カテゴリー「● 戦争と平和(白村江、蒙古、朝鮮征伐、明治維新、日清、日露、世界第1次、太平洋、朝鮮戦争、満州事変、アメリカ、日本、万国博覧会、人類の起源)」の17件の記事

2016年3月11日 (金)

日本海上空で日米訓練(3月7日~18日)、 FA18戦闘攻撃機  米軍岩国飛行場(山口県)から航空自衛隊小松基地(石川県)へ飛来、とは(2016.3.11)

 米軍岩国飛行場(山口県)、第12海兵航空群所属、FA18戦闘攻撃機6機(隊員70人)が7日、航空自衛隊との共同訓練参加のため、航空自衛隊小松基地(石川県)に到着しました。 

 小松沖の日本海上空で、小松基地所属303、306両飛行隊、F15戦闘機6機との合同戦闘訓練は、土日、夜間、早朝を除き、8日から18日までの予定です。 

 これは、米軍再編にかかわる訓練移転で、2007年(平成19年)から始まり、小松では8回目、海兵隊との訓練は3回目という。訓練期間中、防衛省近畿中部防衛局(大阪市)が基地内に対策本部を設け、小松市と協力し、基地周辺の4カ所で騒音測定を実施します。 

 一方、基地前では、小松基地爆音訴訟連絡会、石川県平和運動センターなどが抗議活動をし、参加者60人が「日米軍事演習反対」と訓練に反対の声を上げました。また、小松基地爆音訴訟連絡会は、独自に爆音の調査をします。

FA18戦闘機  4機連続アフターバーナー離陸!!  岩国基地(山口)、YouTube(ひでむら):  https://youtu.be/qYuKJpQox54  2015.5.5 

アフターバーナーは、ジェットエンジンの排気に対してもう一度燃料を吹きつけて燃焼させ、高推力を得る  !

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FA18戦闘機(手前)が小松基地に到着、FA15機(背後)は小松基地所属   2016.3.7

(参考文献)
 
〇 北陸中日新聞:FA16戦闘機小松到着 日本海上空で日米共同訓練、2016年3月8日
(火)朝刊.
 

(参考資料) 

〇 飛行機雲の正体(2月16日)、冬の晴れ間、北陸の青空に細い筋を引く、小松基地
(石川県)のF-15Jジェット戦闘機の航跡、とは(2015.2.20): 
http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-5129.html

 

 

2015年2月20日 (金)

飛行機雲の正体(2月16日)、冬の晴れ間、北陸の青空に細い筋を引く、小松基地(石川県)のF-15Jジェット戦闘機の航跡、とは(2015.2.20)

  https://www.facebook.com/honjo1003

 冬の晴れ間(2月16日)、北陸の青空の飛行機雲の正体は、小松基地(石川県)の空自 第6航空団第303, 306飛行隊のF-15Jジェット戦闘機の北方基地(千歳、松島基地)との間の航跡と思われます。

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飛行機雲と航空自衛隊、第6航空団のF-15Jジェット戦闘機(小松基地、小松市、石川県、Google画像)
 

小松基地(航空自衛隊、石川): http://www.mod.go.jp/asdf/komatsu/kichishoukai/index.html

(解説) 小松基地は、1961年(昭和36年)に開設された日本海側唯一の戦闘機部隊が所在する基地です。 主に北陸~中国東部地域の対領空侵犯措置の任務を与えられ、主に日本海正面における国籍不明機の警戒にあたっています。

 ところで、1969年(昭和44年)2月8日(土)午前11時59分ごろ、小松航空自衛隊( 第6航空団)のF-104ジェット戦闘機が、北陸の冬場の一発雷(いっぱつかみなり)に撃たれ、金沢市内の民家(泉、金沢)近くの路上に墜落、炎上したことがあります。 これは、はじめて訪れた金沢での大事件でした。この時の事故機が空自 第6航空団 第205飛行隊のF-104J で、北方の千歳基地(北海道)、松島基地(宮城県)から小松基地(石川県小松市)への帰還中の事故であったと推測されます。 

(参考資料)

〇 北陸の冬の雷(一発雷)にまつわる歴史実話、はじめて訪れた金沢での事件(1969年)、雷おこし(ブリ起こし)、落雷による自衛隊機の墜落、金沢大学定年退職(2006年)、とは(2010.2.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/61.html

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F-104Jジエット戦闘機、ロッキード社(米国)製の超音速ジェット戦闘機、Google画像、(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/F-104_

〇 第6航空団は、主に北陸~中国東部地域の国籍不明機の対領空侵犯を担当(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC6%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%9B%A3

2015年2月11日 (水)

建国記念日(2月11日)、戦前は紀元節、神武天皇が即位した日を陽暦に換算した日(紀元前660年2月11日)、1966年(昭和41年)、国民の祝日として復活、とは(2015.2.11)

https://www.facebook.com/honjo1003 

 建国記念の日は、国民の祝日の一つで、2月11日です。この日は、旧紀元節にあたり、1872年(明治5年)、神武天皇即位の日(紀元前660年2月11日)を設定して祝日としたもので、GHQ後に廃止されましたが、1966年(昭和41年)、建国記念の日という名で復活し、翌年から実施されました。

 現在、世界的には、キリスト誕生の日を元年とする、西暦紀元が使われていますが、日本では、1872年(明治5年)、神武天皇即位の年を、西暦紀元前660年と定めて、これを皇紀元年(こうきがんねん)と呼びました。

 1940年(昭和15年)11月10日、紀元2600年記念式典挙行され、奉祝の提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)、もち米の特配などがあったことなど、中学生のころ、古老、恩師から聞いたことがあります。私が生まれた年でしたが、世界は不穏な状況となり、この年開催予定の第12回東京オリンピックも中止となりました。

 

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神武天皇(じんむてんのう、初代天皇、伝承、月岡芳年、大日本名将鑑、明治初期の版画、Google画像) 神武天皇(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

人の世になりても久し紀元節    子規

神話おほかた愛の争ひ建国日   素子

(参考文献) 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、p.86、建国記念の日、三宝出版(1994).

(参考資料)

〇 神武天皇(じんむてんのう、初代)、神武東征(古事記・日本書紀)、日向(宮崎)から瀬戸内を経て熊野(和歌山・三重の南部)に上陸、大和(奈良)へ、熊野の神の毒気、とは(2012.3.5): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/234.html

〇 日本国名と貨幣にまつわる歴史伝承、国名の由来(大和、倭、日本など)、貨幣の単位(両、分、朱、貫、文、円、践など)、建国記念の日(2月11日)、とは(2010.10.15): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/134.html

 

2014年9月26日 (金)

内灘闘争の今昔、朝鮮戦争の頃の米軍砲弾の射撃指揮所(千鳥台)、第一着弾地観測所(宮坂)、第二着弾地観測所(西荒屋)などの建造物遺跡、基地の返還とその後の発展、とは(2014.9.27)

 内灘(うちなだ)は、石川県河北郡の6村(向粟崎村、大根布村、宮坂村、黒津船地村、西荒屋村、室村)が合併した村(のち内灘町)で、金沢市に隣接しています。ここには、今も米軍砲弾射撃指揮所(千鳥台)や着弾観測所(宮坂、西荒屋)などの建造物遺跡が残っています。先日(9月22日、24日、27日)、久しぶり、インターネットの地図を頼りに、マイカーで現地を訪ね、それらの遺跡をデジカメに収めました。https://www.facebook.com/honjo1003?fref=nf

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米軍砲弾射撃指揮所(千鳥台、内灘町、河北郡、石川県、2014年9月22日撮影) 現在は、海水浴場の監視棟ともなっています。また、ここから見える砂丘の右上の斜面、携帯アンテナタワーのところに宮坂の弾着地観測所跡があります。

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第一米軍砲弾着弾観測所(宮坂、内灘町、河北郡、石川県、2014年9月24日撮影)

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第二米軍砲弾着弾観測所(西荒屋、内灘町、河北郡、石川県、2014年9月27日撮影)

(解説) 1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ調和条約において、日米安保条約締結されました。1952年、(昭和27年)9月、米軍用地接収係が秘かに内灘砂丘地を視察、10日後、日本政府は内灘の砂丘地及び接岸海域の接収決定米軍各種砲弾試射場指定しました。

 これは、小松製作所(小松、石川)で、朝鮮戦争特需砲弾製造され、その試射場として内灘砂丘接収されるというニュースでした。  村民は、「金は1年、土地は万年」を合言葉に、反対闘争が展開されました。 これは、日本さきがけの米軍基地反対闘争となりました。

 1957年(昭和32年)返還後、試射場の補償事業として、公共施設道路が建設されました。そして、砂丘地開墾され、河北潟干拓が進み、現在は金沢近郊住宅地(ニュ-- タウン)としての光景もよく見られます。 

(参考資料) ○ 内灘闘争(内灘砂丘、石川)にまつわる歴史実話、朝鮮戦争、米軍基地反対闘争、非行少女(映画)、とは(2010.1.25): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/57.html

○ 内灘闘争(花もわたしを知らない、ブログ、風と砂の館): http://orugodon.blog17.fc2.com/blog-entry-2013.html

 旧米軍試射場跡(SORA、ブログ、千鳥台、宮坂、内灘町):  http://g4.cocolog-nifty.com/sora/2012/04/2012414-sat-eda.html

2012年8月22日 (水)

アメリカ合衆国、自由の女神像(独立100周年記念、フランスより贈呈)、アメリカ合衆国(50州、首都特別区)の地名の由来、私のアメリカ一周バス旅行、とは(2012.8.22)

   アメリカ(亜米利加、米国とも)は、広辞苑によれば、①北アメリカと南アメリカの総称。1492年(明応元年)アメリカ大陸を発見したイタリアの航海者クリストファー・コロンブス(?~1506)より少し遅れて渡航した、イタリアの航海者アメリゴ・ヴエスブッチ(1451~1512)の名に因んだ呼称。②アメリカ合衆国の略。

