カテゴリー「● ふるさと(四国遍路、空海(弘法大師)、四国88ヵ寺(徳島23、高知16、愛媛26、香川23)、高野山(金剛峰寺、真言宗、和歌山)、高野聖(泉鏡花)、最澄(伝教大師)、比叡山、暦寺、天台宗、京都)」の7件の記事

2011年9月19日 (月)

金山穆詔(かなやまぼくしょう、もと高野山真言宗管長、金剛峯寺座主、大山、富山)、真宗王国、北陸地方の真言宗の偉大なる学僧、求道者、とは(2011.9.19)

   江戸時代のはじめ、金沢城の鉛瓦(なまりがわら)は、大山地区(富山)の長棟(ながと)、松倉(まつくら)、亀谷(かめがい)鉱山で産出したが使用されていたという。 

 そこで、私は、2006年(平成18年)8月4日(金)、大山地区にある長棟(ながと)鉛山と共に「越中七金山(えっちゅうななかなやま)」と呼ばれていた、松倉(まつくら)、亀谷(かめがい)、虎谷(とらたに)、川原波(かわらなみ)などの鉱山について調べるため、はじめて、マイカー(ファミリア1500CC)で、富山市大山歴史民俗資料館(亀谷、富山)を訪れました。 富山市大山歴史民俗資料館(ホームページ、亀谷、富山市、富山県): http://www.city.toyama.toyama.jp/kyoikuiinkai/ooyamakyouiku/rekishiminzokushiryo.html.

 その時、金山穆詔(かなやまぼくしょう、1876~1958)は、富山市大山地区生まれで、真言宗の偉大なる学僧、求道者、もと高野山金剛峯寺館長であったことを知り驚きました。北陸地方は浄土真宗の信者が多い真宗王国ですので、改めて、真言宗の高僧の秘められた人生、人物像などについて調べてみました。

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金山穆詔(かなやまぼくしょう、1876~1958、文珠寺高野山真言宗、大山、富山、google画像)

(解説) 金山穆詔(かなやまぼくしょう、1876~1958)は、富山県上新川郡大山村(旧大山町文殊寺)に金山忠吉の次男として出生、12才で大岩山日石寺真言密宗大本山、大岩、上市町、中新川郡、富山)に入門、大岩山(日石寺)春山一覚師の範子となり、13才で得度、僧名法龍となっておられます。

 高野山大学に2度学び、1905年(明治38年)、30才で高野山大学教授に就任、50年に及ぶ学究生活で真言密教の一代権威と言われました。1940年(昭和15年、65才)~1945年(昭和20年、70才)高野山大学学長の重責を果し、大学の独立を守りました。真言宗の理論を極め修行でも並ぶものがなく、1953年(昭和28年、78才)高野山真言宗管長、金剛峯寺座主に就任しました。

金山穆韶は、1924年(大正13年、49才)夏、四国霊場、21番札所、大龍寺(阿波、德島)で、空海(弘法大師)が修行したという「求問持法」の行に入りました。猛暑の中、7月12日から満願(まんがん)の8月30日までの50日間、お堂にこもったきりで、毎朝2時に起きて「虚空蔵菩薩」という仏様の名前を百万遍も称えつづけて、教えの真意を悟(さとる)行を、無事終えることができました。  また、「八千枚護摩法」という修行も生涯に3回、 1929年(昭和4年、54才)、1940年(昭和15年、65才)、1945年(昭和20年、70才)、積んだという。この修行は21日間毎日3回づつ不動明王の前で火をたいてお祈りする儀式で、その後、7日間の断食と護摩が加わる難行中の難行でした。 

 高野山では1913年(大正2年、38才)から1934年(昭和9年、59才)までの21年間、一日も欠かすことなく弘法大師の御廟(ごびょう)へ参拝され、生仏一体の境地に達されたという。1958年(昭和33年)6月11日、高野山天徳院で遷化(せんげ、83才)されましたが、一生涯肉食妻帯せず、行学(ぎょうがく)兼備、持戒(じかい)堅固の高徳(こうとく)であった。

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空海弘法大師真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

○ 空海弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15); http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html

 私は、2001年(平成13年)8月頃、四国霊場、21番札所、大龍寺(大龍嶽、阿波、德島)を訪れたことがあります。マイカー(ファミリア1500CC)、ロープウエイにより、弟(悟)と二人で大龍寺を参拝した後、さらに大龍嶽の頂近くまで歩いて登ったところ、渓谷に向かって修行している空海の坐像が目につき、強く印象に残っています。

(参考文献) 富山歴史県歴史散歩研究会編(高井進 編集委員長): 富山県の歴史散歩(新版)、山川出版(1995); 前田英雄、藤田雅人、小松博幸編、著: 大山の先人を偲ぶ-大山歴史民俗資料のあらまし、富山市大山歴史民俗資料館(2005).

(参考資料) 企画展「金山穆詔師遺徳展」リスト(金山前官様の思いで、天徳院にて、伊藤弘子(75才)、年表、出陳品目、1991年(平成3年)12月13日~25日): http://www.reihokan.or.jp/tenrankai/exhibition/kikaku/kanayama.htm.

文珠寺(金城山宝珠院、高野山真言宗、上市町、富山): http://ww2.ctt.ne.jp/~houjuin/jin_cheng_shan_bao_shou_yuan/HOME.html.

大岩山日石寺(真言密宗大本山、上市町、富山):http://ooiwasan.com/home.html.

2011年8月 8日 (月)

お経にまつわる歴史伝承、般若心経(はんにゃしんぎょう)、光明真言(こうみょうしんごん)、舎利礼文(しゃりらいもん)、ありがとう、とは(2011.8.8)  

  お(きょう)は、仏の説いた教法を文章にまとめたものです。律・論の三種を合わせて三藏(さんぞう、経蔵・律蔵・論蔵)という。そして、唐(中国)の頃、この三蔵の仏教聖典(大般若波羅蜜多経、600巻)をした(訳経僧)は、玄奘(げんじよう、602~664)で、玄奘三藏(げんじようさんぞう)あるいは三藏法師(さんぞうほうし)などの尊称で呼ばれています。その中の最も代表的な聖典が、摩訶般若波羅蜜多心経(大品般若、鳩魔羅什(くまらじゅう)の、27巻)です。

 私の郷里(上板、德島)の菩提寺は、四国霊場八十八ヶ所札所、六番安楽寺(真言宗)です。いつの頃からか、葬式、法要のときのおじゅっさん(お坊さんとも)の読経(どきょう)、唱和、法話、父母からの伝聞から、般若心経(はんやしんぎょう)、光明真言(こうみょうしんごん)、舎利礼文(しゃりらいもん)など、ありがたいお経ということで、何も考えずに(無心!)唱えていました。そこで、改めて、それらの経文について調べてみました。

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○ 般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう、経題)

(解説) 般若心経(はんにゃしんぎょう)は、仏典の一つで、1巻からなり、漢訳に諸説ありますが、最も流布(るふ)しているのは、中国、唐の玄奘三藏(げんじょうさんぞう)訳の262字からなり、般若経の心髄を簡潔に説く心経です。般若(はんにゃ)は、パーリ語のパンニャの音写で、真実の知恵のことですが、これは実体をもたない(くう)なるものであることを明らかにしています。この(くう)は(む)と並んで般若心経の根本的な思想で、インド人の発見した(ぜろ)に類似した概念で、起元前後から約100年間に成立したと考えられています。

 玄奘訳では、経題はただ「般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)」となっており、「仏説摩訶(ぶっせつまか)」の文字はありません。「仏説」という言葉が加えられたのは、「般若心経」が通常の仏典と異なり、「如是我聞(にょぜがもん、私はこの様にお釈迦様の説法を聞きましたの意)」で始まらないことが関連しています。あくまで釈迦が説いた教えであることを強調するために「仏が説いた」という言葉が加えられたという。 般若心経(四国遍路と一等三角点探訪): http://homepage2.nifty.com/sangaku/ftp/henro/hannyasingyou.htm

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 

 求道者である観音菩薩は、深遠な知恵の完成をめざして、その実践をしていたとき、すべての存在を構成している五つの要素がみな実体のないものであることを認識し、いっさいの苦悩やわざわいを超越することができた。

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是  

 我が弟子であるシャーリプトラよ、物質的現象は実体のないものにことならず、実体のないものは物質的現象にことならない。物質的現象はまさに実体のないものであり、実体のないものはまさに物質的現象である。そして、物質的現象とともに、すべての存在を構成している他の四つの要素である人間の感覚も、イメージも、こころの働きも、さらに知識も、物質的現象の場合とまったく同じなのである。

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 

 シャリープトラよ、いっさいの存在するものは実体のないことを特徴としており、生じることもなく、滅することもなく、汚れることもなく、清まることもなく、増えることもなく、減ることもない。このため、実体のない状態においては、物質的現象もなく、感覚もなく、イメージもなく、こころの働きもなく、知識もない。また、目や耳や鼻や舌やからだや思いといったものもなく、それが対称とする形も音も香りも味も、触ったり、思ったりすることのできる対象もない。さらに、目で見える世界も、意識の世界もない。そして、迷いもなく、迷いが尽きることもない。また、老いることも死ぬこともなく、老いることや死ぬことが尽きることもない。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを滅することも、苦しみを滅するための方法もない。

無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 

 知恵もなく、体得すべきものもない。体得すべきものがないので、求道者は、知恵の完成によって、こころに障害がなくなる。こころに障害がないから、恐れもなく、正しく見ることを妨げる迷いを離れて、永遠の平和を極めるのだ。現在、過去、未来にわたる三世の仏たちは、知恵を完成することによって、このうえない完全な悟りを体得している。

