カテゴリー「● 俳句、和歌、回文、洒落、漢詩」の9件の記事

2014年6月11日 (水)

山の四季、春の「山笑う(やまわらう)」、夏の「山滴る(やましたたる)」、秋の「山装う(やまよそおう)」、冬の「山眠る(やまねむる)」、とは(2014.6.10)

  山の四季として、夏の「山滴る(やましたたる)」は、新緑滴るような6月前後の季節をいい、春の「山笑う(やまわらう)」、秋の「山装う(やまよそおう)」、冬の「山眠る(やまねむる)」に対応しています。 そこで、これらの言葉の出典、画品、郭熙四時山 について、改めて、調べて見ました。 
 

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郭煕(かくき、早春図、国立故宮博物院、台北、台湾) 郭煕(かくき、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E7%85%95 

 画品郭熙(かくき、生没年不詳、北宋((960~1127)、画家) 四時山

画品、郭熙四時山 (画論、かくき 山の四季)

春山淡冶而如笑 春山 淡冶(たんや)にして 笑(わら)うが如く)

夏山蒼翠而如滴 夏山 蒼翠((そうすい)として 滴(した)たるが如し

秋山明浄而如装 秋山 明浄(めいじょう)にして 粧(よそお)うが如く)

冬山惨淡而如睡 冬山 惨淡(さんたん)として 睡(ねむ)るが如し

(解説) 「山笑う」は、春の芽吹き始めた、はなやかな山で、冬季の山のさみしさに対していう。 「山装う」は、晩秋、山が紅葉によって、いろどられることをいい、「山眠る」は、冬季の山が、枯れていて、深い眠りに入るように見えるという。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑〈第4版)、p.2584 、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、p.324 山滴る(やましたたる)、三宝出版(1994).

○ 出典(改正月令博物筌・「臥遊録」より):http://www.geocities.jp/sybrma/317yamawarau.html

2014年4月29日 (火)

行く春(季題)、花もみな 散りぬる宿は 行く春の 故郷とこそ なりぬべらなれ (和歌、紀貫之)、 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 (俳句、松尾芭蕉)、ゆさゆさと 春が行くぞよ 野べの草 (俳句、小林一茶)、とは(2014.4.29)  

 行く春(ゆくはる)とは、広辞苑によれば、暮れてゆく春、過ぎゆく春、晩春、まさに終ろうとする春で、惜春の心をこめていう。は、とりわけ楽しく明るい季節だけに、それが尽きようとする、行く春は、なぜか物寂しい気持ちにさせられ、昔から多くの歌人や俳人により、季題として詠まれています。

○ 花もみな 散りぬる宿は 行く春の 故郷とこそ なりぬべらなれ   

   紀貫之(872~945?) 拾遺和歌集77、春 (平安時代)                

(解説) 花もすべて散ってしまったわが家は 過ぎ去って行く春の 旧跡になってしまったようだ。

○ 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 

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  松尾芭蕉(1644~1694) 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 奥の細道 (大迫閑歩解説、江戸時代) :http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno02.htm.  

(解説) 春が過ぎ去るのを惜しんで 鳥も魚も目に涙を浮かべている。この句は、1689年(元禄2年)3月27日、芭蕉が旅立ちの心境を詠んだもので、人のみならず、鳥や魚までも別れを惜しんでいる、という。

○ ゆさゆさと 春が行くぞよ 野べの草 

  小林一茶(1763~1827) 七番日記 (江戸時代)

(解説) 風にゆすられて 春が過ぎ去り 野辺の草が、音を立てゆれ動いている。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四編)、p.2615 ゆくはる(行く春)、岩波書店(1991);樋口清之: 生活歳時記(第2版)、p.240 行く春(ゆくはる)、三宝出版(1994).

2013年11月23日 (土)

春の詩(英訳詩、漢詩)、時は春 日はあした、春眠 暁を覚えず、国破れて 山河在り、とは(2013.11.23)

 春として、ロバート・ブラウニング(1812~1889、イギリス)、「Pippa Song」の英訳詩である上田敏(1874~1916)の「春の朝」、また、高校生の頃に学んだ漢詩として、孟浩然(もうこうぜん、689~740)の「春暁」(五言絶句)、春眠不暁覚、及び杜甫(とほ、712~770)の「春望」(五言律詩)、国破山河在など懐かしく、思いつくまま、改めて調べて見ました。

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ロバートト・ブラウニング(1812~1889、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0

 Pippa Song 春の朝ロバート・ブラウニング劇詩 「ピパが通る」(1841、天保12年)、 上田敏翻訳 「春の朝」(訳詩集、海潮音、1905、明治38年) 小さな資料室:http://www.geocities.jp/sybrma/05pippa.htm

    Pippa Song                     春の朝

The year!s at the spring         時(とき)は春

And day's at the morn         日は朝(あした)

Morning's at seven             朝は七時

The hill-side's dew-pearl'd     片岡(かたおか)に露みちて 

The lark's on the wing          揚雲雀(あげひばり)なのりいで 

The snail's on the thorn       蝸牛(かたつむり)枝に這(は)

God's in His heaven            (かみ)そらに知ろしめす

All's right with the world       すべて世は事(こと)も無し

  ロバート・ブラウニング代表作、劇詩「ピパが通る Pippa Passes」(1841年)の一節、「God's in his heaven. All's right with the world.」(神は天に在り、この世は総てよし)」が広く知られています。  

 この歌は、悪に入り込んだ人たちの心に清流を流す少女ピパの歌として劇詩に現れます。

春の朝(ロバート・ブラウン原作、上田敏、平井正穂ほか、訳詞): http://pistis.jp/textbox/tyosaku/ssc/01robart-a.html

春の詩(古今東西・すてきな詩の世界へ):http://homepage3.nifty.com/kukkie/newpage5.html.

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孟浩然(もうこうぜん、689~740、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E6%B5%A9%E7%84%B6.

