カテゴリー「● 造園(庭園の起源、歴史、日本三名園、中国三名園)」の4件の記事

2013年9月13日 (金)

芸術と数学(絵画や庭園の美にひそむ数理、黄金比)、富嶽三十六景の富士山と波、竜安寺の方丈庭園と石、とは(2013.9.13)

 いつの頃か、絵画や庭園などの芸術作品の美には、黄金比などの数理がひそんでいる、との指摘があります。そこで、富嶽三十六景の富士山と波、竜安寺の方丈園と庭石などの背後にある数理的な考え方について、改めて調べてみました。

○  富嶽三十六景の富士山と波 

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富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい、神奈川沖浪裏、江戸時代後期、浮世絵師・葛飾北斎作)

 (解説) 富士山はとても小さく、波はとても大きく描かれています。葛飾北斎((かつしかほくさい、1760~1849)の絵画は大胆かつ奇想天外な構図をしています。しかし、北斎は感覚だけでこの構図を思いついたのではなく、定規とコンパスを使って幾何学的に作図をして描いていたという。

 北斎の作図の方法は、まず、紙に2本の対角線を引きます。次に、左下の隅を中心として、紙の縦の長さを半径とする4分の1の円弧を描きます。

 次に、できあがった線を富嶽三十六景に重ねると、下図のようになります。すなわち、左下の隅から引いた対角線と円弧の交わるところが波の先端、左上の隅から引いた対角線と円弧の交わるところが富士山の頂上になっています。

 実際は、これだけではなく、全部で3本の直線と19本の円弧で数学的に計算した構図で描かれていると言われています。

 また、富嶽三十六景には、黄金比(おうごんひ)が見られる、とのことです。黄金比、すなわち、黄金分割(おうごんぶんかつ、一つの線分を外中比に分割)は、1:(1+√5)/2、(ほぼ1対1.618; 5:8)のことです。これは、長方形の縦と横との関係など安定した美感(ピラミッド、パルテノン神殿、ミロのビーナスなど)を与える比、とされています。 

○ 竜安寺の方丈庭園と石

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竜安寺の方丈庭園(りょうあんじほうじょうていえん、石庭 、右京区、京都

(解説) 竜安寺の方丈庭園の石庭には、西欧手法の遠近法だけではなく、当時、ヨーロッパ庭園で流行した黄金分割の手法が見られると指摘されています。

 すなわち、方丈から見て、まず右側から1:1.618の黄金比の長方形をつくり、対角線を引くと5組の石郡の内、3組がその線上にぴたりと並びます。

 次に、この対角線を延長し、塀との交点から垂直な線を引くと、もう一つの黄金比の長方形の対角線となり、残る2組の石郡の一つが線上に並びます。

 
 そして、残る一組の石組も、逆手から造られた黄金分割線上と黄金比の長方形の交点上にぴたり重なります。

 この他、石庭そのものが12×24メートルという2つの正方形に分割され、やはりここにも西欧の整形式庭園の手法が認められます。すなわち、竜安寺の造形意図は、西欧手法による幾何学性にあると言えます。

 ということで、竜安寺石庭の作庭者は、西欧の技術に明るかった小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)ではないかと推察されています。

(参考資料) ○ 富嶽三十六景(NHK高校講座、美術と数学、秋山仁):http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/suugakukiso/archive/resume019.html. 

 美の背後に潜む数理(東京理科大学理数教育センター長 秋山仁):http://mathsoc.jp/publication/tushin/1702/1702akiyama.pdf

○ 富嶽三十六景(おらが富士、佐藤一): http://www.plantatree.gr.jp/oragafuji/message/sato_hajime.html.富嶽三十六景では、富士山で使った稜線を表す曲線が、指数関数(y=eX)でも表されるという。

○ 竜安寺方丈庭園(庭志から庭師へ、松原克弘、京都): http://ameblo.jp/matsu-niwa/entry-10370124021.html

○ 小堀遠州(大名、茶人、造園家)にまつわる歴史秘話、加賀3代藩主前田利常にあてた書状の発見、長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3字の筆跡、頼久寺(高梁市、岡山)の庭園、砂糖の道、とは(2011.3.14): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/166.html

○ 数字(大数、小数)と図形(黄金比、白銀比)にまつわる歴史実話、東洋、西洋の思考、感性の違い、デジタル(二進法)とアナログ(フーリエ解析)のコンピュター(計算機)、とは(2009.9.5): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/28.html

2011年7月21日 (木)

日本庭園の起源(祭祀の場)、環状列石(ストーンサークル、縄文時代)、環濠(弥生時代)、前方後円墳(古墳時代)、日本庭園の歴史、坪庭、とは(2011.7.21)

   日本庭園は、歴史的には、古くは祭祀(さいし、まつり、神や祖先を祭ること)、儀式(ぎしき、公事・神事・仏事などの行事)のに始まり、その後、饗宴(きょうえん、もてなしの酒盛り)、逍遙(しょうよう、散歩とも)、接遇(せつぐう、接待とも)などのとして、あるいは観賞(かんしょう、見て楽しむこと)の対象となりました。

 庭園(ていえん)とは、広辞苑(第6版)によれば、「観賞・逍遙などのため、樹木を植え、築山・泉池などを設けた庭。特に計画して作った庭。日本庭園。洋風庭園。」、とあります。

○ 日本庭園の起源環状列石、環濠、前方後円墳、縄文・弥生・古墳時代)