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 

 それゆえに、以下のことを理解すべきである。知恵の完成は真言(マントラ)であり、偉大な悟りの真言であり、このうえないすばらしい真言であり、他に比べることのできない真言である。いっさいの苦しみを取り除く、真実なるものであり、虚しいものではない。知恵の完成は、真言を説く。その真言とは、「羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」(この部分は呪文! 意味は、往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ、と。岩波文庫、般若心経より)である。これこそが、完璧な悟りに至るための真髄である。

 空海(弘法大師、774~835、真言宗開祖)は、注釈般若心経秘鍵」において、その特徴を「簡にして要なり、約にして深し」とまとめています。この経文は短いものだが、釈迦の教えの要点をしっかりと押さえてあり、少ない文字数で深い教えを説いているという。そして、仏教のすべての教えが含み込まれた「般若心経」を唱え、学ぶならば、あらゆる苦が取り除かれ、悟りを得たうえに、神秘的な神通力をもつことができるとしています。

 私は、小さい子供の頃、母親が京都の成安女子学園に在学中、毎日、般若心経を唱えていたことを聞いたことがあります。私には、般若心経は、葬式、法要での読経、お坊さんとの唱和と説教で、ありがたい呪文のような経文の思いがありました。 

○ 光明真言(こうみょうしんごん)

おん(唵) あぼきゃ(阿謨伽) べいろしゃのう(尾慮左曩) まかぼだらまに(摩訶毌捺囉麽坭) 

はんどま(鉢納麼) じんばら(人嚩攞) はらばりたや(鉢囉韈哆野) うん(吽) 

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光明真言(こうみょうしんごん、真言宗、金剛院、google画像) 光明真言(真言宗豊山派、金剛院、東京): http://www.kongohin.or.jp/recite.html

(解説) み仏(ほとけ)の光明(こうみょう)に一切(いっさい)がつつまるるをおもえ  密教で唱える真言の一つで、これを誦(とな)えれば一切の罪業を除くという。 土砂加持(どしゃかじ)は、密教の修法の一つで、光明真言で土砂を加持することです。この土砂を死体や墓所にまくと、死者の罪障を除くことができるという。

 私には、この梵字(ぼんじ)の経文は、呪文(じゅもん)のような感じがして、意味はよく分からないまま、いつの頃からか丸暗記しています。梵字は梵語、すなわちサンスクリット(インド・イラン語派)を記すのに用いる文字で、字体は種々ありますが、わが国では主として悉曇(しったん、梵字の音を表記する母体となる字)文字を用いてきました。

○ 舎利礼文(しゃりらいもん)

一心頂礼(いっしんちょうらい)、万徳円満(まんとくえんまん)、釈迦如来(しゃーかーにょーらい)、

心身舎利(しんじんしゃーり)、本地法身(ほんじほっしん)、法界塔婆(ほうかいとうば)、我等礼敬(がー

とうらいきょう)、為我現身(いーがーげんしん)、入我我入(にゅうがーがーにゅう)、仏加持己(ぶっかーじ

ーこ)、我証菩提(がーしょうぼーだい)、以仏神力(いーぶつじんりき)、利益衆生(りーやくしゅうじょう)、

発菩提心(ほつぼーだいしん)、修菩薩行(しゅうぼーさつぎょう)、同入円寂(どうにゅうえんじゃく)、平等

大智(びょうどうだいち)、今将頂礼(こんじょうちょうらい)

(解説) 精霊しょうりょう)の供養(くよう)に良(よ)し  一般に、葬儀、枕経、回向用の読誦教典のひとつとして用いられています。

 私は、小さい子供の頃、「舎利礼文」を父親から教えられたのですが、はじめの経文、「一心 頂礼(いっしんちょうらい)を、「一銭 頂戴(いっせんちょうだい)」と、長いこと間違えて覚えていました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 四国六番安楽寺、弘法大師講本部: 弘法大師講聖典、弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念出版(1983); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 島田裕巳: 般若心経、262文字のことばの力、仏教の真髄から、日本人の心を読み解く、日文新書(2010).

(参考資料) 般若心経、光明真言(真言宗、金剛院、東京): http://www.kongohin.or.jp/recite.html

舎利礼文(真言宗、法楽寺、大阪): http://horakuji.hello-net.info/BuddhaSasana/Vajrayana/zaike/shariraimon.htm

舎利礼文(曹洞宗、東海地区教化センター、名古屋): http://soto-tokai.net/ok_kyo03.html

(追加説明) 「ありがとう」ということ この言葉は、もちろんアリガタシの連用形アリガタクの音便の形から出たもので、感謝する意で「ありがとう」と言うのは、「ありがとうございます」の「ございます」を省略したものである。アリガタシは古くは「難有し」と書かれた。つまり、この語の本来の意味は、有(あ)ることが難(むずか)しい、世にまれである、という意であったのだ。

 ところで、世にきわめてまれなことは、神仏の力実現されることが多い。いわゆる奇跡が起る。霊験あらたかである。そういうときに、神仏の前で「ありがたし」と手を合わせておがむ。このアリガタシは、本来、そういう奇跡を起した神仏の徳をたたえるわけだが、同時に神仏に感謝する気持ちが心底から湧き上がってくる。

 こうした「ありがとう」の本来の意味をたどってゆくと、「ありがとう」という言葉、神仏に対して使う最上の敬語なのである。(樋口清之: 生活歳時記、p.139、「ありがとう」ということ、三宝出版(1994)、より)

2010年6月29日 (火)

空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)が遣唐使に随行して学んだ中国の青龍寺(西安)と天台山国清寺(杭州)、とは(2010.6.29)

  平安時代のはじめ、遣唐使(けんとうし)に随行して、空海は入唐し、西安(もと長安)の青龍寺の恵果に密教を学び、帰朝して真言宗を開き、一方、最澄も、同じく入唐し、杭州天台山国清寺の行満、道邃らに天台教学を学び、帰朝して天台宗を開きました。そこで、中国の青龍寺と天台山国清寺をインターネットで検索し、現在の状況を調べて見ました。

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青龍寺(西安)と天台山国清寺(杭州)の位置(中国、google画像)

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青龍寺空海記念石碑(もと中国の密教の中心的寺院、西安市、google画像)

(解説) 青龍寺(せいりゅうじ、しょうりゅうじとも)は、中国の長安(のち西安)の東南隅(鉄炉廟村)にあった寺で、582年隋の文帝が霊感寺を創建、711年改称、766年より名僧不空の弟子、恵果が入山し、804年に入唐した空海が密教の法を受けるなど、唐代の密教の中心的な寺院でした。

 そして、空海のほか、円仁、円行、円珍、彗遠、円載、恵運、宗睿など、日本の僧がこの寺で密教を修行しました。 円行、円載、恵運などは真言宗の僧であり、東密(東寺の密教、真言宗の密教)に対して、円仁、円珍、円載などは天台宗の僧であり、天台学と密教の融合であり、台密(たいみつ、天台宗の密教)と言う。彗遠、宗睿は浄土宗の僧です。

 845年全国的に廃仏事件が起こり、青龍寺も廃棄され、皇家の内苑となり、その翌年5月に再び護国寺として復活しましたが、次第に荒廃して行きました。後年、青龍寺遺跡は中華人民共和国成立後に重要文化遺跡に指定され、1982年、西安人民政府により発掘調査が行われました。

 空海に因縁のある日本の四国四県と真言宗の門徒は、中国仏教協会及び西安市政府の協力の下に、1982年2月、青龍寺遺跡に、空海記念碑が建立されました。記念碑のそばの四つの大きな円形の石塔は、日本の四国四県を象徴しています。

 また、1984年には、西安市(中国)の提唱により、空海崇拝者(日本)の協賛を得て、青龍寺の東塔院遺跡に恵果・空海記念堂が建てられ、堂の中には空海と恵果の説法像が並べられています。また寺院には人々が楽しむ庭園も造られています。

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空海(弘法大師、京都・東寺 所蔵): http://urano.org/kankou/topics/kuukai/

 空海(774~835、宝亀5~承和2)は、讃岐(香川)生まれ、平安初期、真言宗の開祖、諡号(しごう)は弘法大師です。初め大学で学び、のち仏門に入り四国で修行、804年(延暦23年)入唐して青竜寺の恵果に学び、806年(大同元年)秋に帰朝、すぐに京にのぼらず、九州太宰府の観世音寺などに滞在、政庁には「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を提出しています。

 809年(大同4年)春に九州を出た空海は、和泉国、槙尾山寺に向かい、ここで密教の理論的教義をまとめ、809年(大同4年)7月、満を持して京都に入り、最澄ともゆかりの深い京都西北の髙雄山寺(神護寺)に住むことになりました。ここで812年(弘仁3年)最澄灌頂を行っています。その後、810年(弘仁元年)には奈良の東大寺の別当になっています。

 また、823年(弘仁14年)京都の東寺を与えられ、密教道場として造営、また、816年(弘仁7年)開山が認められられた高野山金剛峯寺の経営に務めたほか、宮中真言院や後七日御修法の設営によって真言密教を国家仏教として定着させました。

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天台山国清寺、中国の天台宗の発祥地、杭州市、google画像)

(解説) 天台山(てんだいさん、天梯山、台岳とも)は、浙江省の北方、杭州市にある天台宗の淵叢たる仏教の名山です。峨眉山、五台山と共に中国仏教三大霊場の一つです。天台山国清寺は、575年智顗(ちぎ)が天台宗を開いた旧跡で、天台宗教学の根本道場です。最澄、また通訳を兼ねて伴い入唐した義真(弟子)もここで学んでいます。

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最澄(伝教大師、兵庫・一乗寺 所蔵): http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/eurail/pilgrim/nenpyou-kuukai.htm

 最澄(767~822年)は、近江(滋賀)生まれ、平安初期、天台宗の開祖、諡号(しごう)は伝教大師(叡山大師、根本大師、山家大師とも)です。近江国分寺で得度、785年(延暦4年)受戒後、比叡山で修行、華厳教学を通じて天台教学に出会いました。804年(延暦23年)入唐天台山国清寺で行満、道邃から天台教学と菩薩戒、翛然から牛頭禅、帰路の越州(竜興寺)で順暁(密教の高僧ですが、正当な継承者ではなく、空海の師匠の惠果の友人)から金剛界密教を学んで、805年(延暦24年)帰朝、天台宗を開創しました。

 最澄は、天台教学のほか、密教(正式なものではなかったので、のち空海から灌頂を受ける!)、禅、戒律をも合わせて伝えたので、日本の天台宗は総合的な学風を特徴としています。日本の仏教の主流、特に鎌倉時代の新仏教(浄土宗、日蓮宗、禅宗など)の指導者達は、すべてこの門から出ました。

(参考文献) 下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009).

