道後温泉(伊予、愛媛)、白浜温泉(紀伊、和歌山)、有馬温泉(但馬、兵庫)は、古代(奈良時代)、古事記、日本書紀、風土記などにも登場、日本三古湯(にほんさんことう)と呼ばれています。
古来、伊予(いよ)の国は、東西に区分し、東を道前、西を道後と呼んでいました。伊予の名の由来は、道後温泉のイデユ(出で湯)がイユとなり、さらに音が転化して、イヨになったとも伝えられています。 また、愛媛(えひめ)の名は、四国の国生み神話(古事記)、伊予の国を愛比売(エヒメ)と呼んだことに由来しています。
愛媛(伊予、松山)名の由来、古事記に伊予国を愛比売という、是すなわち湯姫なり、とは(2012.11.18):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/kagakufudoki300.html.
道後温泉は、1960年(昭和35年)頃、神之湯(かみのゆ)、椿の湯、白鷺の湯があり、入浴の時にタオルを借りると、温泉マーク入りの小さな楕円形の石鹸が貰えました。温泉水は、ラドンを含む弱アルカリ性の単純泉で、入浴後は皮膚がつるつるになり、なかなか湯冷めがしないので、疲れた身体をよく癒しました。温泉に含まれているラドンはラジウムの崩壊からできる希ガスなので、ラジウム温泉とも言われています。
また、道後温泉は、中央構造線の断層の割れ目に雨水がしみ込み、地下のマグマに温められ湧き出している、と言われています。日本列島の大断層、中央構造線の近くにある、白浜、竜神、道後、別府など、地下の泉脈に何か共通点があるのではないかと思います。

道後温泉本館(道後湯之町、松山、愛媛、上 本館正面、神之湯入り口、 下 本館3階、坊っちゃんの間、あだ名のついた松山中学教師、漱石と漱石夫人の見合い写真) 道後温泉物語(道後温泉旅館協同組合ホ-ムページ、松山、愛媛): http://www.dogo.or.jp/pc/honkan/.
ところで、夏目漱石(1857~1916)は、小説、坊ちゃんの中で、ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ、と言っています。その道後温泉の本館は、1894年(明治27年)に建造された、3層楼本陣風の建築です。1階は神之湯という大衆浴場、2階は神之湯に通じる広間、3階は霊之湯(たまのゆ)という上客の浴室休憩室があります。3階の個室には、漱石ゆかりの、坊ちゃんの間があり、当時の松山中学校の教師の写真が、あだ名をつけて飾られています。さらに上には、振露閣(しんろかく)という太鼓楼があり、朝夕6時には時を告げる太鼓が鳴ります。
坊っちゃんは、1906年(明治39年)4月号の、ホトトギスに発表されました。夏目漱石は、1895年(明治28年)4月から翌年4月まで、松山の愛媛県尋常中学校(のち松山中学、松山東高等学校)の英語教師でした。この時の体験を基にして、正義派の江戸っ子教師、坊っちゃんの痛快な活躍ぶりを描いています。この事実と小説坊っちゃんとを単純に結びつけ、一般に、漱石の松山生活の大部分は、坊っちゃんに描かれた通りだと思い込まれる時期があったようです。
愛媛県の初代県令(のちの知事)、岩村高俊(1845~1906、もと土佐藩士)は、伊予松山藩校、明教館跡(一番町、松山)に英学校を設けましたが、やがて松山中学校となりました。正岡子規(1867~1902)は、1880年(明治13年)に松山中学校に入学、1883年(明治16年)退学、上京して共立学校に入っています。
ところで、漱石と子規は、同い年の1867年(慶応3年)生まれ、漱石は江戸(牛込)の名主の五男(本名、金之助)、子規は伊予松山藩の下級武士の長男(本名、常規)、共に1884年(明治17年)、17才、東京大学(のち東京帝国大学)の予備門(第一高等中学校)に入学、1890年(明治23年)、23才、漱石は文科大学の英文科、また子規は文科大学の哲学科(翌年国文学科に転科)に入学しています。この頃、漱石と子規は、急速に親しくなり、文学論、俳句、短歌、小説について語り合っていたそうです。