〇 春眠暁を覚えずー孟浩然 春暁」(しゅんぎょう、春の明け方、5言絶句、5言と起承転結の4句)

春眠不覚暁  春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚(おぼ)えず (春の夜のねむり いつ夜が明けたのか気づかない) 起

処処聴啼鳥  処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞(き)く (あちらこちらから 鳥の鳴き声が聞こえてくる) 

夜来風雨声  夜来(やらい) 風雨(ふうう)の声(こえ) (昨夜は 風まじりの雨の音) 

花落知多少  花落(はなお)つること 知(し)る 多少(たしょう)ぞ (花は いかほど散ったことか) 結

 孟浩然は、役人になるための科挙(かきょ)の試験にも受からず、世間的には不遇な一生を送りました。が、同時代の有名な詩人(王維、李白、杜甫など)から、尊敬され慕われていました。

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 杜甫とほ、712~770、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E7%94%AB

〇 国破れて山河在り杜甫 春望」(春の眺め、5言律詩、5言と8句)

国破山河在  国破(くにやぶ)れて 山河在(さんがあ)り (国は破れたけれども、山河は、もとのままに、傷つかずにある)

城春草木深  城春(しろはる)にして 草木深(そうもくふか)し (長安の町に春が来たけれども 草木だけが深々と茂っている)

感時花濺涙  時(とき)に感(かん)じては 花(はな)も涙(なみだ)を濺(そそ)ぎ (不幸な時節に感じて 花を見ても涙を流し)

恨別鳥驚心  別(わか)れを恨(うら)んでは 鳥(とり)も心(こころ)を驚(おどろ)かす (家族の離散に心痛んで 鳥の声にもおどおどす)

烽火連三月  烽火(ほうか) 三月(さんがつ)に連(つら)なり (戦局の急を告げるのろしの火も三月の間つづく)

家書抵万金  家書(かしょ) 万金(ばんきん)に抵(あた)る (家からの手紙は 途方もなく高い価値にあたる)

白頭掻更短  白頭(はくとう) 掻(か)けば 更(さら)に短(みじか)く (しらが頭は 髪の毛がうすくまだらになっている)

渾欲不勝簪  渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲(ほつ)す (すっかり髪がうすくなってヘアピンで冠をとめられなくなった)

 杜甫は、戦乱の世を平和にもどす事業に参加するため、早く役人生活にもどりたい。しかし今は年老いて、それもかなわぬのか、と嘆いています。

(参考文献) 一海知義: 漢詩入門(第21刷)、岩波書店(2013).

(参考資料) 〇 室生犀星(金沢出身の作家)にまつわる歴史実話、ふるさとは(小景異情)、山のあなたの(カール・ブッセ、上田敏訳、海潮音)、桃源郷(陶淵明、宏村、中国)、とは(2009.7.6): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/kagakufudoki14.html

〇 木羽敏泰

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木羽敏泰先生(教員プロフィール): http://www.kanazawa-it.ac.jp/kyouinroku/m/kiba_toshiyasu.htm

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 2013年(平成25年)11月1日、金沢大学名誉教授、木羽敏泰先生(理学部、化学教室、分析化学研究室)は、お元気で、めでたく、100歳を迎えられました。

 百寿のお祝いのとき、次のような漢詩送杜少府之任蜀川 王勃(おうぼつ、649~676、初唐)(五言律詩、五言と8句の中の5句、6句)の墨書をいただきました。Photo

 

海内存知己  海内(かいだい)に  知己(ちき)を存(そん)すれば

天涯若比隣  天涯(てんがい)も  比隣(ひりん)の若(ごと)し

 この句の意味は、「この世の中で、自分を理解してくれている友がいるかぎり、世界のはても、隣り近所のようなもの」とのことです。語の「四海皆兄弟」のをうたう、優れた対句として名高いものです。 

送杜少府之任蜀川 王勃(詩詞世界、碇豊長):http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/pbt_shi00.htm.

2013年11月21日 (木)

世界文化遺産、中国安徽省(あんきしょう)の古村落、宏村(こうそん)、桃源郷のモデル、陶淵明(とうえんめい)の漢詩、「飲酒」、悠然として南山を見る、心遠地自偏、とは(2013.11.21)

 中国安徽省(あんきしょう)の山に囲まれた盆地の中に、桃源郷(とうげんきょう)のモデルにもなったと言われる村々があります。 その中でも宏村(こうそん)は、最も美しいと言われる水に囲まれた村で、明清代(1400~1900、室町~明治)に建てられた伝統的な古民家が100軒以上残っています。

 2009年(平成21年)5月、2000年(平成12年)に世界文化遺産に登録された桃源郷伝説とされる宏村を、NHKのテレビ放送で見たことがあります。

 NHK世界遺産(ライブラリー、2000年、文化遺産)、「安徽省の宏村」-NHKオンライン:http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards650.html.

 NHKの取材班が、宏村を離れる朝、旅の終わりに、王道根(おうどうこん)さん(76才)に聞いておきたいことがありました。

 おじいちゃんにとっての理想ふるさとはどんなとこですか、と尋ねたところ、お茶畑にいた、おじいちゃんの答えは、そんなこと考えたことないね、毎日畑に出て家族と暮らす。ただそれだけ。でも充分満足している、と天地人をからだに感じて生活している姿でした。

 中国桃源郷(ユートピア理想郷!)と呼ばれる宏村については、中国の詩人、陶淵明(とうえんめい365年(興寧3年) ~427年(元嘉3年)、の有名な「飲酒」の第五首の中の、「心遠地自偏」心遠ければ地おのずからなり)がよく当てはまるという。

 その心は、「どこで暮らしていようと、心の持ち様で、そこは自分にとっての理想のすみかとなる」の意で、そのこと(住めば都!)に気づいた時、理想ふるさと桃源郷への入り口は、もう見つかっているかもしれない、とのことです。

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陶淵明(365~427、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E

(解説) 陶淵明の「飲酒(いんしゅ)」と題する二十首の連作(五言古詩)、その第五首の漢詩には、「心遠地自偏」、悠然見南山」など、有名な詩句が見られます。

   悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)る陶淵明 「飲酒」五言古詩

結蘆在人境  蘆(ろ)を結(むす)んで人境(じんきょう)に在(あ)り (人里に庵(いおり)かまえて)

而無車馬喧  而(しか)も車馬(しゃば)の喧(かまびす)しき無(な)し (しかも車馬のざわめきもなし)

問君何能爾  君(きみ)に問(と)う 何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)るやと (人はいう なぜそうなのかと)

心遠地自偏  心遠(こころとお)ければ 地(ち)も自(おのずか)ら偏(へん)なり (気の持ちようで 土地もへんぴに)

采菊東籬下  菊(きく)を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと) (東の垣根で菊をつみ)

悠然見南山  悠然(ゆうぜん)として 南山(なんざん)を見(み)る (悠然と 南山を見る)

山気日夕佳  山気(さんき) 日(ひ)の夕(ゆうべ)に佳(よ)く (山の気配(けはい)は夕暮れが最上)

飛鳥相与還  飛鳥(ひちょう) 相与(あいとも)に還(かえ)る  (飛ぶ鳥うちつれて塒(ねぐら)に帰る)

此中有真意  此(こ)の中(うち)に真意有(しんいあ)り  (ここにこそある 真実への希(ねが)い)

歌弁已忘言  弁(べん)ぜんと欲(ほつ)して 已(すで)に言(げん)を忘(わす)る  (語ろうとして 言葉さがせず)

 陶淵明は、若い頃10年あまり、断続的に地方の役人をしていましたが、40歳を過ぎると役人生活にいや気がさして、さっさとやめてしまいました。そのとき作ったのが、有名な「帰去来((ききょらい)の辞(じ)」です。

(かえ)りなん いざ 田園将(でんえんまさ)に蕪(あ)れんとす 胡(なん)ぞ帰(かえ)らざる  ---------

 その後63歳で亡くなるまで、地方政府からたびたびの出仕要請にもかかわらず頑(かたく)なにこれを拒(こば)んで、田園生活から離れず、田園の中で労働し、自然と酒を愛して一生を送り、「田園詩人」とか「酒の詩人」と呼ばれています。 

(参考文献) 一海知義: 漢詩入門(第21刷)、p.38~40、  悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)るー陶淵明「飲酒」、岩波書店(2013).