○ アメリカ合衆国の独立宣言と南北戦争

 アメリカ合衆国(米国とも)は、北アメリカ大陸中央部を占める連邦共和国で、50州と首都特別区(ワシントンD.C.)とからなっています。アメリカ独立戦争では、1765年(明和2年)イギリス(英吉利、英国とも)がアメリカ植民地に印紙法(いんしほう)を制定したことなどを契機として、1775年(安永4年)アメリカ植民地は、ジョージ・ワシントン(1732~1799、裕福な農園主)を植民地軍総司令官に推し、翌年独立宣言、イギリス軍に抗戦、フランス(仏蘭西、仏国とも)の援助により勝利を得ました。 印紙法(いんしほう、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E7%B4%99%E6%B3%95

 1776年(安永5年)7月4日、独立宣言によって東部13州が成立、1783年(天明3年)9月3日、パリ条約により、各国がアメリカ合衆国の独立を承認、以後領土を拡大するとともに急速な経済発展を遂げました。

 北部諸州は商工業を主として、奴隷解放(どれいかいほう)を主張し、南部諸州は農業を主とし、奴隷存続に固執(こしゅう)していましたが、1860年(万延元年)共和党のアブラハム・リンカーン(1809~1865、ケンタッキー州貧農出身、弁護士)の第16代大統領当選と共に南部諸州が合衆国から離脱しました。

 これに端を発して、1861年(文久元年)以後、1865年(慶応元年)に南軍が降伏するまで、南北戦争(なんぼくせんそう)の戦乱は前後5年にわたりました。北部の勝利により合衆国の統一維持され、奴隷解放達成されました。 南北戦争(なんぼくせんそう、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89

 リンカーンは、大統領在任((1861~1865、人民の人民による人民のための政治民主主義政治!)中、1863年、南北戦争下に奴隷解放を宣言、1964年、大統領に再選されましたが、翌年暗殺されました。

 その後、アメリカ合衆国は中央集権を強化、20世紀、両度の世界大戦(第一次世界大戦、1914~1918,第二次世界大戦、1939~1945)を通して、世界最大資本主義国家となりました。 世界大戦(せかいたいせん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6

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自由の女神像(じゆうのめがみぞう、ニューヨーク、アメリカ合衆国、google画像) 

自由の女神像(世界遺産ガイド): http://worldheritage.travel.yahoo.co.jp/detail.html?wc=1625

(解説) 自由の女神像は、アメリカ合衆国独立100周年記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって贈呈され、1886年(明治19年)に完成しました。アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えることなく世界各地からやってくる移民にとって新天地の象徴ともなっています。

 私は、1975年(昭和50年)10月22日(水)、ニューヨークの観光バスで、自由の女神像を訪れたことがあります。自由の女神像の台座部分はアメリカ移民の歴史博物館になっていて、アメリカ独立戦争の時の戦場の様子が人形で再現されていました。イギリス軍の軍服を着て銃を構えた兵士とアメリカ軍の鍬(くわ)を担いだ農民兵との戦いの姿が、強く印象に残っています。

○ アメリカ合衆国の地名の由来

 アメリカ人類のるつぼと言われ、住民はアングロ・サクソンをはじめヨーロッパ系を主としますが、人口の約1割ほどは黒人で、原住民であるアメリカ・インディアンは僅少(きんしょう)です。 地名もそれを反映して、多くの国の言葉から成り立っています。アメリカ合衆国州名の由来、Pichori): http://www2.tbb.t-com.ne.jp/atc/1911/United_States_of_America/us_states.html

 まず、州名については、原住民のインディアンに関係するものが多く、アイオワアラバマカンザスダコダなどはその辺の土地に住んでいたインディアン種族名です。

 また、地形風景などをインディアン語で表したものも多く、アリゾナ(小さな泉)、オハイオ(すばらしい川)、ケンタッキー(牧草地)、コネチカット(長い河口)などがそれです。その他、アイダホ(おはよう)、テキサス(友達よ)のようにインディアン語呼びかけ言葉を州名にしているところもあります。 インディアン語源アメリカの地名の由来、インディアンの魂の叫び、風と空と大地と): http://www15.tok2.com/home/ayakaishi/timei.htm

 ヨーロッパ系では、最初の植民地が建設されたバージニアが処女(バージン)地の意で、英語からきている。メーン(ヨーロッパから見てアメリカの表海岸)もそうである。

  モンタナ(山岳地)、ペンシルバニア(植民地の設立者ウィリアム・ペンの森)はラテン語から、コロラド(赤)、ネバダ(積雪)はスペイン語からきている州名です。 

  ルイジアナはルイ14世に因んでつけられたもので、フランス語からきています。 フランス系アメリカ人アメリカの地名の由来、weblio辞典): http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%B3%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA_%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5

 都市名では、ロスアンゼルススペイン語で天使たちの意で、アメリカ最大の川・ミシシッピインディアン語で大いなる川の意です。

○ アメリカ一周バス旅行

 私は、1975年(昭和50年)1月~12月まで、アメリカ合衆国のアリゾナ大学(ツーソン、アリゾナ、U.S.A.)のヘンリー・フライザー教授の下に博士研究員として留学していました。 その頃は アメリカ建国200周年(1776~1976)に当たっていたので、9月30日、日本の天皇、皇后の訪米がありました。 アリゾナ大学(化学科、ツーソン、アリゾナ、米国):http://parking.arizona.edu/parkingmap/index.php?revNum=1&accordIndex=0&startMap=Building&mapLines=&mapOLays=&mapMIDs=41&mapZoom=15&mapLat=32.230736&mapLng=-110.951571. H.Freiser(Prof.Faculty Profile,University of Arizona): http://cbc.arizona.edu/facultyprofile?fid_call=frei.

T. Honjo and H. Freiser; Extraction of Nickel(II), Copper(II), and Zinc(II) in Carbon Tetrachloride with Monothiodibennzoilmethan and Derivatives,  Anal. Chem.,53, 1258-1265(1981).

  留学中、1ヵ月の休暇を利用して、10月17日(金)~11月2日(日)、グレイハウンドの長距離高速バス(Greyhound Ameripass Unlimited travel on Greyhound's  U.S. and Canadian routes)と地域の観光バス(The Gray Line Sightseeing、ワシントンD.C.、ニューヨーク、ニューイングランド、ナイアガラの滝、サンフランシスコ、南カりフォルニア、サンジェゴ動物園など)を利用して、家内(尊子)と二人で、アメリカ一周のバス旅行を経験したことがあります。

グレイハウンド高速バスの時速は、常時、80~100km、運転手は10時間ごとに交代していました。バスの運転席の前の窓ガラス以外はすべてサングラスとなっており、バス内はエアコンディショニングされていました。 また、乗客のそれぞれのリクライニングシートの窓際は、すべて手動の非常口のドアがついていたのが、強く印象に残っています。

 旅行ルートは、 ①アリゾナ(ツーソン)を立ち、②ニューメキシコ、③テキサス、④アーカンソー、⑤テネシー、⑥バージニア、⑦メリーンランド、⑧デラウェア、⑨ニュージャージ、⑩ペンシルバニア、⑪ニューヨーク、⑫コネチカット、⑬マサチューセッツ、カナダに立ち寄る、⑭オハイオ、⑮インディアナ、⑯イリノイ、⑰アイオワ、⑱ネブラスカ、⑲ワイオミン、⑳ユタ、その後、ネバダ、カリフォルニア(サンフランシスコ、ロスアンゼルス、サンディエゴ)を経由してアリゾナ(ツーソン)に帰ってくる、思い出深い大旅行でした。 アメリカ合衆国(maps.google.co.jp): https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD&ie=UTF-8&hq=&hnear=0x54eab584e432360b:0x1c3bb99243deb742,%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD&gl=jp&ei=LZ01UPedNZCZmQWhgYGYBg&ved=0CB0Q8gEwCA

 観光では特に、アメリカ合衆国議会議事堂、ホワイトハウス、アーリントン墓地、第35代ジョン・F・ケネディの墓とエタ-ナルファイア、自由の女神像、アメリカの独立に至る諸史跡、ハーバード大学キャンパス、ナイアガラの滝、ロッキー・シエラネバダの山越え、ゴールデンゲイトブリッジ、巨樹の森・ミュアウッズ、カリフォルニア大学キャンパス、石油採掘・ジャックポンプ、サンディエゴ動物園の珍獣・オカピなど強く印象に残っています。

 旅行中、バッファロー市の名は、水牛(アメリカバイソン)の意と思っていましたが、フランス語(beau fleuve)で「美しい小さな川の流れの意」ということが分かりました。その後、アリゾナ州の名は、水がない(砂漠地帯)の意と思っていましたが、インディアン語(Arizonac)で「小さな泉の意」ということが分かりました。

 また、アリゾナに滞在中、アリゾナ州で有名なグランドキャニオン(大峡谷!)、デザートミュージアム(サグアロカクタス、サボテン公園!)、トゥームストン(OK牧場の決闘!)、ノガレス(サボテンの酒、テキーラ! メキシコ)などバスで訪れたのを覚えています。

 ハワイにつては、1975年(昭和50年)12月、はじめて留学帰国途中に立ち寄り、その後、1979年(昭和54年)4月、日米化学会議、のち1984年(昭和58年)12月、1989年(平成元年)12月、1995年(平成7年)12月、2000年(平成12年)12月、2005年(平成17年)12月と、5年ごとに開かれた環太平洋国際化学会議での研究発表で訪れたことがあります。そのとき、オアフ島、ハワイ島をはじめ各地の名所、史跡を観光したことを覚えています。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、p.473、アメリカの地名の由来、三宝出版(1994).