また、漱石、子規と東京の第一高等中学校で同級生となり、東京帝国大学(哲学科)、大学院と進み、学業半ばの28才で病死した、2人の文学への進路に大きな影響を与えた、米山保三郎(1869年、明治2年、生まれ、加賀藩算用者、三男、金沢)がいます。米山は、漱石の作品、吾輩は猫であるでは、天然居士のモデルとなっています。
1892年(明治25年)、25才、子規は大学を中途退学、日本新聞社入社、1895年(明治28年)、28才、新聞記者として日清戦争への従軍が許可され、金州城にに入り、講和が成立し帰国となるのですが、帰途中船上で喀血(結核)、上陸後2ヶ月ほど神戸病院に入院しました。
漱石は、1895年(明治28年)、28才、松山中学校で1年間英語の教師を務めていました。また、子規は、この年の8月下旬から50日間、療養のために松山に帰省、漱石の下宿(愚陀佛庵、二番町、松山、漱石の俳号とも)に同居し、松山や校外の散策を楽しみ、多くの俳句を残しています。この時、俳人、柳原極堂(1867~1957)は連日のように漱石の下宿を訪れ、子規の指導を受けています。
子規は、1898年(明治31年)、31才、和歌革新を提唱(歌よみに与ふる書、人々に答ふ、日本新聞に掲載)、1902年(明治35年)、35才の時、病状が悪化、足の甲に水腫ができ、9月14日の朝の作品を、高浜虚子に口述筆記してもらい、19日に死去しました。子規の墓地は、大龍寺(北区田端、東京)にあります。
ほととぎす(のちホトトギス)は、俳句雑誌で、1897年(明治30年)1月に松山で、正岡子規の友人、俳人、柳原極堂によって創刊され、翌年の10月から高浜虚子(1874~1959)に受け継がれて東京で発行されました。
その後、正岡子規を中心とする日本派の写生俳句(柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺、事物の簡潔描写)、蕪村の俳句(菜の花や月は東に日は西に)を賞揚、及び写生文の牙城となりました。誌名は正岡の俳号、子規(ほととぎす)によるものです。子規は生涯に約24000句、また漱石は2600句(熊本での約1000の句作含む)と多くの俳句を作っています。
この雑誌には、漱石が、1905年(明治38年)1月、38才の時、高浜虚子のすすめで、小説、吾輩は猫であるをはじめてホトトギスに発表、いちやく有名になりました。また、翌年の1906年(明治39年)4月、39才の時、坊っちゃんの小説を、同じホトトギスに発表しています。この時、漱石は東京帝国大学及び第一高等学校の英語の講師でしたが、松山を離れて10年、また4年ほど前に亡くなった、子規との交遊の思いも込めて、この二つの作品を発表したのではないかと思いました。
小説の中では、坊っちゃんは物理学校(のち東京理科大学)出身の数学の教師、漱石自身は英語を教えていましたので、その後、坊っちゃんのモデルは弘中又一(1873~1938、山口生まれ、同志社で3年半ほど学び、漱石より少し遅れて、数学の助教諭として着任)ではないか、と言われています。現在もなお、モデルとされたと信じる元教師たちの発言、様々な憶測もあって、坊っちゃん神話、伝説は尽きないようです。
坊ちゃんのモデルとなった弘中又一は,松山中学から東予分教場(のちの西条中学)に転任しましたが在職8カ月で依頼免となり、そのあと徳島第二分校(のちの富岡中学)を経て埼玉県の熊谷中学に転任しています。松山ではシッポクうどん四杯を平らげて数え唄にうたわれたように,転任先でも奇行を演じたと言われています。
