カテゴリー「● 温泉、熱水(岩間噴泉塔、湯涌温泉、辰口温泉、玉造温泉、道後温泉)」の6件の記事

2014年10月 4日 (土)

泉鏡花文学碑、辰口温泉(辰口町、能美市、石川県)の温泉広場にある、温泉のいわれの石碑、及び明治の文豪、泉鏡花の文学碑、とは(2014.10.4)

 泉鏡花文学碑、辰口温泉

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(解説) 辰口温泉(辰口町、能美市、石川県)の温泉広場には、1400年ほど歴史のある、温泉のいわれを記した石碑、及び明治の文豪、泉鏡花(1873~1939)の文学碑があります。

 温泉は、泉温36.5℃、泉質は弱アルカリ性(pH7.5)、食塩(塩化ナトリウム)、芒硝(ぼうしょう、硫酸ナトリウム)泉で、体の血行がよくなり、冷え性、肩こり、腰痛などにも効果があるという。

 鏡花は、金沢で生まれ、幼くして母親を亡くし、辰口温泉に住む叔母に可愛がられて育ちました。 1890年(明治23年)夏、叔母を訪ねたとき、のちに師事する尾崎紅葉の「夏痩せ」を読んで影響を受け、作家の道を志したといわれています。

(参考資料) ○ 泉鏡花文学碑 (自然とふれあう、辰口町、能美市、石川県):http://www.city.nomi.ishikawa.jp/museum/izumikyoka_bungakuhi.html

○ まつさき (辰口温泉、辰口、能美市、石川県): http://www.matsusaki.jp/spa/

○ たがわ龍泉閣 (辰口温泉、辰口、能美市、石川県): http://ryusenkaku.com/spa/index.html

○ 白山山麓の湯涌温泉(金沢市)での竹久夢二の「美人画」と文学碑、辰口温泉(能美市)での泉鏡花の「海の鳴る時」と露天風呂、また、加賀平野南部の山中温泉(加賀市)での松尾芭蕉の「奥の細道」の名句と句碑、とは(2014.1.20): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-283b.html

 泉鏡花(金沢出身の作家)にまつわる歴史物語、高野聖、四国の辺地を通る僧(今昔物語)、とは(2009.7.9): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/koya.html

2014年1月20日 (月)

白山山麓の湯涌温泉(金沢市)での竹久夢二の「美人画」と文学碑、辰口温泉(能美市)での泉鏡花の「海の鳴る時」と露天風呂、また、加賀平野南部の山中温泉(加賀市)での松尾芭蕉の「奥の細道」の名句と句碑、とは(2014.1.20)

 白山山麓には、湯涌(ゆわく)、辰口(たつのくち)、また、加賀平野南部には、山中(やまなか)、山代(やましろ)、 粟津(あわづ)、片山津(かたやまづ)のほか、数多くの温泉地が知られています。

 そこには、作家や歌人、芸術家の創作意欲をかき立てる、独特の風情の老舗旅館もあり、竹久夢二や泉鏡花、松尾芭蕉の心を打つ文学作品が残されています。 

湯涌温泉竹久夢二(たけひさゆめじ、1884~1934、画家、詩人、岡山県、本庄生れ)

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湯涌温泉(ゆわくおんせん、竹久夢二美人画と文学碑、湯涌町、金沢市)

湯涌温泉(ゆわくおんせん、やました旅館、ホームページ、夢二が恋人の彦乃と逗留、金沢市):http://oyado-yamasita.com/yumeji.html

(解説) 湯涌温泉やました旅館に逗留(とうりゅう)中、竹久夢二彦乃との愛を歌った、「湯涌なる 山ふところの 小春日に 眼閉ぢ死なむと きみのいふなり」と刻まれた自然石の文学碑があります。                                        

 辰口温泉泉鏡花(いずみきょうか、1873~1939、小説家、石川県、金沢生れ)

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辰口温泉(たつのくちおんせん、まつさき旅館露天風呂、辰口町、能美市)

辰口温泉(たつのくちおんせん、まつさき旅館、鏡花が愛した古湯、ゆこゆこネット): http://www.yukoyuko.net/onsen/0251/rekishi まつさき(ホームページ、歩み、泉鏡花の海の鳴る時):http://www.matsusaki.co.jp/annai/histry.html.

(解説) 泉鏡花は、老舗旅館「まつさき」は、短編小説「海の鳴る時」では、温泉宿「松屋」として登場し、お絹という女性を描いています。そして、名湯があふれる露天風呂(ろてんぶろ)は、鏡花の作風にも影響を与えたと言われています。

 鏡花は、熱燗(あつかん)が好きで、煮物は小鍋で煮直して熱々(あつあつ)を出したという逸話が残っています。幼くして母を亡くし、辰口に住む叔母に引き取られ、18歳の時に読んだ尾崎紅葉(おざきこうよう、1868~1903、小説家、東京都、江戸生れ)に影響を受け、作家を目指したと言われています。  

○ 山中温泉松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694、俳人、三重県、伊賀上野生れ)

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山中温泉(やまなかおんせん、松尾芭蕉の名句と句碑、山中町、加賀市)

山中温泉(山中温泉観光協会、ホームページ、泉屋旅館芭蕉が愛した温泉、加賀市): http://www.yamanaka-spa.or.jp/welcome/bashou.html

(解説) 1689年(元禄2年)7月27日(新暦9月10日)から8月5日まで、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、山中温泉の出湯、泉屋旅館に杖をとどめました。

 
 この9日間に、芭蕉は薬師堂を詣(もう)で、温泉につかり、風光明媚(ふうこうめいび)な景色を心から楽しみ、「山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ(山中の湯の香をかげば、菊を手折ってその露を飲むまでもない)」」の一句を詠みました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 北陸中日新聞: 文人の愛した温泉、なぜ文人は温泉い惹(ひ)かれるのか、サンデー版+テレビ、2011年(平成23年)12月25日(日).

(参考資料) ○ 医王山(石川)のふもとに湧き出る湯涌温泉と霊験あらたかな医王山の水、医王石(石英閃緑ひ岩)、とは(2010.7.9): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/97.html

 泉鏡花(金沢出身の作家)にまつわる歴史物語、高野聖、四国の辺地を通る僧(今昔物語)、とは(2009.7.9): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/koya.html

○ 松尾芭蕉(奥の細道、那谷寺)にまつわる歴史紀行、石山の石より白し秋の風、この句の中の石は那谷寺(加賀)の石、それとも石山寺(近江)の石なのか、とは(2009.9.7):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/ma.html

2011年4月 1日 (金)

出雲(いずも、神話の国、島根)にまつわる歴史伝承、出雲大社(大国主命、国譲り)、因幡の白兎(大国様の言うとおり)、玉造温泉(神の湯)と勾玉(まがたま)、地震と火山帯、とは(2011.4.1)

  古来、出雲(いずも、島根県の東部)は、神話の国、奈良時代、713年(和銅6年)、出雲風土記によれば、八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)が、八雲立つ(やくもたつ)と言われたので、八雲立つ出雲という。712年(和銅5年)、古事記には、地の神、須佐之男命(すさのうのみこと)の歌として、「八雲立つ 出雲八垣つまごみに 八重垣つくるその八重垣を」があります。 