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大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、大湯ストーンサークル縄文時代、十和田、鹿角市、秋田、google画像) 大湯環状列石(文化遺産オンライン、文化庁):http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=137714

(解説) 縄文時代(じょうもんじだい、紀元前12000年~紀元前500年頃)、環状列石(ストーンサークル)は、石あるいはいくつかの石を組み合わせたもの(配石遺構、はいせきいこう)を環状に配置するもので、環の直径は約10~50mほどです。大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、十和田、鹿角市、かづのし、秋田)は、単位となる配石遺構が墓群であることが明らかにされており、祖先や自然に対する「祭祀、さいし、まつり」の場であったと考えられています(小林達夫氏、1937~ 、考古学、より)。これらは、広い意味での庭園と見ることもできるという(小野健吉氏、1955~ 、日本庭園史、より)。

 弥生時代(やよいじだい、紀元前400年~300年)は、水田稲作を基盤とする社会が形成された時代です。弥生時代中期に造営された田和山遺跡(たわやまいせき、松江市、島根)は、集落では春に豊作を祈り、秋には稔りに感謝する「祭祀、さいし、まつり」の場と考えられています。

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田和山遺跡(たわやまいせき、環濠、弥生時代、松江市、島根、google画像) 田和山遺跡(松江市ホームページ、島根):http://www1.city.matsue.shimane.jp/k-b-k/bunkazai/bunkazai/kouennado/tawayama-park/tawayama/cyousakeika/02a.html

(解説) 田和山遺跡(たわやまいせき、松江市、島根)の発掘調査では、宍道湖(しんじこ)を望む丘陵(きゅうりょう)の中腹にめぐらされた三重の環濠(かんごう、周囲に堀をめぐらせること)が明らかにされ、濠(ほり、堀)で守られた形の頂上部では多数の柱穴が見つかっています。つまり「祭祀、さいし、まつり」の場は、眺望の優れた場所に集落防御の象徴である環濠(かんごう)をめぐらせていました。これも、広い意味での庭園と見ることもできるという(小野健吉氏、日本庭園史、より)。

 古墳は、当時の支配者であった豪族(首長)の墓ですが、3世紀(弥生時代)から8世紀の初め(飛鳥、白鳳時代)にかけて築造されています。これらは、朝鮮半島の百済(くだら)からの仏教伝来の影響によるものと考えられます。 一般に、古墳は、気候が温和で水に恵まれ米作に適した土地や平野や海を見下ろす景勝の台地に築造されています。こうした場所は、人が集まり集落が出来やすく、富と権力を握った豪族がよく現れました。

 古墳時代(こふんじだい、300年半ばから700年末頃)には、地域を治める豪族、首長階級の墳墓(ふんぼ)として盛土(もりつち)による大型の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が出現しています。前方部は矩形(長方形)で本来は「祭祀、さいし、まつり」の場であり、その後方に遺体を納める円丘がついています。

 その後、5世紀まで、鹿児島県から岩手県に及ぶ巨大前方後円墳(200m超の前方後円墳は、全国で37基、うち34基が近畿で、奈良県19基、大阪府14基、京都府1基)が現れ、大王(歴代天皇)だけでなく、有力豪族も競って造営したと見られています。

 権力の象徴であった前方後円墳は、6世紀に入ると急速に規模を縮小、7世紀に入ると姿を消し、円墳、方墳、八角墳へと小規模化し、横穴式石室など普及しています。これは、国の形の変化など考えられています。(歴ナビ、旅する日本史、迫れ 巨大古墳の謎、2010年(平成22年)9月25日(土)、朝日新聞、朝刊より)

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行燈山古墳(あんどやまこふん、前方後円墳古墳時代、崇神天皇陵(すじんてんのうりょう、第10代、生没不明)、天理市、奈良、googleがぞう) 行燈山古墳(崇神天皇陵、天理市、奈良): http://www.city.tenri.nara.jp/kanko/walk/himiko/course.html

(解説) 周濠を持つ前方後円墳の最初期のものとして、400年前半に築造されたと見られる行燈山古墳(あんどやまこふん、崇神天皇陵、すじんてんのうりょう、第10代、生没不明、天理市、奈良)と少し遅れて築造されたと見られる渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん、景行天皇陵、けいこうてんのうりょう、第12代、生没不明、天理市、奈良)があります。これらの古墳は、傾斜地に造られていますが、墳丘の周囲に水面をめぐらせるために、周濠を区切る堤を築いて水面は階段状にするという技法を採用しています。

 古墳周濠(しゅうごう、古墳の周囲に掘られた堀)の意味については、水稲耕作を基盤とする初期ヤマト政権の中心、大和(やまと)、河内(かわち)の首長、豪族たちが、農耕祭祀(さいし)をつかさどり、豊かな水を保障する呪的(じゅてき)な機能の役割を演じていたと考えられています(白石太一郎氏、1938~ 、考古学、より)。多くの墳丘は全面が葺石(ふきいし)で覆われた石の山で、水面と墳丘の織りなす景観は美しく、広い意味での庭園と見ることもできるという(堀口捨巳氏、1895~1984,建築史、より)。 

 ということで、日本庭園の起源は、環状列石(ストーンサークル、縄文時代)、環濠(弥生時代)、前方後円墳、湧水・流路祭祀の場(古墳時代)など、遺跡発掘の調査に基づく考古学的な解釈から、祭祀もしくは儀式の場として認識させられるという。  

(参考文献) 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史辞典、岩波書店(1999); 小野健吉: 日本庭園-空間の美の歴史、岩波新書(2009).