(参考資料) 青龍寺(Hatenaブログ、西安、中国): http://d.hatena.ne.jp/xiaojun/20081025/1224941970

天台山(中国ネット、国清寺、杭州、中国): http://www.zh5000.com/ZHJD/zgsm/zgsm-0017.htm; 天台山(広済寺ホームページ、国清寺、杭州、中国): http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/kokusei.htm

(追加説明) ○ 最澄と空海の生き方について、次のような解説があります。

 最澄と空海は同時代の人である。最澄が神護景雲元年(767)生れ、空海は7年後の宝亀5年(774)の生れである。二人の生きた時代は、平城京から長岡京、さらに平安京へと三度も遷都するような、律令体制の動揺期であった。

 延暦23年(804)、桓武天皇の命を受けて、最澄・空海ともに遣唐使の一行に参加することとなり、空海は第一船で、最澄は第二船でそれぞれ入唐した。最澄は明州に着き、天台山に入った。最澄の天台山入りの目的は、入唐前からいだいていた天台の信仰を天台山で確かめることにあった。空海は長安京に入って西明寺に留まり、のち青竜寺において真言密教の権威・恵果の指導を受けた。空海の持ち帰った経論は、216部451巻という。

 最澄は翌年帰国し、天台宗を開き、勅願を得て、叡山の草堂を延暦寺とし、経王護国寺を与えられ真言道場とした。空海は2年後に帰朝し、弘仁2年(816)、高野山に金剛峰寺を建てた。この年、弟子の去就をめぐる争いから最澄と空海は親交を絶った。

 両者は、平安仏教の開創者として、また双璧として、しばしば生き方が比較される。最澄は死ぬまで、仏教の旧勢力である南都仏教と争った。逆に空海は思想的に弾力性に富み、ことをあらだてずに生きた人であった。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、p.117、1994、より)

○ 空海は、815年(弘仁6年)3月、42才、勧縁疏を著し、東国の弟子に遣わし、新請来の密教経論の書写流布と如法の修行を依頼し、また、秋には西国(筑紫)にも密教経論の書写を依頼しています。816年(弘仁7年)6月19日、43才、高野山を修禅の道場の地として乞い、7月8日、高野山開創が勅許されました。821年(弘仁12年)5月27日、48才、讃岐国、満濃池の築池別当に補せられました。 高野山真言宗 総本山金剛峯寺(ホームページ): http://www.koyasan.or.jp/index.html

 822年(弘仁13年)、49才、東大寺潅頂道場が創設され、空海に修法が命じられました。この年に最澄(56才)が比叡山寺中道院にて入寂。823年(弘仁14年)1月19日、50才、東寺(京都)が永く空海に給頂され、東寺に真言宗僧50人を住せしめました。

 828年(天長5年)、55才、綜芸種智院(庶民のための私立学校)を創設。830年(天長7年)、57才、十住心論、10巻を撰述。832年(天長9年)8月23日、59才、高野山にて万燈万華の法会を修す。835年(承和年)2月30日、62才、金剛峯寺定額寺となし、同年、3月21日、高野山にて入定しました。

○ 四国霊場八十八ヶ所の奥の院(もと洞窟、のち、小屋、お堂、お寺へ)にお参りすると、本当の四国遍路の意味が分かると言われています。四国霊場、奥の院物語(四十八ヶ所を紹介): http://www.fmkagawa.co.jp/staff/ohenro/okunoin0.htm

 四国遍路の始まりは、四国の辺路修行で、空海(弘法大師)もその道を辿り、後に空海の跡を慕った修行者が辺路修行を行い、さらに一般の人もお参りするようになり、辺路(地の果て、海と陸との境)が遍路になったと言われています。(参考文献) 五来重: 四国遍路の寺、上、下、角川学芸出版(2009). 

 平安時代、真言宗の開祖、空海(くうかい、弘法大師)、774年(宝亀5年)~835年(承和2年)には、十大弟子がいますが、その五人が四国の出身です。四国に詳しいお弟子さん達が空海のアドバイスを受けながら、四国の路を踏まれました。これがお大師さまと同行二人の四国遍路の最初であると考えられ、空海42才、四国霊場の開創説がそれを今に伝えています。

 しかし、空海が42才の頃は、京都で密教の布教に務めており、42才の厄年の時に四国八十八ヶ所が開創されたという説は俗説とも言われています。この頃は、京都で勧縁疎の著述、密教経論の書写依頼、真言宗がまだ一般に知られず確立されていない状態のため、お弟子さんによる地方への普及などに力を入れていました。

 空海は43才の時、高野山を修禅の地として乞い、嵯峨天皇(さがてんのう)、786年(延暦5年)~842年(承和9年)から開創が勅許され、45才の時、高野山に登り、禅院を経営しています。

○ 世界遺産 高野山空海の聖地 紀伊山地の霊場と参詣道、2007年(平成19年)9月20日(木)、NHK放送によれば、

 弘法大師、空海は、24才の時、出家の宣言書(三教指帰)を書き、その後、修行の場を紀伊の山に開きました。

 町石道(ちょういしみち)には、町石と呼ばれる道標(みちしるべ)が1丁ごとに立っています。高野山に詣でる人々が迷わないためです。巡礼者は町石を仏と見なし、参拝しながら歩きます。町石道を歩いて20km、標高800mの山頂に空海の開いた真言密教の霊場が現れます。平安時代の初めに建てられた大伽藍(だいがらん)、鮮やかな朱色(しゅいろ)の塔は、真言密教の根本大塔で、空海の開いた真言密教の教義を表した空間です。大日如来(だいにちにょらい)は宇宙の根本原理を示す最も重要な仏です。

 奥の院の空海廟、空海はここに眠っています。この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける。そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。835年のことです。

 空海の死後、高野山は200年以上にわたって荒廃します。平安中期に立ち上がったのは、空海の徳を慕った他宗派の僧たちでした。国宝、仏涅槃像(ぶつねはんぞう)、復興にあたった僧たちが絵師に描かせたのは、真言密教の大日如来ではなく、全ての仏教徒に受け入れられる釈迦如来(しゃかにょらい)でした。

 釈迦の臨終に接して慟哭(どうこく)、嗚咽(おえつ)する弟子たち、復興にあたって僧たちは、この仏画を中心に法会を開き、資金を集めたと言われています。

 幅広い信仰を集めるようになった高野山には、さまざまな宝物(ほうぶつ)が納められました。八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)、鎌倉時代に活躍した仏師(ぶっし)、運慶(うんけい)とその弟子たちの作とされています。豊かな肉体表現と凛々(りり)しい表情、生き生きとした目には水晶が入っています。

 国宝、阿弥陀衆生来迎図(あみだしゅじょうらいこうず)、人が死ぬ時には阿弥陀如来が迎えに来てくれるという、浄土信仰(じょうどしんこう)に基づいて描かれた傑作です。もとは比叡山の秘宝でしたが、織田信長の焼き討ちの時に持ち出され、それを入手した豊臣秀吉が高野山に奉納したと言われています。

 空海の眠る奥の院への参道には、無数の墓石が立ち並び、中には公家や大名の墓もあります。無縁仏となった墓碑や地蔵が積まれた巨大な塚、聖地高野山の空海の膝元(ひざもと)で永遠の眠りにつきたい、そう願った無数の人々の思いの結晶です。

○ 密教(みっきょう)は、容易に知り得ない秘密の教え(教主は大日如来、宇宙の真理を仏とする教え、灌頂(かんじょう)や口伝などにより継承の意。仏教の流派の一。インドの大乗仏教の発展の極に現れ、中国、日本のほか、ネパール、チベットなどにも広まった。わが国では、真言宗系東蜜天台宗系台密とがある。秘密教。秘密仏教。一方、顕教(けんぎょう)は、言語文字で明らかに説き示された釈尊(釈迦)の教え。密教にと対比して、密教以外のすべての仏教を含む。顕宗。(広辞苑より)

○ 天台宗(てんだいしゅう)は、最澄比叡山で開祖、日本で興った最初の宗派で、日本仏教の母体となり、比叡山からは多くの名僧を生みました。「法華経」を根本教典とし「すべての衆生は仏になれる」と説く。

 真言宗(しんごんしゅう)は、空海高野山で開祖、永遠の宇宙仏である大日如来を真実の仏とし、「大日教」や「金剛頂教」などを教典に、大日如来と一体化して修行を行えば「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」(この身このまま仏になる)できると説く。(日本の仏教、2004年(平成16年)10月31日(日)、北陸中日新聞、朝刊より)

〇 天台宗の総本山、比叡山延暦寺。150の堂塔が点在する厳かな山内で、とりわけ清浄な雰囲気に包まれているのが宗祖の伝教大師・最澄廟所がある浄土院。鎮護国家の道場として最澄が開創して以来、1200年以上の歴史をもつ比叡山では、様々な厳しい修業が連綿と続けられてきた。

 中でも、「千日回峰行」と並ぶ難行とあれるのが、浄土院での「十二年籠山行」である。文字どおり12年間、山にこもる。外界との接触を断ち、一日も欠かすことなく、最澄の真影(絵像)に膳を供え、お勤めを行う。最澄の魂が今も生きているとして真影に仕えることから、修行僧は「侍真(じしん)」と呼ばれる。最下鈍の者も12年を経れば必ず一験を得る、と最澄は著書「顕戒論」に記している。