(参考資料) コインと語源で旅するアメリカ50州(コイン・ミュージアム&コトバ雑記 合同企画):  http://wedder.net/coins/50states/index.html

グレイハウンドバス、ウィキペディア): http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:-o0ySX7G1tEJ:ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89_(%E3%83%90%E3%82%B9)+&cd=10&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

グレイライン(Gray Line、観光バス、ルート案内): http://www.grayline.com/

2012年8月17日 (金)

万国博覧会、ロンドン博覧会(水晶宮、産業革命のシンボル)、パリ博覧会(エッフェル塔、フランス革命100周年記念)、大阪博覧会(太陽の塔、経済発展のシンボル)、とは(2012.8.17)

   博覧会(はくらんかい)は、広辞苑によれば、種々の産物を蒐集展示して公衆の観覧および購買に供し、産業・文化の振興を期するために開催される会です。 

 農業、鉱工業などの産業全般および技芸、学術などの文化全般にわたる活動と成果の実態を、生産品、模型、機構図などの展示により一般に周知させる催しで、地方博覧会全国博覧会国際博覧会などの別があります。 博覧会(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A

 近代的な博覧会の初めは、江戸時代、1756年(宝暦6年)ロンドンで開かれた勧業博覧会とされ、日本では、明治時代、1877年(明治10年)に東京で第1回国内勧業博覧会が開かれました。

○ 万国博覧会

 万国博覧会(ばんこくはくらんかい、略称、万博)は、世界各国の参加で開かれる国際博覧会です。江戸時代、1851年(嘉永4年)ロンドン水晶宮で開催されたのを最初に、フランス革命100周年、エッフェル塔を記念物として建設した1889年(明治22年)のパリ万博や、「科学文明とヒューマニズム」をテーマとした、1958年(昭和33年)第2次大戦後初のブルッシェル万国博など、欧米主要都市で相次いで開かれました。

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水晶宮(すいしょうきゅう、1851年、ロンドン、イギリス、google画像) 水晶宮(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%99%B6%E5%AE%AE

(解説) 水晶宮(すいしょうきゅう)はCrystal Palaceの訳。1851年(嘉永4年)第1回万国博覧会のためロンドンのハイドパークに建てられた鉄とガラスのみによる建物で、パクストンJ.Paxton(1801~1865)設計、斬新な建材、組立工法によることなど、建築史上画期的で、近代建築の嚆矢(こうし)となりました。英国産業革命のシンボル(象徴)といえます。1854年(安政元年)シドナムに移され、1936年(昭和11年)焼失しています。

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エッフェル塔(高さ約312m、1889年、パリ、フランス、google画像) エッフェル塔(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E5%A1%94

(解説) エッフェル塔はパリのシャン・ド・マルス広場に建つ鉄骨塔で、高さ約312mです。1889年(明治22年)、フランス革命100周年を記念したパリ万国博覧会のため、鉄骨構造技術の開拓者、エッフェル、A.G.Eiffel(1832~1923)の設計で建てられました。力学的構造がそのまま建築美の領域に導入され、またベッセマー鋼使用により鋼構造物時代を開いた記念的存在です。

 パリ万国博覧会における、パリでの開催は、1855年(安政2年)から1937年(昭和12年)まで8回です。のち1928年(昭和3年)、国際博覧会条約がパリで締結され、その条約では、政府または政府公認の団体が主催し、諸外国の参加を招請、会期3週間以上6ヵ月以内としています。

 1867年(慶応3年)の第2回には日本初めて参加し、幕府・薩摩藩・佐賀藩が特産品を出品、徳川昭武(1853~1910、水戸藩主徳川斉昭の子、慶喜の弟)が幕府使節として派遣されました。日本の文化と産物の展示は、フランスの美術工芸にジャポニズムの影響を与えました。1940年(昭和15年)には東京で開催の予定でしたが、戦争で中止となりました。 万国博覧会一覧(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A%E4%B8%80%E8%A6%A7

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太陽の塔(高さ70m、1970年、大阪、日本、google画像) 太陽の塔(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E5%A1%94. 

(解説) 日本最初国際博覧会は、岡本太郎(1911~1996、芸術家)制作の太陽の塔をテーマ館(経済発、パビリオン117)のシンボルとした、大阪万国博覧会(正式名称、日本万国博覧会)で、1970年(昭和45年)3月14日~9月13日の6ヵ月間(183日日間)、「人類の進歩と調和」をテーマとして、77か国124団体が参加して大阪の千里丘陵で開催されました。また、日本最古の原子力発電である軽水炉の敦賀1号炉は大阪万博(日本万国博覧会)の開会式の日に営業運転を開始し、万博会場へはじめて送電しました。 日本万国博覧会(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A

 入場者総数は約6422万人で、アメリカ館の月の石などが話題を呼びました。映像展示の比重の増大とあいまって、芸術家を巻き込んだ文化イベント産業の活性化をもたらしました。

 私は金沢大学(理学部分析化学研究室)に勤務して1年目でしたが、残念ながら都合で万博会場には行けませんでした。その後、日本で開かれた主な国際博覧会として、つくば博(国際科学技術博覧会、茨城県、1985年(昭和60年)3月~9月)には息子(高行)と二人で、花博(国際花と緑の博覧会、大阪市、1990年(平成2年)4月~9月)と愛・地球博(日本国際博覧会、愛知県、2005年(平成17年)3月~9月)には一人で、会場に足を運びました。

 特に、つくば博では巨大なスクリーンの映像、花博では世界最大の花、ラフレシア、愛・地球博ではロシアで発見された凍結状態のマンモスなど、印象に残っていますが、いろいろ楽しみながら、勉強させていただきました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991);永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)岩波書店(1999).

(追加説明) フランス革命起こる(1789)7月14日  この日、パリ市民は政治犯収容所であるパスティーユ監獄を襲撃し、夕刻城内に殺到し、これがフランス革命へ発展していった。パリ祭。パリをはじめフランス全土では、この日、夜を徹して飲み、踊り、騒いで祝う。パリの市民はこの祭が終わると避暑へと出かける。(樋口清之監修;生活歳時記、p.403、フランス革命起こる(1789)、三宝出版(1994)より)

 地方博覧会のブーム 地方博覧会ブームの先駆けとなったのは、1981年(昭和56年)に神戸で開催されたポートピア81です。埋立地にインフラ整備を行い、博覧会を契機に跡地開発を進めるという発想は大阪万博に倣ったものです。大きな成功を収めて株式会社神戸市の面目躍如となりました。

 その後、バブル景気、市制100周年事業と重なる1989年(平成元年)の前後数年間に、横浜博覧会など各地で地方博ブームが起こりましが、バブル崩壊とともに沈静化し、東京の臨海部(台場地区)で行われる予定だった世界都市博覧会は中止されました。地方博覧会ブームであった1988年(昭和63年)に開催された博覧会はほとんどが黒字だったのですが、札幌市などで開催された世界・食の祭典は運営の杜撰さが祟って90億円という大赤字を出しました。

 地方博覧会(カテゴリ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A

○ 日本海博覧会  1973年(昭和48年)8月~10月、金沢市の郊外、西部緑地公園付近で開かれた地方博覧会の日本海博を、金沢大学の宿舎(平和町1丁目)から家内(尊子) と約30分ほど市バスに乗って見に出かけました。ステージでは、女優の由実かおるさん(1950~ )の歌と踊りに人気が集まっていたのを覚えています。 日本海博(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E5%8D%9A

○ 神戸ポートアイランド博覧会 1981年(昭和56年)3月~9月に神戸港に造られた人工島ポートアイランドで開催された神戸ポートアイランド博は、マイカーで家族3人、夏に郷里(徳島)から金沢に帰る途中、立ち寄りました。特に、人寄せパンダのところが目に付いたのを覚えています。 神戸ポートピア博覧会(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A

 全国菓子大博覧会  1994年(平成6年)5月、第22回全国菓子大博覧会が金沢市の主催で、石川県西部緑地公園・石川県産業展示館で開催されるということで、さっそく一人で足を運び日本全国の和菓子三昧にひたったことを覚えています。私の郷里(鍛冶屋原、上板、徳島)の瀬部製菓の店主からは和三盆を使った和菓子を出品したことを聞いたことがあります。全国菓子大博覧会(日本の地方博覧会の一つ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E8%8F%93%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9Aお菓子何でも情報館: http://www.zenkaren.net/_0100/_0122

○ その他、地方博覧会(石川県)として、2001年(平成13年)9月~11月には、金沢大学城内キャンパスが約4km山の手の角間に移転した跡の金沢城公園で全国都市緑化フェア夢みどり石川2001(石川県金沢市)及び、2002年(平成14年)3月から翌年の1月まで、金沢城公園二の丸広場を中心に加賀百万石博(石川県金沢市)が開催されました。この頃、NHK大河ドラマ「利家とまつ」が放映され、俳優さんの出番もあり、盛況でした。

2012年8月 5日 (日)

人類の起源、アフリカで誕生(約700万年前、猿人のアウストラロピテクス)、アフリカで進化(原人、旧人、新人のホモ・サピエンス)、180万年前より世界中に広がる、とは(2012.8.5)

   私たち人類は約700万年前、アフリカで猿人として誕生しました。猿人の中から240万年~200万年前の間、わずかに脳の増大と歯の矮小化(わいしょうか)を示す最初のホモ属の人類が現れました。この原人は180万年ほど前、初めてアフリカを出てユーラシアへ広がりアジアにまで進出し、ジャワ原人、北京原人などの地域集団に分化(ぶんか)していきました。

 人類の出現

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霊長類れいちょうるい、生活場所の変遷、人類への進化、左下 霊長類の祖先(食虫類)、高等学校 理科総合B、生命と地球、p.104、啓林館、2007) 国立科学博物館人類研究部(ホームページ、東京): http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/index.html

(解説) 人類とは、生物学上はサル目霊長目とも)ヒト科の動物。または、その中で特に現在のヒトホモ・サピエンス)を指す。直立歩行し、脳の発達が著しく、手を巧みに使い、道具を作って使用し得る。ヒト科の起源は、地質年代の第三紀中新世(約2600万年前~700万年前)までさかのぼるという。

 ヒトに最も近い大型類人猿はチンパンジーです。化石や遺伝子の本体である物質、DNA(デオキシリボ核酸)を調べることで、両者は1000万年~700万年前の間に共通祖先から枝分かれしたことが分かってきました。 