漱石は、1896年(明治29年)4月、29才の時、熊本の第五高等学校の英語の教授に転任、1900年(明治33年)9月、英国留学、1903年(明治36年)1月、帰国した後、第五高等学校を退職して上京、1905年(明治38年)38才、東京大学と一高の英語の講師となっています。
この時、松山を離れて10年、漱石の名を世に知らしめる基となった、名作、吾輩は猫である、坊っちゃんの作品を、虚子がすすめたホトトギスに発表、漱石の子規と松山との得(え)も言われぬご縁を感じる次第です。
松山中学には、漱石在職中、教師のあだ名の数え歌がう謡われていました。
一つとや |
ひとつ弘中シッポクさん |
数学弘中又一先生 (坊ちゃん) |
二つとや |
ふたつふくれたブタの腹 |
英語西川忠太郎先生 |
三つとや |
みっつみにくい太田さん |
漢学太田厚先生 |
四つとや |
よっつ横地のゴートひげ |
教頭横地石太郎先生(赤シャツ) |
五つとや |
いつつ色男中村さん |
歴史中村宗太郎先生(鈴ちゃん) |
六つとや |
むっつ無理いう伊藤さん |
体操伊藤朔太郎先生 |
七つとや |
ななつ夏目の鬼瓦 |
英語夏目漱石先生 |
八つとや |
やっつやかしの本吾さん |
植物安芸本吾先生 |
九つとや |
ここのつこっとり一寸坊 |
物理中堀貞五郎先生 |
十とや |
じゅうでとりこむ寒川さん |
会計係寒川朝陽 |
夏目の鬼瓦は,夏目先生の顔のアバタ(疱瘡あと)説、むずかしい顔をいつもしていたので近寄りにくかったという説があります。
坊っちゃんのモデルの弘中先生は、松山では、シッポクうどんを4杯平らげて、一つ弘中シッポクさん、と謡われています。
なお、教頭横地石太郎先生(赤シャツ)は、金沢出身の説とされていますが、弘中、横地は退職して、京都に住んでいたことがあり、横地の菩提寺は関連する相国寺承天閣美術館(京都市)で、「坊ちゃん」の「書入本」の現物が70年ぶりに確認され、そこには、物語の要所要所に、それぞれの記述の後に、「弘中記」「横地記」と添えられていました。赤シャツが登場する場面では、弘中が赤シャツは当時の流行で、横地以外の教師も着ていたことから、横地説に疑問を投げかけています。一方、坊ちゃんが赤シャツらと釣りに出かける場面では、横地が実際に漱石と釣りに出かけ、漱石が初めて小魚を釣り上げて自慢した想い出を回想しています。(2016.9.10(土)、北陸中日新聞)
校長 |
住田昇先生 (校長の狸) |
数学 |
渡辺政和先生(山嵐)
|
小説、坊っちゃんには、うらなり(古賀先生、英語)、のだいこ(吉川先生、画学)、マドンナ(遠田ステ、松山女子校、のち松山東雲学園)というあだ名の先生方が登場しています。
坊っちゃんの発表から1年後、漱石は、1907年(明治40年)、40才の時、池辺三山の訪問を受け、朝日新聞入社を決意、虞美人草を執筆、本格的な作家活動を開始します。
その後、三四郎、それから、行人など話題作を次々と発表しますが、46才の時、強度の神経衰弱となります。 その翌年、1914年(大正3年)4月、47才、漱石は、心、先生の遺書(のち、こころと改題)を発表しますが、9月、4度目の胃潰瘍発症、そして、1916年(大正5年)、49才、4月に糖尿病併発、5月、明暗は未完で連載中止、11月、胃潰瘍再発、病状悪化、12月9日、胃潰瘍により死去しました。 漱石の墓地は、雑司ヶ谷霊園(豊島区、東京)にあります。
人間の孤独の問題、利欲に満ちた現実社会と相容れない精神の問題、愛の問題、財産の問題、生と死の問題等々を上げてゆくと、こころの作にある問題はすでに、坊っちゃんにも出ており、一見対照的な両作品の基底には、まぎれもなく同じ漱石が存在しているという事実に突き当たらざるを得ないのである。(平岡敏夫氏解説より)

加藤嘉明(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E.