 山中を巡る回峰行が「」ならば、浄土院の十二年籠山行は「」の修行。勤行、大師への献膳、修法、掃除、---。定められた日課を毎日同じように繰り返す。静寂の中で一心に大師に仕え、学び、己を見つめる日々

 「一隅を照らす。これ則ち国宝なり」。修行により自らを高め、社会を明るく輝かせる人材を育てようと最澄は比叡山を開いた。今も一日も欠かさず祈りが捧げられている。武覚超・延暦寺長臈(69)は語る。「国の安泰と人々の平安を祈る。これこそが1200年の昔も今も変わらない叡山の大切な使命、役割なのです」

(朝日新聞(久保智祥): 時紀行 12年 静寂の山 比叡山 一心に修行、2017年(平成29年)6月10日(土)より)

〇 天台宗「千日回峰行」 地球1周分 住職が踏破  

 比叡山延暦寺(大津市)の一山善住院住職、釜堀浩元さん(43)が2017年9月18日、比叡山中などを巡礼し、地球一周分に当たる約4万キロを踏破する天台宗の荒行「千日回峰行」を終えた。記録が残る比叡山焼き討ち(1571年)以降51人目で、戦後14人目。

 釜堀さんはこの日、未明に山内にある玉照院を出発、約300ヵ所を巡拝しながら約30キロ歩き、午前9時ごろ回峰行の拠点、明王堂に帰還した。早朝から集まった約200人の信徒たちが出迎えた。釜堀さんは「これからは支えてくれた方々のために祈り、少しでもみなさんのためになるお坊さんになれるよう精進していきたい」と語った。

 釜堀さんは福岡県出身で、2011年3月に回峰行を始めた。今後は「北峰大行満大阿闍梨」の称号で呼ばれる。千日回峰行は、比叡山や京都市内などを約千日間かけて巡礼する修行で、断食、不眠で明王堂内に9日間こもる「堂入り」の難行も含まれる。今年は、千日回峰行の創始者とされる相応和尚の1100回忌に当たる。(北陸中日新聞、2017.9.19、朝刊)

 

 

2009年11月13日 (金)

空海(弘法大師)と書(風信帖、飛白書、雑体書)、五筆和尚、筆の誤り、筆を選ばず、とは(2009.11.13)

  古代(平安時代)、三人の優れた書道家、空海(弘法大師、くうかい)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、嵯峨天皇(さがてんのう)は、三筆(さんぴつ)と呼ばれています。

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空海弘法大師真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

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王羲之(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B王羲之(画像、東京国立博物館展示、東京):http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1569

 空海(弘法大師)は、真言密教宗祖ですが、幼少より書に親しみ、王義之(おうぎし、中国)の書を学んでいます。遣唐使の留学僧として入唐後、多くの書論を読み、能筆家とも交わり、知識と技能を吸収し、三体楷書(かいしょ)、行書(ぎょうしょ)、草書(そうしょ)のほか、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、飛白書(ひはくしょ)、雑体書(ざったいしょ)まで、幅広く勉強して帰国しました。空海の書の特徴は、書域の広さ、思想や書論に裏付けられた奥の深さにあると言われています。

 空海から天台宗の宗祖最澄に宛てた、風信帖(ふうしんじょう、東寺)と呼ばれている、消息(手紙)は、最も有名な真蹟(しんせき)です。811年(弘仁2年)~813年(弘仁4年)頃、王義之(おうぎし)の書風を根底にした書写と言われています。

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風信帖(国宝、空海(弘法大師)、東寺(教王護国寺)、京都)

(訓読) 風信帖 風信雲書(ふうしんうんしょ)、天より翔臨(しょうりん)す。これを披(ひら)きこれを閲(けみ)するに、雲務(うんむ)を掲(かか)ぐるがごとし。兼ねて止観(しかん)の妙門(みょうもん)を恵まる。頂戴供養(ちょうだいくよう)し、おく攸(ところ)を知らず。すでに冷(れい)なり。伏して惟(おもん)みるに、法体如何(ほうたいいかん)。空海、推しはかること常なり。命(めい)に随いて、かの嶺(みね)に躋攀(せいはん)せんことを擬(ぎ)す。限るに少願を以てするも、東西すること能(あた)わず。今思うに、我金蘭(きんらん)及び室山(しつさん)と一処に集会し、仏法の大事因縁(だいじいんねん)を商量し、共に法幢(ほうとう)を建てて、仏の恩徳に報ぜん。望むらくは、煩労(はんろう)を憚(はば)からず、暫(しばら)くこの院に降赴(こうふ)せられんことを。これ望むところ、望むところ。忩々(そうそう)不具。釈空海状上。 九月十一日  東嶺金蘭(とうれいのきんらん) 法前 謹空 

(大意) お手紙をいただき拝読いたしますと、まるで眼前にたちこめた雲や霧が消えていくような気持ちになります。摩訶止観をご恵贈いただきありがとうございました。身のおきどころもないほどうれしいです。仰せに従って叡山に登りたいのですが、ひそかなる修禅に所定の期間を要し時間がなくて出かけられません。できれば室生寺の修円師と共にあなたとお話ししたく思っています。仏法のあるべきようについて相はかり、相ともに同じ旗印をかかげて、仏の恩徳に報いたいと存じます。ご足労ですが私の寺院へお越し下さい。

 雑体書とは、主として古文(金文)、篆隷(てんれい)から変化して起こった一種の装飾文字を総称していった言葉です。太陽、月、星、雲、山川草木、鳥、獣、虫、魚など、自然の物象を借りて、それらを文字の中に組み入れて作った文字を指し、それによって人間の思想や感情の表現を試みたものです。

 飛白書は、漢字の書体の一つで、刷毛(はけ)筆でかすれ書きにしたもので、広く解釈すれば雑体書の一つと言えます。後漢の蔡邕(さいよう)の作と言う。宮殿、神社などの扁額(へんがく、横に長い額)に用いられました。

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雑体書(十如是、部分)

 空海の著書、聾瞽指帰(ろうこしいき)には、雑体書法(飛白書含む)が見られるので、空海は入唐以前から雑体書に関心を持っていたと思われます。また、空海は、長安でより多くの書論を学ぶうちに、極めて特殊な雑体書飛白書の魅力にとりつかれ、密教の思想、人間の姿や感情を書で表現するのに最適と考えて、積極的にその書法を学びました。性霊集(巻四)で、飛白の書一巻、亦是れ在唐の日、一(ひと)たび此の体をみて試みに之を書す、とあり、別の項でも雑体書について詳しく述べています。そして帰朝後、嵯峨天皇に請来した、鳥獣の飛白一巻を献納しています。

 空海(弘法大師)の伝説、五筆(ごひつ)は、両手、両足及び口に筆をくわえて文字を書くことで、これを創(はじ)めたとされる弘法大師を、五筆和尚(おしょう)という。空海は、在唐中、その文章に卓抜した才を発揮されたばかりでなく、書においても皇帝から、五筆和尚、と称され、また送別の詩で、日本三藏空海上人は梵書(ぼんしょ)を能くし八体に工(たく)み、と賞賛されたと言われています。

 また、空海(弘法大師)の諺、弘法にも筆の誤りは、学芸に長じた者にも、時には誤りがあるという喩(たと)えで、猿も木から落ちる、と同じです。

 弘法筆を選(択、えら)ばずは、文字を書くのが上手な人は、筆のよしあしを問わないという喩えで、能書(のうしょ、のうじょ)筆を選ばず、と同じです。

 空海の書師、王義之(おうぎし、中国)、307?~365?は、東晋時代の官人、能筆家で、行書、草書にとくに優れ、書聖として、日本でも奈良時代には、尊重されていました。また、顔真卿(がんしんけい)、709~785?は、唐の官人、能筆家で、その書は王義之流に対し、隷書を楷書に取り入れた筆法で、新潮流を開き、空海の書に影響を与えたとみる説もあります。

(参考文献) 東寺(教王護国寺)宝物館編: 秋季特別公開図録、弘法大師の書とその周辺、便利堂(1987); 新村出編: 広辞苑、第四版、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 高木訷元、岡村圭真編: 日本の名僧、空海、密教の聖者、吉川弘文館(2003); 木本南邨: 弘法大師空海、人と書、朱鷺書房(2003).