(参考資料) 室生犀星(金沢出身の作家)にまつわる歴史実話、ふるさとは(小景異情)、山のあなたの(カール・ブッセ、上田敏訳、海潮音)、桃源郷(陶淵明、宏村、中国)、とは(2009.7.6): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/kagakufudoki14.html

 

2012年10月15日 (月)

若山牧水(日向市、宮崎県)、旅と酒をこよなく愛した歌人(九州から北海道まで、幾山河こえさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく、歌碑13基)、種田山頭火、島崎藤村、とは(2012.10.15)

   日向(ひゅうが、ひむかとも)といえば、古事記・日本書紀に記されている有名な「神武東征(じんむとうせい、日向(宮崎)から大和(奈良)へ)」の神話、伝説など、また日向産のサトウキビという阿波和三盆糖(徳島)の伝承、日向(お倉ヶ浜、宮崎)産の(はまぐり)碁石のほか、「幾山河こえさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」と歌った、旅と酒をこよなく愛した若山牧水(わかやまぼくすい、日向市、宮崎県)などを思い浮かべます。ここでは、若山牧水について、改めて調べて見ました。

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旅ゆく牧水の像(生家近くの牧水公園、日向市、宮崎県、google画像) 若山牧水(九州の文学、webM旅、東郷町、日向市、宮崎県): http://www.webmtabi.jp/200809/tanka/bokusui_wakayama.html

(解説) 若山牧水(わかやまぼくすい、1885~1928、歌人、宮崎県生れ)は、尾上紫舟(おのえさいしゅう、1876~1957、歌人・書家・国文学者、岡山県生れ)の門下、平易純情な浪漫的な作風で、旅と酒の歌が多い

 1908年(明治41年)に歌集海の声」を刊行、自然の大胆なとらえかたに加えて、旅・酒・恋を抒情(じょじょう)豊かに詠う歌風は、1910年(明治43年)の「別離」において一気に開花しました。同年3月に主宰誌「創作」を創刊。「みなかみ紀行」など優れた紀行文も数多い。全集・14巻(1992~1993)があります。 

若山牧水記念文学館(公式ホームページ、日向市、宮崎県): http://www.bokusui.jp/

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歌碑(若山牧水の筆跡、揮毫旅行、幾山川 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ國ぞ けふも旅ゆく、歌集では幾山河と表記、北上、岩手、google画像) 若山牧水の歌碑(きたかみ魅力辞典、きたかみ観光協会、北上、岩手): http://www.kitakami-kanko.jp/kanko.php?itemid=215歌の意味は、「いったいどれだけの山や川を越え去ってゆけば、この寂しさが終わる国にたどり着けるのであろうか。行けども尽きない寂しさの国を 今日も私は旅している」。

(解説) 全国を旅した歌人らしく、歌碑は九州から北海道まで280基もあります。生涯につくった8800の短歌のうち、最も多く碑に刻まれているのは「幾山河 こえさりゆかば寂しさの はてなむ」国ぞ 今日も旅行く」(歌集、海の声、別離)で13基あります。 

 酒好きにはたまらない「白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」(歌集、路上、讃酒歌)は8基、次いで、「白鳥は かなしからずや空の青 海のあをにも 染まずただよふ」(ふる郷旅の歌) は7基あり、汽笛を友とし、酒に沈潜する孤愁の人のイメージという。

 晩年は、富士山の見える沼津の千本松原で過ごしました。臨終の枕元にあった短歌雑誌の裏表紙には、赤いペンで「酒ほしさ まぎらはすとて 庭に出でつ 庭草をぬく この庭草を」の絶筆が残されていて、やはり酒が命を縮めたのかと哀れを誘います。

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室生犀星(1889-1962、石川県)   

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高村光太郎(1883-1956、東京都)

 室生犀星(むろうさいせい、1889~1962、詩人、小説家、石川県生れ)は「朗読をするにふさわし」と牧水の声を絶賛し、高村光太郎(たかむらこうたろう、1883~1956、詩人、彫刻家、東京生れ)は「彫刻のモデルになってほしかった」と顔かたちをほめています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 北陸中日新聞(夕刊): 旅、日向市、宮崎県、牧水の生命力の原点、2011年1月14日(金). 

(追加説明) ○ 若山牧水の歌、「幾山河 こえさりゆかば寂しさの はてなむ」国ぞ 今日も旅行く」(歌集、海の声、別離)の歌は、上田敏の訳詩集(海潮音)、1905年(明治38年)にあるカール・ブッセの詩「山のあなたの空遠く 幸住むと人のいふ」 の抒情にも通じるという。

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若山牧水(1883-1928、宮崎県)

○ 酒と旅の漂泊の歌人として、種田山頭火(たねださんとうか、1882~1940、俳人、山口県生れ)があります。荻原井泉水(おぎわらせんせいすい、1884~1976、俳人、東京生れ)に師事。荻原は俳誌「層雲」主宰、季題無用の新傾向句を提唱、印象的・象徴的な自由律の句をつくり、句集「湧出るもの」「原泉」などを発表しています。種田はその影響を受け、のち出家して全国を漂泊、自由律の句を詠み、句集「草木塔」など発表しました。 種田山頭火の生涯(文芸ジャンキー・パラダイス、http://kajipon.com): http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic41.html.