 出雲大社(島根)には、地の神(国つ神系)、天の岩屋戸の事件を起こし天の世界(高天原)から追放された須佐之男命(すさのおのみこと)の、地の神、大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀られています。天の女神(天つ神系)、天照大神(あまてらすおおみかみ)とその、地の神(国つ神系)、須佐之男命(すさのおのみこと)の両親は、天の神、伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと、男神)です。

 ○ 出雲大社(いずもたいしゃ、大国主神、天照大神への国譲り、島根)

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出雲大社(いずもたいしゃ、拝殿(御仮殿)、平成大遷宮、2008年(平成20年)4月、仮殿遷座祭、2013年(平成25年)5月、本殿遷座祭、島根、google画像)

(解説) 出雲大社(いずもたいしゃ、いずもおおやしろとも)は、島根県簸川郡(ひかわぐん)大社町杵築(きづき)東に鎮座する旧官幣大社で、地の神、大国主命を祀っています。大国主神の国譲りを喜んだ天の神、天照大神(伊勢神宮)が、その望みをいれて壮大な社殿を建て、天穂日命(あめのほひのみこと)を仕えさせたという。社殿は大社造(たいしゃづくり)と称し、日本最古の神社建築の様式です。延喜式内の名神大社、出雲国の一宮、全国出雲神社(1171社)の総本社で、縁結び、開運(福)、農耕の神として信仰されています。出雲大社ご案内(出雲大社社務所、島根): http://www.izumooyashiro.or.jp/guide.html

 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

○ 因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ、素兎とも、大国主命の救助、鳥取)

 出雲神話の一つで、古事記には、淤岐島(おきのしま)から因幡国(いなばのくに、鳥取県の東部)に渡るため、白兎(しろうさぎ)が海の上に並んだ鰐鮫(わにざめ)の背を欺(あざむ)き渡ったが、最後に鰐鮫に皮を剥ぎ取られ、八十神(やそがみ)の教えに従って潮に浴したためにかえって痛み、苦しんでいるのを大国主命(おおくにぬしのみこと)が救ってやりました。その結果、兎(うさぎ)の予言通り、大国主命は兄弟の八十神(やそがみ)たちをさしおいて、八十比売(やがみひめ)をめとったという。山陰本線白兎駅(鳥取県)の近くに白兎神社があります。 白兎海岸(神話の神々に出会う旅、小林晴明、宮崎みどり、島取): http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/coramu1/inaba.html

 唱歌大黒様  作詞:石原和三郎、 作曲:田村虎蔵
 1.大きな袋を肩にかけ 大黒様(だいこくさま)が来かかると
   ここに因幡の白兎(しろうさぎ) 皮をむかれて赤はだか

 2.大黒様はあわれがり きれいな水に身を洗い
   蒲(がま)の穂綿にくるまれと よくよく教えてやりました

 3.大黒様の言うとおり きれいな水に身を洗い
   蒲(がま)の穂綿にくるまれば 兎は元の白兎

 4.大黒様はだれだろう 大国主(おおくにぬし)のみこととて
   国をひらきて世の人を たすけなされた神様よ

○ 玉造温泉(たまつくりおんせん、神の湯、島根)と勾玉(まがたま)

 玉造温泉(たまつくりおんせん、神の湯)は、島根県の北東部、八束(やつか)郡玉湯(たまゆ)町玉造、宍道湖(しんじこ)南岸に湧く(50~72℃)、ナトリウム・カルシウム・硫酸塩・塩化物泉(含食塩石膏ボウ硝塩泉?)です。古来、奈良時代から知られ、療養客出雲大社参拝客宿泊が多いという。 玉造温泉(公式ホームページ、玉造温泉旅館協同組合); http://www2.crosstalk.or.jp/onsen/onsen/index.html

 玉造温泉周辺では、勾玉(まがたま)など玉類を産しました。華仙山(かせんざん)はメノウ(瑪瑙、主成分は膠状ケイ酸、石英など)産地、特産に布志名(ふじな)焼があります。出雲玉作跡(史跡公園)があり、玉作湯神社は多数の玉出土品を蔵しています。勾玉(まがたま、曲玉、まがりたま、とも)は、古代、古墳時代、装身具の一つで、副葬品にも供せられました。

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日本列島の火山帯とプレート(地震と火山帯が横たわる日本列島、google画像)

(解説) 日本の温泉(25℃以上、または溶存物質総量が1kg中に1000mg(1g)以上含有するもの)は、火山帯の地域に多く分布しています。日本列島の火山帯は、主として、活火山、休火山、及び比較的新しい死火山などが分布する帯状の地域です。東日本火山帯と西日本火山帯とに二大別され、さらに細分して那須火山帯、冨士火山帯、白山火山帯などと呼んでいます。 玉造温泉(たまつくりおんせん、島根)と近くの皆生温泉(かいけおんせん、鳥取)は、白山火山帯(狭義の大山火山帯)に属する温泉と思われます。

○ 白山火山帯(大山火山帯とも)、白山山麓の温泉と噴泉塔(中宮温泉、岩間温泉、岩間噴泉塔、白山温泉など)、とは(2014.1.14): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-5160.html 

 私は、1972年(昭和47年)6月12日、家内(尊子)と出雲大社を参拝、日御碕の灯台とウミネコを眺め、玉造温泉へと旅したことがあります。神の国、壮大な出雲大社、ウミネコの声、玉造温泉のお土産店で見た天然メノウ碁石など強く印象に残っています。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 北陸中日新聞東京本社サンデー版編集部(石川徹也担当): 日本の神々、2005年(平成17年)2月13日(日)、朝刊より.

(参考資料) 天然メノウ碁石(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%80%80%E7%A2%81%E7%9F%B3&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ 日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと、男神)は、天上の国、高天原(たかまのはら、たかまがはらとも)にいる天つ神(あまつかみ)の命を受け伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)と共に初めてわが国土や神を生み、山海・草木をつかさどりました。伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)は、火の神を生んだために死に、夫神と別れて黄泉国(よみのくに、冥土、めいど)に住むようになりました。

 その子供、素戔嗚尊(すさのおのみこと、男神)は、天照大神(あまてらすおおみかみ、女神、伊勢神宮)の弟ですが、凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こし、高天原(たかまのはら)から追放され、出雲国(島根)で八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じました。また、新羅(しらぎ)に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。 

 出雲国の主神、大国主命(おおくにぬしのみこと)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子とも六世の孫ともいう。少彦名神(すくなびこなのかみ)と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に譲って杵築(きずき)の地に隠退し、現在、出雲大社に祀っています。(広辞苑より) 天孫降臨(てんそんこうりん、神々の降臨):http://inoues.net/mystery/gods.html

○ 日本神話天の岩屋戸事件(あまのいわやとじけん)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の暴状を怒り天の岩戸に籠もったため、天地が常闇(とこやみ)となりました。群神が相談して、種々のものを飾り、天児屋根命(あまのこやねのみこと)が祝詞を奏し、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞ったところ、大神が出てきて、世が再び明るくなりました。北半休で冬至に太陽の力が弱まり復活する型の神話です。(広辞苑より) 

 旧暦10月を、神無月(かんなづき、かみなづきとも)という。この名の由来については、最も一般的な解釈は、全国の神さまが出雲に集まって地方にいなくなるからという。なぜ10月に集まるかというと、10月26日が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の命日で、神様がこぞって酒造りをするという(地方によっては、縁結びの相談だというところもある)。地方出発は9月30日で帰京が10月30日と、細かい日程まで分かっている地方も多い。おかげで、出雲地方だけは、この月を神有月(かみありつき)といっています。(生活歳時記より)