(参考資料) 三筆、三碩(京都市歴史資料館、文化史02): http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka02.html#1

風信帖(空海): http://images.google.co.jp/imglanding?imgurl=http://ofda.jp/column/image/fuusinjyogen.jpg&imgrefurl=http://ofda.jp/column/2006/01/&usg=__wIIQ16DWK2C_gvqgpZmiryxmYQE%3D&h=641&w=1233&sz=88&hl=ja&um=1&tbnid=QAvUqRNWsJ82aM:&tbnh=78&tbnw=150&prev=/images%3Fq%3D%25E9%25A2%25A8%25E4%25BF%25A1%25E5%25B8%2596%2B%25E7%25A9%25BA%25E6%25B5%25B7%26hl%3Dja%26rlz%3D1T4GGIH_jaJP278JP279%26sa%3DN%26um%3D1&q=%E9%A2%A8%E4%BF%A1%E5%B8%96+%E7%A9%BA%E6%B5%B7&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&sa=N&um=1&start=6

雑体書(空海、飛白書含む、小林堂雑稿): http://blog.livedoor.jp/shorindo3/archives/2006-08.html

飛白体(好古斎):http://holms727.cocolog-nifty.com/blog/cat35228883/index.html

空海(書風、google画像): https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%80%80%E6%9B%B8%E9%A2%A8&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_WFNUoCeLsLClAWV-oDACA&ved=0CDcQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

王義之(書風、google画像):  http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

顔真卿(書風、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%A1%94%E7%9C%9F%E5%8D%BF%EF%BC%88&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

性霊集(飛白書、空海、google画像): http://images.google.co.jp/images?gbv=2&hl=ja&sa=1&q=%E6%80%A7%E9%9C%8A%E9%9B%86%E3%80%80%E9%A3%9B%E7%99%BD&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&oq=&start=0

真理の花たば(第三十号): カレンダー平成十八年度(飛白書、雑体書、四国六番安楽寺 弘法大師講本部) 弘法大師著書、秘蔵寶鑰(ひぞうほうやく)より

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春種不下 秋實何獲 (はるのたねをくださずんば、あきのみをいかんがえん)、始めなければ何も始まらない  平成18年(2006年)7月 四国六番安楽寺 山主 畠田秀峰 竹筆書   

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畠田秀峰四国六番安楽寺 山主、google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E7%95%A0%E7%94%B0%E7%A7%80%E5%B3%B0+%E7%94%BB%E5%83%8F&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=xmRNUumXOYzFkwWF1oGQBw&ved=0CCsQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

(解説) 弘法大師は、空海筆を下せば文成り、書法に於いて最もその妙を得たり、と続日本後記(835年、承和2年)にあるが、今に至っても書道においては弘法大師の右に出る人はいないといわれている。 

 その大師の末徒として、大師の書蹟を鑑賞し、学ぶことは最もよろこびとするところであり、筆を持ち遊びはじめてもう三十五年になろうとしているが、いまだに納得のゆく線の引けないままである。 

 此度、精進の筆、竹のみを使用した竹筆を用いた。この文は、弘法大師ののこされた秘蔵寶鑰の中から選んだもので、意味がわかりやすいように現代語訳を下に添えることにした。

 お盆の頃、安楽寺を訪れた時、真理の花たばのカレンダーを畠田秀峰住職から拝受、いろいろご教示いただきました。

○ 永字八法(えいじはっぽう)  書法伝授の一法。「永」の一字で、すべての文字に共通する八種の運筆法。(そく、点の祖)・(ろく、横画の祖)・(ど、縦画の祖)・趯(てき、跳の祖)・策(さく、短横画の祖)・(りゃく、撤の祖)・(たく、短撤の祖)・(たく、捺の祖)の八種を示したもの。中国の後漢の蔡邕(さいよう、132~192)の考案?という。 永字八法(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%AD%97%E5%85%AB%E6%B3%95. 蔡邕(さいよう、132~192):http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/07141000/

2009年8月24日 (月)

京都の大仏開眼法要にまつわる歴史実話、秀吉と応其、古代の道、五大老、豊臣家滅亡、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による京都大仏(方広寺)の倒壊、とは(2009.8.24)

  近世、江戸時代、日本の三大仏(さんだいぶつ)と言えば、奈良の大仏(東大寺)、鎌倉の大仏(高徳院)に次いで、京都の大仏(方広寺)が挙げられます。

 大仏は、壇越(だんえつ、施主、布施をする人)たる権力者が、聖俗の両界における自らの権威権力誇示し、また相応の功徳(くどく)を期して造立するものだと言われています。また、大規模な造仏事業は、中世以降庶民への勧進によって行われています。

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豊臣秀吉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

 京都大仏(方広寺)豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)、の発願(ほつがん)により、1586年(天正14年)着工、1593年(文禄2年)に棟上(むねあげ)し、高さ6丈(約20m)の木製坐像大仏が安置され、1596年(慶長元年)に千僧供養が営まれましたが、同年(7月13日)の慶長伏見大地震倒壊してしまいました。

 その後再建、1598年(慶長3年、8月22日)の落慶法要(千僧供養)は、豊臣秀吉木食応其(もくじきおうご)、1536年(天文5年)~1608年(慶長13年)、によって準備が進められました。導師(どうし)には、天台宗の道澄どうちょう、聖護院門跡、本山派修験道(山伏)の棟梁、とうりょう)、真言宗の空性くうしょう、法親王、後陽成天皇の弟公)、そして職衆(しきしゅう)は、天台宗500人、真言宗500人の千人僧侶でした。

 木食応其は、37才で武士を捨て、木食行人として、南海道を通り、四国の邊路(へじ、13年)、高野山(25年)で修行を積み、1585年(天正13年)の秀吉高野山攻略に際し和議を斡旋(あっせん)、秀吉の信頼は大きく、高野山は戦禍をまぬがれました。応其は、木食行人(聖)としての修行、山林抖擻(とそう)、四国の邊路を踏む修行(山伏、山岳修行で験力を得て、加持祈祷と呪法を行う行者)、木食草衣(もくじきそうえ)の苦行などを積み重ね、最後(さいご)は飯道寺(はんどうじ、甲賀)で、空海(弘法大師)と同じ、捨身の行の一つ、土中入定(どちゅうにゅうじょう、生きながら石室(石棺、岩窟)に入り、五穀を断ち、読教、死を迎える、生死を越えた修行、即身成仏)により、永遠の生命と一つになっています。

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古代の道(南海道、四国邊路、高野山(和歌山)~平安京(京都)、四国遍路の春秋 Ⅱ)

 ところで、秀吉落慶法要4日前の8月18日(63才)、死去していましたがこの喪(も)は、遺言によって伏せられたまま、1598年(慶長3年、8月22日)の落慶法要が進められました。 秀吉の死は、翌年の正月まで公表されず、1599年(慶長4年、2月29日)秀吉葬儀京都方広寺においてとり行なわれ、遺言によって、木食応其導師をつとめました。そして、同年4月、遺体京都阿弥陀ヶ峰(鳥部山)廟所(びょうしょ)埋葬されました。

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豊臣秀吉ゆかりの史跡(方広寺、豊国神社、高台寺、阿弥陀ヶ峰(豊国廟)、京都の歴史地図本

 この時、秀頼は7才、秀吉は死ぬ前に、伏見城五大老の徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景(死後、上杉景勝)、五奉行の浅野長政、前田玄以、石田三成、長束正家、増田長森、の秀頼への忠誠を誓わせ、さらに五大老に宛てて遺言状を書き、また秀頼千姫(家康の孫娘)の婚姻も約束させました。秀吉辞世の句は、露(つゆ)と落ち 露と消えにし わが身かな 難波(なにわ)のことも 夢のまた夢、でした。

 天下政治は、家康利家の意見によって決定すること、家康伏見にいて政治のことをつかさどり、利家は秀頼を守って大阪に移り、補弼(ほひつ、補佐)の役をして欲しいと遺言していたので、秀頼大阪城へ移り住むことになりました。その後、利家は、1599年(慶長4年)閏(うるう)3月3日(63才)、秀吉の死から8ヶ月足らずで、大阪で病没しました。

 その後、関ヶ原の戦、1600年(慶長5年、9月15日)、の勝者、徳川家康(62才)は、1603年(慶長8年)、天皇から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。

 ところで、京都大仏のことですが、伏見城で秀吉死去後、秀頼淀殿(よどどの、茶々、母)が、その後焼失した方広寺の大仏殿を三たび再建、金銅大仏及び梵鐘(ぼんしょう)も鋳造(ちゅうぞう)しました。ところが、、徳川家康(73才)が、1614年(慶長19年)鋳造された鐘銘中国家安康(こっかあんこう)、君臣豊楽(くんしんほうらく)の文字に難癖をつけ(家と康の字を引き裂き徳川家を呪い、臣と豊を繋いで豊臣家の繁栄を願っている)、大阪の冬の陣、1614年(慶長19年11月)、が起こり、同年12月の戦闘中止と講和、その後、夏の陣、1615年(元和元年5月)、が起こり、秀頼(23才)と淀殿は炎上する城中の蔵の中で自害し、秀吉の全国統一の25年後、豊臣家滅亡しました。また、秀吉が祀られていた豊国社(とよくにしゃ)も全て破却(はきゃく)されました。明治維新以降、豊国神社は,1880年(明治13年)、方広寺跡地(南半分)に再興されています。

 その後、徳川幕府は、1662年(寛文2年)の地震で再び壊れた京都方広寺の金銅の大仏を銭貨に鋳造、木造仏に替えましたが、1798年(寛政10年)、雷火で大仏殿と共に焼失していまいました。その後、1843年(天保14年)再建、巨大な木造の大仏胸像(高さ14m)が安置され、1884年(明治17年)、鐘楼も造られ、梵鐘が釣り下がっていましたが、1973年(昭和48年)3月27日、深夜に焼失しました。

 現在、京都国立博物館の近く、京都市東山区、7条通りを西に戻り、大和大路通(やまとおおじとおり)をに向かうと、豊国神社(とよくに、ほうこく、じんじゃ)と方広寺(ほうこうじ、天台宗)があり、どちらも豊臣秀吉とゆかりが深く、方広寺には、豊臣家の滅亡の原因となった国家安康梵鐘(三条釜座(かまんざ)名越三昌を中心に全国3000人の鋳物師によって鋳造されたもの、重要文化財)が現存しています。また、JR東海道本線(琵琶湖線)、東山トンネルの近く、阿弥陀ヶ峰(鳥部山)豊国廟では、秀吉永遠眠りについています。高台寺(こうだいじ、臨済宗、もと曹洞宗)は、北政所(秀吉の妻、寧、ねね、吉子、落飾し高台院)が秀吉菩提を弔うため、家康の許可を得て創建しました。

(参考文献) 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2000)、同Ⅱ(2008); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本、知って尋ねる京都、大和書房(2008).