  ヒト進化は、直立歩行し道具を作るというヒトとしての条件を満たすものは、アウストラロピテクス最古化石人類です。1924年(大正13年)、南アフリカのベチュアナランドのタウングで最初に発見、R.ダートにより紹介されました。地質学上洪積世初期に属し、少なくとも175万年以上前に、南および東アフリカで生活していました。

 人類に最も近い霊長類である、チンパンジーゴリラなどの類人猿は、直立二足歩行がうまくできません。一方、約400万年~100万年前の初期人類であるアウストラロピテクスは、直立二足歩行ができ、これによって自由になった手で、次第に道具を利用するようになりました。

 続いて原人(アフリカの原人、ホモ・エルガスター/エレクトス)、旧人(アフリカの旧人、アフリカで旧人が進化)、新人(ホモ・サピエンス、アフリカでホモ・サピエンスが進化、現生人類の霊長目、ヒト科)など、人類の進化を4段階に分けて説明されています。 

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推定される人類の起源と世界中への拡散ルート(現代型サピエンス化石の主な発掘・発見地と拡散の奇跡、九州大学総合研究博物館、google画像) 人類の起源(DNA解析、拡散経路、縄文と古代文明を探求しよう!): http://www.jyoumon.com/blog/2011/02/001205.html

 (解説)  ヒトホモ・サピエンス、新人)は、約20万年前に現れ、アフリカから地球全体に広がり繁栄しています。人類は、猿人、原人、旧人、新人と進化するにつれ、脳がさらに発達し、言語を生み出し、文化と文明を創造するにいたりました。

 初期のホモ・サピエンス(新人)は、6万年~5万年前ごろ、北アフリカから中東へと拡散し始め、さらに東に向かい、東南アジアを経て約5万年前までにはオーストラリアに到着、舟で渡ったと考えられています。

 また、ヨーロッパにクロマニヨン人が現れたのは4万2000年前ごろ、4万年~3万年前にはシベリアまで進出した痕跡(こんせき)があります。1万4000年前ごろ、アラスカを経由してアメリカ大陸へ。最終氷期の最寒冷期にあたり、海水面が下がりベーリング海峡は陸続きでした。3599年前ごろからは太平洋の島々にも渡ったと考えられています。 

 ということで、私たち人類は約700万年前、アフリカで猿人として誕生し、原人、旧人、新人へと進化、アフリカのホモ・サピエンス(新人)が世界中に広がったという。

 最新の研究(現代人のミトコンドリアDNA変異、ホモ・サピエンスの化石、年代再検討など)によれば、アフリカの旧人から現代人の共通祖先が進化し、世界中に広がったということで、アフリカ起源説が裏付けられています。が、私には、人類の起源は謎の多い永遠のテーマのように思われました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 太田次郎、山崎和夫編: 高等学校 理科総合B(改訂版)~生命と地球~、p.102~104、人類の出現、啓林館(2007); 北陸中日新聞: 人類の起源、人類の系統樹、諏訪元、最古の人類像、サンデー版+テレビ、世界と日本 大図解シリーズ No.951、2010年(平成22年)7月25日{日)朝刊.

2011年3月21日 (月)

日本の国旗(日の丸)、国歌(君が代)、天皇の称号、元号(明治、大正、昭和、平成)の起源、天皇陛下ビデオメッセージ(東日本大地震)、とは(2011.3.21)

 日本には、10年程前まで、国旗日の丸日章旗)、国歌君が代と定めた法律がありませんでした。そこで、政府は、1999年(平成11年)8月13日、国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)を制定し、施行しました。

 日本の元号年号とも)は、飛鳥時代、645年に大化と号した、大化元年、から始まりました。その後、天皇が制定権を持ち、古くは何かの理由でしばしば元号が改められています。 が、明治以降は、一世一元となり、1979年(昭和54年)公布の元号法も、皇位の継承があった場合に限り改められる、と規定されました。

○ 国旗(日の丸)の起源

 日本の国旗(日の丸)は、太陽をかたどったデザイン(意匠)で、日章旗とも呼ばれています。飛鳥、白鳳時代、第42代文武天皇(もんむてんのう、683~707)の701年(大宝元年)の頃には、すでに日の丸の原型らしきものが使われています。

 室町時代末期、武田信玄(1521~1573)、上杉謙信(1530~1578)などの戦国武将が、日の丸の旗印を使っていたという。江戸時代末期、日本船と外国船を区別するため、日章旗が本格的に使われるようになりました。

 明治時代、1870年(明治3年)1月27日付、太政官布告57号によって、日本の商船は日の丸を国旗として掲げることとし、その寸法(旗の縦横の比率、日章の位置と大きさ)が公示されました。が、これを国旗とする明文はありませんでした。

 日章旗の布地は、白色の長方形で、縦横の比率(縦1:横1.5)は、最も美しいとされる黄金分割の比率(縦1:横1.6)とほぼ同じです。また、日章は赤で、その直径は縦の5分の3、日章の上下のあきを等しくし、日章の中心は旗面の中心より横の100分の1だけ旗竿(はたざお)の側に近寄ることとしました。

 これとは別に同年10月3日付、太政官布告651号で、海軍御旗章国旗章並諸旗章が規定されたため、同じ日の丸でも商戦用と軍艦用とで寸法に若干相違が生じる結果となりました。なお、陸軍国旗は旭日旗で、商船と海軍の日の丸とは規格が違います。1931年(昭和6年)、大日本帝国国旗法案が国会で審議されましたが廃案になりました。

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日章旗日の丸、明治時代、商船と旧帝国海軍の旗、のち国旗、google画像)

(解説) 日の丸日章旗)は、 アジア太平洋戦争では戦意高揚の手段とされ、戦場でも侵略のシンボルとして用いられました。そのため、第2次大戦後、日の丸の自由掲揚が連合軍によって禁止されました。が、1949年(昭和24年)から自由に掲揚できるようになり、1950年(昭和25年)代以降復活、文部省は学習指導要領の改訂を重ねながら、教育現場での使用を推進、同時に国旗の呼称を与え義務化され、1999年(平成11年)、国旗国歌法で法制化されました。

○ 国歌(君が代)の起源

日本の国歌(君が代)の歌詞は、平安時代、1018年(寛仁2年)頃、三十六歌仙の一人、藤原公任(ふじわらのきんとう、966~1041)が撰集した歌謡集、和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)に見えますが、作者不詳です。その歌詞は、君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで この歌の主題は、皇統(天皇の血統)の永続性で、天皇の治世を祝った歌となっています。古今集には、我が君はーーー、古今和歌六帖には、君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも、など類似の歌があります。

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(解説) 現在の君が代(国歌)のは、1880年(明治13年)、宮内省式部寮雅楽課が作曲したものです。文部省は、1893年(明治26年)8月、この曲を宮内省楽師、林広守(はやしひろもり、1831~1896)の作曲とし、小学校における祝祭日の儀式用唱歌に制定、公示しました。以後、事実上の国家として歌われました。1950年(昭和25年)には、君が代斉唱(せいしょう)を進める大臣通達が出されました。

 天皇の称号の起源

 もともと日本には天皇という称号はありませんでした。4世紀半ば頃、大和政権が成立したと考えられますが、その頂点にあったのは大王(おおきみ)でした。大王が天皇という表現に変わったのは、6世紀末から7世紀、第33代推古天皇(すいこてんのう、554~628)の頃ではないかと言われています。

 飛鳥時代、645年(乙巳、皇極4年)8月、大化改新(たいかのかいしん)後は、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ、626~671、のち第38代天智天皇、てんじてんのう)の頃、外国の使者に、明御神宇日本天皇(あきつかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)と署名しています。これは、日本という公式の称号と並んで、日本の統治者であり、明つ神たるべき、天皇という称号が、はじめて登場してきたものと考えられています。

 ということで、天皇(てんのう)は、律令国家の君主の称号で、古くは、すめらみこと、すめろぎ、すめろき、すめらき、すべらぎなどと呼ばれ、大王号にかわって登場しました。かっては金石文に見えることから、7世紀前半成立とも考えられてきましたが、今日では、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686、てんむてんのう)の時より使われ始め、飛鳥浄御原令で皇后号と共に制度化されたとする説が有力です。また、唐(中国)第3代皇帝高宗(こうそう、649~683)の天皇号採用との関連も指摘されています。

 明治憲法では、大日本帝国の元首です。が、現在の日本国憲法では、日本国および日本国民統合の象徴とされ、国家的儀礼としての国事行為のみを行い、国政に関する権能は持っていません。男系の男子がこの地位を継承することになっています。天皇陛下は天皇の敬称です。

○ 元号(明治、大正、昭和、平成)の起源 

 第122代明治天皇(めいじてんおう、1852~1912、61才、陸仁、むつひと)の時代、明治という元号は、1868年(慶応4年)9月に採用されました。同時に一代の天皇について一つの元号という制度(一世一元)も定まりました。明治の語の由来は、周代(中国)、周易(易経とも)、「聖人南面して(位についての意)天下に聴き、明に嚮(きょう、向う)して治む」からとったとする説と、秦代(中国)、尚書(書経ともの「明君の治」からとったとするという二つの説があります。

 第123代大正天皇(たいしょうてんおう、1879~1926、48才、嘉仁、よしひと)の時代、明治から大正への改元は、1912年(明治45年)7月30日です。大正の出典は、周代(中国)、周易(易経とも)、「大いに享(きょう、まつりごと)を正すをもって天の道なり」からきています。これは、天道に従って政治(まつりごと)を正すという意味です。大正天皇は、病弱のため短命で、1926年(大正15年)12月25日に崩御されました。 そして、昭和と改元されました。