(追加説明) ○ 日本庭園の歴史  縄文・弥生・古墳時代(日本庭園の起源、環状列石、環濠、前方後円墳) 

 飛鳥時代(朝鮮の百済、新羅から伝来の庭園、宮廷の儀式や饗宴(きょうえん)のための庭園、方形池、石の像、曲池) 酒船石(さかふねいし)遺跡の庭園遺構(祭祀の場、7世紀半ばに百済の渡来人が築造、明日香村、奈良、ストーン・ワーク):http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tetsuzan/web/sakafune-iseki.htm

 飛鳥(あすか)の語源については、朝鮮半島から飛んできた鳥、すなわち渡来人を意味しているとの説もあります。663年(天智天皇2年)、白村江(はくそんこう、はくすきのえとも)で唐(とう、中国)・新羅(しらぎ、朝鮮)軍と日本・百済(くだら、朝鮮)軍が戦い、百済を救援した日本軍は敗れ、百済は滅亡、その時、多数の百済人が日本に渡来(亡命)しました。 白村江の戦い(錦江近郊、韓国): http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm; 飛鳥京(奈良): http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukakyo2.htm.)

 奈良時代(中国の唐から伝来の庭園(宮殿庭園)に基づく日本独自のデザインの庭園(曲池、州浜の護岸、自然石の景石・石組)、儀式(公事)や饗宴(きょうえん、節会、曲水宴)の場としての庭園、寺院と庭園(園池、仏教文化) 猿沢池園地(さるさわいけえんち、興福寺南花園の池、奈良公園ガイド、奈良県):http://nara-park.com/annnai2_6.html

 平安時代(日本独自のデザインがさらに洗練された庭園、池庭、寝殿造庭園、浄土庭園、院御所の庭園) 神泉苑(しんせんえん、東寺真言宗の寺院の園池、禁苑(きんえん)、すなわち、桓武天皇専用の庭園、行幸、曲宴、饗宴にも使用、二条城の南方の木立の中、中京、京都、京都・大阪スポットガイド): http://www.kyoto-osaka.com/guide/spot/0025_shinsenen.html. 浄土庭園(じょうどていえん、平等院、日本の名園、40庭、宇治、京都):http://members3.jcom.home.ne.jp/seiwaen.asano/byodouin.htm

 鎌倉・室町時代(京都の有力貴族による寝殿造庭園、武家・禅宗の隆盛と庭園文化・デザインへの影響、無窓礎石(むそうそせき)による眺望を生かした構成・石組の庭園、禅宗思想に基づく枯山水(かれさんすい)の庭園) 曹源池庭園(そうげんちていえん、天龍寺、夢窓礎石作庭、嵐山や亀山を借景とした庭園、嵯峨、右京区、京都): http://www.mario-k.net/kyoto/shaji/126.html; 方丈庭園(ほうじょうていえん、竜安寺枯山水、日本の名園、40庭、右京区、京都): http://members3.jcom.home.ne.jp/seiwaen.asano/ryoanji.htm

 室町後半・安土・桃山時代・江戸初期(戦国時代、戦国大名の居館(本館)の枯山水の庭園、庭園文化の地方への広まり、京都の町衆による草庵の茶の芽生え、千利休による侘茶(わびちゃ)の大成、茶室にいたる庭園空間としての露池(ろじ、茶庭)の成立、千利休から古田織部、小堀遠州へ、江戸時代の庭園・建築などにも大きな影響を与えることになりました。また、書院造庭園(庭景、景石、豪華な石組、珍しい植栽)が確立) 一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき、10ヶ所余りの庭園遺構、城戸ノ内町、福井市、福井): http://www.city.fukui.lg.jp/d620/bunka/iseki/; 狐篷庵(こほうあん、江戸初期、茶室と露池(茶庭)、忘筌、ぼうせん、小堀遠州作庭、大徳寺山内に創建した塔頭(たっちゅう、小さな寺院)、増田建築研究所、紫野、北区、京都): http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/jap/hstj/kita/kohouan1.html

 江戸時代(池庭、露地(茶庭)、枯山水などの技法を組み入れた総合庭園様式の回遊式庭園(かいゆうしきていえん)の成立、江戸や各領国の大名屋敷の中の接待・社交の場としての大名庭園、京都、江戸のほか全国各地での作庭と庭園文化の広まり、寺社のほか上級武士、豪商、豪農の屋敷での庭園の営み、庶民の興味をひく観光の対象としての庭園文化の成立) 桂離宮(かつらりきゅう、京都の庭園と伝統建築、桂、西京区、京都): http://www.zoukei.net/kyoto.htm. 兼六園(けんろくえん、ホームページ、大名庭園、金沢、石川):http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/

 明治・大正・昭和時代(洋館と一体、イタリア式庭園(幾何学式庭園、丘陵部斜面、芝生含む)、フランス式庭園(平面幾何学式庭園、広大な芝生含む)、大規模な別荘庭園、邸宅庭園、従来の日本式庭園がイギリス式庭園(風景式庭園、広大な苑池、芝生含む)の影響を受けて現れた新しいタイプの日本式庭園(明治式、近代式、当世流など)、自然主義風景式庭園、芸術、環境としての庭園、公共造園、庭造りも自由となり、急速に流行、一般の民家にも普及) 神苑(しんえん、平安神宮、公共造園、国指定文化財等データベースWeblio辞典、岡崎西、左京区、京都): http://www.weblio.jp/content/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E8%8B%91