○ 皆生温泉(かいけおんせん)は、1900年(明治33年)に発見された鳥取県の西部、米子市北部、弓ヶ浜の美保湾岸に湧く(80~90℃)、塩化土類、硫酸塩を含む食塩泉です。砂丘に森林が続き、隠岐や大山(だいせん)を遠望できます。

○ 日御碕(ひのみさき)は、島根半島の北西端、島根県簸川(ひかわ)郡にある岬です。高さ44mの灯台があります。付近の経島(ふみしま)は、ウミネコ(天然記念物)の繁殖地で、天然記念物に指定されています。

○ 遺跡に見る「神(カミ)と国家」については 人々は古代から、心の「よりどころ」を求めています。病気や不作など、心配ごとは絶えず、天変地変や外敵の脅威も逃れたい。だから人知を越えたものを創案し、神(カミ)と呼びました。その神(カミ)が「古代国家の成立に関係している」という学説が広瀬和雄教授(歴史民族博物館)より提唱されました。

 「自然神の神(カミ)は弥生時代に豊作を保障するものとして登場し、やがて亡き首長(王)が神(カミ)とされるようになった。その神(カミ)の座所として、前方後円墳前方後方墳がつくられるようになった」と、近著「カミ観念と古代国家」(角川学芸出版)で述べています。 

 前方後円墳の後円部は、方形と円形の二つの区画から成っています。古来、中国では、大地は人の住む世界を方形で表します。「亡き首長が眠っているのがその方形の区画の部分で、前首長が神(カミ)になった空間である円形で、ここで神(カミ)に昇華した」とみています。 そして、軍事、外交とイデオロギー的一体性で保たれ、大和政権が運営した首長層の利益共同体を「前方後円墳国家」と呼ぶ。こうした体制は3世紀には整ったとみています。(2011年(平成23年)1月23日(日)、朝日新聞、朝刊より) 

○ 日本の神々の中で、民族の神自然崇拝と祖先崇拝)については、古来、火山噴火や地震・津波などの自然災害の多い日本列島に住む人々は、山や海、川から恵みを得て生活していく中で、自然を畏怖し、自然そのものを「」として崇拝していました。やがて、田畑の開墾(かいこん)が広がると、祖先霊(氏神産土神、鎮守神とも)を「山の神」と考えました。春には「田の神」として里に降りて作物の豊作をもたらし、収穫後の秋には山に戻ると信じるところも多くなりました。「道祖神(どうそじん)」は、集落の外部から侵入してくる疫病(えきびょう)や災害などをもたらす悪霊などを防ぐために村境などに祀られます。「海の神」は、海洋を支配する神で、海上交通の守護神となっています。 (2005年(平成17年)2月13日(日)、北陸中日新聞、朝刊より)

○ 日本国家は、外国からの渡来の弥生人(朝鮮からの渡来人など)が、日本の土着の縄文人(土着倭人、アイヌ人など)を征服してつくった国家という。この建国の経過の事情が国譲りの神話などの形で語られているのではなかろうか? 砂鉄の産地としての出雲: http://homepage2.nifty.com/kodaijin-tamat/index.files/satetunomichi.htm

 ところで、弥生時代前期は、刃物として石器が使われ、中期になると朝鮮半島(百済、くだら)から鉄がもたらされ、鉄器の生産が始まりました。後期には鉄器が全国的に普及し、石器のほとんどが姿を消しています。鉄器は工具から農具という展開を見せ、農耕に飛躍的な発展をもたらす一方、武器としても用いられました。 

2010年7月 9日 (金)

医王山(石川)のふもとに湧き出る湯涌温泉と霊験あらたかな医王山の水、医王石(石英閃緑ひ岩)、とは(2010.7.9)

   医王山(いおうぜん)は、石川と富山の県境に位置し、白山山地の最北端の山で、金沢市の郊外の東方にあり、奈良時代、養老年間(717~724年)、白山の開祖、越の大師、泰澄大師(たいちょうだいし)、682年~767年(神護景雲元年)によって開かれ、かっては台密(たいみつ、天台密教)の霊場として隆盛を極めていた、と伝えられています。医王山は、最高峰を奥医王(標高939m)とする山群で、流紋岩質(りゅうもんがんしつ)緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)類からなり、植物は600種をこえ、そのうち薬草は約120種、薬石(医王石)などの宝庫として有名です。

医王山(いおうぜん、白兀山、しらはげやま、奥医王、おくいおう(標高939m)、キゴ山など含む、手前は卯辰山、うたつやま、その右は金沢城の石垣の採石場となった戸室山、とむろやま(標高548m)、さらに手前は金沢中心街、新石川県庁(鞍月、くらつき、金沢)、19階展望ロビー(地上約80m)より、google画像)

(解説) 医王山(いおうぜん)は、流紋岩質の緑色凝灰岩が主に分布し、一部に流紋岩の溶岩をはさんでおり、中新世前期(約1800~2000万年前)の火山活動によってつくられた火山岩や火山砕せつ岩(かざんさいせつがん)、すなわち、医王山火砕岩層からできています。溶岩の青灰色を青戸室、噴火の際の酸化作用で赤色になったものを赤戸室と言い、金沢城の石垣にも利用されています。これは岩石の中の鉄成分の原子価が、Ⅱ価からⅢ価へ変化したことによると思います。

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湯涌温泉街(ゆわくおんせんがい、湯涌、金沢、google画像) 湯涌温泉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B6%8C%E6%B8%A9%E6%B3%89

(解説) 医王山のふもとの標高400mの高原に、718年(養老2年)、里人が羽根を痛めた白鷺(しらさぎ)が湧き出る湯で傷をいやしているのを見て発見したと伝えられ、藩政時代には、加賀藩主のかくし湯治湯(とうじゆ)でもあった湯涌温泉(ゆわくおんせん)があり、大正の初め、ドイツで開かれた万国鉱泉博覧会で、世界三大名泉の折り紙がつけられています。

 また、医王山の中腹には、八幡神社(日吉神社)があり、その裏山に古くから万病に効く有名な霊験あらたかな、医王山の水が湧き出しており、かっては神社境内までポンプで水が引かれ、一般市民に飲料水として提供されていました。

 水質(1994年)は、pH7.5、カルシウムイオン8.4ppm、マグネシウムイオン4.3ppm、ナトリウムイオン7.5ppm、カリウムイオン3.9ppm、重炭酸イオン38.9ppm、塩化物イオン9.5ppm、硫酸イオン2.6ppm、硝酸イオン4.7ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率で100万の中の1の割合にあたる非常に少ない量です。

 水質(1994年、ヘキサダイヤグラム解析図)は、浅い地下水に分類されるカルシウムイオンー重炭酸イオン型とよく似ていました。(用語解説、各種イオン、ヘキサダイアグラム解析含む): http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html.)