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種田山頭火(1882-1940、山口県)

○ 島崎藤村(1872~1943、詩人、作家、長野県生れ)の千曲川旅情の歌~「小諸なる古城のほとり」の詩の中で、旅と酒について、(http://www.komorebi.org/book/)、「濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む」と詠われています。

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島崎藤村(1872-1943、岐阜県)

2011年8月24日 (水)

回文(かいぶん、言葉遊び)、上から読んでも下から読んでも同音(和歌、俳句、和文、英文)、七福神宝船(初夢)と回文歌(ながきよの とをのねぶりの)、とは(2011.8.24)

   言葉遊びの一つ、回文(かいぶん)とは、上から読んでも下から読んでも同じ文章です。 日本には、昔から、「竹藪焼けた(たけやぶやけた)、竹屋が焼けた(たけやがやけた)」、「磨かぬ鏡(みがかぬかがみ)」、「私負けましたわ(わたしまけましたわ)」、「ダンスがすんだ(だんすがすんだ)」など、私が小学生の頃にもよく口ずさんだ回文があります。

 回文対は、上の句から読んでも下の句から読んでも同意の構成になる対句です。和歌、連歌、俳諧では、上から読んでも下から読んでも同音のものは、回文歌、回文連歌、回文俳諧と呼ばれています。 回文詩は、上から読んでも下から読んでも一詩をなすものです。 日本のことば遊び回文、日国フォーラム、日本国語大辞典): http://www.nikkoku.net/ezine/asobi/asb01_01.html

○ 回文歌、回文俳諧、回文

 最も有名な和歌は、室町時代、「長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな(ながきよの とをのねぶりの みな めざめ なみ のりぶねのおと のよきかな)」といったものです。この他にも、「草々の 名は知らぬらし 花守も 名は知らぬらし 花の咲く咲く(くさくさの なは しなぬらし はな もりも なは しなぬらし はな のさくさく)」、「桜木の 訪ひし 香りは 花の園 縄張り侵し 人の気楽さ(さくらきの とひし かおりは はな のその なは はりおかし ひと のきらくさ)」などが知られています。

 俳句では、「岸に咲く 色気も軽い 草にしき(きしにさく いろけもけろい くさにしき)」、「啄木鳥の 飛ぶや小薮と 軒つづき(きづつきの とぶやこやぶと のきつづき)」、「消ゆる子の 片目に見たか のこる雪(きゆるこの かたみにみたか のこるゆき)」、などが代表的なものです。

 最も長い回文は、江戸時代、1661年(寛文元年)、水車集(紙屋川水車集、第一、詞書)にある、「はれけき先の つま香を求めむ 色白い梅とも 岡松の木 咲きけれは(はれけきさきの つまかをもとめむ いろしろい むめとも をかまつ のき さきけれは) 」というもので、41文字もあります。 

 吉原の妓楼(ぎろう)大文字屋の主、村田市兵衛(1754~1828)は、狂名を加保茶元成(かぼちゃもとなり)といったが、ある人が放屁をした時、かたえの人が腹をかかえて笑い、これを回文の歌に詠めと注文すると、へ々々々々々々々々々々々々々々々々 へ々々々々々々々々々々々々々々々々、と詠んだという。(徳和歌後万歳集(とくわかごまんざいしゅう)より) 回文(鈴木棠三編、1412文、総合情報サービス): http://nobi.or.jp/i/kotoba/kaibun/index.html

○ 七福神宝船と回文歌

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七福神宝船絵(初夢用、江戸東京博物館蔵、東京、google画像) 江戸東京博物館(ホームページ、東京):http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/project/index.html

(解説) 宝船(たからぶね)は、正月の初夢を見るために枕の下に敷いた縁起物です。御宝(おたから)でもあり、多くは、米俵、宝貨を積んだ帆掛船、宝船の絵に七福神を描き、回文歌(かいぶんうた)、「ながきよの とをのねぶりの みな めざめ なみ のりぶねのおと のよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」などを書き添えました。この歌の出典は、室町時代、運歩色葉集(うんぽいろはしゅう、著者未詳)、1548年(天文17年)成立、という。  

 英文にも回文があり、その最も有名なのは、「ABLE WAS I ERE I SAW ELBA(訳は、エルバ島を見るまでは不可能ということを知らなかった)」 これは、ナポレオンの言葉をもじったものです。その他、「Madam, I'm Adam (マダム、私はマダムです)」は、よく知られている英文の回文です。

 私が中学生の頃、英語の授業で、英文、「To be to be ten made to be(トウ ビ トウ ビ テン メイド トウ ビ)」とはどういう意味か? との問題が出され、四苦八苦したことがあります。この文は、ローマ字読みすればよく、「トベ トベ テンマデ トベ(飛べ 飛べ 天まで 飛べ)」が名訳!との言葉遊びが正解であったことを思い出します。

 また、高校生の頃、世界で1番長い単語は何か?という問題が出され、正解は、「SMILES(スマイルズ)」!。 というのは、SとSの間か1マイル(1609.344メートル)もある、という言葉遊びでした。その後、長大単語を英語大辞典で調べたところ、 長大語は、floccinaucinihilipilification(フロクシノーシナイヒリピリフィケイション、訳、無意味だと見なすこと)で、この単語が世界で最も長いものと説明されていたことを覚えています。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記、p.57、七福神の由来、p.195、最も長い回文、三宝出版(1994).

(参考資料) 七福神の神使(神使の館): http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/01sinsi.html

(追加説明) 七福神(しちふくじん)とは、恵比寿(えびす、日本)、大黒(だいこく、インド)、毘沙門(びしゃもん、インド)、弁天(べんてん、インド)、布袋(ほてい、中国)、福禄寿(ふくろくじゅ、中国)、寿老人(じゅろうじん、中国)の七人の神様です。みな福の神様となっています。これら七福神は、神道、仏教、道教、バラモン教とりまぜての出身の神様です。この七人の神様が七福神として信仰されるようになったのは室町時代で、15世紀中頃には、七福神の装いをした七福盗賊が忍び入ることさえ喜ばれたという。

 七福神に扮した者が正月や小正月に家々を訪ねて祝言を唱えるのは、言葉にも魂があり、めでたい言葉を述べて祝福すれば、そのとおりの幸福が得られるという言霊信仰(ことだましんこう)から生まれた芸能です。

 

2011年7月25日 (月)

洒落(しゃれ、言葉遊び)、地口(じぐち)、秀句(しゅうく)、語呂合(ごろあわせ)、記憶和歌(語呂合の便利な文句)、謎(なぞ)、都々逸(どどいつ)、漫才(まんざい)、段駄羅(だんだら)、とは(2011.7.25)

   洒落(しゃれ)とは、座興にいう気のきいた文句です。日本人にとっては文芸であり、ユーモアを解し、風流を嗜(たしな)む国民性の特徴でもあるという。言葉の洒落(しゃれ)には、地口(じぐち)、秀句(しゅうく、こせごと、かすりとも)、語呂合(ごろあわせ、もじり、語路とも)などがあります。また、人々は昔から、日常生活のちょっとしたことを覚えるのに、記憶和歌(きおくわか、語呂合、ごろあわせ)などを作りました。

 また、言葉遊びには、(なぞ)として、頓智謎解き(とんちなぞとき)、寄席(よせ)での謎解きのほか、都々逸(どどいつ)、漫才(まんざい)などの遊びもあります。

○ 地口(じぐち)

 地口(じぐち)とは、俚諺(りげん)・俗語(ぞくご)などに同音または声音の似通った別の語をあてて、意味の違った文句を作る洒落(しゃれ)です。

舌切り雀」では、「着た切り雀

年の若いのに白髪が見える」では、「沖の暗いのに白帆が見える

 江戸時代、京保年間(1716~1736)にはじめて発生、掛行灯(かけあんどん)に地口の文句を記し、戯画を描き加えたものを地口行灯(じぐちあんどん)といい、神社の祭礼の際などに参道に掛け並べられました。