 第124代昭和天皇(しょうわてんのう、1901~1989、89才、裕仁、ひろひと)の時代、昭和の出典は、秦代(中国)、尚書(書経とも)、「百姓昭明、万邦協和」でした。つまり、主君と人民が一致し、世界の平和をめざそうという意味です。この改元のとき、光文という元号のうわさが一部に流れ、新聞にも発表されてしまいました。一説によると、最初、光文と決められたがもれてしまったので、急に、昭和に改められたとも言われています。 昭和天皇は、1989年(昭和64年)1月8日に崩御されました。そして、平成と改元されました。

 第125代今上天皇(きんじょうてんのう、1933~  、77才、喜寿、明仁、あきひと)の時代、平成の出典は秦代(中国)、尚書(書経とも)、「地平天成」、漢代(中国)、史記(紀伝体史書)、「内平外成」で、わが国の現在の年号となっています。 

 2011年(平成23年)3月16日(水)、天皇陛下は、3月11日(金)、大きな被害が出た東日本大地震(M9.0)に対し、被災者や支援活動に携わる人々を励ます、国民へのメッセージをビデオで発表しました。 

○ 天皇陛下noビデオメッセージ、YouTube(google動画): http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%9B%E4%B8%8B+%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivnsu&source=univ&tbm=vid&tbo=u&sa=X&ei=4hiITaDfHYHfcebu8asM&ved=0CDgQqwQ

 東日本大地震は、3月11日(金)午後2時46分ごろ、三陸沖のマグニチュード(M)9の本震から約25分間で、M6~7級の地震が次々と誘発して起こりました。 その頃、私の家のマンション(10階、桜田町、金沢)では、約5分間ほど建物がゆっくりと大きく横ゆれしていました。

 その時どこの震源の地震か分からなかったのですが、阪神大震災(1995年1月17日午前5時46分、M7.2、その当時は3階、平和町、金沢の官舎でいたのですが、短時間とはいえ縦ゆれの激しいものでした)のことを思い出し、直感的に、日本のどこかで大きな地震災害が起こったのではないかと思いました。一日も早く復興が進みますように また 気を落としませんように!

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、p.325、君が代、p.1159、日の丸、平凡社(1973); 新村出: 広

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、p.325、君が代、p.1159、日の丸、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修); 生活歳時記、p.435、元号の名称の由来、p.633、国旗の起源、p.737、天皇の称号の起源、三宝社(1994); 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料) 日の丸(画像検索、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%97%A5%E3%81%AE%E4%B8%B8&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=UGA-TZ_rJYO3cMju5cAC&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CFkQsAQwAw&biw=1004&bih=606

君が代(楽譜、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%20%E6%A5%BD%E8%AD%9C&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ 国旗は、国家を象徴する標識で、国家の祝祭日や外国に敬意を表する場合に掲揚します。日章旗(日本)のほか、星条旗(アメリカ合衆国)、三色旗(フランス共和国、旧ロシア帝国、旧ドイツ帝国)、五星紅旗(中華人民共和国)など、世界各国に国旗があります。 世界の国旗(外務省): http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kokki/index.html

○ 国歌は、国家的祭典や国際的行事で、国民及び国歌を代表するものとして歌われる歌です。君が代(日本)のほか、星条旗(アメリカ合衆国)、ラ・マルセイエーズ(フランス共和国)、義勇軍行進曲(中華人民共和国)など、世界各国に国歌があります。世界の国歌(世界の民謡、童謡): http://www.worldfolksong.com/anthem/index.html,

〇 天皇陛下は、2014年(平成26年)12月23日、81歳に。 良い日本をつくる努力を続ける。平和で健全な国切に願う、と語りました。

 

2010年10月15日 (金)

日本国名と貨幣にまつわる歴史伝承、国名の由来(大和、倭、日本など)、貨幣の単位(両、分、朱、貫、文、円、践など)、建国記念の日(2月11日)、とは(2010.10.15)

  日本(にほん、にっぽんとも)は、わが国の国号で、初代、神武天皇(じんむてんのう、生没年未詳)の建国の地とする大和(やまと)を国号とし、「やまと」、「おほやまと」と言い、古く中国では、「(わ)」と呼びました。大化改新の頃も、東方、すなわち日の本の意から「日本」と書いて、「やまと」と読み、奈良時代以降は、「にほん、または、にっぽん」と音読するようになりました。現在でも、日本の読み方については、法的な根拠はなく、どのように読んでも問題ないようです。

 貨幣(かへい)は、本来はそれ自身が交換されるものと等価の商品で、昔は貝殻、獣皮、宝石、布、農産物など、のち貨幣商品として最も適した金、銀のような貴金属、また銅などが次第に用いられるようになりました。江戸時代、金貨、銀貨などの鋳造、鑑定、発行は、江戸幕府直轄の、金座(きんざ)、銀座(ぎんざ)で行いました。

 中国では、おもに貨幣として銀貨を用いていたので、それを扱う金融機関を銀行(ぎんこう)と呼びました。中国の銀については、ポルトガルが、日本から安く買い入れた銀(石見銀山産など!)を中国に高く売りつけ、一方、中国から生糸、絹織物、金などを安く買い入れ、また日本に渡り、これらの品物を日本に高く売りつけ、銀を安く買い入れるなどの貿易により、大きな利益をあげました。

○ 日本の国名の由来

 飛鳥、白鳳時代(592~710)、701年(大宝元年)、「日本」という国号が、対外的な国号として定められました。そのことが、翌年施行された「大宝律令(たいほうりつりょう)」に、正式な国号として記録されています。

 古くは、「日本」は、「大八州(おおやしま)」、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」などの名で呼ばれていたことが、古事記と日本書紀に記録されています。その後、大和朝廷の勢力が広まるに伴い、大八州の政治的な中心地の地方名、「大和(やまと)」が、そのまま総名とされるに至りました。一方、中国ではわが国のことを、「(わ)」と呼んでいました。

 大宝律令にある「日本」は、はじめの頃は「やまと」とか「ひのもと」とか読まれていましたが、漢字の知識が広まっていくにつれて、字音で読むようになり、奈良時代(710~794)以降は、「にほむ」と発音されていました。室町時代(1338~1573)に入り、「にほむ」は、「にほん」あるいは「にっぽん」の読み方となり、これは東国的な発音の影響と言われています。

 昭和時代(1926~1989)初期以来、しばしば「にっぽん」という読み方に統一しようとする運動があり、1934高治年(昭和9年)、文部省の臨時国語調査会で「にっぽん」を正式名称とする決議がなされましたが、国家的制定まで至らず、今日に及んでいます。

○ 日本の貨幣の単位

 日本は、708年(和銅元年)、中国の貨幣をまねて、「和同開珎(わどうかいちん)と呼ばれる貨幣をつくりました。和同開珎には、の2種があり、銀1文(もん)が銅4文に相当し、この頃は、銅貨が銀貨より高かったらしい? とのことです。

 「(もん)」という通貨単位は、中国の重量単位から来ています。また、「(りょう)」という重さの単位も、中国では周(紀元前1046~256)の頃からありました。1両は10文にあたります。日本でも、平安時代(794~1192)、すでに砂金を紙に包んで、「金何両(きんなんりょう)」と目方を表示し、1両は12グラムほどでした。それゆえ、武田信玄(1521~1573、甲斐、山梨)の甲州金、豊臣秀吉(1537~1598)の天正大判、小判、徳川家康(1543~1616)など、正式の金貨が鋳造された時には、そのまま「」が貨幣の単位とされました。「両」の4分の1を「分(ぶ)」、そのまた4分の1を「朱(しゅ)」としました。また、「貫(かん)」は「分」と同じで、「文」の千分の1は、「貫」または「分」となります。

 明治時代(1868~1912)、1871年(明治4年)、新政府は、幕府の「両」をきらって「」という単位を決めました。財務担当参議、大隈重信(1838~1922、肥前、佐賀)が、欧米流に、金貨円形にすること(それまでの金貨、大判、小判などは楕円形でした)、十進法に改めることを主張しました。この時、大隈は、「元(げん)」という名を提案しましたが、衆議で「円(えん)」に修正したとも、彼自身が、「みんな指で輪(わ)を作って、金(かね)を表しているじゃないか」と衆議に押しつけたとも言われています。また、この時、「円」の百分の1を「践(せん)」としました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.87、「日本」という国名、p.201、貨幣の単位の歴史、三宝出版(1994).

(参考資料) 日本の国名の由来(黒門アカデミー): http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/nihon.htm

貨幣(通貨)の単位(コインの散歩道、しらかわただひこ): http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/A014.htm

(追加説明) ○ 神武天皇(じんむてんおう、生没年未詳)は、記紀伝承によれば、初代(第一代)の天皇で、名は神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と呼ばれています。伝承では、高天原(たかまがはら)から降臨(こうりん)した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫で、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと、彦火火出見尊、ひこほほでみのみこと、の子)の第4子で、母は玉依り姫命(たまよりひめのみこと、海神の娘)です。

 日向国(ひゅうがのくに、宮崎)の高千穂宮(たかちほのみや)を出て、瀬戸内海を経て、紀伊国(きいのくに、和歌山)に上陸、霊剣「韴霊(ふつのみたま)」と道案内の「八咫烏(やたがらす)」の導きで土豪(どごう)の長髄彦(ながすねびこ)らを平定して辛酉の年(かのとのとりのとし、前660年)大和国(やまとのくに、奈良)畝傍(うねび)の橿原宮(かしはらのみや)で即位したという。

 日本書紀の紀年に従って、明治以降、この年を紀元元年としました。畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)はその陵墓としています。

 ○ 建国記念の日(けんこくきねんおひ)は、国民の祝日の一つで、2月11日です。この日は、旧紀元節にあたり、1872年(明治5年)、神武天皇即位の日を設定して祝日としたもので、第2次大戦後に廃止されましたが、1966年(昭和41年)、「建国記念の日」という名で復活し、翌年から実施されました。

 現在世界的には、キリスト誕生の日を元年とする(紀元前4年を誕生ともいう)西暦紀元が使われていますが、日本では、1872年(明治5年)、神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定めて、これを皇紀元年(こうきがんねん)と呼びましたが、今は普通用いない。1940年(昭和15年)11月10日、紀元2600年記念式典挙行され、奉祝の提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)、もち米の特配などがありました。