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医王石(いおうせき、緑色、医王山、金沢市、石川、google画像)

(解説) 医王山の水が湧き出している所には、一般に医王石と言われる石英閃緑ひ岩(せきえいせんりょくひがん)の岩盤地帯があり、岩はミルク色がかった緑色で、水を吸収しやすい特性を持つので、この山の水は岩盤の間を通る間に、カルシウム、ナトリウムなど岩の成分を溶解しながら不純物が濾過(ろか)され、地表へは蒸留水に似た無菌状態で流れ出ると言われています。このため水は長期保存しても腐敗せず、味もまろやかでした。

○ 1983年(昭和58年)~1986年(昭和61年)、湯涌温泉の温泉水、医王山の霊水と岩石の成分を調べ、それらのつながりを調べました。

 湯涌温泉泉温は、33~34℃、pH7.85~7.96,蒸発残物量(じょうはつざんりゅうぶつりょう、mg/l、ppm)は、2891~2912でした。一方、医王山の湧水は、水温6~13℃、pH6.65~7.62、蒸発残物量(mg/l、ppm)は、35~86でした。

 泉温は、温泉水は30℃を越えていますが、湧水は10℃前後と低い山の水でした。水のpHは、温泉水と湧水では大きな差はなく、中性から弱アルカリ性ですが、蒸発残留物量は湧水の場合、温泉水に比べ著しく少なかったです。これらを光学顕微鏡で観察したところ、温泉水の蒸発残留物では、塩化物と硫酸塩の針状結晶が、湧水の蒸発残留物では無機塩以外に藻類らしきものが少し見られました。

 湯涌温泉(湯及出旅館)の泉質は、含石膏(がんせっこう)弱食塩泉であり、医王石は、日本の代表的な標準岩石(JG-!, Granodiorite、花開閃緑岩)類似、湧き水は溶解成分の少ない淡水でした。特に、温泉水には、ストロンチウム、ルビジウム、臭素(しゅうそ)などの元素が検出されましたが、湧き水には全く検出されませんでした。医王石では、ストロンチウム、ルビジウムは検出されましたが、臭素は検出されませんでした。

 ということで、湯涌温泉と医王山の湧水中の大部分の成分が、医王石の壁岩からの溶出に由来し、その際、泉温が大きな因子になっていることは、温泉と湧水の蒸発残留物量からも明らかだと思います。

 現在、医王山は、石川と富山の両県において、県立自然公園に指定されており、特に、石川県では、医王山県立自然公園(1996年)として、医王山スポーツセンター、医王山ビジターセンター、キャンプ場、スキー場など整備され、一般市民にはよい憩いの場所となっています。

(参考文献) 人文社観光と旅編集部: 郷土資料事典(石川県、観光と旅、県別シリーズ22)、人文社(1967); 北国新聞朝刊: 霊水ブーム、医王山のわき水、1983年、5月21日(土); 石川県温泉開発研究会編: 温泉の開発、No、14、22(1972); 絈野義夫: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、築地書館(1979); 本浄高治: 医王山の麓に湧き出る湯涌温泉と湧水の溶存成分について、温泉工学会誌、21巻、p.50~55(1987); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.117~118、日吉南賀子、医王山と戸室山、裳華房(1997).

(参考文献) 医王山(いおうぜん、金沢市、石川): http://www.sakane.net/kanazawa/iouzen/iouzen.htm

ゆわく(金沢の奥座敷、湯涌温泉観光協会、湯涌町、金沢): http://www.yuwaku.gr.jp/

 医王石(いおうせき、原石、金沢、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8C%BB%E7%8E%8B%E7%9F%B3%E3%80%80%E5%8E%9F%E7%9F%B3&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

○ 金沢城の石垣と戸室石(戸室山、金沢)、石曳き(運搬の再現、金沢城三の丸)、野面積み(本丸北面石垣)、打込接ぎ(本丸南面石垣)、切込接ぎの石垣(石川門枅形東面石垣)、とは(2010.7.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/102.html

 金沢の水(金沢市企業局、石川): http://www2.city.kanazawa.ishikawa.jp/web/kanazawawater/index.html

○ 兼六園の中の名水、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水、金沢市内の湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2009.6.7): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b450.html

2009年10月22日 (木)

道後温泉(伊予、愛媛)と坊ちゃん(松山)にまつわる歴史秘話、神之湯、漱石、子規との交遊、松山城、私の囲碁はじめ、とは(2009.10.22)

  道後温泉(伊予、愛媛)、白浜温泉(紀伊、和歌山)、有馬温泉(但馬、兵庫)は、古代(奈良時代)、古事記、日本書紀、風土記などにも登場、日本三古湯(にほんさんことう)と呼ばれています。

 古来、伊予(いよ)の国は、東西に区分し、道前西道後と呼んでいました。伊予由来は、道後温泉のイデユ(出で湯)がイユとなり、さらに音が転化して、イヨになったとも伝えられています。 また、愛媛(えひめ)のは、四国の国生み神話(古事記)、伊予の国を愛比売(エヒメ)と呼んだことに由来しています。

愛媛(伊予、松山)名の由来、古事記に伊予国を愛比売という、是すなわち湯姫なり、とは(2012.11.18):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/kagakufudoki300.html.

 道後温泉は、1960年(昭和35年)頃、神之湯(かみのゆ)、椿の湯白鷺の湯があり、入浴の時にタオルを借りると、温泉マーク入りの小さな楕円形の石鹸が貰えました。温泉水は、ラドンを含む弱アルカリ性単純泉で、入浴後は皮膚がつるつるになり、なかなか湯冷めがしないので、疲れた身体をよく癒しました。温泉に含まれているラドンはラジウムの崩壊からできる希ガスなので、ラジウム温泉とも言われています。

 また、道後温泉は、中央構造線断層割れ目に雨水がしみ込み、地下のマグマに温められ湧き出している、と言われています。日本列島の大断層、中央構造線の近くにある、白浜、竜神、道後、別府など、地下の泉脈に何か共通点があるのではないかと思います。

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道後温泉本館(道後湯之町、松山、愛媛、 本館正面、神之湯入り口、 下 本館3階、坊っちゃんの間、あだ名のついた松山中学教師、漱石と漱石夫人の見合い写真) 道後温泉物語(道後温泉旅館協同組合ホ-ムページ、松山、愛媛): http://www.dogo.or.jp/pc/honkan/

 ところで、夏目漱石(1857~1916)は、小説坊ちゃんの中で、ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ、と言っています。その道後温泉本館は、1894年(明治27年)に建造された、3層楼本陣風の建築です。1階は神之湯という大衆浴場、2階は神之湯に通じる広間、3階は霊之湯(たまのゆ)という上客の浴室休憩室があります。3階の個室には、漱石ゆかりの、坊ちゃんの間があり、当時の松山中学校の教師の写真が、あだ名をつけて飾られています。さらに上には、振露閣(しんろかく)という太鼓楼があり、朝夕6時には時を告げる太鼓が鳴ります。

 坊っちゃんは、1906年(明治39年)4月号の、ホトトギスに発表されました。夏目漱石は、1895年(明治28年)4月から翌年4月まで、松山の愛媛県尋常中学校(のち松山中学、松山東高等学校)の英語教師でした。この時の体験を基にして、正義派の江戸っ子教師、坊っちゃんの痛快な活躍ぶりを描いています。この事実と小説坊っちゃんとを単純に結びつけ、一般に、漱石の松山生活の大部分は、坊っちゃんに描かれた通りだと思い込まれる時期があったようです。