○ 秀句(しゅうく、こせごととも)

 秀句(しゅうく)とは、本来は優れた詩歌の句を意味しましたが、和歌では巧みな表現、すなわち縁語や掛詞(かけことば)による技巧的表現をさすようになりました。その後、言語遊技の技巧上の顛末を表現するために、こせごと、と呼ぶようになりました。巧みに言いかけたしゃれ句、かるくち、すく、狂、ともいう。

 「高野山 谷の蛍も ひじり哉(かな)」では、ひじり火尻の言掛けです。

 「四方(よも)に春 きたぞ みな見よ 西東」では、きた来たみな見よ皆見よの言掛けです。

(俳諧作法書、毛吹草、1638年(寛永15年)より) 

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御室桜(おむろざくら、お多福桜とも、仁和寺、真言宗、御室、右京区、京都、google画像) 仁和寺(にんなじ、右京区、京都、Wikipedia): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA

(解説) 私は、京都大学大学院(理学研究科化学専攻)の学生であった1965年(昭和40年)の頃、京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)を訪れ、境内で「私しゃ お多福 御室(おむろ)の桜 はなは 低うとも 人は好く」、という句の立て札を見つけ、ほとんどの桜の木の高さが人の背丈ほどしかないので、なるほど! と感嘆したことがあります。この句では、はなの言掛けです

 また、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部化学科)に助手として勤務し、1975年(昭和50年)1月、アリゾナ大学(ツーソン、アリゾナ、U.S.A.)のリベラルアーツ(化学科)のH.Freiser(ヘンリー・フライザー)教授の下に博士研究員として留学することになった頃、同郷(德島)で何かとお世話になっていた金沢大学理学部(生物学科)の里見信生講師から、縁起担ぎの小さな蛙(かえる)のお守りをいただいたことがあります。 これは、「無事に日本にかえることを祈っている」ということで、かえる(カエル)と帰るの言掛けです。 アリゾナ大学(化学科、ツーソン、アリゾナ、米国):http://parking.arizona.edu/parkingmap/index.php?revNum=1&accordIndex=0&startMap=Building&mapLines=&mapOLays=&mapMIDs=41&mapZoom=15&mapLat=32.230736&mapLng=-110.951571.                         

○ 語呂合(ごろあわせ、もじり、語路とも)

 語呂合(ごろあわせ、語路合せとも)は、江戸時代、天明年間(1781~1789)に発生、江戸で流行しました。蜀山人(しょくさんじん、1749~1823)は、「天明の頃、地口変じて語路といふものとなれり。語路とは、ことばつづきによりて、さもなき言のそれときこゆるなり」と述べています。(仮名世説、1825年(文政8年)より)

 「田舎侍 茶店にあぐら」では、「死なざやむまい 三味線枕

 「水汲む親父 秋の夕暮れ」では、「いずくも同じ 秋の夕暮れ

○ 記憶和歌(きおくわか、語呂合の便利な文句

 漢字(区別) 

 漢字の記憶に便利な歌では、「」、「」、「」の区別は、「キ・コの声 オノレ・ツチノト下につく、 イ・スデは なかばに シ・ミはみなつく」とか「ミ・シは上、 ヤム・イはスデになかばノミ、 オノレ・ツチノト・コ・キ下につく」。「」、「」、「」、「」、「」の区別は、「言うは誰、金は錐(きり)なり、手にて推(お)す、木は椎(しい)なるぞ、 禾(のぎ)は稚(おさな)し」 また、「」、「」、「」、「」の区別は、「木は栽(うえ)る、衣裁(た)つなり、異なるは、戴(いただ)くなり、車載(の)すなり

単位(換算)

 マイルでは、「陸でいうマイルは二七十四、四十五と一にこそ」

 華氏では、「摂氏(せっし)に九をかけ それを五にて割り、三十二足せば 華氏(かし)の度となる」

年月(大小)

 一年の日数月の大小を覚えるために、「一年は 三百六十五日間 五時間と四十八分四十六秒」。「一三五、七八十や十二月、は二四六九(にしむく、西向く)十一(さむらい)と知れ」。 この歌(にしむく さむらい)は、子供の頃、母親から教えてもらったことを覚えています。

数値(換算)

 √2=1.41421356、「ひとよ ひとよに ひとみごろ

 √3=1・7320508、「ひとなみに おごれや人並みに 奢れや)

 √5=2.2360679、「ふじさんろく おうむなく富士山麓 オウム鳴く)」

 π=3.14159265、「さんいし いこくに むこう産医師 異国に 向こう)」

年号(歴史)

 平安遷都 794年、なくよ うぐいす へいあんきょう(鳴くよ 鶯 平安京) 

 鎌倉幕府 1192年、いいくに つくろう(いい国 作ろう

 応仁の乱 1467年、ひとのよ むなしい おうにんのらん(人の世 空しい 応仁の乱)  

化学(炎色反応、周期律) 

 炎色反応 Li Na K Cu Sr Ba については、「リアカ(Li、 赤) ナキ(Na 、黄) ケイムラ(K、 紫) ドウセ(Cu、 青) カリルト スレモ クレナイ(Sr、 紅) バリョク(Ba、 緑)、リアカー なき けい村 どうせ 借りると するも くれない  ばりょく)」

 周期律(元素の原子番号順、1~20番) H He Li Be B  C  N  O  F Ne  Na Mg Al Si P S Cl Ar K Ca (1~20番) については、「スイ(水、H)ヘイ(兵、He)ノ  り(離、Li)ベツ(別、Be)カ ホカノ(他の、B、C、N、O) フネ(船、F、Ne)ガキタ(水兵の 離別か 他の 船が来た)。 ナマエアル(名前ある、Na、Mg、Al) シリニ(尻に、Si、P) イオウカ(硫黄か、S) クロアリカ(黒蟻か、Cl、Ar、K) カユシ(痒し、Ca) (名前ある 尻に 硫黄か 黒蟻か 痒し)」

 私が中学校、高等学校の生徒のとき、いつの頃からか覚えた、記憶に残るいくつかの記憶和歌(きおくわか、語呂合の便利な文句)などがあり、時折思い出して、今も使っていますが、とても便利です。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記、p.95、便利な記憶和歌、p.297、都々逸の起源、三宝出版(1994); 鈴木棠三: ことば遊び、講談社(2009).