(参考資料) 豊臣秀吉(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

方広寺: http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0304/mm.htm; 豊国神社と豊国廟(阿弥陀ヶ峰山頂): http://www.genbu.net/data/yamasiro/toyokuni_title.htm; 高台寺: http://www.kodaiji.com/index.html; 人生は遍路なり畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html

撫養塩田(鳴門、徳島)の歴史技術、入浜式製塩と塩田争議、流下式製塩、イオン交換膜製塩、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による撫養沿岸の隆起、鳴門渦潮、とは(2010.3.4);http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/62.html

(追加説明) ○ 古代、飛鳥時代、701年(大宝元年)大宝律令の制度のもと、702年(大宝2年)、はじめて、都(みやこ)と四国(阿波、讃岐、伊予、土佐)の国府を駅路(駅馬と泉を備えてある)、海路(船)で結ぶ南海道(なんかいどう、国道)ができました。この頃の都は、694年(朱鳥元年、8年後)、持統天皇のとき誕生した藤原京(奈良)で、律令国家の基礎が築かれました。

 この時、藤原京(都、奈良)から四国の国府へは、そこから南の橋本(紀伊、和歌山)を経由し、紀ノ川沿いの紀伊の国府を通り、賀太の港(賀太駅、紀伊)に行きます。ここから船で淡路の玄関、由良の港(由良駅、淡路、兵庫)に渡り、それから陸路、福良の港(福良駅、淡路)まで歩き、また船で鳴門海峡を渡り、四国の玄関、石隅の港(石隅駅、撫養、阿波)に着きます。ここから陸路で西の阿波の国府近く郡頭駅(こうずえき、3番札所、金泉寺近く)に行き、次ぎに右方向の北に道をとり、大坂峠(おおさかとうげ)を越えて引田駅(讃岐)に入ります。その後は、瀬戸内海を左回りで、讃岐国府(河内駅)、伊予国府(越智駅、今治近く)、松山、大洲、太平洋沿岸の足摺崎と大回りして土佐国府(頭駅)に至る道となっていました。 

 その後、南海道には、718年(養老2年)、室戸廻りの道ができ、さらに、796年(延暦15年)、立川越えの官道(国道)ができ、特に讃岐から土佐への近道が新しく開けてきました。

○ 豊臣家滅亡の原因となった方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件は、豊臣秀頼のつくった鐘の銘に言いがかりをつけ、大坂冬の陣、夏の陣を起こさせ、豊臣氏を滅亡に追い込んだ事件ですが、黒衣(こくえ)の宰相(さいしょう)、崇伝(すうでん、臨済宗、金地院崇伝、以心崇伝)、1569年(永禄12年)~1633年(寛永10年)が策略したと言われています。また、崇伝は、家康の命によって、武家諸法度(大名、旗本、武士の守る法)、禁中並公家諸法度(天皇、公家の守る法)、寺院法度(僧侶、神官の守る法)などの制定にも関与(起草)、徳川の幕藩体制を末永く支えました。

○ ところで、奈良大仏は、アマルガム法により金メッキ(水銀に金を溶かし、銅製の大仏の表面に塗り、火で炙り、水銀を蒸発させる)されていました。このは陸奥より、また、水銀は若狭より調達したと考えられています。大仏開眼よりお水取りの行事が始まっています

 東大寺の二月堂の行事、お水取り修二会(しゅうにえ)は、天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを祈願する法会のことです。若狭のお水送りは、遠敷川(おにゅうがわ、大丹生川)の上流にある閼伽井(あかい)から汲み上げられた清水(お香水、おこうすい)が約2km上流の鵜の瀬から遠敷川に注がれます。お香水は地下を通り10日の後、すなわち12日のお水取りの日に東大寺の閼伽井(若狭井)に届くとされています。この井戸から観音さまにお供えするお香水を汲み上げるお水取りの儀式が行われます。

 この時、練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明に火が灯され、人々を大いにわかせます。このため、修二会は、お水取りお松明の名で知られるようになりました。

 また、この行事は、若狭の遠敷(おにゅう、大丹生)からのお水送り水銀送り)と東大寺での松明(たいまつ)の火によるお水取り水銀取り)行事の名残とも考えられています。

 

2009年7月 9日 (木)

泉鏡花(金沢出身の作家)にまつわる歴史物語、高野聖、四国の辺地を通る僧(今昔物語)、戯曲、滝の白糸、とは(2009.7.9)

   高野山には、平安時代以来、江戸まで、 高野三方(こうやさんかた)と呼ばれる僧、学侶方(がくりょがた)、行人方(ぎょうにんがた)、聖方(ひじりかた)の三階派(明治以降は廃止、統合)がありました。聖方は、高野聖(こうやひじり)とも呼ばれ、初め高野山の念仏修行者を言いましたが、平安中期以降、諸国に勧進(かんじん)を行い、高野山に対する信仰(高野浄土)を広めました。この勧進がもと、弘法大師の伝説が日本各地に生まれました。

泉鏡花記念館(ホ-ムページ、下新町、金沢、石川): http://www.kanazawa-museum.jp/kyoka/index2.html..

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泉鏡花(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E9%8F%A1%E8%8A%B1

 泉鏡花(いずみきょうか、1873年(明治6年)~1939年(昭和14年)、作家、下新町、金沢)は、父(彫金師)清次と母(能太鼓家系)鈴の長男として生まれました。1882年(明治15年)、9才の時に母が死去し、その後は亡き母親の面影を追い求め、理想とする女性像を作品の中に次々と作り出しました。1891年(明治24年)、18才の時、東京の尾崎紅葉の内弟子として認められ、玄関番として住みこみ作家としての道を歩み始めています。その後多くの優れた作品(400編以上)を発表、有名な高野聖では、独自の幻想的な世界を確立しています。1939年(昭和14年)9月、65才で死去、雑司ケ谷墓地(東京)に埋葬されています。

 高野聖の作品は、1900年(明治33年)、27才のとき、新小説に発表しています。 高野山に籍を置く45,6才の旅僧が、越前敦賀(つるが)の旅籠屋(はたごや)に同宿した私に、寝床で話してくれた、世にも不思議な話です。その僧は、あとで聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺(りくみんじ)の宗朝(しゅうちょう)という大和尚(だいおしょう)でした。

 その話は、飛騨から信州へ越える深山の間道、天生峠(あもうとうげ)で、僧は旅の道連れになった富山の薬(反魂丹、はんごんたん)売りの後を追ったところ、大蛇(だいじゃ)に道をふさがれ、山蛭(ひる)が降ってくる森があり、その奥の宿泊を頼む一軒家には、神通自在(じんつうじざい)の嬢様(じょうさま)と呼ばれる妖艶(ようえん)な美女(亭主は白痴殿、小児)がいて、俗人の旅の男を性的な魅力で誘惑したあげく、谷川の水を浴びせて、また息を吹きかけて、兎(うさぎ)、蛇、馬、猿、蟇蛙(ひきがえる)、大蝙蝠(おおこうもり)などの畜生の姿に変えてしまう。富山の薬売りも馬に変えられていたが、旅の僧だけは、嬢様の誘惑にも負けず、御坊様としての行儀(ぎょうぎ)を守ったので、途中邪心も起こったが、百姓(親仁)の助言にも助けられ、人間の姿で里に下りて来ることができたという話です。ここでは、高野聖のあくまでも仏の道を修める人間道の姿、一方、薬売りはじめ旅の男達の愛欲に溺れる畜生道の姿を、幻想的な美しい浪漫主義文学として描き出しています。

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高野聖(鏑木清方、挿画) 

 ところで、鏡花の高野聖では、高野の旅の僧ではなく、道連れの男(富山の薬売り)が、妖艶な美女によって馬に変えられますが、一方、鏡花も愛読したと思われる、平安の後期に出た、今昔物語では、京の仏道修行の僧が、四国の深山で、妖怪の僧によって馬に変えられる話となっています。

(解説) 京の三人の仏道修行の僧が、四国の僻地(へきち)、それは伊予(いよ)、讃岐(さぬき)、阿波(あわ)、土佐(とさ)の海辺に沿ったところですが、思いがけず深い山中、人跡絶えた深い谷(異郷)に迷い込み、そこの宿泊を頼む一軒家には、60才余りの妖怪のような僧がいて、怪しげな法師に、二人の僧の肌を鞭(むち)で百回叩かせ、次々と馬に変えさせたが、一人の僧(日頃頼みにしていた本尊に、どうかお助け下さい、と心の中で祈念し続けた)だけが、途中二人の女(鬼の妻と妹)にも助けられながら、這々(ほうほう)の体(てい)で、逃げ帰ることが出来たという話です。 

 かの修行者は、そこから国々を回って京に帰って、馬になった二人の同学の僧のため、特に念入りに供養を営みました。実際に人をたたいて馬に変えるなど、信じられない。そこは畜生道(仏教の六道の一つ、牛馬など畜生の世界で、ほとんど本能ばかりで生きており、自力で仏の教えを得ることの出来ない)などであっただろうか、と僧は考え込みます。

 人間の心の発達段階を表した、空海(57才)の十住心論(じゅうじゅうしんろん、830年(天長7年)、秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)、要約版)中の第一住心、異生羝羊心(いしょうていようしん、愛欲、衣食住のことしか頭に無く、何も考えず本能のままに生きている)に相当するものです。

 この種の伝承は、「人馬」(狂言)、「旅人馬」(日本昔話大成250)にも取り入れられています。また、古くは、「利養品下」(出曜経、15)、「唐代の板橋三娘子」(太平広記、286)、「人の子、親の為に宝とみゆるためし」(宝物集、一)の条項にも出ています。

 人間道 は、人間が住む世界で、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界ですが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあり、仏になりうる救いもあるという。仏教では、人間の迷いの輪廻の世界として、この他、修羅道 (しゅらどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)があります。

 思うに、いかに身を捨てて修行するとは言っても、やたら不案内な土地(異界)に行てはならぬものだとの、かの修行者が実際に体験した話の教訓です。

(参考文献) 五来重: 増補 高野聖、角川選書(1975); 新日本古典文学大系、今昔物語5、巻第31、本朝付雑事、p.470、岩波書店(1996)、原本、1108年(嘉承3年); 日本古典文学全集38: 今昔物語集(全四冊)、巻第27~31,小学館(2002); 高木訷元、岡村圭真編: 日本の名僧、空海、密教の聖者、吉川弘文館(2003).; 泉鏡花: 高野聖、集英社(2007); 穴吹史士(文)、白谷達也(写真): 泉鏡花、「高野聖」、「婦系図」、恩師に背いた恋の行方、be on Saturday、2007年(平成19年)10月6日(土).