1603年(慶長8年)、加藤嘉明(1563~1631、賤ヶ岳の戦いで活躍、七本槍の一人)が、孤立丘陵の勝山の頂上に築城し、松山城(まつやまじょう)と命名、これを取り巻く城下町が発達しました。勝山には、松、杉、檜(ひのき)などの常緑樹が多く、松山(まつやま)の名は嘉名(かめい)でもあり、松の繁る山という植物景相の上から名付けられたものであろう、と言われています。

ライトアップされた松山城(丸の内、標高131.7m、松山、愛媛) 松山城(ホ-ムページ、松山市、伊予鉄道株式会社、松山、愛媛): http://www.matsuyamajo.jp/,
伊予松山藩の歴代藩主は、加藤家(初代、外様)22万石、蒲生家(初代、外様)20万石、松平(久松)家(初代~15代、譜代)15万石と、城主が変わるたびごとに石高が減り、明治維新に至っています。
近代俳句の創始者、正岡子規(1867~1902)は、1895年(明治28年)、ふるさとの松山に帰った時、春や昔 十五万石の 城下哉(かな)、という句を作っています。また、松山や 秋より高き 天守閣、と松山城の天守閣を詠んでいます。
私は、徳島(阿波高校、卒業)から愛媛へ(愛媛大学文理学部、進学)、1960年(昭和35年)4月~1964年(昭和39年)3月、松山中学校(のち松山東高校、持田町へ移転)、 すぐ近くに松山高等学校(のち愛媛大学文理学部)近く、歩いて5分足らず、道後温泉には徒歩30分足らずの此花町(松山)に下宿していました。
その下宿(松本宏様方、隣で食事、堀内正敏様方、ここで下宿しておられた同郷の母親の知人、先輩の多富弘之様の紹介による)の2階の窓から眺めた、ライトアップされた美しい松山城の光景が、今でも懐かしく思い出されます。
また、囲碁に興味を持ち、日本棋院愛媛県支部(小山久良師範、7段)、大学の囲碁部、市内の碁会所などで腕を磨き、2段まで上達しました。初段から2段までの碁の免状は、小山久良師範のご推薦(試験碁含む)によるものです。
この頃の体験が、1964年(昭和39年)4月、愛媛から京都へ(京都大学大学院理学研究科、進学)、1969年(昭和44年)4月、京都から金沢へ(金沢大学理学部、就職)、その後の人生において大いに役立ちました。
(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977年); 愛媛県高等学校教育研究会社会部会編: 新版 愛媛県の歴史散歩、山川出版社、1版2刷(1994); 西川宣雄: 夏目漱石と金沢の人、米山保三郎(文学分野)、平成15年度 石川県民大学校大学院、石川の博士論文集、p.84(2003); 夏目漱石: 坊ちゃん、第109刷、岩波書店(2008).
(参考資料) 坊っちゃんのモデル(あだ名数え唄、伊予歴史文化探訪、よもだ堂日記、伊予三津浜、愛媛): http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-476.html.
子規記念博物館(松山市): http://sikihaku.lesp.co.jp/;
伊予松山藩: http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku/matuyama.html;
愛媛大学(ホームページ): http://www.ehime-u.ac.jp/
(追加説明) ○ 加藤嘉明は、三河(愛知)生まれ、豊臣秀吉に属し、1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いでは、七本槍の一人、のち淡路国を領し、水軍を率いて朝鮮出兵に従いました。1595年(文禄4年)、伊予6万石、関ヶ原の戦後、20万石に加増、1603年(慶長8年)41才、築城なった松山城に移りました。1627年(寛永4年)65才、会津(福島)40万石に増転封しています。
加藤家の後に、1627年(寛永4年)24才、出羽上山(山形)4万石の蒲生忠知が、16万石加増されて、伊予松山20万石に移封します。ところが嫡子ができず蒲生家は断絶します。
蒲生家の後に、1630年(寛永12年)49才、伊勢桑名(三重)4万石の松平(久松)定行が11万石加増されて伊予松山15万石の藩主となり、その後15代まで家系は続き、明治維新に至りました。

正岡子規(1867~1902、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F.