 愛媛県の初代県令(のちの知事)、岩村高俊(1845~1906、もと土佐藩士)は、伊予松山藩校、明教館跡(一番町、松山)に英学校を設けましたが、やがて松山中学校となりました。正岡子規(1867~1902)は、1880年(明治13年)に松山中学校に入学、1883年(明治16年)退学、上京して共立学校に入っています。

 ところで、漱石子規は、同い年の1867年(慶応3年)生まれ、漱石は江戸(牛込)の名主の五男(本名、金之助)、子規は伊予松山藩の下級武士の長男(本名、常規)、共に1884年(明治17年)、17才、東京大学(のち東京帝国大学)の予備門(第一高等中学校)に入学、1890年(明治23年)、23才、漱石は文科大学の英文科、また子規は文科大学の哲学科(翌年国文学科に転科)に入学しています。この頃、漱石と子規は、急速に親しくなり、文学論、俳句、短歌、小説について語り合っていたそうです。

 また、漱石、子規と東京の第一高等中学校で同級生となり、東京帝国大学(哲学科)、大学院と進み、学業半ばの28才で病死した、2人の文学への進路に大きな影響を与えた、米山保三郎(1869年、明治2年、生まれ、加賀藩算用者、三男、金沢)がいます。米山は、漱石の作品、吾輩は猫であるでは、天然居士のモデルとなっています。

 1892年(明治25年)、25才、子規は大学を中途退学、日本新聞社入社、1895年(明治28年)、28才、新聞記者として日清戦争への従軍が許可され、金州城にに入り、講和が成立し帰国となるのですが、帰途中船上で喀血(結核)、上陸後2ヶ月ほど神戸病院に入院しました。

 漱石は、1895年(明治28年)、28才、松山中学校で1年間英語の教師を務めていました。また、子規は、この年の8月下旬から50日間、療養のために松山に帰省、漱石の下宿(愚陀佛庵、二番町、松山、漱石の俳号とも)に同居し、松山や校外の散策を楽しみ、多くの俳句を残しています。この時、俳人、柳原極堂(1867~1957)は連日のように漱石の下宿を訪れ、子規の指導を受けています。

  子規は、1898年(明治31年)、31才、和歌革新を提唱(歌よみに与ふる書、人々に答ふ、日本新聞に掲載)、1902年(明治35年)、35才の時、病状が悪化、足の甲に水腫ができ、9月14日の朝の作品を、高浜虚子に口述筆記してもらい、19日に死去しました。子規の墓地は、大龍寺(北区田端、東京)にあります。

 ほととぎす(のちホトトギス)は、俳句雑誌で、1897年(明治30年)1月に松山で、正岡子規の友人、俳人、柳原極堂によって創刊され、翌年の10月から高浜虚子(1874~1959)に受け継がれて東京で発行されました。

 その後、正岡子規を中心とする日本派の写生俳句(柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺、事物の簡潔描写)、蕪村の俳句(菜の花や月は東に日は西に)を賞揚、及び写生文の牙城となりました。誌名は正岡の俳号、子規(ほととぎす)によるものです。子規は生涯に約24000句、また漱石は2600句(熊本での約1000の句作含む)と多くの俳句を作っています。

 この雑誌には、漱石が、1905年(明治38年)1月、38才の時、高浜虚子のすすめで、小説、吾輩は猫であるをはじめてホトトギスに発表、いちやく有名になりました。また、翌年の1906年(明治39年)4月、39才の時、坊っちゃんの小説を、同じホトトギスに発表しています。この時、漱石は東京帝国大学及び第一高等学校の英語の講師でしたが、松山を離れて10年、また4年ほど前に亡くなった、子規との交遊の思いも込めて、この二つの作品を発表したのではないかと思いました。

 小説の中では、坊っちゃんは物理学校(のち東京理科大学)出身の数学の教師、漱石自身は英語を教えていましたので、その後、坊っちゃんのモデルは弘中又一(1873~1938、山口生まれ、同志社で3年半ほど学び、漱石より少し遅れて、数学の助教諭として着任)ではないか、と言われています。現在もなお、モデルとされたと信じる元教師たちの発言、様々な憶測もあって、坊っちゃん神話、伝説は尽きないようです。

 坊ちゃんのモデルとなった弘中又一は,松山中学から東予分教場(のちの西条中学)に転任しましたが在職8カ月で依頼免となり、そのあと徳島第二分校(のちの富岡中学)を経て埼玉県の熊谷中学に転任しています。松山ではシッポクうどん四杯を平らげて数え唄にうたわれたように,転任先でも奇行を演じたと言われています。

 漱石は、1896年(明治29年)4月、29才の時、熊本の第五高等学校の英語の教授に転任、1900年(明治33年)9月、英国留学、1903年(明治36年)1月、帰国した後、第五高等学校を退職して上京、1905年(明治38年)38才、東京大学と一高の英語の講師となっています。

 この時、松山を離れて10年、漱石の名を世に知らしめる基となった、名作、吾輩は猫である、坊っちゃんの作品を、虚子がすすめたホトトギスに発表、漱石の子規と松山との得(え)も言われぬご縁を感じる次第です。

 松山中学には、漱石在職中、教師あだ名数え歌がう謡われていました。

一つとや ひとつ弘中シッポクさん 数学弘中又一先生 (坊ちゃん)
二つとや ふたつふくれたブタの腹 英語西川忠太郎先生
三つとや みっつみにくい太田さん 漢学太田厚先生
四つとや よっつ横地のゴートひげ 教頭横地石太郎先生(赤シャツ)
五つとや いつつ色男中村さん 歴史中村宗太郎先生(鈴ちゃん)
六つとや むっつ無理いう伊藤さん 体操伊藤朔太郎先生
七つとや ななつ夏目の鬼瓦 英語夏目漱石先生
八つとや やっつやかしの本吾さん 植物安芸本吾先生
九つとや ここのつこっとり一寸坊 物理中堀貞五郎先生
十とや じゅうでとりこむ寒川さん 会計係寒川朝陽

 夏目鬼瓦は,夏目先生の顔のアバタ(疱瘡あと)説、むずかしい顔をいつもしていたので近寄りにくかったという説があります。 

 坊っちゃんモデル弘中先生は、松山では、シッポクうどんを4杯平らげて、一つ弘中シッポクさん、と謡われています。

 なお、教頭横地石太郎先生(赤シャツ)は、金沢出身の説とされていますが、弘中、横地は退職して、京都に住んでいたことがあり、横地の菩提寺は関連する相国寺承天閣美術館(京都市)で、「坊ちゃん」の「書入本」の現物が70年ぶりに確認され、そこには、物語の要所要所に、それぞれの記述の後に、「弘中記」「横地記」と添えられていました。赤シャツが登場する場面では、弘中が赤シャツは当時の流行で、横地以外の教師も着ていたことから、横地説に疑問を投げかけています。一方、坊ちゃんが赤シャツらと釣りに出かける場面では、横地が実際に漱石と釣りに出かけ、漱石が初めて小魚を釣り上げて自慢した想い出を回想しています。(2016.9.10(土)、北陸中日新聞)

校長  住田昇先生 (校長の狸)
数学 

渡辺政和先生(山嵐)

 小説坊っちゃんには、うらなり(古賀先生、英語)、のだいこ(吉川先生、画学)、マドンナ(遠田ステ、松山女子校、のち松山東雲学園)というあだ名の先生方が登場しています。