(参考資料) 

泉鏡花(google画像); http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B3%89%E9%8F%A1%E8%8A%B1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

○ 1108年(嘉承3年)「今昔物語(こんじゃくものがたり、古説話集)」では、「京の僧、四国の遍地を廻る」、1157年(保元2年)「梁塵秘抄(りょうじんひしょう、後白河法皇編著、今様歌謡集)では、「四国の辺道をぞ常に踏む」など、四国遍路のことが記述されています。(四国へんろ春秋、2000年(平成12年)5月1日、四国八十八ヶ所霊場六番、安楽寺住職、畠田秀峰著、より)

お遍路のススメ(友の講): http://maenaem.com/henro/sp.htm

〇 戯曲、滝の白糸は、泉鏡花の小説「義血侠血」を脚色したもの。1895年(明治28年)  川上音二郎一座により浅草座で初演。滝の白糸とよばれる水芸人と向学青年村越欣也悲恋物語。原作は1894年(明治27)11月、読売新聞に「なにがし」の署名で連載。

〇 オペラ滝の白糸」と泉鏡花記念館(ほっと石川旅ねっと、2013.8.26):https://www.hot-ishikawa.jp/hayawakari/essay/yoitoko/130826.html#tmp_header

〇 水芸(秋月流水芸宗家、秋月小夜、滝の白糸、1933、YouTube):https://www.youtube.com/watch?v=PQC-PPvobTo

2009年6月15日 (月)

空海(弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15)

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空海弘法大師、774~835、真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

(解説) 空海(弘法大師)、774~835年(宝亀5~承和2年)は、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(善通寺、香川)の豪族、佐伯(さえき)氏、直田公の父、安刀(あと)氏、玉依の母の三男として生れ、幼名は真魚(まお)と呼ばれていました。788年(延暦7年)、15才のとき都に出て、791年(延暦10年)、18才のとき大学に入学していますが、その頃は、桓武天皇が奈良の平城京を長岡京に遷都した7年後で、3年後の794年(延暦13年)に京都の平安京に2度目の遷都を行うなど、政情が非常に不安定な時期でした。

 貴族の子弟の教育機関である旧都、奈良の大学寮に18才で入学したものの中途退学し、一沙門から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を受け、20才で山岳修行僧の群れの中に身を投じたのですが、修行の道場は奈良や和歌山の山林(吉野の金峰山、紀州の高野山)から故郷の四国の山や海(阿波の大龍嶽の頂上と近くの洞窟、土佐の室戸御崎の洞窟、伊予の石槌山)に及んでいます。

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の写真: 大龍嶽の空海像大龍嶽、21番札所、大龍寺、徳島)                                  の写真: 室戸御崎の洞窟御厨人窟、24番札所、最御崎寺、高知)

舎心ヶ嶽(第21番札所、大龍寺奥の院、徳島): http://tadashimatunaga.web.fc2.com/88okunoin/okunoin_tokusima/18.htm#top.

御厨人窟(第24番札所、最御崎寺奥の院、高知): http://www.geocities.jp/hi_hotaka/life/shugyo/temple241.htm.

(解説) 空海は、797年(延暦16年)、24才のとき、儒教と道教と仏教を比較して、仏教の優位性を示した戯曲、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(官吏になるための難解な試験対策への解答、すなわち、大学入学での学習成果を披瀝した報告書、とも考えられています)、後に序文と後書きを加え、本文の誤謬を修正した「三教指帰(さんごうしいき)、上、中、下の3巻」(唐への留学の資格試験の審査参考資料として朝廷に提出したものとも考えられています。また、出家宣言とも考えられ、この下巻の中で、老いた両親への親孝行ができず、先だった二人の兄への思いに涙が止まらず、仕官も進退極まり、来る日も来る日も、嘆き悲しく、うろたえるばかりです、が、自分は仏道の道に進む、という強い出家の覚悟を仮名乞児(かめいこつじ、空海の化身)に代弁させたものとも考えられています)を著しています。空海の唐(中国)への留学に至る20~30才の頃の10年間の修行の様子は、これらの著書以外にはなく、今も多くの謎につつまれています。

 その後、804年(延暦23年)、31才のとき、第16次遣唐使船により入唐し(このとき、留学した最澄は正式な官僧なので問題はないのですが、一方空海は一介の私度僧の立場であり、朝廷への留学の推薦、留学僧資格試験、膨大な留学資金の支援などについて、謎が多い)、当時の世界都市であった長安に行き、青龍寺(せいりゅうじ)に住む恵果(けいか)と出会い、805年(延暦24年)、師からインドから伝わった本流の密教のすべての法を伝授されています。

 空海が日本に帰ったのは、806年(大同元年)、33才のときですが、当初20年間の留学期間をわずか2年に縮めての勅許による謎めく帰国でした。その後の空海の活躍は目覚ましいものがあり、宗教の世界ばかりでなく、文学、思想、また、社会事業家(満濃池の築堤、綜芸種智院の創設など)として花開いています。

 空海の巨大な謎を秘めた活躍のなかで忘れられないのは、紀伊国(和歌山)における高野山金剛峯寺創設(嵯峨天皇による高野山下賜)です。空海はこの山岳霊場を密教(大日如来を中心に、あらゆるものが共存共栄する、心を形に表した曼荼羅の世界)の修行道場として開いたのですが、ここはまた古代から水銀の採掘地でもあり、高野山の奥の院をはじめとするこの山の聖地一帯には、現在も水銀や金、銀、銅などの鉱石が埋蔵されていると言われています。高野山は、以前は丹生明神(にうみょうじん)が祀られ、丹生氏が支配していましたが、空海は、はじめ奥の院の洞窟、のちに近くに建てたお堂、お寺の中でも修行し、人生の最後は、もとの奥の院入定(にゅうじょう)したものとも考えられます。

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高野山奥の院高野山、金剛峯寺、空海の廟所、和歌山)  高野山奥の院(高野山内を巡る、YouTube、高野、和歌山): http://www.youtube.com/watch?v=gWoQGqI9V1U.

(解説) 日本各地に水銀を意味するの名のつく地名(丹生、丹波など)が残っていますが、これはその地域で水銀鉱石(朱色の硫化第二水銀、辰砂)や、赤色顔料(丹朱)を産出していた証拠です。来世での再生を願って遺体を保存するミイラ作りにも水銀は必須で、日本でも縄文の古墳でも朱の水銀鉱石は重用され、古代から戦国時代に至るまで、そうした鉱物資源の採掘、製錬の秘密を握り、鉱業に従事する山の民を指導したのは山岳宗教者でした。水銀の神をまつる丹生神社の分布高野山伊勢周辺の中央構造線上に多く分布): http://www.geocities.jp/tyuou59/nibujnnjyabunnpu.html

 空海は、その山岳宗教者の間で若き日を過ごしたものと思われます。このことは、四国八十八ヶ所の約半数の霊場が、著名な銅及び水銀を産出する鉱山が存在する地質の中央構造線の外側に分布することとも深いつながりがあると考えられ、空海の密教山相ラインと呼ばれています。

 空海は、835年(承和2年)、62才のとき、高野山奥の院の裏側の洞窟の中で入定し、永遠の命の本源に帰って行きました。その86年後、921年(延喜21年)、第59代醍醐天皇は、夢枕に立つ空海の徳を称え、弘法大師の称号を下賜されました。

  私は、2001年(平成13年)8月頃、四国霊場、21番札所、大龍寺(大龍嶽、阿波、德島)を訪れたことがあります。マイカー(ファミリア1500CC)、ロープウエイにより、弟(悟)と二人で大龍寺を参拝した後、さらに大龍嶽の頂近くまで歩いて登ったところ、渓谷に向かって修行している空海の坐像が目につき、強く印象に残っています。

 また、それまでに、室戸御崎の洞窟(御厨人窟)と24番札所、最御崎寺(高知)には、弟(悟)と一度、高野山奥の院(高野山、空海の廟所、和歌山)には、家内(尊子)と数回訪れ参拝したことがあります。

(参考文献) 高木訷元、岡村圭真編: 日本の名僧、空海、密教の聖者、吉川弘文館(2003).; 佐藤任、堀井順次、本城清一、柚木伸一、若尾五雄: 真言密教と古代金属文化、東方出版(1991).; 大森崇編: 密教の本、驚くべき秘儀・修法の世界、大日本印刷株式会社(1992). ; 増田秀光編: 空海の本、密教最大の聖者の実像と伝説を探る、大日本印刷株式会社(2006).

(参考資料) ○ 弘法大師と高野山(高野山真言宗、総本山金剛峰寺): http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/about/kobodaishi_koya/index.html

○ 四国遍路の歴史

空海(弘法大師)(google 画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A9%BA%E6%B5%B7%EF%BC%88%E5%BC%98%E6%B3%95%E5%A4%A7%E5%B8%AB%EF%BC%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi.