○ 四大節(しだいせつ)は、旧制の祝祭日とされた、三大節(さんだいせつ)の新年(しんねん、天皇の四方拝、1月1日)、紀元節(きげんせつ、神武天皇即位の日、2月11日)、天長節(天皇誕生の祝日)に、のちに明治節(明治天皇の誕生日、11月23日、、この日は国民の祝日の文化の日で、意義を異にしています)を加えた総称です。(広辞苑(岩波書店)、歴代天皇事典(PHP文庫)、より)

2010年9月 7日 (火)

明治維新(ペリー来航から西南戦争まで)、王政復古(幕藩体制の封建社会から天皇制統一国家の資本主義社会へ)、近代化政策(富国強兵、文明開化、殖産興業)、とは(2010.9.7)

 明治維新(めいじいしん)は、近世(江戸時代)の幕藩体制を崩壊させ、近代(明治時代)の天皇制の統一国家を形成し、封建社会から資本主義社会への移行の出発点となった、政治的、経済的、社会的、文化的な変革、と考えられています。始期終期については、諸説があり、確定していないようです。

 広義には、幕藩体制の矛盾が顕在化した1830年代(天保期)から、明治憲法の体制が成立した1889~1890年(明治22~23年)までを言います。その他始期を欧米資本主義に組み込まれる1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀(神奈川)に来航から、終期を1871年(明治4年)廃藩置県、1873年(明治6年)維新の3大改革(学制、徴兵令、地租改正)、1876年(明治9年)秩祿処分、日朝修好条規、1877年(明治10年)西南戦争とするなど諸説があります。

● 江戸時代(1603~1867)

○ ペリー来航(1853年)と日米和親条約(1854年)

 1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令官、ペリー(1794~1858)の率いる4隻の黒船(くろふね、蒸気軍艦)が、突如、三浦半島の浦賀沖(うらがおき、神奈川)に現れました。日本との友好通商、日本沿岸で遭難した捕鯨船への石炭と食糧の供給、難破民の保護を求めるアメリカ大統領、フィルモア(1800~1874)の国書を携えての来航でした。当時、北太平洋で操業するアメリカの捕鯨船が日本近海でも捕鯨を行い、鯨の肉は食べないのですが、鯨の表皮から鯨油を取り、灯油を作っていました。幕府は,浦賀に近い久里浜で国書を受領し、翌年に返答することを約束しました。

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ペリー提督、上陸の図(1854年2月10日、横浜村、神奈川、google画像) 

(解説) 1854年(安政元年)1月16日、ペリー率いるアメリカ艦隊は、再び江戸湾(東京)に姿を現し、強行に通商条約の締結を迫りました。今度は、最新の蒸気軍艦ポーハタン号を旗艦(きかん)とする計7隻の大陣容でした。艦隊が湾内羽田沖まで進入して威嚇(いかく)すると、ついに幕府は横浜村(のち横浜市、神奈川)での会見を申し入れました。そして、江戸時代、鎖国後はじめて、同年3月3日、下田(静岡)、箱館(函館、北海道)の開港とアメリカ艦船に燃料や食糧などの供給、難破民の救助と引渡しなどを定めた日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。そして、日米和親条約とほぼ同じ内容の和親条約が、同年8月にはイギリスと、12月にはロシアと、翌1955年(安政2年)12月にはオランダとの間で締結されました。

○ ハリス着任(1856年)と日米修好通商条約(1858年)、安政の大獄(1858年6月24日、旧暦)と桜田門外の変(1860年3月3日)

 1856年(安政3年)7月アメリカ総領事ハリス(1804~1878)が下田(伊豆国、静岡)に着任しました。1858年(安政5年)6月には、日米修好通商条約が締結されましたが、それは関税自主権がなく、治外法権を認める、アメリカに一方的に有利な内容の条約となっていました。

 幕府の大老、南紀派(なんきは、御三家、紀伊藩)登用の彦根藩主(第15代)、井伊直弼(いいなおすけ、1815~1860)がハリスに押し切られ、孝明天皇(こうめいてんのう、1846~1866,第121代)の勅許(ちょくきょ)をえないまま日米修好通商条約に1858年(安政5年)6月19日(旧暦)調印しました。そこで、この条約が違勅(いちょく)調印であることを、一橋派(ひとつばしは、御三卿、一橋家)の藩主(越前松平慶永、水戸徳川慶篤と徳川斉昭、尾張徳川慶勝)及び一橋慶喜(のち15代将軍、徳川慶喜、1837~1913)らは、大挙して江戸城登城批判しました。

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桜田門外の変を描いた絵図( 1860年3月3日、白いたすきをかけているのが尊王攘夷派の武士、桜田門外、江戸、google画像) 

(解説) 井伊直弼は、1858年(安政5年)6月24日(旧暦)、一橋派の登城批判に対し、大弾圧に乗り出しました。この安政の大獄(あんせいのたいごく)による処罰者は、一橋派の大名、公家をはじめ、尊王攘夷(天皇を尊び外国人を排除)の志士にまで及びました。これには、とりわけ尊王を旨とする(水戸学、儒教思想)派の水戸藩の反発を招き、1860年(万延元年)3月3日(旧暦)、井伊は水戸浪士によって桜田門外で暗殺されました。攘夷論(じょういろん)は、異質の文化をもつ国や民族を「夷狄(いてき、野蛮人、やばんじん)」と位置づけ、それを排除しようとする儒教(じゅきょう)の中華思想に基づいた考え方です。この桜田門外の変を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになりました。<

○ 尊王攘夷(天皇を尊び外国人を排除する)運動の激化(1861~1864年)

 桜田門外の変以降、幕府公武合体(こうぶがったい)、すなわち、公(朝廷)と武(幕府)の協力により国難を乗り切ろうとしました。そして、1862年(文久2年)2月、江戸で皇女和宮(1846~1877が14代将軍徳川家茂(1846~1866)に降嫁(こうか)しました。そして、幕府は、一橋慶喜(のち15代将軍、徳川慶喜)を将軍後見職に、松平春嶽(慶永、1828~1890)を政事総裁職に任命しました。

 これに対し、長州、土佐などの各藩から京都に参集した尊王攘夷派尊攘派)の志士たちは、公武合体派の薩摩藩と血を血で洗う暗闘を繰り広げました。長州藩の過激派が尊攘派の公家と内通し、倒幕をもくろんでいることが露見し、1863年(文久3年)8月18日、禁裏(きんり)九門の一つ、境町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれました。これは、公武合体派薩摩藩京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派京都から一掃しようとしたクーデターでした。これは八月十八日の政変と呼ばれています。

 この政変により、三条実美(さんじょうさねとも、1837~1891)ら尊攘派公家7人が京都を追放され、長州へと逃れました。世にいう「七卿落ち(しちきょうおち)」です。これを境に長州、薩摩の両藩の関係は、いったん断絶状態となりました。

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薩英戦争を描いた絵図(1863年7月2日、薩摩藩は、嵐の中、イギリス艦隊との激しい砲撃戦を展開しましたが、攘夷(外国人の排除)は不可能であることを悟り、賠償支払いに応じ和平しました。その後、イギリスに軍艦購入の周旋(しゅうせん)を依頼し、薩英関係は緊密となっていきました。、鹿児島湾内、背後の山は桜島、google画像)  

(解説) 安政の大獄以来、鬱屈(うっくつ)していた尊王攘夷派の志士たちは、幕府高官や外国人を次々と襲撃(しゅうげき)する過激事件を起こし、世はまさに激動の時代に突入しました。尊王攘夷派による過激事件としては、東禅寺襲撃事件(1861~1862年、江戸)、坂下門外の変(1862年、江戸)、イギリス公使館焼討ち事件(1862年、江戸)、生麦事件(1862年、生麦、横浜近く)、寺田屋事件(1862年、伏見)、天誅組の変(1863年、五条)、生野の変(1863年、生野)、長州藩外国船砲撃事件(1863年、下関)、薩英戦争(1863年、鹿児島)などが起こっています。

○ 禁門の変(蛤御門の変)と第1次長州征討、下関戦争(1864年)

 幕府は、1862年(文久2年)8月、尊王攘夷派志士たちのテロが横行する幕末の京都を治めるため、京都守護職(きょうとしゅごしょく)を設置し、その職に任じられた会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり、1835~1893)は、同年12月、約1000人の藩兵を率いて上洛し、新撰組(しんせんぐみ)や京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)を組織して、尊攘派を厳しく取り締まりました。

 1864年(元治元年)6月、京都の旅籠(はたご)池田屋で決起を画策していた長州藩士、吉田稔麿(1841~1864)ら尊攘派が、新撰組、局長近藤勇(1834~1868)、土方歳三(1835~1869)らに殺傷される事件が起こりました(池田屋事件、京都三条河原町)。

 長州藩は、長州軍を京都に進発させ、2000の藩兵で京都を包囲し、無実を主張する訴状を差し出しましたが、拒絶されたため、公武合体派排除京都奪還の決行に踏み切りました(禁門の変、蛤御門の変とも)。京都御所に押し寄せた長州軍は、会津軍の警護する蛤御門(はまぐりごもん)へ殺到、御所内に突入しかけましたが、薩摩軍に背後を襲われ敗北を喫しました。

 一方、幕府は、1864年(元治元年)7~12月、禁門の変を理由に長州藩追討の勅命(ちょくめい)を得て、15万の軍勢を長州に進発させました(第1次長州征討)。ところが、征長軍は長州を包囲したものの、戦火をを交えぬまま12月に撤兵を開始しました。これは、尊攘派に代わり、長州藩の実権を掌握(しょうあく)した佐幕派(さばくは、幕府補佐派とも)が謝罪に務め、禁門の変の責任者である3家老の切腹などを約したからです。