 坊っちゃんの発表から1年後、漱石は、1907年(明治40年)、40才の時、池辺三山の訪問を受け、朝日新聞入社を決意、虞美人草を執筆、本格的な作家活動を開始します。

 その後、三四郎それから行人など話題作を次々と発表しますが、46才の時、強度の神経衰弱となります。 その翌年、1914年(大正3年)4月、47才、漱石は、先生の遺書(のち、こころと改題)を発表しますが、9月、4度目の胃潰瘍発症、そして、1916年(大正5年)、49才、4月に糖尿病併発、5月、明暗は未完で連載中止、11月、胃潰瘍再発、病状悪化、12月9日、胃潰瘍により死去しました。 漱石の墓地は、雑司ヶ谷霊園(豊島区、東京)にあります。

 人間の孤独の問題、利欲に満ちた現実社会と相容れない精神の問題、愛の問題、財産の問題、生と死の問題等々を上げてゆくと、こころの作にある問題はすでに、坊っちゃんにも出ており、一見対照的な両作品の基底には、まぎれもなく同じ漱石が存在しているという事実に突き当たらざるを得ないのである。(平岡敏夫氏解説より)

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加藤嘉明(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E

 1603年(慶長8年)、加藤嘉明(1563~1631、賤ヶ岳の戦いで活躍、七本槍の一人)が、孤立丘陵の勝山の頂上に築城し、松山城(まつやまじょう)と命名、これを取り巻く城下町が発達しました。勝山には、松、杉、檜(ひのき)などの常緑樹が多く、松山(まつやま)の名は嘉名(かめい)でもあり、松の繁る山という植物景相の上から名付けられたものであろう、と言われています。

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ライトアップされた松山城(丸の内、標高131.7m、松山、愛媛) 松山城(ホ-ムページ、松山市、伊予鉄道株式会社、松山、愛媛): http://www.matsuyamajo.jp/

 伊予松山藩の歴代藩主は、加藤家(初代、外様)22万石、蒲生家(初代、外様)20万石、松平(久松)家(初代~15代、譜代)15万石と、城主が変わるたびごとに石高が減り、明治維新に至っています。

 近代俳句の創始者、正岡子規(1867~1902)は、1895年(明治28年)、ふるさとの松山に帰った時、春や昔 十五万石の 城下哉(かな)、という句を作っています。また、松山や 秋より高き 天守閣、と松山城の天守閣を詠んでいます。

 私は、徳島(阿波高校、卒業)から愛媛へ(愛媛大学文理学部、進学)、1960年(昭和35年)4月~1964年(昭和39年)3月、松山中学校(のち松山東高校、持田町へ移転)、 すぐ近くに松山高等学校(のち愛媛大学文理学部)近く、歩いて5分足らず、道後温泉には徒歩30分足らずの此花町(松山)に下宿していました。

 その下宿(松本宏様方、隣で食事、堀内正敏様方、ここで下宿しておられた同郷の母親の知人、先輩の多富弘之様の紹介による)の2階の窓から眺めた、ライトアップされた美しい松山城の光景が、今でも懐かしく思い出されます。

 また、囲碁に興味を持ち、日本棋院愛媛県支部(小山久良師範、7段)、大学の囲碁部、市内の碁会所などで腕を磨き、2段まで上達しました。初段から2段までの碁の免状は、小山久良師範のご推薦(試験碁含む)によるものです。 

 この頃の体験が、1964年(昭和39年)4月、愛媛から京都へ(京都大学大学院理学研究科、進学)、1969年(昭和44年)4月、京都から金沢へ(金沢大学理学部、就職)、その後の人生において大いに役立ちました。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977年); 愛媛県高等学校教育研究会社会部会編: 新版 愛媛県の歴史散歩、山川出版社、1版2刷(1994); 西川宣雄: 夏目漱石と金沢の人、米山保三郎(文学分野)、平成15年度 石川県民大学校大学院、石川の博士論文集、p.84(2003); 夏目漱石: 坊ちゃん、第109刷、岩波書店(2008). 

(参考資料) 坊っちゃんのモデル(あだ名数え唄、伊予歴史文化探訪、よもだ堂日記、伊予三津浜、愛媛): http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-476.html

子規記念博物館(松山市): http://sikihaku.lesp.co.jp/

伊予松山藩: http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku/matuyama.html

愛媛大学(ホームページ): http://www.ehime-u.ac.jp/

(追加説明) ○ 加藤嘉明は、三河(愛知)生まれ、豊臣秀吉に属し、1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いでは、七本槍の一人、のち淡路国を領し、水軍を率いて朝鮮出兵に従いました。1595年(文禄4年)、伊予6万石、関ヶ原の戦後、20万石に加増、1603年(慶長8年)41才、築城なった松山城に移りました。1627年(寛永4年)65才、会津(福島)40万石に増転封しています。

 加藤家の後に、1627年(寛永4年)24才、出羽上山(山形)4万石の蒲生忠知が、16万石加増されて、伊予松山20万石に移封します。ところが嫡子ができず蒲生家は断絶します。

 蒲生家の後に、1630年(寛永12年)49才、伊勢桑名(三重)4万石の松平(久松)定行が11万石加増されて伊予松山15万石の藩主となり、その後15代まで家系は続き、明治維新に至りました。

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正岡子規(1867~1902、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F

○ 正岡子規(享年35才)、辞世の3句は、糸瓜咲て痰のつまりし仏かな、痰一斗糸瓜の水も間にあはず、をとゝひのへちまの水も取らざりき、

 これら糸瓜を詠んだ句より、子規の忌日9月19日を糸瓜(へちま)忌と言い、また、雅号の一つから、獺祭(だっさい)忌とも言います。

○ 時鳥(ほととぎす)は、子規、不如帰、杜鵑、杜宇、蜀魂などとも書きます。古来、春の花、夏の時鳥、秋の月、冬の雪が四季を代表する詠題とされました。多くは5月中旬頃に渡来し、晩秋までいて南方に渡ります。低山帯から高山の林に棲息し、昼夜別なく、いそがしげに鳴きます。テッペンカケタカ、本尊かけたか、特許許可局など、さまざまに聞きなしています。

 ほととぎすほととぎすとて明けにけり(加賀千代)、ほととぎす声横たふや水の上(芭蕉)、時鳥廁半ばに出かねたり(漱石)

 鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥、この句は、機が熟するまで辛抱強く待とう、の意で、徳川家康の性格を表現、これに対し、鳴かぬなら殺してしまえ時鳥、が織田信長の、鳴かぬなら鳴かしてみしょう時鳥、が豊臣秀吉の性格を表現していると言われています。

○ 江戸の3俳人とは、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶のことですが、正岡子規は、特に、与謝蕪村の句を高く賞揚しました。

 与謝蕪村、1716年(京保元年)~1783年(天明3年)、江戸中期の画家、俳人、大坂摂津の生まれ。本姓は谷口、後に与謝に改姓。俳号、宰鳥・夜半亭、画号、四明・謝寅など。幼児から絵画に長じ、文人画で大成するかたわら、早野(夜半亭とも)巴人(はじん)に俳諧を学び、55歳で夜半亭2世を継ぎ、正風(しょうふう)の中興を唱え、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。俳文、俳句は後に「蕪村句集」「蕪村翁文集」に収められた。著「新花つみ」「たまも集」など。