四国遍路の歴史(德島県立博物館): http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/henro2.htm

四国遍路の展示物(香川県立博物館): http://www.geocities.jp/miyukiso7/minitenhon.htm

人生は遍路なり畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html 

(追加説明) ○ 空海(弘法大師)と二人づれの四国遍路、同行二人(どうぎょうにん)の信仰は、捨身の行(しゃしんのぎょう)の一つ、土中入定(どちゅうにゅうじょう)にあると考えられています。空海(弘法大師)は、835年(承和2年)1月に五穀を断ち始め、3月10には水も断ち、それから7日後には、高野山の奥の院の岩窟に入られました。

 お弟子達は、空海の指示に従い、その岩窟の入口に自然石を積み、その口を塞(ふさ)ぎました。これは、石小詰(いしこづめ)という葬法です。自然石の隙間(すきま)から空気が通り、空海の御真言の読教が聞こえていましたが、3月21日には、いくらその岩窟に耳を近づけても聞こえなくなりました。空海(弘法大師、62才)は、生死を越えた修行によって、永遠の生命と一つになって行きました。その後、どこからともなく、お四国でお大師さまに出会ったとの噂(うわさ)を耳にするようになりました

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(参考文献) 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋 Ⅱ、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2008)、

○ 世界遺産 高野山空海の聖地 紀伊山地の霊場と参詣道、2007年(平成19年)9月20日(木)、NHK放送によれば、

 弘法大師、空海は、24才の時、出家の宣言書(三教指帰)を書き、その後、修行の場を紀伊の山に開きました。

 町石道(ちょういしみち)には、町石と呼ばれる道標(みちしるべ)が1丁ごとに立っています。高野山に詣でる人々が迷わないためです。巡礼者は町石を仏と見なし、参拝しながら歩きます。町石道を歩いて20km、標高800mの山頂に空海の開いた真言密教の霊場が現れます。平安時代の初めに建てられた大伽藍(だいがらん)、鮮やかな朱色(しゅいろ)の塔は、真言密教の根本大塔で、空海の開いた真言密教の教義を表した空間です。大日如来(だいにちにょらい)は宇宙の根本原理を示す最も重要な仏です。

 奥の院の空海廟、空海はここに眠っています。この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける。そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。835年のことです。

 空海の死後、高野山は200年以上にわたって荒廃します。平安中期に立ち上がったのは、空海の徳を慕った他宗派の僧たちでした。国宝、仏涅槃像(ぶつねはんぞう)、復興にあたった僧たちが絵師に描かせたのは、真言密教の大日如来ではなく、全ての仏教徒に受け入れられる釈迦如来(しゃかにょらい)でした。

 釈迦の臨終に接して慟哭(どうこく)、嗚咽(おえつ)する弟子たち、復興にあたって僧たちは、この仏画を中心に法会を開き、資金を集めたと言われています。

 幅広い信仰を集めるようになった高野山には、さまざまな宝物(ほうぶつ)が納められました。八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)、鎌倉時代に活躍した仏師(ぶっし)、運慶(うんけい)とその弟子たちの作とされています。豊かな肉体表現と凛々(りり)しい表情、生き生きとした目には水晶が入っています。

 国宝、阿弥陀衆生来迎図(あみだしゅじょうらいこうず)、人が死ぬ時には阿弥陀如来が迎えに来てくれるという、浄土信仰(じょうどしんこう)に基づいて描かれた傑作です。もとは比叡山の秘宝でしたが、織田信長の焼き討ちの時に持ち出され、それを入手した豊臣秀吉が高野山に奉納したと言われています。

 空海の眠る奥の院への参道には、無数の墓石が立ち並び、中には公家や大名の墓もあります。無縁仏となった墓碑や地蔵が積まれた巨大な塚、聖地高野山の空海の膝元(ひざもと)で永遠の眠りにつきたい、そう願った無数の人々の思いの結晶です。

○ 1157年(保元2年)、梁塵秘抄(りょうじんひしょう、今様歌謡集、後白河法皇編著)の中に、「はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろずの仏に 疎(うと)まれて 後生(ごしょう) わが身をいかにせん」と、全ての仏たちに見放された人々の切ない歌があります。法然上人は、そのような人々も念仏により阿弥陀如来によって救われる(浄土信仰!)という(五木寛之、親鸞(激動編、229~231)、2011年(平成23年)8月23日~25日、北陸中日新聞、朝刊より)。 

 梁塵秘抄(法文歌、はかなきこの世を過ぐすとて ---、名句に学ぶ死生観): http://www.geocities.jp/yccfh851/newpage24.html. はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万(よろづ)の仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん(はかないこの世を生きていこうとして、海や山で生き物を捕らえているうちに、多くの仏に遠ざけられてしまった。来世の自分の身をどうしたらよいのだろうか。 この歌では、救いとなるべき阿弥柁の誓いにふれていないため、より深い悲しみがあふれ、切実な嘆きが伝わってこよう。植木朝子、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)

○ 四国霊場八十八ヶ所の奥の院(もと洞窟、のち、小屋、お堂、お寺へ)にお参りすると、本当の四国遍路の意味が分かると言われています。

四国霊場、奥の院物語(四十八ヶ所を紹、川東和夫): http://www.fmkagawa.co.jp/staff/ohenro/okunoin0.htm

 四国遍路の始まりは、四国の辺路修行で、空海(弘法大師)もその道を辿り、後に空海の跡を慕った修行者が辺路修行を行い、さらに一般の人もお参りするようになり、辺路(地の果て、海と陸との境)が遍路になったと言われています。(参考文献) 五来重: 四国遍路の寺、上、下、角川学芸出版(2009). 

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 我等が修行せし様は、忍恥袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け、又笈(おい)を負ひ、衣は何時となく潮垂(た)れて、四国の邊路(へじ)をぞ常に踏む。(1157年(保元2年)、梁塵秘抄、後白河法皇編著、四国八十八ヶ所霊場六番、安楽寺住職、畠田秀峰、四国へんろ春秋(2000)、より)

お遍路のススメ(友の講、梁塵秘抄の解説含む):http://maenaem.com/henro/sp.htm

○ 江戸時代四国遍路(八十八ヶ所)の1番の霊山寺から始まる札所の番号付けの根拠として、1687年(貞享4年)、真念(しんねん、生没不明、頭陀聖、ずだひじり、遍路門付)が四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)を執筆し、はじめて札所に番号を打ち、、四国遍路の霊験や功徳にまつわる伝承をまとめて出版、また遍路の便を図るために、遍礼屋、善根宿の開設と普及、標石の設置などを行いました。

 八十八ヶ寺の中には、真言宗系以外のお寺が八ヶ寺(11、15、33、43、76、78、82、87番など)ほどあり、そこにも大師堂があり、不思議な感じがしますが、お寺の改宗もあったと伝えられています。1番霊山寺の開祖は行基(ぎょうき、法相宗)、668年(天智天皇7年)~749年(天平21年)ですが、本尊は釈迦如来、宗派は高野山真言宗となっています。

 この霊山寺は大麻山(おおあさやま、海抜536m)から下りてきたと推定されています。というのは、その山の中腹に大麻比古神社(阿波一宮)があって、ここを奥の院とすることは、江戸時代の初期は神仏習合が残っており、もと霊山寺が大麻比古神社の境内にあった寺であり、そこから1km下って現在地に移ったのだろうということです。また、ここが第1番となったのは、信仰上の問題より、本土より四国に渡るには、鳴門市の撫養(むや)が最も便利だったからです。また、御詠歌は、霊山の釈迦の御前に巡り来て、万の罪も消え失せにけりと、四国遍路は、罪を消すため、減罪のための遍路であることを、歌っています。(五来重、四国遍路の寺、下、角川ソフィア文庫(2009)より)

○ 最澄と空海の生き方について、次のような解説があります。最澄と空海は同時代の人である。最澄が神護景雲元年(767)生れ、空海は7年後の宝亀5年(774)の生れである。二人の生きた時代は、平城京から長岡京、さらに平安京へと三度も遷都するような、律令体制の動揺期であった。

 延暦23年(804)、桓武天皇の命を受けて、最澄・空海ともに遣唐使の一行に参加することとなり、空海は第一船で、最澄は第二船でそれぞれ入唐した。最澄は明州に着き、天台山に入った。最澄の天台山入りの目的は、入唐前からいだいていた天台の信仰を天台山で確かめることにあった。空海は長安京に入って西明寺に留まり、のち青竜寺において真言密教の権威・恵果の指導を受けた。空海の持ち帰った経論は、216部451巻という。

国清寺(最澄、留学、天台山、中国): http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/kokusei.htm

青龍寺(空海、留学、西安、中国): http://www.arachina.com/attrations/xian/qingls/index.html

 最澄は翌年帰国し、天台宗を開き、勅願を得て、叡山の草堂を延暦寺とし、経王護国寺を与えられ真言道場とした。空海は2年後に帰朝し、弘仁2年(816)、高野山に金剛峰寺を建てた。この年、弟子の去就をめぐる争いから最澄と空海は親交を絶った。

 両者は、平安仏教の開創者として、また双璧として、しばしば生き方が比較される。最澄は死ぬまで、仏教の旧勢力である南都仏教と争った。逆に空海は思想的に弾力性に富み、ことをあらだてずに生きた人であった。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、p.117、1994、より)

○ 空海は、815年(弘仁6年)3月、42才、勧縁疏を著し、東国の弟子に遣わし、新請来の密教経論の書写流布と如法の修行を依頼し、また、秋には西国(筑紫)にも密教経論の書写を依頼しています。816年(弘仁7年)6月19日、43才、高野山を修禅の道場の地として乞い、7月8日、高野山開創が勅許されました。821年(弘仁12年)5月27日、48才、讃岐国、満濃池の築池別当に補せられました。

 822年(弘仁13年)、49才、東大寺潅頂道場が創設され、空海に修法が命じられました。この年に最澄(56才)が比叡山寺中道院にて入寂。823年(弘仁14年)1月19日、50才、東寺(京都)が永く空海に給頂され、東寺に真言宗僧50人を住せしめました。

 828年(天長5年)、55才、綜芸種智院(庶民のための私立学校)を創設。830年(天長7年)、57才、十住心論、10巻を撰述。832年(天長9年)8月23日、59才、高野山にて万燈万華の法会を修す。835年(承和年)2月30日、62才、金剛峯寺定額寺となし、同年、3月21日、高野山にて入定しました。

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