(参考資料) 地口(じぐち、言葉遊び、フリー百科事典、ウイキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8F%A3

語呂合せ(ごろあわせ、記憶術、フリー百科事典、ウイキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%9E%E5%91%82%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B

(追加説明)  言葉遊びには、(なぞ)として、頓智謎解き(とんちなぞとき)、寄席(よせ)での謎解きのほか、都々逸(どどいつ)、漫才(まんざい)などの遊びもあります。

○ 頓智謎解き(とんちなぞとき)、寄席(よせ)での謎解きは、 1814年(文化11年)10月頃、江戸、浅草観音の境内に小屋掛けし、頓智謎の看板を掲げて興行を始めた謎解き坊、春雪(しゅんせつ、はるゆきとも、たやすく解ける意!、生没未詳、盲人)と名のる座頭は、一席16文で、客からカケの言葉を出題させて解いていたという。 はげあたま とかけて  おとし味噌 ととく 心は すらずとよい(我衣より)、 十六七の娘 とかけて 繁盛な店 ととく 心は もうけがあろう(豊芥子日記より)

 1817年(文化13年)、三笑亭可楽(さんしょうていからく、1777~1833)は、春雪(しゅんせつ)が江戸を去った年の冬頃から謎解きをはじめたという。 可楽のなぞ とかけて けいせいの帯び ととく 心は かけてからとく(板行 可楽なぞ、表紙より) 

 可楽(からく)に次いで、都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか、1804?~1852、常陸、のち茨城)も寄席で謎解きを演じたという。都々逸を歌い、客が掛ける謎にそのまま節をつけて解いて聞かせました。大阪にも巡業しましたが、天王寺の塔という題が出た時、三味線に合わせて、天王寺の塔 とかけては ハエハエ、 虎屋の饅頭 ととく わいなわいな、 とうで五じゅうじゃ ないかいな、 とやりました。 

○ 都々逸(どどいつ)は、俗曲の一種、最も代表的な座敷歌で、典型的な近世歌謡曲、7・7・7・5型をもっています。19世紀はじめ名古屋(熱田の宮の私娼街)で起こり、天保年間(1830~1844)に都々逸坊扇歌江戸の寄席で、新しい曲風で歌って以来普及しました。「そいつはどいつじゃ」の囃子詞(はやしことば)が曲名となりました。 

 世間では、私娼女(ししょうめ、飯盛女とも)を「おかめ」といって軽蔑しましたが、ここに集まってきた遊治郎の間に、「おかめ買うやつあ 頭で知れる。 油付けずの二枚折」という唄が唄い出され、神戸節、名古屋節の名で諸国に伝わりました。しかもこの唄の終わりには、「そいつはどいつじゃ、 どどいつどいどい」というおはやしがつきました。それで、しゃれ好きの連中が、この唄を「どどいつ節」というようになったという。 

 この流行俗謡には、雅言を用いず、主に男女相愛の情を口語をもって作り、ふつう7・7・7・5の4句を重ねます。「潮来(いたこ)」「よしこの節」より化したという。

 潮来節は、江戸後期の流行歌で、潮来(茨城)の舟唄が座敷唄となり、文化・文政年間に大流行しました。元歌は「潮来出島の 真菰(まこも、イネ科の大形多年草)の中に あやめ咲くとや しをらしや」。

 よしこの節は、江戸時代の流行歌で、潮来節の変化したものとされ、囃子詞(はやしことば)「よしこのよしこの」といったからという。内容・形式は都々逸と同系統で、文政の頃から三都に行われ、上方では明治時代まで唄われました。

○ 漫才(まんざい)は、二人(ぼけ・つっこみ)が掛合いで滑稽な話をかわす演芸、またその芸人のことです。関西で、大正中期、万歳(まんざい)が舞台で演じられることから始まり、昭和初年掛合い話が中心となりました。

 万歳(まんざい)は、年の始めに、風折烏帽子(かざおりえぼうし)を戴き、素襖(すおう)を着て、腰鼓を打ち、当年の繁盛を祝い、賀詞を歌って舞い、米銭を請うものです。太夫と才蔵とが連れ立ち、才蔵のいう駄洒落(だじゃれ)を太夫がたしなめるという形式で、滑稽な掛合いを演じます。千秋万歳(せんずまんざい)に始まり、出身地により、大和万歳、三河万歳、尾張万歳、伊予万歳などがあります。漫才はこれらの現代化で、関西に起りました。

○ 江戸時代輪島(能登、石川)の塗職人の間ではやった言葉あそびに「段駄羅(だんだら)」がありました。これは、俳句や川柳と同じ五七五の形式で、真ん中の七の部分に同じ音で二つの意味を持たせ、前半と後半を別の世界でつなげるものです。輪島市が募集した最優秀に、金沢市白菊町、大鋸谷晃子さん(68)の「常識は覆るかな/靴買えるがなヘソクリで」、優秀賞には同市泉野町、吉村雅彦さん(72)の「就職も神頼みする/上田のみする減反で」が選ばれました。(2011年(平成23年)5月28日(土)、北陸中日新聞、朝刊より)

 

2009年9月 7日 (月)

松尾芭蕉(奥の細道、那谷寺)にまつわる歴史紀行、石山の石より白し秋の風、この句の中の石は那谷寺(加賀)の石、それとも石山寺(近江)の石なのか、とは(2009.9.7)

  那谷寺(なたでら、泰澄(たいちょう)開創、真言宗、那谷町、小松)の寺号は、西国三十三ヶ所、霊場1番のの紀伊(和歌山)那智山のと、最終33番の美濃(岐阜)谷汲(たにぐみ)山のを合わせて名づけられたと言われています。 松尾芭蕉は、1689年(元禄2年)46才の時、那谷寺を訪れ、奥の細道の中の有名な一句、石山の石より白し秋の風、を作っています。

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松尾芭蕉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

 松尾芭蕉(まつおばしょう、1644年(寛永21年、正保元年)~1694年(元禄7年)、俳人、江戸)は、伊賀上野の無足人の家に生まれ、津藩(三重)の藤堂良忠(俳号蝉吟)に仕えて北村季吟門の俳諧を学びました。その後、蕉風(しょうふう、侘び(わび)、寂び(さび)など)を開眼(かいげん)、1689年(元禄2年)より河合曽良(かわいそら、1649年(慶安2年)~1710年(宝栄7年)、俳人、神道家)を伴って奥州、北陸を行脚し、歌枕(うたまくら)、史跡を訪ね、奥の細道を著し(1702年(元禄15年)刊行)、不易流行(ふえきりゅうこう)を達観(たっかん)、さらにかるみを唱えて上方に赴き、1694年(元禄7年)10月、51才で客死、近江の義仲寺に葬られています。

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那谷寺奇岩遊仙境、2009年(平成21年)9月、小松、石川)

 ところで、石山の石より白し秋の風の意味のことですが、石の対象を那谷寺(加賀)とするのか、石山寺(近江)とするのか、そのとらえ方で意味が大きく異なると思います。一般に、近江の石と解釈するのが定説となっていますが、異論も多く、芭蕉に聞いてみたいところです。