 この第1次長州征討長州藩の謝罪降伏で集結した裏には、幕府軍参謀(さんぼう)の薩摩藩士、西郷隆盛(さいごうたかもり、1827~1877)の配慮がありました。征討に先立ち、西郷は、幕臣勝海舟(かつかいしゅう、1823~1899)と会談し、その際、公武合体限界と、雄藩連合による新政権の実現を説得されました。一時は、長州藩の撃滅(げきめつ)を決意した西郷でしたが、勝の意見に従い、長州藩の温存を図りました。

  その間、1864年(元治元年)8月には、前年、1863年(文久3年)5月10日、下関海峡で砲撃(長州藩の攘夷の実行!)を受けた英米仏蘭4国による連合艦隊が、長州藩報復攻撃を開始しました。長州藩は、1863年(文久3年)6月、高杉晋作(たかすぎしんさく、1839~1867)の発案により農民、町民らで組織された奇兵隊(きへいたい、民兵)の反撃もむなしく、降伏しました(下関戦争)。そして、長州藩は、高杉晋作に講和を一任し成立させました。が、攘夷(外国人の排除)は不可能であることを実感させられました。その後、高杉晋作が功山寺で挙兵、長州藩は武力による倒幕へと進んでいきました。

○ 薩長同盟(1866年1月)と第2次長州征討(1866年6月~12月)

 1863年(文久3年)8月18日、長州藩の尊攘派の京都からの追放にからむ八月十八日の政変以来、宿敵となっていた薩長両藩の連合を実現に導いたのは、土佐藩浪士、坂本龍馬(さかもとりょうま、1835~1867)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう、1838~1867)でした。二人は、新体制実現のためには、薩長両藩の連合が不可欠と感じ、両者の会談を斡旋(あっせん)しました。

 薩摩藩士、小松帯刀(こまつたてわき、清廉とも、1835~1870)は、京都で坂本龍馬らと懇意になり、薩長同盟樹立のために藩論をまとめるべく奔走ました。また、坂本龍馬が新撰組による寺田屋襲撃事件で負傷した際には、妻のお龍と共に鹿児島城下の原良の屋敷に招き、療養に務めさせました。 

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薩長同盟の締結(1865年1月20日、前列左より、 桂小五郎(のち木戸孝允)、勝海舟、小松帯刀、後列左より、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、薩摩二本松藩邸、上京区、京都、合成写真、google画像) 

 世界最初銀塩写真は、1839年(天保10年)にフランスで発表されたダゲレオタイプ(銀メッキをかけた銅板に像を直接定着させる方式)とされる。さらに改良が加えられ、日本には、1848年(嘉永元年)に写真機が輸入され、坂本龍馬らが撮影されました。(朝日新聞:文化の扉 はじめての銀塩写真、2012年(平成24年)10月29日(月)朝刊)

薩長同盟の成立(奇兵隊、のろのろホームページ): http://www.geocities.jp/mill_c2002/noronoro/hagi/kiheitai_4.html

(解説) 1865年(慶応元年)4月、長州藩の武器密輸を理由に、再び幕府が征長の途についた(第2次長州征討)との報が届くと、坂本と中岡は、両藩の和解工作を開始しました。その必死の説得が功を奏し、翌年1月、ついに長州藩桂小五郎(かつらこごろう、のち木戸孝允、きどたかよし、1833~1877)と薩摩藩西郷隆盛の会談が実現し、両藩は軍事同盟(薩長同盟)締結(ていけつ)して、反幕府(倒幕)の立場を鮮明にしました。

 薩長同盟では、再び幕長戦争が開戦したときには、薩摩藩は参戦しないこと、長州藩が必要とする軍事物資は、薩摩藩名義で外国から輸入すること、などが明記されました。これによって、長州藩は軍備増強を図ることができました。このとき、長州藩が武器や軍艦を購入できるように仲介したのが、坂本龍馬と、彼が設立した日本初の貿易会社、亀山社中(かめやましゃちゅう、海運業、薩摩藩の援助で長崎に設立)でした。

 1866年(慶応2年)6月、幕府軍が芸州口、大島口、石州口、小倉口の四方から長州攻撃を開始、第2次長州征討の戦端が開かれました。長州軍は、高杉晋作(たかすぎしんさく、1839~1867)、大村益次郎(おおむらますじろう、1824~1869)らの活躍で勝利を重ねました。それは、長州軍が最新式の銃を備え、洋式銃陣(じゅうじん)を敷いたのに対し、幕府軍は戦国以来の火縄銃(ひなわじゅう)による集団戦術をとったからです。また、長州軍が四国(英米仏蘭)連合艦隊との戦いを経験していたのに対し、幕府軍には実践の経験がなかったことも理由の一つに挙げられます。

 1866年(慶応2年)7月、14代将軍、徳川家茂(いえもち、1846~1866)が急死したのを機に、薩摩藩から征長中止が建白されました。朝廷内にも中止を求める声が高まり、8月、朝廷からの勅命により休戦が成立しました。そして、一橋慶喜が15代将軍徳川慶喜として就任しました。

○ 大政奉還(1867年10月14日)

第2次長州征討で幕府の権威が地に落ちたと見た薩摩藩の西郷隆盛大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878)は、倒幕派の公家、岩倉具視(いわくらともみ、1825~1883)に働きかけ、朝廷からの「倒幕の密勅(みつちょく)」の降下を画策、武力討幕をもくろみました。

 討幕派と幕府の対立の間で、一役を買おうとしたのが、土佐藩でした。前藩主、山内容堂(やまのうちようどう、豊信とも、1827~1872)の腹心、後藤象二郎(ごとうしょうじろう、1838~1897)は、坂本龍馬の立案した新国家構想「船中八策(せんちゅうはっさく)」をもとに、大政奉還(たいせいほうかん)を幕府に建白しました。その主旨は、天皇のもとで大名らの合議による政権を樹立することでした。

 最近、坂本龍馬が暗殺される5日前に福井藩重役宛て手紙が見つかった、と高知県などが13日発表しました。その手紙の「新国家」福井藩士の出仕望むとの書状の一部より、手紙中央上部に「新国家」の文字が記述されていることが確認されました。(2017年(平成29年)1月14日(土)、北陸中日新聞、朝日新聞、朝刊より)

 その一方で、土佐藩は、薩摩藩と「薩土盟約(さつどめいやく)」を締結し、大政奉還の実現に向け協力を誓い合いました。薩摩藩にとっても、いざというとき、倒幕に持ち込む同盟者が必要でした。

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大政奉還を描いた絵図(1867年10月13日、第15代将軍、徳川慶喜は、京都の二条城で諸藩の重臣に大政奉還について諮問し、翌日、朝廷に奏上しました、頓田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、google画像)

(解説) 1867年(慶応3年)10月13日、岩倉の工作が実り、ついに薩摩藩に「倒幕の密勅」が降下されました。翌日には、長州藩にも降下されますが、同じ14日、15代将軍、徳川慶喜(1837~1913)から大政奉還奏上されました。徳川慶喜の構想は、一旦朝廷に大政を返上したうえ、新たな政権のもとで盟主(めいしゅ)となり、行政権を行使しようとするものでした。大政奉還を受け、10月21日、朝廷より「倒幕の密勅」の取り消しが布達(ふたつ)されました。 

○ 明治新政府の誕生(1867年12月9日)

 倒幕派は、徳川慶喜のもと列藩会議(れっぱんかいぎ)構想が実現する前に、明治新政府を成立させる行動に出ました。

 1867年(慶応3年)12月9日、京都御所の九門を諸藩兵が固めるなか、御所内において王政復古の大号令明治新政府成立!)が発せられました。そして、新政府は、王政復古を諸外国に通告、五箇条の御誓文で基本綱領を掲げ、政体書によって政治制度を確立、政府基盤を全国的に構築しました。すなわち、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)、幕府(ばくふ)などの制度は廃止され、新たに総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)などの三職が設けられました。

 その日の夜、御所内の小御所(こごしょ)において、初の三職会議が開催されました。最大の議題は、15代将軍、徳川慶喜の「辞官納地(じかんのうち)」(官位辞退と領地返上)でした。前土佐藩主、山内容堂らは反対したものの、徳川慶喜の排斥を強硬に主張する岩倉具視らの前になす術(すべ)はありませんでした。

 「辞官納地」の勅令を伝えられた徳川慶喜は、幕臣の暴発により朝敵になることを恐れ、大坂城へと退去しました。入れ代わるように長州藩兵が入京し、京都は薩長の軍事支配下に置かれました。

 大坂城の徳川慶喜のもとには、5000もの旧幕府兵が続々とつめかけ、薩長討伐の気勢が高まりました。これに会津(あいづ)藩兵3000,桑名(くわな)藩兵1500などを加えた旧幕府軍1万5000は、京都に向け進発しました。これに対する薩長藩兵は4500と、その三分の一にも満たないものでした。

○ 戊辰戦争(1868年1月3日~1869年5月)

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戊辰戦争の経過図(地図で訪ねる歴史の舞台、日本、p.86、帝国書院(1999)、google画像) 脱藩大名の戊辰戦争(しょうちゃんのブログ): http://plaza.rakuten.co.jp/syoucyann1582/diary/200910280000/

(解説) 1868年(明治元年)1月3日、京都南部の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で、旧幕府軍と薩摩と長州を中心とする新政府軍が衝突し、戊辰戦争(ぼしんせんそう、鳥羽・伏見の戦いとも)が始まりました。新政府に反発した会津と桑名などの諸藩が、15代将軍、徳川慶喜をおしたて、薩長討伐に立ち上がりました。しかし、旧幕府軍は新政府軍の近代兵器の前に敗れ「朝敵(ちょうてき)」(勝てば官軍、負ければ賊軍!)として追われることになりました。

 晴れて「官軍」となった新政府軍は、京都を進発し、3月には、江戸へと迫りました。江戸城総攻撃が噂(うわさ)されるなかで、新政府の西郷隆盛と旧幕府の勝海舟が会談し、15代将軍、徳川慶喜も恭順(きょうじゅん)の意を示し、1868年(明治元年)4月、江戸城が新政府軍に明け渡されました(江戸城の無血開城!)。