蕪村の俳句: 春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)、 菜の花や月は東に日は西に、 月天心貧しき町を通りけり、 寒月や門なき寺の天高き、花いばら故郷の路に似たる哉

 小林一茶、1763年(宝暦13年)~1827年(文政10年)、江戸後期の俳人、信濃柏原生まれ、一茶の句: 目出度(めでた)さもちうぐらい也おらが春、雀の子そこのけそこのけ御馬が通る、名月を取てくれろとなく子哉、ともかくもあなた任せの年のくれ、ふるさとや寄るもさわるもばらの花

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夏目漱石(1857~1916、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3

○ 明治の文豪、夏目漱石のペンネーム「漱石」については、「石に枕し、流れに漱(すす)ぐ」という中国の名言に由来しています。この言葉は、もともと隠遁(いんとん)の志を表すものとしてよく用いられますが、「漱石」は「石漱」の誤用であり、わざとこう使うことで、自分の頑固ひねくれぶりを示したと言われています。因みに漱石の本名は、夏目金之助です。

 中国には、次のような故事が伝わっています。西晋の時代、孫楚という男がいた。若いころ、隠遁の志があって、その気持ちを友人の王済に伝えようとして「石に枕し、流れに漱ぐ」というべきところを「石に漱ぎ、流れに枕す」といってしまった。王済が、「流れに枕したり、石に漱いだりできるのだろうか」とからかうと。頑固な孫楚はやりかえした。「流れに枕するのは耳を洗うためであり、石に漱ぐといったのは歯をみがくため」だといった。

 この話から、こじつけの巧みなことの形容として、「漱石枕流」という成語生まれた。わが国で「流石」を「さすが」と読むのも、さすがにうまいことをいった、というところからきているといわれる。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版(1994)より)

○ 日本棋院愛媛県支部小山久良師範、大街道、松山)については、山崎献氏のブログ(けんさん、囲碁往来):http://www.ken-san.jp/yigo/igoourai.html、に当時の様子が目に浮かぶように紹介されています。

 その頃は、高僧の風貌の小野5段もいて、一般の方に指導碁を打っておられました。中園清三少年は、中学生でしたが、囲碁は完成されたようなところがあり、小山師範が少年に、終局の100手ほど前に、その碁を勝ちきる手段を考えるようにと宿題を出し、後日打ち継ぎ、それをひっくり返して打つ勉強をしている、とおっしゃっていたのを覚えています。現在は日本のアマを代表する打ち手としてご活躍中です。

 また、もう一人、野性的で、荒削りな碁を打つ、プロを目指す中学生、太田清道少年が顔を見せていました。現在は、関西棋院のプロ棋士(九段)、現役でご活躍中です。

 また、当時、小山師範には二人の娘さんがいて、上の子は高校生でした。のち、関西棋院の関山利夫九段に嫁ぎ、その子供さんが関山利昭九段で、ご活躍中とのこと、時の流れを痛感する次第です。(棋士紹介関西棋院http://www.kansaikiin.jp/profile/index.html)。

○ 1960年(昭和35年)岸内閣のとき、大学では全学連中心に激しい安保改定反対闘争があり、全国の大学では連日抗議集会がくりひろげられました。

 全学連は、全日本学生自治会総連合(共産党、民青とつながり?)の略で、共産党の指導に反発するグループの独立で、1963年(昭和38年)に3つ(新左翼の3派全学連、第2次ブント(同盟)全学連、中核派など)に、その後、革マル派が加わり4組織に分裂しました。

 1月16日、岸信介首相ら新安保条約調印全権団、米国に出発、全学連主流派学生と警官隊衝突 1月19日、新日米安保条約、行政協定に代わる地位協定がワシントンで調印 5月14日、安保改定阻止国民会議、10万人が第2回国会請願デモ 5月20日、午前零時すぎ自民党が衆議院本会議で新安保条約を単独採決 5月26日、安保改定阻止第16次全国統一行動、空前の国会デモ隊(17万人)が国会議事堂を包囲 5月28日、岸首相、安保問題に関し「声ある声」を批判、「声なき声」に耳を傾けると語る 

 6月4日、安保改定阻止第1次実力行使、国鉄労組など交通部門で早期スト 6月10日、米大統領秘書ハガチーが羽田に到着、デモ隊包囲、16日アイゼンハワー米大統領の訪日延期決定 6月15日、安保改定阻止第2次実力行使、580万人参加。右翼が国会周辺でデモ隊を襲撃。全学連主流派デモ隊は国会構内に突入、警官隊と乱闘。東大生、樺美智子死亡、負傷者多数(6・15事件) 6月19日、33万人の国会包囲デモの中、午前零時、新安保条約自然成立。22日第3次実力行使、620万人参加。23日批准書交換。新日米安保条約発効。岸首相が引退表明。

 7月14日、自民党大会で池田勇人を総裁に選出。15日岸内閣総辞職 7月19日、第1次池田勇人内閣。9月5日、自民党、高度経済成長、所得倍増などの新政策を発表 (戦後史年表 1926ー2006、朝日新聞社(2007)、より)

○ 私は、1960年〈昭和35年)頃、石手寺〈松山)、鹿島〈北条港沖の小島、松山)、また、1961年〈昭和36年)頃、金山出石寺(大洲)を訪れたことがあります。

 そのころ、下宿の窓から眺めた松山城の天守閣、一人で訪れた石手寺の三重塔、下宿先の知人とピクニックで行った北条の鹿島の頂から眺めた瀬戸内の海を走る船の風景などを鉛筆でスケッチし、ぺンで仕上げた絵を郷里の親父に送ったところ、実家の客間に飾ってあったのを覚えています。また、大洲の金山出石寺では、夏に大学の囲碁部の合宿があり、宿坊で丸1日、囲碁三昧を楽しんだことを覚えています。

石手寺(51番札所、松山、愛媛): http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/51ishiteji/index.html

鹿島(松山市北条港沖の小島、ウィキペディア、愛媛): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%B9%BF%E5%B3%B6

金山出石寺〈番外札所、大洲、愛媛): http://www.city.ozu.ehime.jp/life/facilities/ken_kinzan.html

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 中村草田男(なかむらくさたお、1901~1983)、1931年(昭和6年)作、句集「長子」、この句は、麻布の親戚を訪ねての帰途、雪が降りしきる中、20年振りに母校の青南小学校(青山南町)付近を散策中、児童の服装を目にした時、かって、小学校4,5年を過ごした頃を想い出して詠んだものと言う。

松山(愛媛)ともゆかりが深い(吟行ナビえひめ):
http://iyokannet.jp/ginkou/poet/detail/haiku_poet_id/5/

 草田男(本名、清一郎)は、外交官の父が領事をしていた清国廈門(アモイ)にて長男として誕生、3歳で帰国後は松山、東京と転居を繰り返すが、11歳から松山で暮らし、松山中学、松山高校、東京帝国大学へ、のち高浜虚子に入門。世俗を嫌う純粋なまなざしを社会や人間の内面に目を向ける作風で難解派、人間探求派と呼ばれています。なお、正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌、「ホトトギス」の発行は、子規の弟子の高浜虚子(1874~1959、松山、愛媛). に引き継がれています。