○ 庭、場(にわ)は、広辞苑によれば、①広い場所.物事を行う場所。②邸内または階前の、農事に使う空地。③草木を植え築山・泉池などを設けて、観賞・逍遙などをする所。庭園。④波の平らかな(漁業を行う)海面。転じて、穏やかな天候。日和(ひより)。⑤家の出入口や台所などの土間。⑥家庭、とあります。 

○ 坪庭(つぼにわ)は、屋敷内の庭園。中庭。中庭(なかにわ)は、建物に囲まれるように、その間にある庭。内庭。内庭(うちにわ)は、家の棟と棟と、または室と室との間にある庭。中庭。壺庭。  

 日本庭園の歴史をたどると、坪庭(つぼにわ)が現れるのは、京都、江戸のほか全国各地での作庭と庭園文化の広まりを見せた、江戸時代の終わり頃と考えられます。そのルーツは、千利休の露地(茶庭)にあるという。

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坪庭(つぼにわ、お茶屋、志摩、東山、金沢、google画像) 

(解説) 京都金沢のうなぎの寝床と呼ばれる奥に長い町家、料亭などには、心を癒(いや)す落ち着きのある坪庭(つぼにわ)があり、黒松、五葉松、羅漢槙(らかんまき)、紅葉、ヤツデ、青木、オモト、シダなどの草木を植え、苔(こけ)むした石灯籠や庭石(景石)、飛石(とびいし)、蹲い(つくばい、石の手水鉢)などが置かれていて、日本の自然景観を小さくした見立ての世界がありました。(小林忠雄、北陸大学教授、金沢らしさ、坪庭空間の美学機能的な癒しの世界、2011年(平成23年)3月6日(日)、北陸中日新聞、朝刊より)

 風情ある坪庭(つぼにわ、お茶屋、志摩、金沢、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&pq=%E5%9D%AA%E5%BA%AD%EF%BC%88%E3%81%8A%E8%8C%B6%E5%B1%8B%E3%80%81%E5%BF%97%E6%91%A9%E3%80%81%E9%87%91%E6%B2%A2%EF%BC%89&xhr=t&q=%E5%9D%AA%E5%BA%AD%E3%80%81%E3%81%8A%E8%8C%B6%E5%B1%8B%E3%80%81%E5%BF%97%E6%91%A9%E3%80%81%E9%87%91%E6%B2%A2&cp=10&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&biw=1024&bih=552&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.&wrapid=tljp1311393996437091&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

○ 作庭記(さくていき)は、平安時代に書かれた日本最古の庭園書です。鎌倉時代から江戸時代中頃までは「前栽秘抄(せんざいひしょう)」と呼ばれていました。前栽(せんざい)は植栽(しょくさい、植え込み)を主とした寝殿の前庭を指し、寝殿造の庭園の意匠と施工法を文章で説明しています。 

 その編著者については、同書に見える高陽院修造の記述などから、藤原頼道(ふじわらよりみち、992~1074)の子(橘俊遠の養子)で修理大夫(しゅうりだいぶ)を長年勤めた橘俊綱(たちばなのとしつな、1028~1094)とする説が有力で、11世紀後半にはその大本が成立したものと見られています。

作庭紀(さくていき、概要、データ):http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/sakuteiki/sakuteiki.html

 私は、京都でいた頃、何回か訪れ、観賞、逍遙した、金閣寺、銀閣寺、桂離宮、修学院離宮、龍安寺、西芳寺(苔寺)、神泉苑、平安神宮神苑、平等院などの日本庭園の何とも言えぬ美しさが強く印象に残っています。

2011年3月14日 (月)

小堀遠州(大名、茶人、造園家)にまつわる歴史秘話、加賀3代藩主前田利常にあてた書状の発見、長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3字の筆跡、頼久寺(高梁市、岡山)の庭園、砂糖の道、とは(2011.3.14)

  江戸時代前期、近江小室藩(おうみこむろはん、滋賀)の初代藩主(1万余石)、茶道遠州流の祖、小堀遠州(こぼりえんしゅう、もと政一、1579~1647)が、加賀3代藩主、前田利常(まえだとしつね、1593~1658)にあてた書状を、2009年(平成21年)春頃、美術商男性(71才)が、骨董市(こっとういち、名古屋)で入手したという。1642年(寛永19年)から1646年(正保3年)の間に書かれたもので、10月6日付で、遠州から利常を指す「中納言様」あてになっていて、小堀の名があるほか、署名の花押(かおう)は、遠州が晩年に用いた型と一致し、真筆(しんぴつ)と確認されました。

○ 加賀3代藩主、前田利常にあてた書状

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小堀遠州から加賀3代藩主、前田年常あての書状、2009年(平成21年)春頃に発見(美術商、金沢)、2009年(平成21年)7月30日(木)、北陸中日新聞、朝刊より 

(解説) 書状(縦16cm、横64.5cm)の文面には、利常から、タカ狩りで捕らえられたツルを贈られたことに礼を述べ、新茶を披露する「口切りの茶事」で、そのツルを食用に使うと知らせています。続いて、江戸幕府3代将軍、徳川家光(とくがわいえみつ、1604~1651)が幕府の行事に出席することを記し、利常の正室、珠姫(たまひめ、1599~1622)は家光の姉にあたるので、弟の将軍の動向を知らせる意味もあり、遠州が将軍家と前田家の間で重要な役割を果たしていたことが分かるという。