○ 正岡子規(享年35才)、辞世の3句は、糸瓜咲て痰のつまりし仏かな、痰一斗糸瓜の水も間にあはず、をとゝひのへちまの水も取らざりき、
これら糸瓜を詠んだ句より、子規の忌日9月19日を糸瓜(へちま)忌と言い、また、雅号の一つから、獺祭(だっさい)忌とも言います。
○ 時鳥(ほととぎす)は、子規、不如帰、杜鵑、杜宇、蜀魂などとも書きます。古来、春の花、夏の時鳥、秋の月、冬の雪が四季を代表する詠題とされました。多くは5月中旬頃に渡来し、晩秋までいて南方に渡ります。低山帯から高山の林に棲息し、昼夜別なく、いそがしげに鳴きます。テッペンカケタカ、本尊かけたか、特許許可局など、さまざまに聞きなしています。
ほととぎすほととぎすとて明けにけり(加賀千代)、ほととぎす声横たふや水の上(芭蕉)、時鳥廁半ばに出かねたり(漱石)
鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥、この句は、機が熟するまで辛抱強く待とう、の意で、徳川家康の性格を表現、これに対し、鳴かぬなら殺してしまえ時鳥、が織田信長の、鳴かぬなら鳴かしてみしょう時鳥、が豊臣秀吉の性格を表現していると言われています。
○ 江戸の3俳人とは、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶のことですが、正岡子規は、特に、与謝蕪村の句を高く賞揚しました。
与謝蕪村、1716年(京保元年)~1783年(天明3年)、江戸中期の画家、俳人、大坂摂津の生まれ。本姓は谷口、後に与謝に改姓。俳号、宰鳥・夜半亭、画号、四明・謝寅など。幼児から絵画に長じ、文人画で大成するかたわら、早野(夜半亭とも)巴人(はじん)に俳諧を学び、55歳で夜半亭2世を継ぎ、正風(しょうふう)の中興を唱え、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。俳文、俳句は後に「蕪村句集」「蕪村翁文集」に収められた。著「新花つみ」「たまも集」など。
蕪村の俳句: 春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)、 菜の花や月は東に日は西に、 月天心貧しき町を通りけり、 寒月や門なき寺の天高き、花いばら故郷の路に似たる哉
小林一茶、1763年(宝暦13年)~1827年(文政10年)、江戸後期の俳人、信濃柏原生まれ、一茶の句: 目出度(めでた)さもちうぐらい也おらが春、雀の子そこのけそこのけ御馬が通る、名月を取てくれろとなく子哉、ともかくもあなた任せの年のくれ、ふるさとや寄るもさわるもばらの花

夏目漱石(1857~1916、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3.
○ 明治の文豪、夏目漱石のペンネーム「漱石」については、「石に枕し、流れに漱(すす)ぐ」という中国の名言に由来しています。この言葉は、もともと隠遁(いんとん)の志を表すものとしてよく用いられますが、「漱石」は「石漱」の誤用であり、わざとこう使うことで、自分の頑固ひねくれぶりを示したと言われています。因みに漱石の本名は、夏目金之助です。
中国には、次のような故事が伝わっています。西晋の時代、孫楚という男がいた。若いころ、隠遁の志があって、その気持ちを友人の王済に伝えようとして「石に枕し、流れに漱ぐ」というべきところを「石に漱ぎ、流れに枕す」といってしまった。王済が、「流れに枕したり、石に漱いだりできるのだろうか」とからかうと。頑固な孫楚はやりかえした。「流れに枕するのは耳を洗うためであり、石に漱ぐといったのは歯をみがくため」だといった。
この話から、こじつけの巧みなことの形容として、「漱石枕流」という成語生まれた。わが国で「流石」を「さすが」と読むのも、さすがにうまいことをいった、というところからきているといわれる。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版(1994)より)
○ 日本棋院愛媛県支部(小山久良師範、大街道、松山)については、山崎献氏のブログ(けんさん、囲碁往来):http://www.ken-san.jp/yigo/igoourai.html、に当時の様子が目に浮かぶように紹介されています。
その頃は、高僧の風貌の小野5段もいて、一般の方に指導碁を打っておられました。中園清三少年は、中学生でしたが、囲碁は完成されたようなところがあり、小山師範が少年に、終局の100手ほど前に、その碁を勝ちきる手段を考えるようにと宿題を出し、後日打ち継ぎ、それをひっくり返して打つ勉強をしている、とおっしゃっていたのを覚えています。現在は日本のアマを代表する打ち手としてご活躍中です。