○ 高浜虚子(1874~1959)、松山市生まれ。俳誌「ホトトギス」主宰。正岡子規に師事。定型と季語を重視し、客観写生と花鳥諷詠(ふうえい)による俳句を提唱しました。85年間の生涯で20万句を作ったとされています。小説「虹」や「新歳時記」を残したほか、後進の育成にも努めました。芸術院会員。54年に文化勲章を受章しました。

 虚子は1949年(昭和24年)4月に七尾市(石川県)を訪れました。能登地方のホトトギス派有志の招きで、前田利家が築いた城があった小丸山城址公園を散策し、市内で句会が開かれ、その後、和倉温泉(七尾市)の旅館に宿泊した際、七尾湾を眺めて詠んだのが「家持の妻恋船か春の海」という句でした。

 家持は、奈良時代に越中国の国司だった万葉歌人大友家持。748年(天平20年)に当時越中国の一部だった能登を視察し、各地で歌を残しました。七尾湾は船で渡り、能登島などを歌にしました。(北陸中日新聞、2,017年(平成29年)5月12日(金)より)

 正岡子規 未発表5句発見 「歳旦帳」 (2017.8.22)

 生誕百五十年を迎えた俳人の正岡子規(1867~1902年)が、亡くなる前年の正月に詠んだ未発表の五句と墨絵の自画像二点が見つかった。東京・根岸(東京都台東区)の子規庵保存会が8月22日、発表した。子規の家を年賀に訪れた弟子十三人が、名前と俳句、短歌、絵などを記した1901年(明治34年)の「歳旦帳(さいたんちょう)」に無記名で記されていた。

寝後れて新年の鐘を聞きにけり 暗きより元朝を騒く子供哉 うらうらと初日の影や枯木立 初夢や炬燵ふとんの暖まり 留守の戸に名刺投込む御慶かな 

 子規は生涯に二万五千句以上を残した。未発表句は2009年に四句見つかっているが、今回はいずれも子規らしい分かりやすい句。最晩年の交流や句風も分かり、これほど充実した資料が見つかるのは極めて異例という。晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。(北陸中日新聞、2017年(平成29年)8月23日(水)より)

〇 正岡子規、囲碁殿堂入り (日本棋院、2017.10.24)

 日本棋院は、2017年(平成29年)10月24日、第14回囲碁殿堂表彰委員会で、明治の俳人・正岡子規(1867~1902)が、囲碁の発展普及に尽くした功労者として選び、囲碁殿堂入りを決めました。

 野球好きで知られる子規は、2002年(平成14年)に野球殿堂入りしたが、碁好きでもあり、碁にまつわる句を30あまり残している。

 (Link)  正岡子規、囲碁殿堂入り(日本棋院、2017.10.24)、とは(2017.10. 30): http://kanazawa-kuratuki.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-2dc8.html

 

 

2009年7月14日 (火)

白山の麓の岩間の谷底から噴き上がる熱水(岩間噴泉塔)、噴泉塔の表面を色どる藍藻の温泉水浄化、とは(2009.7.14)

  古来、人は、富士山(ふじさん、3776m、静岡、山梨)、立山(たてやま、3015m、富山)、白山(はくさん、2684m、石川、福井、岐阜)を日本三名山と呼んでいます。いずれの山も休火山であり、富士山の近くには温泉も多く、立山の頂上近く、地獄谷には硫黄塔(いおうとう)が噴気を吐き出しており、また、白山の岩間(いわま)の谷底には、噴泉塔(ふんせんとう)の熱水が、勢いよく噴き上っています。

 この岩間噴泉塔が発見されたのは、1829年(文政12年)で、世界的にも珍しい現象として、1957年(昭和32年)、国の特別天然記念物に指定されています。

 白山の北の麓の標高800mの山間に、昔から登山者に親しまれた湯治湯の一つの岩間温泉があります。ここは白山への登山口、楽々新道の起点で、白山室堂へは約14km、10時間の健脚コースとなっています。元湯は岩間温泉から約3.5km登ったところにあり、ここからさらに1.6kmほど山を下った中ノ川谷間噴泉塔があります。この岩間の噴泉塔は最大4mほどの高さを持つ石灰華(せっかいか)の塔で、その先端から高温の温泉水を噴出しています。

 この噴泉塔表面には藍藻類(らんそうるい、高温で生育する単細胞の藍藻)が繁茂して色どりをそえており、かってはその数30本以上で、高さ70~80cm、温度80~100℃のものが多く、高温の湯が噴き上がり、湯煙につつまれている光景はまさに壮観です。

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岩間噴泉塔(1988年(昭和63年)、尾口、石川)

(解説) 岩間噴泉塔群は、新岩間温泉から中の川に沿って約3.5km上流にあります。噴泉塔は、温泉水が噴出してできた釣り鐘状の石灰華(炭酸カルシウム)ですが、比較的低温において結晶したものは方解石(ほうかいせき)であり、一方、高温において結晶したものは方解石とアラゴナイト(霰石、あられいし)の混合物であることが確かめられています。

 岩間噴泉塔(泉温87℃、pH8.30、含重曹・弱食塩泉)の温泉水中の常量および微量成分(ppm、百万分率)として、カルシウム(47.78)、マグネシウム(1.4~5.9)、ストロンチウム(1.92)、ナトリウム、カリウム(24.64)、ルビジウム(0.02)、マンガン(0.11)、鉄(0.19)、アルミニウム、ケイ素、塩化物イオン(310.6)、臭化物イオン(4.23)、硫酸イオン(146.5)などが検出されました。

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岩間噴泉塔の藍藻の顕微鏡写真(左 100倍、 右 400倍、丸い形をした単細胞の藻類が藍藻

(解説) 温泉産の藻類には、藍藻類、緑藻類、接合藻類、鞭毛藻類など13種の藻類が確認されています。噴泉塔の表面で群落を形成している藍藻(風乾試料)には、鉄(84ppm)、マンガン(201ppm)など、温泉水中の成分を取り込み濃縮していることも分かりました。このことは、藍藻が温泉水中の微量重金属の環境汚染が拡がるのを抑えている姿にも見えます

 噴泉塔は、1年間で10~60cmほども生長し、その一生は20数年で、意外に短いようです。噴泉塔の頂上で噴き出している温泉水の噴出が限界に近づくと、頂上部が細く尖(とが)りはじめて塞(ふさ)がり、温泉水も出なくなり、藻類も死滅し、降雨で洗い流されて白い石灰の塔になってしまいます。この噴泉塔も軟らかいため、雪崩(ゆきなだれ)などによって消滅していきます。しかし、川底や川岸の壁の近くで、新しい小さな噴泉塔の誕生が見られます。

(参考文献) 米田勇一: 植物分類地理、第11巻、p.211(1942); 大橋茂: 総合研報化学編、p.90(1955): 石川県温泉開発研究会編: 温泉の開発、14巻、p.22(1972); 絈野義夫編著: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、菊地書館(1979); 本浄高治、畠重康、八田昭夫: 岩間噴泉塔の化学的研究、温泉工学会誌、18巻、1号、p.1-10(1983); 神谷威: 岩間噴泉塔群の調査書(金沢大学教育学部)、p.1-38(1987)、日本海域研究所報告(金沢大学)、19、p.51-71(1987); 本浄高治: 白山山麓の噴泉塔と温泉成分・温泉植物、温泉科学、44巻、33号、p.104-111(1994). 

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