涛嶽で、海中に大波の騒ぐ姿に似ていて、南北90m、東西50mの間に多数(20余り?)の土の柱がそびえ立っています。

 土柱は、一般に、土塔、土筍、土板、雨裂天然溝とも呼ばれ、風雨などの浸食作用により造成されます。阿波の土柱は、何れも阿讃山脈の南斜面にある扇状地の古期洪積層の80m~200mの旧段丘にできたものです。 

 この地域は、県下でも稀な雨量の少ない半乾燥地で、土壌が軟弱で、植物の生育が悪く、山肌を露出し、雨水により、土壌の浸食が行われやすい特殊な地形となっています。 また、阿讃山脈は、中生代の白亜紀に属する和泉砂岩層であり、その地質は、砂岩、頁岩(けつがん、泥板岩)、粘板岩、石灰岩などのよって構成され、風雨の浸食による風化に弱く、河川の浸食により、南麓には扇状地が大きく発達しています。

(参考文献) 藤井孝志: 天然記念物 阿波の土柱、土柱堂(1970); 德島史学会(代表、湯浅良幸)編: 德島県の歴史散歩、p.61~62、阿波の土柱、山川出版社(1995).

(参考資料) 山下清の画像(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E3%80%80%E6%B8%85&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=gsGQTKC7PIaecPql3M0M&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBUQsAQwAA

土柱(阿波、德島、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%9C%9F%E6%9F%B1&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

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