また、もう一人、野性的で、荒削りな碁を打つ、プロを目指す中学生、太田清道少年が顔を見せていました。現在は、関西棋院のプロ棋士(九段)、現役でご活躍中です。
また、当時、小山師範には二人の娘さんがいて、上の子は高校生でした。のち、関西棋院の関山利夫九段に嫁ぎ、その子供さんが関山利昭九段で、ご活躍中とのこと、時の流れを痛感する次第です。(棋士紹介、関西棋院:http://www.kansaikiin.jp/profile/index.html)。
○ 1960年(昭和35年)岸内閣のとき、大学では全学連中心に激しい安保改定反対闘争があり、全国の大学では連日抗議集会がくりひろげられました。
全学連は、全日本学生自治会総連合(共産党、民青とつながり?)の略で、共産党の指導に反発するグループの独立で、1963年(昭和38年)に3つ(新左翼の3派全学連、第2次ブント(同盟)全学連、中核派など)に、その後、革マル派が加わり4組織に分裂しました。
1月16日、岸信介首相ら新安保条約調印全権団、米国に出発、全学連主流派学生と警官隊衝突 1月19日、新日米安保条約、行政協定に代わる地位協定がワシントンで調印 5月14日、安保改定阻止国民会議、10万人が第2回国会請願デモ 5月20日、午前零時すぎ自民党が衆議院本会議で新安保条約を単独採決 5月26日、安保改定阻止第16次全国統一行動、空前の国会デモ隊(17万人)が国会議事堂を包囲 5月28日、岸首相、安保問題に関し「声ある声」を批判、「声なき声」に耳を傾けると語る
6月4日、安保改定阻止第1次実力行使、国鉄労組など交通部門で早期スト 6月10日、米大統領秘書ハガチーが羽田に到着、デモ隊包囲、16日アイゼンハワー米大統領の訪日延期決定 6月15日、安保改定阻止第2次実力行使、580万人参加。右翼が国会周辺でデモ隊を襲撃。全学連主流派デモ隊は国会構内に突入、警官隊と乱闘。東大生、樺美智子死亡、負傷者多数(6・15事件) 6月19日、33万人の国会包囲デモの中、午前零時、新安保条約自然成立。22日第3次実力行使、620万人参加。23日批准書交換。新日米安保条約発効。岸首相が引退表明。
7月14日、自民党大会で池田勇人を総裁に選出。15日岸内閣総辞職 7月19日、第1次池田勇人内閣。9月5日、自民党、高度経済成長、所得倍増などの新政策を発表 (戦後史年表 1926ー2006、朝日新聞社(2007)、より)
○ 私は、1960年〈昭和35年)頃、石手寺〈松山)、鹿島〈北条港沖の小島、松山)、また、1961年〈昭和36年)頃、金山出石寺(大洲)を訪れたことがあります。
そのころ、下宿の窓から眺めた松山城の天守閣、一人で訪れた石手寺の三重塔、下宿先の知人とピクニックで行った北条の鹿島の頂から眺めた瀬戸内の海を走る船の風景などを鉛筆でスケッチし、ぺンで仕上げた絵を郷里の親父に送ったところ、実家の客間に飾ってあったのを覚えています。また、大洲の金山出石寺では、夏に大学の囲碁部の合宿があり、宿坊で丸1日、囲碁三昧を楽しんだことを覚えています。
石手寺(51番札所、松山、愛媛): http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/51ishiteji/index.html.
鹿島(松山市北条港沖の小島、ウィキペディア、愛媛): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%B9%BF%E5%B3%B6.
金山出石寺〈番外札所、大洲、愛媛): http://www.city.ozu.ehime.jp/life/facilities/ken_kinzan.html.
〇 降る雪や明治は遠くなりにけり
中村草田男(なかむらくさたお、1901~1983)、1931年(昭和6年)作、句集「長子」、この句は、麻布の親戚を訪ねての帰途、雪が降りしきる中、20年振りに母校の青南小学校(青山南町)付近を散策中、児童の服装を目にした時、かって、小学校4,5年を過ごした頃を想い出して詠んだものと言う。
松山(愛媛)ともゆかりが深い(吟行ナビえひめ):
http://iyokannet.jp/ginkou/poet/detail/haiku_poet_id/5/
草田男(本名、清一郎)は、外交官の父が領事をしていた清国廈門(アモイ)にて長男として誕生、3歳で帰国後は松山、東京と転居を繰り返すが、11歳から松山で暮らし、松山中学、松山高校、東京帝国大学へ、のち高浜虚子に入門。世俗を嫌う純粋なまなざしを社会や人間の内面に目を向ける作風で難解派、人間探求派と呼ばれています。なお、正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌、「ホトトギス」の発行は、子規の弟子の高浜虚子(1874~1959、松山、愛媛). に引き継がれています。