 近江の石山をとると、その意味は、「那谷寺の石は、近江の石山寺の石山よりも白いと言われているが、今吹いている秋風は、那谷寺の石山よりも白く感じられる(秋の風を白と言う、白秋、中国)」となり、一方、加賀の石山をとると、「那谷寺の石山の石は、とても白く、吹きわたる秋風は、それよりももっと白く感じられる」という意味になります。

 那谷寺の石は、白色の凝灰岩(ぎょうかいがん)ですが、石山寺の石は灰白色の珪灰石(けいかいせき)です。

 私は、定説に近い体験をしました。1967年(昭和42年)4月、その頃は京都(村井良治様方、北白川、下別当町、左京区)で下宿していましたが、桜のいい季節でしたので、石山寺を訪ねました。まさに、奇岩、奇石が目に焼き付き、今も懐かしく思い出されます。

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石山寺(1967年(昭和42年)4月、滋賀)

 また、ご縁があって、1969年(昭和44年)4月に金沢に来て、11月より武家屋敷のある長町(岩岸様方)に下宿していました、その年の秋に、知人から紅葉の美しいところとして、那谷寺の紹介を受け、金沢からバスでそこを訪ねました。

 美しい紅葉の中、こじんまりとした奇岩に入り込む御堂に参拝し、その後、芭蕉がここを訪ねて、石山の石より白し秋の風の句を詠んだことを知った時、ふと、近江の石山寺の荒々しくでっかい奇岩を思い出しました。芭蕉は、かの有名な石山寺の石を、句の中に詠み込むことによって、那谷寺の奇岩の上の小堂にも敬意を表し、誉め讃えていると思いました。

 この時の奥の細道の紀行文は、山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行ほど、白根が嶽、跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(くわさん)の法皇三十三所の巡礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名付給ふと也。那智・谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

 この少し前に、金沢を訪れ、この句以外にも、あかあかと日はつれなくも秋の風、塚も動け我が泣く声は秋の風など、秋の風を含む2句が、奥の細道に載っています。

 松尾芭蕉は、近江の月見亭の隣の芭蕉庵を、たびたび仮住まいとし、多くの句(石山の石にたばしるあられかな)を残しています。 近江は芭蕉が亡くなった地であり、石山寺の近く、芭蕉の墓地のある義仲寺の無名庵、また、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが現存しています。芭蕉、51才、辞世の句は、「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」でした。

(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会編: 新版石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料) 松尾芭蕉(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

石川県観光素材集(那谷寺): http://www.natadera.com/; 奥の細道(道祖神の旅-9): http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/okunohosomiti9.html  : 芭蕉の年譜: http://www.intweb.co.jp/basyou/basyou_nenpu.htm ; 石山寺観光ガイド: http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/culture.htmll

松尾芭蕉(北陸紀行、旅しよう北陸):http://e-teltel.jp/column/bashou/index.html; 奥の細道(北陸路の旅程): http://www.ishikawa-c.ed.jp/basyou/ryotei/ryotei.htm.

(追加説明) ○ 自然な区切りである、四分法(しぶんほう)に従えば、季節の移り変わりは、春、夏、秋、冬、と表しますが、人生の四つの節目は、中国では、青春(せいしゅん)、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)、また、古代インドでは、学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林住期(りんじゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)、となり、それぞれの生き方を示唆(しさ)する興味深い思想です。(五木寛之、林住期、幻冬舎(2007)より)

○ 松尾芭蕉は、1644年(正保元年)伊賀上野の城下赤坂町で生まれました。父は与左衛門といい、手習師匠をしていました。子供のうちから藤堂家の若君の側に使えていましたが、1666年(寛文6年)に若君が逝去したので脱藩し、1673年(寛文12年)には江戸に出ています。

 芭蕉の生涯は旅から旅の連続でした。 生まれた伊賀上野は、忍者の里であり、後の芭蕉の俳諧の旅が隠密の旅との噂がありました。1694年(元禄7年)5月、江戸を出て長崎に向かっていたが、大阪に入って発病し、門人の看病にもかかわらず、ついに同年10月12日51才で一生を閉じました。(樋口清之監修、生活歳時記、p.589、俳聖・芭蕉、より)

○ 芭蕉(ばしょう)という植物は、約2mほど大きく、みずみずしい青葉を広げる。しかし、この葉は、傷つきやすく、秋風の頃になると葉脈に沿って裂けはじめ、風雨に破れ裂けた芭蕉の葉は痛ましい。松尾芭蕉は、「その性 風雨に傷みやすきを愛す」といってこの植物を好んだ。(樋口清之監修、生活歳時記、p.520、芭蕉、より)

2009年7月 3日 (金)

加賀の千代女(加賀國松任の俳人)にまつわる歴史逸話、朝顔に(朝かほに、句屏風、俳画)、鬼瓦、蚊帳のなか、とは(2009.7.3)

  加賀の千代女(かがのちよじょ、加賀千代とも)、1703年(元禄16年)~1775年(安永4年、松任(まつとう、金沢の西南約12キロ、のち白山市)の出身で、江戸中期に活躍した女流俳人です。

 加賀國松任の表具師(ひょうぐし)で俳諧をたしなむ父福増屋六兵衛と、その向かいの家、村井屋の母つるの長女として生まれました。

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千代女像

加賀の千代女(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3. 

 千代女は、1714年(正徳4年)、12才の頃、岸屋弥左衛門(きしやざえもん、本吉の肝煎、19才年上)に弟子入りし、俳諧の手ほどきを受けたと言われています。

 1719年(享保4年)、千代女、17才の時、松尾芭蕉の門下の一人、各務支考(かがみしこう)の訪問を受け、、支考の面前で「行春(ゆくはる)の 尾やそのままに かきつばた」、「稲妻の 裾(すそ)をぬらすや 水の上」の2句を詠(よ)み上げ、「あたまからふしぎの名人」と讃えられて、日本全国に名が知れ渡りました。

 一生涯に詠んだ約1700の句は、どれも自然に対する畏敬の念(恐れ敬う心)、優しさ(思いやり)、感謝(ありがたい思い)に満ち溢れています。

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  朝かほに 釣瓶(つるべ)とられて もらひ水 (左の句屏風)

  百生(ひゃくなり)や つるひとすじの 心より (右の句屏風)

  千代尼(署名の号)

  句屏風俳画、松任市立博物館資料より)

(解説) 「朝かほ(顔)に 釣瓶(つるべ)とられて もらひ水」の有名な句屏風(句そのものは若いときの作!)は、名古屋の内藤東甫(東圃、とうほ、1728年(享保13年)~1788年(天明8年)、尾張藩士、画人)の画に一句書き入れたものです。