 後半部分では、利常が室町時代の僧侶、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394~1481)の書を掛け軸にするよう遠州に頼んでいた親密さを示す内容という。また、遠州は、金沢城本丸の茶室の作庭を指示するなど前田家とのつながりの深さが推測されます。

○ 長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3文字の筆跡

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長生殿(ちょうせいでん、小掘遠州命名と筆跡による「長生殿」の三字、森八、金沢、google画像) 長生殿本舗森八(金沢、石川): http://www.mapple.net/spots/G01700036104.htm

加賀(金沢)の名菓の長生殿と主な原料の阿波(徳島)の和三盆にまつわる歴史伝承、砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史、、とは(2009.6.9): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-3853.html

(解説)  森八(もりはち、金沢)は、1625年(寛永2年)菓子屋を創業、3代目八左衛門(町年寄役)は、藩主より江戸表に召され、約350年前、加賀3代藩主前田利常創意により、唐墨(からすみ、中国の墨)に似た長方形に作り上げ、小掘遠州命名筆跡による「長生殿」の三字篆書体、てんしょたい)を原型とする、名菓長生殿(ちょうせんでん)を世に生み出しました。 長生殿は、茶の湯の和菓子にも用いられ、和三盆(白砂糖)は徳島産、紅花は山形産、加賀米(もち米)は落雁粉、飴(あめ)などで作った「落雁(らくがん)」と呼ばれる高級和菓子ですが、ずっと同じ所の材料を用いながら、昔と変わらぬ製法で作っているという。 森八(金沢):http://www.morihachi.co.jp/

 前田年常は、幕府作事奉行でもあり、将軍茶道指南でもあった小堀遠州を取り立て、茶の湯の指導、美術工芸の育成、格調高い文物の収集にも力を入れました。

 ところで、德島(もと阿波)のサトウキビからの和三盆(白砂糖)の製法は、約210年余前、1798年(寛政10年)頃に確立したと言われています。となると、阿波の和三盆が入手できたのは、江戸末期に近く、德島11代藩主、蜂須賀治昭(はちすかはるあき、1758~1814)、加賀11代藩主、前田治脩(まえだはるなが、1745~1810)の頃(北前船?)と考えられますので、それまで(約140年間?)長生殿の原料の白砂糖は、長崎を経て中国から輸入した唐三盆(とうさんぼん、白砂糖)でも使っていたのだろうか?

○ 小堀遠州(こぼりえんしゅう)

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小堀遠州像 (こぼりえんしゅうぞう、春屋宗園賛(部分)、しゅんおくそうえんさん、孤篷庵、こほうあん、縦102.0横32.0、google画像)

(解説) 小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)は、江戸初期の武将、茶人、造園家です。名は政一、通称作助。大有宗甫、狐篷庵(こほうあん)と号す。近江国(おうみのくに、滋賀)坂田郡小堀村(のち長浜市)に生まれ、豊臣秀吉(とよとみひでよし、1536~1598)、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)に仕え、1608年(慶長13年)、遠江守(とおとうみのかみ、静岡)に任じられ、遠州(えんしゅう)と呼ばれ、江戸幕府の作事奉行(禁裏や二条城など)、国奉行はじめ、伏見奉行などの役職を歴任しました。

 土木、建築、造園に優れ、多くの名園や茶席を残しました。古田織部(ふるたおりべ、1544~1615、茶人、利休の高弟、美濃、岐阜)に茶を学び、遠州流の祖となり、徳川家光(とくがわいえみつ、1604~1651)の茶道師範をはじめ、多くの大名に茶を教えました。その茶の湯(遠州流)は、利休風のわび茶を基本にしながらも、東山時代(15世紀後半)以来の書院の茶を復活させて優雅な王朝文化の要素を取り入れ、「きれいさび」といわれる茶風を軸に、寛永(1624~1644)文化の中心として活躍しました。

 また、遠州七窯(えんしゅうなながま)を興し、中興名物の名でよばれる茶道具を残すなど、茶道における業績が最も高く評価されています。 遠州七窯(えんしゅうなながま)は、小堀遠州が指導し、好みの茶陶を焼かせた窯で、志戸呂(しとろ、静岡)、膳所(ぜぜ、滋賀)、朝日(あさひ、京都)、赤膚(あかはだ、奈良)、古曽部(こそべ、大阪)、上野(あがの、福岡)、高取(たかとり、福岡)の7窯で、古曽部を伊賀(いが、三重)とする説もあります。

 小堀遠州は、江戸初期、本職の徳川幕府官僚としては、城や寺院の建築に携わり、行政にも腕を振るいました。また、作庭の名人にして大茶人、書家(能筆)、歌人(和歌)、香道家として名をはせ、いけ花、造園、「遠州好み」といわれる茶室や茶道具など、多芸多才ぶりを遺憾なく発揮しました。

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頼久寺の庭園(らいきゅうじ、臨済宗高梁市、たかはしし、岡山、google画像) 小堀遠州が、備中兵乱後で備中松山城が荒廃していたため、仮住まいしていた頼久寺です。

(解説) 頼久寺の庭園(国の名勝)は、白砂を敷き詰めて海に見立て、鶴島亀島を浮かべ、後方にサツキを植えて大きく刈り込みを入れ、青い海の波がうねる様子(枯山水!)を表しています。 刈り込みの手法はその後、遠州の得意技となりました。 さらに、遠望する愛宕山の山容を取り込んだ借景が奥行きを醸し出す。心にくい演出となっています。 頼久寺(小京都、高梁市、岡山):http://blogs.yahoo.co.jp/kitayan_boy/50819461.html