 江戸湾にいた旧幕府海軍総裁、榎本武揚(えのもとたけあき、1836~1908)は、艦隊を率いて箱館(函館)に脱出しました。一方、新政府軍は、会津藩追討に乗り出し、東方へ進攻しました。会津をはじめ東北諸藩は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結び、激しい戦いを繰り広げました。しかし、新政府軍の猛攻に、旧幕府軍は、4月には宇都宮の戦い、5月には上野の戦い、5~7月には長岡の戦いに敗れ、次々と脱落していき、9月には会津藩、庄内藩、仙台藩も降伏しました。

 1868年(明治元年)10月、旧幕府艦隊を率いる榎本武揚は、土方歳三(1835~1869)らと共に箱館(函館)の五稜郭(ごりょうかく)を占領しました。翌年4月、新政府軍は海陸から攻撃を開始、抵抗していた榎本武揚らも、翌1869年(明治2年)5月に降伏し、1年半に及ぶ戊辰戦争は終わりを告げました。 

● 明治時代(1868~1877)

○ 東京遷都、文明開化と殖産興業(1868~1878年頃)

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東京遷都(1869年(明治2年)3月28日、皇城、遷都?、東京、google画像) 

(解説) 1868年(慶応4年)は、9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇、睦仁(明治天皇)は江戸城改め皇城(のち宮城、皇居)に入り、城の中に太政官府設置しました。一般にはこれを東京遷都としています。

 幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の目には、ちょんまげに和装(わそう)、裸(はだか)にふんどし姿の日本人は「野蛮な未開人」と映(うつ)りました。明治政府は、外交の妨げになると判断し、官礼服を洋服にし、断髪令(だんぱつれい)などを出して(散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする!庶民にも洋風化を強要しました。

 1872年(明治5年)には、近代学校制度を定めた法令「学制(がくせい)」を公布し、義務教育の徹底を図りました。また、同年には、それまでの太陰暦(たいいんれき)を廃して、太陽暦を採用しました。が、旧暦1872年12月2日の翌日が1873年1月1日となったため、人々を混乱させました。

 こうした政策に合わせ、西洋の文物が大量に流入したため、洋服や洋風建築、洋食など、人々の暮らしは大きく変化しました。しかし、こうした文明開化の波が広がったのは大都市に限られ、地方の農村に洋風生活が定着するのは、昭和に入ってからのことでした。

 一方、明治政府は、特に、近代国家建設のため、「富国強兵(ふこくきょうへい)」のスローガンのもと、近代産業を保護し育成する殖産興業(しょくさんこうぎょう)の政策を推進しました。

 日本各地に、輸出の花形である製糸工場や軍備増強を担う軍需工場など、模範工場を設立しました。また、旧幕府や諸藩所有の鉱山などを手に入れ、外国人技師を雇い、最新の設備を導入して近代化を進めました。

 また、産業と経済の流れをスムーズにするため、インフラの整備も急ピッチで進められ、近代式の郵便電信などの通信網、鉄道蒸気船などの交通網が全国に広がりました。

○ 廃藩置県と地租改正(1871~1873年)

 明治政府の発足後も、諸藩の領地や領民は、依然として、旧来の藩主が治めていました。そこで、1869年(明治2年)1月、政府の大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878、薩摩藩)、木戸孝允(きどたかよし、1833~1877,長州藩)らは、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)の各藩主を説得し、領地と領民を政府に返上させました(版籍奉還、はんせきほうかん)。諸藩もこれにならい、6月には、全国の土地と人民が政府の支配下に置かれる形式が整えられました。

 しかし、旧藩主は、知藩事(ちはんじ)に任命され、その後も藩政を執(と)ったため、実質的には明治維新前と変わりませんでした。そこで、明治政府は、強力な中央集権国家の建設には、藩の一挙全廃が不可欠と考え、1871年(明治4年)7月、天皇の名のもとに、廃藩置県(はいはんちけん)を断行しました。そして、鹿児島から西郷隆盛を招いて、薩長土3藩の約1万人からなる御親兵(ごしんぺい)を組織し、諸藩の反抗に備えましたが、抵抗は少なく、廃藩は受け入れられました。 廃藩置県によって、天皇国家統合(かなめ)となり、天皇制の統一国家が実現しました。 

 ところが、明治政府の財政は、火の車であり、諸藩から引き継いだ債務は、当時の歳入の2倍にも上がりました。そこで、政府は、安定した財源基盤と近代的な土地所有を確立するため、田畑勝手作り(でんばたかってづくり)を認め、田畑永代(えいたい)売買の禁を解くなどの措置をとり、1873年(明治6年)に地租改正(ちそかいせい)条例公布し、以後、1870年代を通じて改正事業が実行されました。地租改正の内容は、土地(地券、ちけん)所有者に、金納・定額で地価の3%にあたる地租を納入させるというものでした。

 1876年(明治9年)、茨城県や三重県などで地租改正反対一揆が激化すると、翌年、地租は、地価の3%から2.5%に減額され、農民の負担が大幅に軽減されました。

○ 不平士族(主に薩長土肥の下級武士)の反乱(1874~1877年)

 1873年(明治6年)、岩倉使節団(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら)が欧米を視察していたとき、西郷隆盛、板垣退助(1837~1919)らが預かる留守政府内では、征韓論(せいかんろん)が高まっていました。それは、朝鮮(清の属国!古くは高句麗、新羅、百済の三国からなり三韓と呼んでいました)が明治新政府を認めず、鎖国を続けるので、武力で開国させようとするものでした。

 しかし、帰国した大久保らは内治優先を唱えて征韓論に反対し、政府征韓派(西郷隆盛、江藤新平、板垣退助)と内治派(大久保利通、岩倉具視、伊藤博文)とに分裂しました。その結果、閣議決定をしていた西郷隆盛の朝鮮派遣は覆(くつがえ)され、内治派が勝利すると、征韓派はいっせいに下野(げや)しました(明治六年の政変)。

 一方、新政府の政策によって、平民の苗字を許可(1870年)、徴兵令公布(1873年)、秩祿処分と廃刀令公布(1876年)など、士族(旧武士階級)の特権は次々と失われていきました。なかでも、1876年(明治9年)の秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、多くの士族を困窮に落とし入れました。それは、廃藩置県後も華士族などに秩祿(家禄、賞典祿)が支給されましたが、国家の歳出の約30%を占め、国家財政を圧迫していました。そこで、政府は金祿公債証書(きんろくこうさいしょうしょ、それぞれの禄高の数年分相当額に利子をつけた公債)を与えて、禄制を全廃する措置をとりました。

 一人あたり平均は、華族が6万4000円程度だったのに対し、士族は5000円足らずに過ぎませんでした。下級武士のなかには、生活苦から金祿公債を手放して没落していく者も現れました。

 その結果、士族の間で政府に対する不満が募(つの)り、1873年(明治6年)の征韓派の政変を機に、西日本の士族(主に薩長土肥の下級武士)により、佐賀の乱(首領、江藤新平、島義勇、不平士族、佐賀、1874)、敬神党の乱(不平士族、神風蓮、熊本、1876)、秋月の乱(宮崎車之助、秋月藩士、福岡、1876)、萩の乱(首領、前原一誠、長州藩士、山口)など、反乱が続出しました。このことから、明治維新の立役者を自負する薩長土肥の下級武士の怒りがいかに強かったかが推測されます。

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西南戦争( 熊本城戦争図、安達銀光(吟光)、1877年(明治10年)3月版、福田龍次郎版元(東京)、鹿児島新聞、google画像) 

(解説) 1877年(明治10年)2~9月の鹿児島士族を中心とする西南戦争(せいなんせんそう)は、最後の反政府士族の最大の反乱でした。西郷隆盛は、各地の士族反乱に対しては、自重の姿勢を貫いていました。が、1877年(明治10年)2月15日、私学校生徒ら1万3000人が西郷を担いで起つと、熊本などの保守、民権両派の士族7000人、徴募兵約1万人もこれに呼応しました。反乱軍は、熊本城の政府軍との攻防戦、田原坂(たばるざか)の激戦で敗北、以来、大分、宮崎、鹿児島を敗走し9月24日、西郷が城山で自刃、反乱は鎮圧され、士族の武力による抵抗は急速に衰えていきました。このとき、政府は最新の兵器と6万余の兵力、大量の軍夫を投入しました。死者は官軍6843人、反乱軍約5000人とのことです。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 野島博之(監修)、成美堂出版編集部(編): 図解日本史、成美堂出版(2006); 東京都歴史教育研究会(監修): 成美堂出版編集部(編): 図解幕末・維新、成美堂出版(2009); 詳説日本史図麓編集員会編: 詳説日本史図麓、山川出版社(2009).

(参考資料) わらべ歌(一かけ二かけて三かけて、西南戦争、西郷隆盛の墓参り): http://mippi.jp/mmland/warabeutaset.htm

(追加説明) ○ 西郷隆盛の評価の変遷 西郷隆盛の人間像をめぐる評価は、彼が西南戦争で没して後、今日まで再転、再々転しています。まず、西南戦争の終戦直後は、西郷は「逆賊」でした。しかし、福沢諭吉は、「西郷は官員の敵にして、人民の敵にあらず」と「丁丑公論」に書きました。また、内村鑑三は、「維新における西郷の役割を余さずに書くことは、維新史の全体を書くことになる」と述べています。

 戦後になると、左翼思想家の間から、維新までの西郷は革命的、征韓論以降の西郷は反動、という見解も出されました。1970年(昭和45年)、自衛隊に乱入し自決した三島由紀夫は、40才になるまで「茫漢とした大人物らしさ」に集まる俗衆の人気がいやで西郷ぎらいであったが、「近ごろになって、ようやく西郷の真の偉大さが分かるようになった」と告白しています。西郷隆盛をめぐる評価は、今もなお混沌としています。不思議な人物です。(樋口清之(監修): 生活歳時記、p.553,西郷隆盛評価の変遷、三宝出版(1994)より)

 

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