○ 高浜虚子(1874~1959)、松山市生まれ。俳誌「ホトトギス」主宰。正岡子規に師事。定型と季語を重視し、客観写生と花鳥諷詠(ふうえい)による俳句を提唱しました。85年間の生涯で20万句を作ったとされています。小説「虹」や「新歳時記」を残したほか、後進の育成にも努めました。芸術院会員。54年に文化勲章を受章しました。
虚子は1949年(昭和24年)4月に七尾市(石川県)を訪れました。能登地方のホトトギス派有志の招きで、前田利家が築いた城があった小丸山城址公園を散策し、市内で句会が開かれ、その後、和倉温泉(七尾市)の旅館に宿泊した際、七尾湾を眺めて詠んだのが「家持の妻恋船か春の海」という句でした。
家持は、奈良時代に越中国の国司だった万葉歌人大友家持。748年(天平20年)に当時越中国の一部だった能登を視察し、各地で歌を残しました。七尾湾は船で渡り、能登島などを歌にしました。(北陸中日新聞、2,017年(平成29年)5月12日(金)より)
〇 正岡子規 未発表5句発見 「歳旦帳」 (2017.8.22)
生誕百五十年を迎えた俳人の正岡子規(1867~1902年)が、亡くなる前年の正月に詠んだ未発表の五句と墨絵の自画像二点が見つかった。東京・根岸(東京都台東区)の子規庵保存会が8月22日、発表した。子規の家を年賀に訪れた弟子十三人が、名前と俳句、短歌、絵などを記した1901年(明治34年)の「歳旦帳(さいたんちょう)」に無記名で記されていた。
寝後れて新年の鐘を聞きにけり 暗きより元朝を騒く子供哉 うらうらと初日の影や枯木立 初夢や炬燵ふとんの暖まり 留守の戸に名刺投込む御慶かな
子規は生涯に二万五千句以上を残した。未発表句は2009年に四句見つかっているが、今回はいずれも子規らしい分かりやすい句。最晩年の交流や句風も分かり、これほど充実した資料が見つかるのは極めて異例という。晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。(北陸中日新聞、2017年(平成29年)8月23日(水)より)
〇 正岡子規、囲碁殿堂入り (日本棋院、2017.10.24)
日本棋院は、2017年(平成29年)10月24日、第14回囲碁殿堂表彰委員会で、明治の俳人・正岡子規(1867~1902)が、囲碁の発展普及に尽くした功労者として選び、囲碁殿堂入りを決めました。
野球好きで知られる子規は、2002年(平成14年)に野球殿堂入りしたが、碁好きでもあり、碁にまつわる句を30あまり残している。
(Link) 正岡子規、囲碁殿堂入り(日本棋院、2017.10.24)、とは(2017.10. 30): http://kanazawa-kuratuki.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-2dc8.html
〇 漱石 子規に「俳句教えて」 「御高示を仰ぎ度候」
夏目漱石が俳人の正岡子規に宛てた直筆の書簡3通を、漱石が前身の漢学塾で学んだ二松学舎大学(東京)が入手した。文面は「漱石全集」に収録されているが、実物は専門家の間でも長年確認されていなかった。漱石が子規から俳句を学んだ契機とされる内容などがつづられている。
2人は第一高等中学校(現東大教養学部)の英語教師として松山に赴任した。同年5月26日付の書簡は神戸で療養中の子規に宛てたもの。「小子近頃俳門に入らんと存候御閑暇の節は御高示を仰ぎ度候」。「本格的に俳句をやりたいので見てほしい」との内容である。
子規は同年8月、神戸から故郷の松山に戻って漱石の下宿「愚陀仏暗(ぐだぶつあん)」に居候する。52日間の同居の中で漱石は子規から俳句の指導を受けた。自分の日常を俳句で表現する試みを始め、子規に見せるようになった時期を示すしょかんという。(朝日新聞:2017.11.21)
〇 120年ぶり 漱石先生、おかえりなさい アンドロイド、松山で交流
文豪・夏目漱石の人間型ロボット「漱石アンドロイド」が2017年(平成29年)11月23日、松山市を訪れた。1895年(明治28年)に漱石が英語教師として赴任して以来、約120年ぶりの「再訪」だ。漱石生誕150年の記念事業実行委員会が招いた。
漱石アンドロイドは、大阪大の石黒浩教授が監修して二松学舎大(東京)が昨年に製作した。漱石がかって在籍した朝日新聞がデマスクを提供して協力した。(朝日新聞、2017.11.24)
(Link)
〇 漱石先生、120年ぶり「再訪」、アンドロイドが松山に (朝日新聞デジタル、2017.11.23): http://www.asahi.com/articles/ASKCP5VSVKCPPFIB00C.html