 遠州の活躍の出発点とも言える地が、現在の高梁市(たかはしし、岡山)です。1600年(慶長5年)、徳川家康から備中(岡山)国奉行を命じられた父、正次に同行して来ましたが、4年後に父が亡くなると、備中国奉行を15年間務めました。備中松山城を整備する間、頼久寺を仮の館として政務にあたり、この寺の庭もつくりました。

 遠州は、備中国奉行と平行して、駿府城(静岡)の作事奉行もこなし、遠江守(とおとうみのかみ)を授かりまいた。遠州(えんしゅう)とも呼ばれる由縁です。この間、御陽成院御所、名護屋城天守、伏見城本丸などの造営や改修の監督役を務め、また、京都二条城二ノ丸庭園、南禅寺金地院庭園などの造園、石清水八幡宮(懸造り)の空中茶室(閑雲軒)も手がけ、将軍家の茶道指南役も務めました。 

 茶道史に詳しい熊倉功夫(くまくらいさお、1943~ 、国立民族学博物館名誉教授)によれば、「才能と深い教養が仕事を呼び、人脈を広げる。遠州の交友は、武士、公家、僧侶、町人と実に多彩」、多忙さは晩年まで続き、50才半ばの遠州が新春に友と交わした俳句が面白いという。 年こせば 大草伏(おおくたびれ)て ねの日かな 次々と舞い込む仕事に疲れて寝正月を決め込む!とのことです。

 私は、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部)につとめ始め、はじめて日本3名菓の一つ、長生殿を口にしたとき、これは ふるさと(引野、上板、阿波、德島)、和三盆の味だ! とすぐ分かりました。また、高校(阿波)の竹内秀夫先生(教頭、国語、柔道担当)が石川出身であることを思い出し、えも言われぬえにし(縁)を感じました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 落雁和菓子とサイエンス、日本三名菓随一加賀の長生殿と阿波特産の和三盆、啓林(高理編、No.333)、p.5~8、啓林館(1999); 北陸中日新聞: 小堀遠州の書状を発見、利常あて親密な文面、幕府の動向知らせる、金沢の美術商入手、2009年(平成21年)7月30日(木)、朝刊より; 朝日新聞: 小堀遠州、庭は大海へ続いていた、歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、2011年(平成23年)2月19日(土)、朝刊より.

(参考資料) 小堀遠州(こぼりえんしゅう、google画像):  http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=fjN3TcTaNdCrceKp5YgF&ved=0CG4QsAQ&biw=1004&bih=567

枯山水(かれさんすい、伝統的な日本庭園): http://www.geocities.co.jp/sankyo_niwaishi/zen_gardens.html

枯山水(かれさんすい、京都、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9E%AF%E5%B1%B1%E6%B0%B4+%E4%BA%AC%E9%83%BD&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=OB1_TZDWIYG8cNGFleUG&ved=0CFIQsAQ&biw=1004&bih=567

竜安寺石庭(枯山水、幾何学的美しさ、西ヨーロッパの庭園で流行していた黄金分割手法が見られるという、小堀遠州作?、京都): http://ameblo.jp/matsu-niwa/entry-10370124021.html

(追加説明) 頼久寺(らいきゅうじ、臨済宗、高梁市、岡山)は、室町時代、足利尊氏が諸国に建立させた安国寺の一つ。小堀遠州作の庭園(枯山水!)は国の名勝に指定されています。生島裕道住職のによると、「庭園は明るく開放感があるでしょう。遠州の茶道にも通じます。例えば、茶碗を見るとよく分かります、戦国の動乱期から安定期に向かう時代の変化を、3人の茶人は体現しているようです」。  

 千利休(せんのりきゅう、1522~1591)が愛用した黒楽茶碗は、余分なデザインを排し、求道的な精神が感じられる。 千利休、茶碗google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

その弟子、古田織部(ふるたおりべ、1544~1615)の茶碗は大胆にゆがみ強烈な個性を主張している。 古田織部、茶碗(google画像) http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A4%E7%94%B0%E7%B9%94%E9%83%A8%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

織部を師とした小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)は、均整のとれた優美な白い茶碗を好んだとされる。小堀遠州、茶碗(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

(追加説明) ○ 長生殿(ちょうせいでん)は、中国、清代の戯曲。洪昇(こうしょう、1645~1706)の作。50幕。1679年(88年とも)なる。長恨歌、秋雨梧桐などに範をとり、玄宗皇帝と楊貴妃の愛情を、楊家一門の栄華や安祿山の反乱など、唐王朝の興亡を背景に描く。文辞の美麗なること清代随一の秀作とされ、桃花扇と並称される。(小百科事典より)

 日本3名菓、加賀の長生殿は、唐墨(からすみ、中国の墨)に似た長方形の最高級の茶菓子ですが、その頃は唐三盆(とうさんぼん、中国の高級白砂糖)を使っていたので ?、小堀遠州は、清代の戯曲、長生殿の思いを、名菓に寄せて命名したのだろうか? 遠州の筆跡、長生殿の3字の書体は、篆書体(てんしょたい、秦代より前に使用されていた書体、印鑑の書体)です。