 これは、東甫が朝顔の絵を屏風に描き、これに句をつけること(俳画)を望んで、千代女に送ったものに、千代女が賛を書いて(屏風の絵画を誉め、一句書き入れる、画賛)東甫に送り返したもので、1761年(宝暦11年)、千代女59才の頃の作品、と言われています。朝顔に、ではなく、朝顔や、となった真蹟もあります。

  また、もう一つの俳画の句、「百生(ひゃくなり)や つるひとじの 心より」(天台宗の観法の一つ、一念の心に三千の諸法を具すを詠み込む、25才のころ永平寺へ参拝したとき、禅師からの「三界唯心」句作の頼みによる)は、千代女が最も好きな作品と言われています。

 なお、署名(ごう)が千代尼となっているのは、1754年(宝暦4年)、52才で剃髪して尼になっていたからです。その時から、素園(そえん)とも名乗っています。

 加賀の千代女歴史的逸話として、1970年(昭和45年)の頃、金沢の市内観光ツアーの時、女性のバスガイドさんから聞いたお話ですが、今なお心に残る、加賀のお殿様と千代女にまつわる、次のような面白い逸話があり、なつかしく思い出されます。

 ある日のこと、加賀のお殿様((第10代藩主前田重教?)が、女流俳人として名高い千代女の噂を耳にして、金沢城に召し出させたときのことですが、お殿様のお出ましがあり、御殿の大広間で平伏していた千代女が、「お面(も)てを上げてもよい」とのことで、お面てを上げたところ、「加賀の千代とやら 何にたとえよう  鬼瓦(おにがわら)」とおっしゃったので、千代女はすかさず「鬼瓦 天守閣をも 下に見る」、(江戸しぐさの中にも出ている)、とやり返したそうです(千代女、71才のときの自画像は、しとやかな品のある尼の姿です)。

 そこで、お殿様は千代女の俳人としての才能をためそうと、「一句のなかに四角と三角と丸を詠(よ)み込んで見よ」、と難問をお出しになったところ、千代女は一呼吸おいて「蚊帳のなか(□) ひと角はずして(△) 月をみる(○)」、(蚊帳の環一つはずして月見かな、禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)に出ている)、と詠み上げ、お殿様は千代女の当意即妙な受け答えに感嘆の声を上げたそうです。

 1763年(宝暦13年)、第10代加賀藩主前田重教の命を受け、千代女61才のときの第11次朝鮮通信史来日の時の献上句(扇子や軸に21句)は、加賀の千代女の名を全国に轟かせ、その後の逸話、俗説、口伝などが生まれる基になりました。これは、日本の俳句が海外に伝えられた初めての例とされています。

 千代尼、73才、辞世(じせい)の句は、「月も見て 我はこの世を かしく哉(かな)」でした。

 千代女の約1700種の俳句集の中には見られないが、古くから広く世人に好まれ、話題となり、知れ渡っている作品には、次のような句があります。 

 ほととぎすほととぎすとて明けにけり、起きて見つ寝てみつ蚊帳の広さ哉、とんぼつり今日(けふ)はどこまでいったやら、破る子のなくて障子の寒さ哉 畸人伝、奇人談より)

 これらは全て彼女の盛名を当て込み、あとから付会されていった逸話という

(参考文献) 三熊花顛(みくまかてん)、伴萵蹊(ばんこうけい)補、中野三敏(なかのみとし)校注: 続近世畸人伝、加賀千代女、中央公論新社、巻之3、p.183-184(2006)、原本、1798年(寛政10年); 山根公: 松任の俳人、千代女、松任市役所(2002); 松任市立博物館(編集): 千代女生誕300年祭記念特別展、千代女の生涯、千代女の芸術・心、松任市立博物館(2003): 山根公著: 桂新書12 千代女の謎、p.90~91、千代女を有名にした句は、桂書房(2012). 

(参考資料) 加賀の千代女(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8A%A0%E8%B3%80%E3%81%AE%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸しぐさ(市民大学): http://meintagebuch.blog3.fc2.com/blog-entry-592.html; 

禅林世語集(ぜんりんせごしゅう):http://kaizenji.org/sonota/sego.html

千代女の里俳句館: http://haikukan.city.hakusan.ishikawa.jp/index.html

○ 千代女の里俳句館の案内役、俳文学会員、山根公さん(66才)は、「朝顔やつるべとられてもらひ水」の句碑について、「千代女は若いころは「朝顔に」、35才を過ぎてからは「朝顔や」と書いたと解説、「わずか一字でも違いは大きく、愛好家の好みも分かれている」と説明しています。(2011年(平成23年)6月4日(土)、北陸中日新聞、朝刊より)

 紙本墨書の「朝顔や」は句切れ、句の姿とすると「」という小休止があると格調高く本格的なのだが、釣瓶が誰にとられたのか分からない。「朝顔に」にして「句切れ」をなくすると、釣瓶を取ったのが朝顔だと因果関係がはっきりする。

 句の意味は、「早朝、水をくみに井戸端に出てみると、朝顔が釣瓶にからみついている。朝顔のつるを切るに忍びず、近所にもらい水に行った」。(山根公著: 桂新書12 千代女の謎、p.22~231、最も知られている句は、桂書房(2012)より) 

○ 「朝顔やつるべ取られてもらい水」と詠まれた千代女の句の井戸について

 当時の白山市の松任は水の便が悪く、深井戸は40軒から50軒に1本程度で数は少ない。飲み水を犠牲にして詠まれた井戸は、松任にはなかったのではないか? 創作の一句か、あるいは本吉(美川)の井戸か、幼なじみの和田希因(わだきいん、1700~1750)の家にでもあったのだろうか? 希因が他界すると、ほどなくして千代は髪をおろしている。

 千代女の所縁の品々がある聖興寺(しょうこうじ)は、松任の街中にある。境内にある遺芳館には千代女自筆の書画が収まる。実家の福増屋は旧北陸道に面して寺からほど近い。聖興寺(しょうこうじ、白山市): http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/jinjabukaku/syokoji.jsp

聖興寺(しょうこうじ、白山市中町)、真宗大谷派、お寺、加賀、能登、越中、信仰の里を歩く、2010年(平成22年)4月11日(月)、北陸中日新聞朝刊より)

〇 千代女四季の画賛

春の句 花にさへ出ほしむあしをワかなかな

夏の句 清水には裏も表もなかりけり

秋の句 百生やつるひとすじの心より

冬の句 髪を結ぶ手の隙あけてこたつかな

絵に千代女の句を添えた画賛軸、冬の句は剃髪した時の心情を詠んだとされる。夏と冬の句は白山市指定文化財。ともに71歳の時の千代女が描かれ、写実的な描写の夏の句は浮世絵師、冬の句は千代女自身が絵を描いたという。どちらも片膝をついて座った構図で、見比べると興味深い内容となっています。

また、若菜の絵が添えられた新年・春の句、ヒョウタンが描かれた秋の句は、県立歴史博物館の所蔵品になっています。

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