○ 長生殿本舗 森八 店主敬白によれば、長生殿は往昔白色長方形に胡麻をふりかけしものなりしが後水尾帝(ごみずのおてい、第108代天皇、1596~1680)これを叡覧ましまして 「田の面に落つる雁のやう」と宣ひしより落雁と名付そめけり、其後年常卿(加賀藩前田家三代藩主)の創意により、唐墨の形にまなび、小堀遠州卿これに長生殿と題し給ふ、これ墨形長生殿の始となす。その後渦形、ねじ梅、糸巻、鱗鶴、末広、青海波など次々次に生まれ、雲上に召されしこと屡々なりしかばいつしか御所落雁とも称ふるに至れり

 そもそも長生殿は家伝の精粉と、昔ながらの製法になる高価にして無類極上なる四国の特産の純和三盆糖とをもて製し、彩るに本紅を用ひたれば、高尚優雅にして永く蓄蔵に耐へ、日本名菓の随一と感賞せらるること昔も今も変わることなし。ここに縁起と光栄とのあらましをしるし、猶いやましのご愛顧をねがひまつると

○ 砂糖の道  長崎から佐賀へ、そして小倉へと続く長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれています。砂糖の道です。スペイン、ポルトガル、中国などから渡ってきた砂糖や南蛮菓子が、この街道を通して全国に広まりました。(JAF Mate 2011 ④ 、ジャフメイト、おくにnavi 佐賀県、p.12、佐賀・吉野ヶ里、シュガーロード、より) 

 

2010年5月15日 (土)

金沢城の外庭(兼六園)にまつわる歴史伝承、蓮池庭(のち兼六園、松平楽翁、洛陽名園記)、日本三名園(特別名勝)、中国三名園、とは(2010.5.15)

  金沢城の東南の傾斜地に外庭が誕生したのは、1676年(延宝4年)、加賀藩主(5代)前田綱紀(まえだつなのり)、1643年(寛永20年)~1724年(享保9年)が、蓮池亭(れんちてい、別荘)、瓢池(ひさごいけ)などからなる蓮池庭を造った頃からで、正式な名はなく、蓮池のお庭と呼んでいました。

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前田斉広(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%96%89%E5%BA%83

 江戸後期、文政(1818~1830年)頃、藩主(12代)前田斉広(なりなが)、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)が、豪華な竹沢御殿(隠居所)、辰巳用水を取り入れた曲水を造り、各種の石橋を架け、本格的な造園を行い、松平定信(白河楽翁)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)に、庭園の名を兼六園と命名してもらいました。

 その後、藩主(13代)前田斉泰(なりやす)、1811年(文化8年)~1884年(明治17年)が、父の竹沢御殿を、完成して8年を待たず、順次取り崩しながら、霞ヶ池の掘り広げ、護岸、千歳台の築庭など、また、蓮池庭との境を取り除くなど、現在の池泉廻遊式庭園に近い大庭園を完成させました。

兼六園虹橋、にじはし、徽軫燈籠、ことじとうろう、霞ヶ池、兼六町、金沢、google画像)

(解説) 徽軫燈籠は、虹橋を琴に見立て(琴橋)、燈籠の足が、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。燈籠の右足が短い不均整さが、この燈籠の美しさを引き出しています。ところが、幕末に近い文久(1861~1863年)頃に描かれた兼六園絵巻では、燈籠の両方とも同じ長さで、右足も水につかっています。

 ということで、明治になり、何かの理由で倒れて燈籠の片足が折れたのだろうと言われています。その証拠に、燈籠の折れた右足の下半分はすぐそばに置いてあります。その後、徽軫燈籠は7回ほど心ない人に壊され、現在の燈籠は京都の石屋に依頼して造ってもらったものだそうです。 初代の燈籠は、藩主(12代)前田斉広に木谷藤右衛門(8代、生没不明、北前船主、豪商、粟崎、加賀、越前出身?)が献上したものと言われ、今は完全に修復され、兼六園管理事務所の倉庫に保管されています。

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兼六園(扁額、松平定信(白河楽翁)書、石川県伝統産業工芸館、常設展示、google画像)

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松平定信(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

(解説) 江戸において、加賀藩主(12代)前田斉広から竹沢御殿(約1万3000㎡の隠居所)にある庭の命名を頼まれた白川楽翁、こと松平定信は、広々としている(宏大)、けれども奥深さ(幽邃)があり、人の手が加わって(人力)いても、古びた趣(蒼古)があり、池や滝(水泉)がたくさんあるのに、遠くまで眺める(眺望)ことができる、と六勝を兼ね備えた洛陽(中国)の名園、湖園(こえん)に因んで、兼六園と命名しました。そして、 1822年(文政5年)9月、松平定信から加賀藩へ、自ら筆をとった兼六園の扁額が届きました。

 出典は、北宋(960~1127年)頃、済南の詩人、李格非(りかくひ)撰による洛陽名園記(らくようめいえんき)です。これは、洛陽にあった19の庭園を解説したのものですが、松平定信が引用したのは、湖園の項の冒頭を飾る以下の文章です

 洛人云 園圃之勝 不能相兼者六 務宏大者少幽邃 人力勝者少蒼古 多水泉者無眺望 兼此六者 惟湖園而巳 (田圃の勝 相兼ねる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ)

(解説) 優れた庭園にするために兼ねられないものが6つある。広々(宏大)とした様子を表現しようとすると、静かで奥深い風情(幽邃)が少なくなってしまう。人工的なもの(人力)が勝っていれば、古びた趣き(蒼古)が少なくなる。水の流れや池、滝(水泉)を多くすると遠くを眺めること(眺望)ができない。これを兼ね備えているのは湖園だけである。つまり兼六園という名前には、中国の名園、湖園と同じように、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望、の6つを兼ね備えた優れた名園との意味が込められています。

 兼六園、偕楽園、後楽園が、日本三公園(名園?)と呼ばれるようになった根拠として、1904年(明治37年)の尋常小学読本7で、地方で名高い公園としてこの3つの公園があげられ、1910年(明治43年)の高等小学校教科書巻1に次のような紹介があります。また、栗林公園(高松、香川)は別格の優れた公園であると紹介されています。

 我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金澤ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシシテ、之ヲ日本ノ三公園ト稱ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ此ノ三公園ニ優レリ。

 偕楽園は、1842年(天保13年)、水戸藩主、徳川斉昭の命により造園、梅(もと約200種、1万本)の名所、常磐公園とも、園名は士民と偕(とも)に楽しむ意味です。後楽園は、1686年(貞享3年)、岡山藩主、池田綱政の命により造園、もと菜園場、園名は、(士はまさに)天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ(先憂後楽)意味です。

 兼六園(約10万㎡、金沢市、石川)、偕楽園(約13万8000㎡、水戸市、茨城)、後楽園(13万4000㎡、岡山市、岡山)は、いずれもスケールの大きな大名庭園で、日本三名園と呼ばれています。

 1985年(昭和60年)3月20日、文化財保護法により、これら三名園栗林公園は、特別名勝に指定されました。現在、名勝指定庭園は、全国で150ほどありますが、そのうち特別名勝庭園は23(岩手1、東京3、茨城1、京都13、奈良1、石川1、福井1、岡山1、香川1)ほどで、これらの庭園は、名勝庭園の中でも、特に重要なものと評価されています。(国指定日本庭園、特別名勝(外部リンク、いいね金沢、あすわ交通): http://www6.nsk.ne.jp/asuwataxi/tokubetu.meisyou23.htm

(参考文献) 下郷稔: 兼六園歳時記、能登印刷(1993); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、橋本確文堂(1997); 下郷稔: 兼六園の今昔ー加賀百万石の庭-、中日新聞社(1999); .永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、1、北国新聞社(2006); 世界のふしぎ雑学研究会編: 日本の三大なんでも事典、三笠書房(2008).

(参考資料) ○ 日本三名園(兼六園、偕楽園、後楽園)、別格の栗林公園: 兼六園(金沢市、石川、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%85%BC%E5%85%AD%E5%9C%92&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi; 兼六園(金沢市、石川): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/; 偕楽園(水戸市、茨城): http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kairakuen01.html; 後楽園(岡山市、岡山): http://www.okayama-korakuen.jp/; 栗林公園(高松市、香川): http://www.pref.kagawa.jp/ritsurin/

 中国三名園(頤和園、拙政園、豫園): 中国の三名園は、頤和園(いわえん、宮廷庭園、北京)、拙政園(せっせいえん、官僚庭園、蘇州)、豫園(よえん、金持庭園、上海 )と言われています。その一つ、頤和園は、西太后(せいたいこう)お気に入りの庭園ですが、兼六園の約29倍の広さを持つというスケールの大きさに驚きました。頤和園(北京、中国、google画像); http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2002beijing/iwaen1.html拙政園(蘇州、中国、google画像): http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003shanghai/sessei.html; 豫園(上海、中国、google画像): http://sh.explore.ne.jp/travel/yuyuan.php

(追加説明) ○ 松平定信(まつだいらさだのぶ)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)は、江戸後期の白河(福島)藩主、幕府老中、雅号楽翁、上総介、越中守、御三卿田安宗武の7男、白河藩主松平(久松)定邦の養嗣となり、1783年(天明3年)就封しました。天明飢饉での藩政が評価されて、1787年(天明7年)老中となり、幕府の寛政改革を断行しました。著述も多く、多岐にわたり、藩政で白河風土記を編纂しました。また、南湖(白河、福島)、浴恩園(築地、江戸)、六園(大塚、江戸)、海荘(深川入船、江戸)など積極的に庭造りをしました。

○ 洛陽(らくよう)は、中国河南省北部の都市で、北に邙山(ぼうさん)を負い、南に黄河の支流落水を控えた形勝の地です。長安と並び古くから国都の置かれた地で、前11世紀、周の成王が都を営み、以後、後漢、曹魏、西晋、北魏、後唐の都となりました。特に北魏の時代には、民戸11万を数え、1367寺が建設され繁栄を極めました。現在も、白馬寺、南門外の天津橋、南方13kmの竜門石窟など名勝古蹟が多いです。 

○ 第5代藩主前田綱紀(まえだつなのり、松雲公、1643~1724)は、3歳のとき父を亡くし、祖父利常の後見のもと藩主になりました。特に書物の収集については、新井白石(あらいはくせき、1657~1841、江戸時代中期の儒学者)に「加州は天下の書府なり」と言わしめたという。

 綱紀は、その著「桑華書志(そうかしょし)」の中で、祖父3代利常(としつね)の蔵書を「小松蔵書」、父4代光高(みつたか)の蔵書を「金沢蔵書」、自分の蔵書を「尊経閣(そんけいかく)蔵書」と称しており、現在の尊経閣文庫(財団法人前田育徳会の別称)の由来となっています。 尊経閣文庫(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%B5%8C%E9%96%A3%E6%96%87%E5%BA%AB尊経閣文庫前田育徳会 : http://www.zenbi.jp/network/maeda.htm

 

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